二万七千光年の旅

「何処かにたどりつけるかも知れない期待と
        何処にもたどりつけないかも知れない不安」
           〜「二万七千光年の旅の果て」 

日時 2000年10月15日(日)14:00〜
場所 渋谷パルコ劇場

 私が野田秀樹作品を観るのはこれが初めてだ。
 資料によるとこの芝居は1980年3月から4月に駒場小劇場で初演が
行われ、野田秀樹の東大中退前後に書かれ上演されたものである。
 演劇界に詳しくない僕にとってこのころの野田がどのような、あるいは
どの程度の評価を受けていたか分からない。ただこの作品のあと、紀伊国屋
ホールや本多劇場等の一般劇場に進出していったという。
(80年代において新宿・紀伊国屋ホールと下北沢・本多劇場で上演できる
という事はマイナー劇団にとって大きなひとつの目標だったはずだ)
 そんなプロとしてやっていけるかどうか微妙な時期に書かれ、上演された
芝居である。
 もうすでに野田自身はある程度評価されていたろうが、しかし、いままで
の「夢の遊眠社」の仲間が全員(役者だけでなく、スタッフ、協力して
くれた数多くの仲間)プロとしてやっていくわけではあるまい。
 あるものは演劇活動を止め、就職していったり、故郷に帰ったりした仲間
も多かったはずだ。まして彼の仲間の多くは東大生だ。プロの演劇人として
生きていこうなんて考える奴の方が少なかったに違いない。
卒業を目前にした大学生が自分の将来に不安を感じたり、葛藤して当然だ。
少なくとも1980年前後の学生は卒業を目前にすれば自分の将来について
悩んでいた。
 
 これから自分はどこへ行くべきなのか?

 それはまるでアンデス山中に飛行機事故で墜落したバスケットボール
チームと同じだったはずだ。
 当人達にとってはアンデスの雪山と同じような閉塞的な状況において
「どうすればいいのか」「どこへ行くべきなのか」を悩み、途方にくれた事
においては、劇中において語られる映画「アンデスの聖餐」の飛行機事故の
遭難者達と等しかったに違いない。
 その中で一人救援隊を呼びに行く「無名人」。まだ有名になっていない
「無名人」。
 彼は野田秀樹自身の姿ではなかったのか。

 そして無名人は仲間を助ける事は出来ずにいることに悩み、かつ、帰って
くると約束したにもかかわらず仲間との約束を果たせない事に贖罪の念を
抱きつづけている。
 その救援を持つ間に仲間達は自分自身の夢を食いつぶし、現実と向き合い
、生きてゆくためにモラルをもかなぐり捨て、なんだって(最後には人肉
さえも)食べて生きてゆく。
 初演時の、これから大学を中退しプロの演劇人としてやっていこうとする
野田には、将来の成功に対する期待と同時に、仲間に対しての約束を果たせ
ずに贖罪の意識をもちつづけるかも知れない将来の自分が浮かんできたので
はないか。
 
 「これがひょっとしたら将来の俺だ」と。

 劇中において映画「アンデスの聖餐」を「夢遊病者のウンコ」という考え
方もあると評する290世紀(二万七千年後)の人間達は、自分達の悩みを
くだらないと言い切る大人たち(あるいは将来の自分自身)の姿では
ないのか。
 自分の現在の不安感など、大人たちあるいは将来の自分から見ればとるに
足らないものだろうなという自嘲。

 青春期において誰もが持つであろう「何処かにたどりつけるかも知れない
期待と何処にもたどりつけないかも知れない不安」。
1980年の野田秀樹が感じていた心象風景そのものがこめられている。


