情婦マノン日時 2014年9月28日 場所 DVD 監督 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 製作 1948年(昭和23年) イスラエルへのユダヤ人の亡命者を乗せた貨物船で若い男女の密航者が発見された。男のロベール(ミシェル・オークレール)は殺人犯として手配中の男だったので、船長は拘束した。女はマノン(セシル・オーブリー)といった。 船長は二人がなぜこうなったかを聞いていった。 出会いは戦時中。フランスのレジスタンスとして活躍していたロベールだが、ある村で「ドイツ兵に体を売った」としてリンチにあっていた若い女性を助ける。それがマノンだった。二人は結婚を誓う。ロベールはマノンの美しさに夢中だったが、マノンにとってロベールはとりあえずこの場から助けてくれるのに利用したに過ぎないのかも知れない。 二人はマノンの希望でパリに向かった。そこでマノンの兄はワインの闇の売買で稼いでいた。「俺の田舎に行って暮らそう」というロベールに対し、都会の生活が好きなマノンは理由をつけてパリにとどまろうとする。 そして彼女は派手な生活が好きで、金がかかる。 「恐怖の報酬」で有名なアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの代表作の一つ。あとは「悪魔のような女」が有名だからこれでその3本は観たことになる。「犯罪河岸」というのもいいらしいから、それは次回に観てみたい。 きまじめな青年がマノンという、あばずれ女に翻弄されていく話である。 こういう映画、私は弱い。いまおかしんじ版「白日夢」もそうだった。 マノンは派手好きなので、マノンの兄が取引相手のワインの闇屋がお金にものをいわせてマノンにあれこれと買ってやる。ロベールは気が気でないがどうすることも出来ない。 公務員の安定した職業を得るが、給料は少なくマノンを満足させることは出来ない。 マノンはファッションモデルの仕事を始める。やがていい服を着るようになったのでロベールが問いつめると「借りたのよ」「貰ったの」と答えるが嘘だとばれてしまう。 そしてマノンの出かけた先をつけてみると、そこは売春宿だった。 とにかくマノンはひどい女である。でも男は惚れてしまうとそこは腹が立ちながらもなかなか別れられない。 他人からすると「別れなよ」と思うだろう。 そこは映画もよくしたもので、最初の船のシーンに戻り、船長が「別れればよかったのに」と感想を言ってしまう。 やがてマノンは兄の商売を手伝うために米軍の倉庫からペニシリンなどを横流しすることを始め、そのために米軍将校とマノンがつき合うようになる。そしてその将校にはロベールのことを「兄だ」と紹介する。 ここで米軍将校が「君たちは本当によく似てるねえ」と答えるのが面白い。 こいつもまたマノンの虜になっている。 ついにマノンはその将校と結婚するという。 マノンの兄は引き留めようとするロベールを自分の仕事場に監禁。逃げ出すためにロベールは兄を殺してしまう。 そして逃亡するものの、逃亡するロベールを追いかけて列車に乗り込むマノン。 このあたりからマノンは本気で愛し始めているいるらしい。 最後は船長の計らいでユダヤ人と同じく逃がして貰ったものの砂漠の逃避行で、ついにアラブ人にマノンは殺されてしまう。 その死体を持って歩き続けるロベール。このあたりはもう猟奇的にさえなっている。 そして仕方なく砂漠もマノンを埋めるロベール。 顔だけを砂からだし、その顔にキス。 最後にはマノンも自分を追いかけてくれたんだし、ロベールとしてはよかったんじゃないでしょうか? 現実にはきっと兄を殺しても自分を追ってはきてくれないでしょう。 