靖国神社と小泉首相



06年8月15日、かねてより言われていた通り、小泉総理は靖国神社を参拝した。
私は首相の靖国神社参拝には反対だ。最初にスタンスを書いておく。
マスコミもブログもこの話題で持ちきりだ。
非常にややこしい問題になってしまった。
「なんだかよくわからない」という意見も時々見かける。

靖国参拝問題が難しくなってしまったのは何故か?
一つには登場人物の多さ、話題にされる事柄の多さだ。

まずA級戦犯合祀問題が出てくる。そうすると今度は「東京裁判とは」「戦犯とは」
パール判事が出てきてハルノートも出てくる。広島長崎の原爆も出てくる。
ウェッブ裁判長やマッカーサーが出てくることもある。
ABCD包囲網を出す人もいる。

そして分祀問題になる。「一度祀ったものは分祀できない」「物じゃないんだから
出したり引っ込めたり出来るもんじゃない」「気持ちの問題なんだからどうとでも
なるはずだ」という話になる。東條英樹の遺族も登場する。

次に中国韓国の反発を話題にする人がいる。
そうすると「外交カードにしているに過ぎない」「反日教育で誤った認識が
広まっている」「創氏改名」「南京大虐殺」「竹島問題」「尖閣諸島」「リットン調査団」
と話がどんどん広がっていく。
毛沢東、蒋介石、張学良、張作霖、金日成はあまり登場しない。

そして今度は「昭和天皇の言葉を書いた冨田メモ」も登場した。
すると話はまた広がって「昭和天皇の戦争責任」になる。
で「立憲君主制とは?」とまたまた話しが広がりだし、終わりのない議論になる。

どんどん靖国神社から話が離れていく。

お互いが「こういう事実を知っていますか?」と知識の自慢話になり、果ては
相手を「勉強不足だ!」と罵倒する。罵倒されたほうは悔しいからまたどこかの
本に書いてあったことを持ち出し、果てのない議論が続いていく。

それらの観点から「靖国問題」を考えるのも間違いではなかろう。
しかし私はこの「靖国問題」をもっと単純に、靖国神社だけを問題にして
考えたいのだ。
靖国神社が国家の首脳が参拝するにふさわしい場所かどうかということだ。

中国や韓国の意見はここでは関係ない。
A級戦犯も関係ない。
仮に中国や韓国が何の抗議をしなくなっても、A級戦犯が分祀されても、私はやはり
政府首脳が靖国神社に参拝することは賛成しない。


「英霊を祀る」という言い方をする。
「祀る」って何気なく使っているけど改めて調べてみた。

1 儀式をととのえて神霊をなぐさめ、また、祈願する。「先祖のみ霊(たま)を―・る」「死者を―・る」
2 神としてあがめ、一定の場所に安置する。「菅原道真を―・ってある神社」
3 上位にすえて尊ぶ。
(大辞泉)


いや止めた止めた。
こういう手法は話をわかりやすくしているようでわかりにくくしていく。

要するに「戦争で死んだ兵士を嘆き悲しむ」だけでなく、「褒め称える意味合い」が靖国神社には強いように
見受けられる。
一歩踏み出せば「戦争で死んで素晴らしいことをした」と賞賛し、そして「戦争で死ぬことはいいことだ」
と感じさせる精神を靖国神社に私は感じるのだ。

追悼するだけならいい。しかし「神」として過剰に賞賛するのはいかがなものか。
もちろん戦死した軍人を「神」として賞賛されることによって名誉や喜びを感じる人もいよう。

戦死者を神として扱い、褒め称えることは「死んだけれど『神』にしてやったのだから
ありがたいと思え!」という権力者の傲慢さを感じる。
もちろん「神」になったことに喜びを感じる人もいるであろう。
しかし「神」にしてやったからという理由で人の命を奪った問題をチャラにして欲しくないと
私は感じてしまうのだ。

そしてそれを現代の総理が参拝するとき、「戦争で死ぬことはいいことだ」という思想を国民に
遠まわしに植えつけようとしている気がしてしまう。
一般の方が参拝するのは自由だ。
何度も言うように戦死者を「神」として賞賛されることによって名誉や喜びを感じる人もいるのだから。
そしてそういう方たちからすると総理や天皇に参拝してもらってその名誉を改めて感じたい気持ちも
よくわかる。
しかし、将来の戦争を考えるとき、「戦争で死ぬことはいいことだ」という思想を植えつける行為は
首相には絶対にして欲しくない。


小泉総理は「先の大戦で亡くなった方に哀悼の念をささげるのが何がいけない」と声高にいう。
そして彼は今年6月23日の沖縄全戦没者追悼式にも出席し、8月6日に広島の原爆死没者慰霊式・
平和祈念式に、8月9日には長崎の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にも出席した。
平成17年6月には硫黄島戦没者追悼式に出席し、あわせてアメリカ側戦死者のための「将兵の碑」に
献花した。もちろん今年の8月15日には全国戦没者追悼式に参列した。

マスコミは小泉首相が靖国神社に行くことは大きく報道し、沖縄や広島長崎の追悼式の出席ことは
小さくしか扱わない。
小泉首相を養護するわけではないが、マスコミの報道も一方的だ。
小泉総理の戦没者に対する慰霊の行動は活動的だと言って評価していいと思う。
してみると小泉首相の反戦や戦没者に対する追悼の思いは本物で、それを批判するマスコミや国民が
間違っているのかも知れない。

しかし小泉首相の反戦の思いを頭から信じていいのだろうか?

問題はそういう活動と実際の政治活動の間に矛盾を感じざるを得ないのだ。
911以後のアメリカの戦争に追従した。国論を二分した自衛隊のイラク派遣も行った。
一方では「反戦」「戦没者に対する追悼」を口にしながら、やってることは日本が将来戦争に参加できる状態に
もって行こうとしてるようにしか思えないのだ。

小泉首相!あんたの本音は一体どっちなんだい!!??



しかもこれだけ国内でも議論が紛糾する靖国神社という施設が果たして戦死者の追悼施設として条件を
満たしているといえるのだろうか?
広島や長崎や沖縄の式典に参列しても誰も文句は言わない。
いや不愉快に思っている人もいるかも知れんが、まあゼロに等しいと言ってもいいだろう。
それは広島や長崎や沖縄は追悼施設として適切だとみんなから認知されているからだ。

そして国民はこの問題に関しては一応に熱くなる。
郵政や道路公団はこんなに熱くならなかったような気がする。
数多くの人の生死に関わる問題だからか?
熱くなる分、本質を見失っていないだろうか?

広島の原爆死没者慰霊碑にはここ書かれている。
「安らかに眠ってください。
過ちは繰り返しませんから」

しかしここで「『過ち』とは何か」という議論が始まる。
「アメリカの原爆投下のことか」「いや日本の戦争全体のことだ」「ではあの戦争は誤った戦争だったのか?」
「戦争それ自体は犯罪ではない」
議論はとどまることを知らない。


ところが国民やマスコミがそんなことをしているうちに「次の戦争」をはじめる準備を権力者はしているかも
知れないのだ。


(06年8月16日更新)