 しかし今回の再演は初演時と時代が大幅に変わってきている。
 にもかかわらず再演に際しては驚くほど台本の直しがない。
 これが2000年のパルコ劇場で見る観客にとって難解な作品にしてしま
っている。
 それは例えば、この作品にとって重要なモチーフであり、キーワードと
なる「アンデスの聖餐」という映画がまったく忘れ去られてしまっている
という事だ。
 私自身もこの映画のことは忘れていた。初演の台本を読んで、そんな映画
があったような気がしただけである。もちろん観ていない。
公開当時、映画そのものは「グレートハンティング」(ライオンに人が食わ
れるシーンが話題だった)をはじめとする当時ブームだったゲテモノ
ドキュメンタリー映画の一本として扱われ、批評もろくにされなかった
と記憶する。
 が、初演時においてはまだみんな覚えていたはずだ。
 同様に誰かを待ちつづける姿の象徴として、黄色い半ズボンが登場するが
これは山田洋次の「幸福の黄色いハンカチ」から連想される要素であるに
違いない。
 しかしこれらの映画はいまの若い観客は知らないであろう。これでは現在
の、特に若い観客には作品そのものの意味がわかりにくくなってしまう。
こういうモチーフ、ヒントになる単語が、過去のものとなってしまっている
ものばかりなのだから。


 で、かんじんの三宅健である。
 お待たせしました。
 正直、彼がここまで熱演できるとは思わなかった。
想像以上のよい出来だった、というのが彼に対する全員一致の評価だろう。
 大人になりきれない、大人としての未熟児の「無名人」は現在三宅健にし
か出来ない。
製作発表の時、三宅の声が起用のポイントとなったというが、それは観て
納得した。
あの役は声変わりしていないような、しかし体つきは充分青年になった、
そんな中途半端な存在でしか表現できない役なのだ。
 現実を受け入れる事を拒否し旅をはじめた「無名人」は、彼のような大人
になりきってない存在でなければならない。
しかも三宅健は(大方の予想に反して)充分に演じきったといってよい。
何しろファンにすら、「三宅健って舞台出来るのだろうか」と心配されてい
たのだから。

 思えば彼のいままでの役者としての代表作は「保健室のオバサン」
であった。
 松雪泰子の保健室の先生にこき使われる役柄は、年上キラーとして、母性
本能を充分に発揮させる役柄であった。
しかし、同時にこの出演が彼のその後の役者としての進路をきめてしまった
と思う。
「PU−」「新俺旅」などのカミセンドラマにおいては、やさしく影から友
を支える存在であった。決して強く自分を主張することなく。
「バーチャルガール」にいたっては、主人公榎本加奈子をサポートする一人
なのだが、今回はその第一助手とも言うべき役柄は篠原ともえに奪われてし
まい、二番手に成り下がっていた。
そして今年春の「東京サンダンス」(トニセンの舞台)のころ、本人も舞台
をやりたいと雑誌などでしきりに発言していた。
 多分三宅自身の中にもあせりがあったのだろう。
 一度本格的に役者修業をしたかったに違いない。

 テレビドラマはどうしてもスケジュールの都合もあり、撮影も細切れに
なってしまうだろうし、またそれでもとりあえず何とかなる。
 しかし舞台は長い間集中して稽古し、共演者との息もあわせないとダメ
だ。全体の流れを把握した上で、演技に望めるという点では、
役者としてははるかに舞台の方がやりやすいし、楽しいだろう。
 三宅健にとっては役者にとって大きなステップになる。

 そして彼はそのチャンスを充分に生かしきった。
膨大なそしてマシンガンのようなテンポで言わなければならないセリフを
前にひるむことなく「無名人」を演じきった。
 彼の新たな代表作の誕生である。
 森田剛や岡田准一がこの舞台を観たら、仲間の大きな成長に驚きと嫉妬
を憶えるに違いない。
 それくらいにこの舞台は出来がよい。
 われわれファンとしては、次にこの舞台の成果が生かせる仕事が三宅健
にまわってくるのを願うばかりだ。

 最後にもう一度だけ。
 この作品は非常に難解である。
 しかしその原因は三宅健ではない。もちろん野田秀樹でもない。
この作品は、1980年という時代に、駒場小劇場というマイナーな小屋
で、無名の演出家、野田秀樹が上演すればこその作品である。
 現在、我々は1980年に旅立った「無名人」野田秀樹が20光年の旅
の果てに辿り着いた「成功」という到達点を知ってしまっている。

「御大」となった野田秀樹の冠のもと、2000年の渋谷パルコ劇場の上演
では、作品の意味が伝わりにくい。
 実に惜しい。