人形劇団ひとみ座公演

9条君の運命

日時 2004年10月16日19:00〜
場所 劇団ひとみ座スタジオ
作・演出・主演 伊東史郎

(公式HPへ)


人形劇団ひとみ座というのは、あのNHKの「ひょっこりひょうたん島」で有名な
ひとみ座だ。
BBSにいつも書き込みをいただく方に誘われて、ひとみ座でこの秋に行われる
「平和まつり」の企画「9条君の運命」を見てきた。


ある町角で紙芝居のおじさんは見てくれる子供もいないので、ついうとうとと
うたた寝をしていた。
そこへ不思議な少年がやってきて自分の作った紙芝居をやって欲しいという。
あまり乗り気のしないおじさんだったが、少年が熱心に頼むのでやってみる事にする。
その紙芝居の舞台は「ヒモト国」。
ヒモト国がかつて戦争をした時代から話は始まる。
「これは日本の話だろ!」と少年に詰め寄るおじさん。
少年は「似ているけど違う」と言う。
その紙芝居にはかつて戦争をしてその反省から「戦争をしない」という誓いを立てた
「ヒモト国」の歴史、その反省から生まれた少年の運命について書かれてあった・・・・


ものすごい直球ストレートな作品だ。
「ヒモト国」という架空の国をモデルにしながら日中戦争から太平洋戦争、沖縄戦
広島、長崎の原爆の惨劇を語る。
演じる「紙芝居のおじさん」も「気が滅入る」ような悲惨な話だ。
そして戦後、「かつての戦争の反省」から「憲法9条」が生まれその象徴として
ロボット「9条くん」が生まれたと話は進む。
しかしやがて「ヒモト国」では憲法9条廃止論議が進みだす。

単なる「戦争は悲惨だからイヤだ」というだけではこの話は終らない。
「戦争は何故起こるか?」という大問題にも言及する。
また憲法9条が作られたのは「ヒモトの国の人が大勢死んだから」だけでなく、
「相手の国の人も大勢死なせてしまった」からだと説明する。

多くの日本の戦争映画は先の戦争で「悲惨な目にあった」と日本の悲劇性ばかりを
強調する。もちろんそれも間違いではない。
しかし「被害者であった以前に加害者でもあった」という視点がほとんどの作品で
抜け落ちているように思う。
もちろん悲劇性を強調したほうが映画としては作りやすい。
また人間は自分が加害者であった事は忘れたいものだ。
だから産業としての側面が強い映画は(要するに興行力を考えて)被害者としての
側面ばかりが強調されるにいたった理由も理解するが、割り切れない。

近頃の憲法改正論議は「北朝鮮問題」とか「国際協調」だとかもっともらしい事をいう。
それらのことを細かいこと、取るに足らない事とは私も言うつもりはない。
しかし何故憲法9条を持つにいたったか、そのあたりの事情ももう一度
考えて欲しい。

この「9条君の運命」は人形劇という子供にもわかる解りやすさでもう一度「憲法9条の原点」
を認識させられる作品だ。
9条の精神はあまりにも単純で明快だ。
しかしやたらと理屈をつけたがる大人の社会では「単純明快さ」はかえって通じなくなる
不条理がある。
人形劇の9条くんはその不条理を一心に背負ってラストには戦闘服を着てしまう。

「ヒモト国」の9条くんは最後には戦闘服を着せられた。
しかし日本国の9条には戦闘服を着せてはならない。
その原理原則を再認識させられるドラマ。

各地での再演を願ってやまない。
「ひとみ座」はなにも「ひょっこりひょうたん島」だけではないのだ!