そのあたりがクルーゾーの女性観なのだろうか? ちょっと話がそれるが今回観たDVDは東京ニュース通信社が出したマガジン形式のDVDで淀川長治さんの解説ビデオ付き。いつ撮ったものなのだろう? 淀川さんはいいのだが、元のプリントの質がひどい。 カットが飛んでいるところがあった。名画座のよれよれプリントではないんだからさ。 なくなっていたのは2カ所。 ますはロベールがマノンを尾行していき、ある建物に入ったあとのカット。ここで突然マノンを問いつめるカットになっている。本来ならここはどういう場所とロベールが気づくカットがあるのでは? まあ大体は流れからわかるけど。 もう1カ所はマノンの兄を殺すところ。 電気コードを床から取り上げたロベールがあって、その次ではもう兄は首を絞められて床に倒れている。 絶対にここは飛んでるだろう。 他のDVDのレベルもこんなもんかも知れないと気になった。 駅馬車 デジタル・リマスター版日時 2014年9月28日14:20〜 場所 シネマート新宿1 監督 ジョン・フォード 製作 1939年(昭和14年) アリゾナのトントの町にローズバーグ行きの駅馬車がやってきた。馬車に乗っていたのは騎兵隊の夫の元へ向かうルシイにウイスキーのセールスマンのピーコックだった。 そこへ宿を追い出された飲んだくれの医者ブーン、同じく町を追い出された女性ダラス、ギャンブラーのハットフィールドらが乗り込んだ。さらにリンゴォ・キッド(ジョン・ウエイン)が脱獄したと聞き、彼の逮捕のために保安官カーリーも乗り込む。また町外れで銀行の支店長ゲートウッドが乗り込む。実は彼は銀行の金を持ち逃げしようとしていた。 駅馬車は進む。途中で馬が怪我をして使えなくなったというリンゴォ・キッドも乗り込む。彼はローズバーグにいるプラマー三兄弟に父と弟を殺され、さらに彼らによって刑務所に送られたのだった。その敵討ちのためになんとしてもローズバーグに行きたい。 予定されていた騎兵隊の護衛も途中でなくなった。インディアンの襲撃が心配される中ローズバーグ行きを強行するか、それとも引き返すかを相談したがピーコック以外の全員がローズバーグ行きを望んだ。 今年はジョン・フォード生誕120年だそうでそれを記念してのデジタルリマスター版の公開だ。 私が情報に疎いせいか、そのことは昨日知った次第。新宿に行った際に劇場前のポスターで知ったのだ。最近「世界名作映画」を連続して観ているのでその流れで観た。 この映画は中学生ぐらいに(確か名鉄ホール)で観ている。名鉄ホールは基本芝居の小屋だが、たまに映画も上映することもあった。その時に観たと思う。 当時映画の観始めで、淀川長治さんなどがしきりに「駅馬車」を誉めるので気になって観たのである。 でも正直、「ふーん」という感想だったし、実はそれは今回観ても大して変わらなかった。 基本的に西部劇にピンとこないのである。 時代劇もそれほどでもない。SFとか未来とか現代劇でないとどうも反応しないのだなあ、私の感情は。 でもまあその以前観た中学生の頃よりはその後に映画を観ているので、多少は思ったことが違う。ロードムービーとか「普段なら出会わない人たちが一つの箱に入ってドラマが展開」というのがドラマの雛形の一つだけどその見本みたい。 飲んだくれの医者とか、身重の夫人とか、ギャンブラーとか、町を追われた商売女とか、金を持ち逃げした小悪党とか、おたずね者だが実はいい奴とか、小心な正直者とか見本みたいなキャラクター展開。 みんな「駅馬車」がルーツなのか?と思ってしまう。 そしてインディアンによって橋が壊され、川を直接渡るなどの見所もあり、そしてもう大丈夫、と思ったあたりでインディアンの襲撃! 撃って撃って撃ちまくり、それが当たる当たる。 バッタバッタとインディアンが倒れていくが、いよいよ弾もなくなって万事休す、ハットフィールドは「インディアンに殺されるくらいなら・・・」とルシイを撃とうとした瞬間に騎兵隊が駆けつける。 