未知への飛行


監督 シドニー・ルメット
製作 1964年

(詳しいデータはキネ旬データベースへ)


米ソ冷戦の時代、アメリカ空軍は水爆を搭載した爆撃機を常に24時間
ソ連哨戒にあたらせていた。
そんな中、機器の故障からソ連爆撃命令が発信されてしまう。
あるポイント「フェイルセイフ」を超えてしまったら、もう爆撃機は
帰還命令を受け付けない。
合衆国大統領(ヘンリー・フォンダ)はホットラインでソ連首脳と直接交渉し
ソ連側に爆撃機の撃墜を要請するが、1機はモスクワに到達する事が
確実になる。
その時、大統領は重大な決断をする!!


この作品が語られる時、常に「博士の異常な愛情」が引き合いに出される。
話のアウトラインが酷似しているので、それも致し方ないが、結末は
大変異なっている。
私としてはこっちの作品の方が恐い。

この作品をはじめて観てから20年以上が経ったが、未だにこの
「大統領の重大な決断」が正しかったか解らない。
ここを明かしてしまうとこの映画をはじめて見る方の楽しみを奪って
しまう事になるのだが、本稿を書くにあたってそれは外す事が出来ない。
だから書いちゃうけど勘弁して欲しい。

その決断とは何か?
事故に見せかけた攻撃でない事を証明するため、またモスクワを破壊し
何百万人という市民を犠牲にした代償として、大統領はアメリカ空軍に
ニューヨークへの水爆投下を命じるのだ。

「合衆国大統領が」
「自分の意志で」
「ニューヨークに」
「水爆を投下させる」のだ。

アメリカの爆撃機がモスクワに水爆を投下したからニューヨークにも
水爆を落とすとは一体どうゆう事なのか?

それは正しい事なのか?

一国の首脳が他国の国民を殺すために他国を攻撃する事は
(よしあしは別にして)今までいくらでもあったし、今でもある。
しかし、今回は他国の国民ではなく、自国の国民を殺すのだ。
そんな権利が大統領にあるのか?
もちろんモスクワ市民なら殺す権利はあるというわけではない。

もともと水爆は何のために所有していたのか?
外国からの攻撃に対しての防衛のためではなかったのか?

自国の国民を殺さねばならない兵器を持つことが国防と言えるのか?

映画中の登場人物たちは「ほかに方法は無い」と口々にいう。
しかし、いくらなんでもそれは有りなのだろうか?
私は自問自答のパラドックスに陥り抜け出せなくなってしまう。
実際はじめてみたときは体が固まってしまったものだ。

そして初めて見てから20年経ってもこの自問自答からは抜け出せない。


シドニールメットの演出は実に静か。

大統領がソ連首脳と最初に話すところなど、カメラはフィクスで大統領と
その通訳の二人だけの画面で長回しをして、でも緊張感をたぎらせる
あたりはさすが。
また後半、アメリカ空軍幹部がソ連空軍幹部と相手の写真を見ながら
電話で話すシーン。
戦時中二人とも駐留していたロンドンの思い出話をしながら
心を通わせるあたりは、たまたま戦後敵味方に分かれてしまった二人の
人間の悲劇の一瞬を切り取ってる。

また「この攻撃を機会にソ連を叩くべきだ!」というタカ派の政治学者に
ウォルター・マッソー。
普段とは違った理論派の狂気が迫力たっぷり。

この映画、(今回気がついたが)音楽が無いのだ。
そして水爆の投下は音で表現してる。

アメリカ大統領は最後にソ連首脳、アメリカ空軍本部などをつなぐ
電話会議にモスクワの米大使館を参加させる。
モスクワが攻撃されたら電話の破壊される音が聞こえ、その後に
「キーーン」という連続的な金属音が聞こえるはずだという。
「空が光った!」というアメリカ大使の絶叫のあと、長い長い金属音が
聞こえる。
その音を思い出すたび私の体は凍りつく。

軍備とは何のためか?
この映画を思い出すたび、国防とはなんなのかを自問自答してしまう。
未来の戦争に備えるべきは軍備なのだろうか?