このシーンを封切り時観た人の快感は、きっと私が「すたー・ウォーズ」(77年の1作目)を観た時のハンソロ船長がラストに助けにきた時の快感に匹敵したと思う。 そしてラストのリンゴォ・キッドが相手を倒すシーンをくどくどとやらないのも粋でいい。 今あるアクション映画の原点はこの「駅馬車」なのだな、ということが改めて実感した。 正直「駅馬車」そのものは今の目で見ると古くささを隠せないけど。 るろうに剣心 伝説の最期編日時 2014年9月27日13:30〜 場所 新宿ピカデリー・シアター1 監督 大友啓史 志々雄(藤原竜也)たちとの船上での対決で海に落ちた薫(武井咲)を追って海に飛び込んだ剣心(佐藤健)。 しかし彼もまた嵐によって海岸に打ち上げれた。海岸に流れ着いた剣心を救ったのは偶然にも剣心の剣の師匠、清十郎(福山雅治)だった。剣心は回復し、師匠に奥義を教えてほしいと願い出る。師匠は承知し、剣心と戦う。「お前に足りないものが解るか?」。 師匠との打ち合いの中で「自分に必要なのは絶対に生きてやる」という意志だと気づく。 その頃剣心がまだ生きているらしいと知った志々雄は明治政府に脅し、剣心を逮捕するようにし向ける。 政府からも追われる身となった剣心だが、京都に立ち寄ったあと、仲間がいる東京へ。 そこで警察に逮捕された剣心は志々雄と対決するため、志々雄の船が見える海岸に連れられた。そこで剣心は処刑されようとしたが、救ってくれたのは斉藤一(江口洋介)だった。斉藤や剣心は志々雄を倒すために彼の船へと乗り込むのだが。 「るろうに剣心」の後編。 師匠の元に帰って修行をするというと僕なんかだと「スター・ウォーズ」みたいである。いや「スター・ウォーズ」がこういった時代劇とか剣豪の話の宇宙版なんだけど。 正直、ちょっと食い足りない。新キャラクターの人物紹介も兼ねてドラマがあったが、今回はひたすら対決のみ。 同じような対決の繰り返しなのでちょっと飽きる。 相手によって武器が違うとかあれば、どう倒すか?の楽しみがあったのだが、似たような対決だもん。 こんな風に否定的に観てしまうのは基本的に私が時代劇ファンではないし、「るろうに剣心」のコミックファンではないからだろう。 それにしても志々雄の部下の十人衆の活躍が少ない。 特に神木隆之介の活躍を期待したが、ドラマ部分での活躍はなく、最期の対決の連続となって登場しただけ。 前作では語られなかった彼の背景などが出てくるかと思ったら、そういうのはなし。 宋次郎というキャラクター(というか神木隆之介)の活躍が楽しみだった私としてはがっかり。 とにかくしつこい位のチャンバラの連続。伊勢谷友介の剣心を倒すことに執着するキャラクターが、最後の船での対決で登場したのには驚いた。客席でもその唐突な登場に笑い声(1名ぐらいだけど)聞こえた。 いやドラマの展開上あそこで伊勢谷友介が登場するのは納得出きるが、それにしても伏線なしでの登場は驚いた。 まあ正直昔ながらの時代劇に見慣れてしまった私としてはこのシリーズの茶髪のヒーローヒロインは違和感があったが、この変化も必要なのだろう。 派手な素早い動きの迫力ある立ち回りといい、次につながるものがあることを期待する。 エキストラやセットで手を抜いていない大作感がよかった。 佐藤健にはこれからも期待したい。 刑事日時 2014年9月27日 場所 DVD 監督 ピエトロ・ジェルミ 製作 1959年(昭和34年) ローマのあるアパート。一部屋に強盗が入った。 イングラバロ警部たちが聞き込みを開始。被害者の部屋の家政婦のアッスンタの恋人、ディオメデが疑わしかったので詰問したが、彼はアメリカ人旅行客の女性と一夜の相手をしていてアリバイはあった。 一週間後、強盗被害者の隣の部屋のリリアナが殺された。夫は会社社長で出張中だった。リリアナのいとこの医師バルダレナが第一発見者だった。彼はリリアナから援助を受けていたが、本人は「不妊について何かと相談に乗っていたりしたから」と答える。 やがてリリアナの夫バンドウィッチが出張から帰ってきた。しかし何かこの男も怪しい。 やがてリリアナの遺書が公開された。夫であるバンドウィッチには全く遺産は相続されず、家政婦やバルダレナに分配する内容だった。 イングラバロ警部はバンドウィッチやバルダレナらに不審なものを感じ、二人を尾行するよう命じるのだが。 この所「世界の名作映画」ということで昔の洋画を中心に観ているのだが、その流れで観たのがこれ。 ずーっと以前にDVDを買っていて(たぶん1000円ぐらい)そのままになっていたのを思い出して観た。「自転車泥棒」を観てイタリア映画が観たくなったし、ピエトロ・ジェルミって名前だけは知っていたが、映画は観たことなかった。 「自転車泥棒」と同じイタリア映画と言っても製作は昭和34年だから、全く時代が違う。日本も「もはや戦後ではな」かったようにイタリアだっていつまでも敗戦国ではなかろう。 強盗事件、殺人事件があって刑事が追っていく話だが、「その背景に潜む社会のうみ」みたいな社会派ではなく、ミステリードラマだ。 日本で言えば松本清張の映画を観てるような気分になった。 強盗事件と殺人事件、この二つはどう関連があるのか、殺人事件の被害者の夫やいとこはなんだか秘密があるような気がする。彼らが犯人なのか?それとも犯人は別にいるのか? 次々と明らかになっていく人間関係が飽きさせない。 結局強盗事件とは同一犯という訳ではなく、怪しいと思われた二人もそれなりに「こいつらどうよ?」と思われる所はあるものの、犯人ではなかった。 正直イタリア人の名前は覚えづらくて「誰だっけ?」状態になり(いや私の頭が悪いのだが)多少混乱したし、ラストの真犯人にたどり着く警部がきっかけになる鍵のこともちょっと解りづらい。 でもピエトロ・ジェルミ扮する警部の渋さもまた魅力で画面に引きつけられる。 拳銃をバンバンぶっ放す派手さはもちろんないが、その分暴かれていく人間関係の複雑さが楽しめ、派手なミステリーとは違ったサスペンスドラマで、今でも十分楽しめるおもしろさだった。 長く観なかったことが悔やまれる作品。 自転車泥棒日時 2014年9月25日 場所 DVD 監督 ヴィットリオ・デ・シーカ 製作 1948年(昭和23年) 日本公開 1950年(昭和25年) 第二次大戦後のローマ。アントニオ・リッチ(ランベルト・マジョラーニ)は市役所のポスター貼りの仕事を得た。しかし仕事を得るための条件が自転車を持っていることだった。彼は自転車を質に入れてしまっていた。彼の妻、マリアは家のシーツを質に入れそのお金で自転車を取り戻す。その帰り道、占い師に寄ってこうとしたマリアだったが、アントニオは「金の無駄だ」とマリアを連れて帰る。 翌日からの仕事に精を出すアントニオ。しかしポスターを壁に貼っている一瞬の間に自転車を盗まれてしまう。 友人のバイオッコに相談し、翌日曜日にバイオッコの仲間とともに盗品が売られている市場に出かけるのだが。 世界的名作映画の1本「自転車泥棒」。 いや〜暗い映画である。希望も何もない。今井正の「どっこい生きてる」という映画も暗くて貧乏で希望がなかったが、この映画も匹敵する。 でも観終わって黒澤明の「野良犬」にも似てるなあ、と思った。どちらも大事なものを盗まれ、それをコンビで探しながら街や人々を描写していく話だ。どちらも敗戦後の人々の貧困が重要なモチーフとなっている。「野良犬」は昭和24年だが「自転車泥棒」の日本公開は25年のようなので、黒澤が観てなかった可能性も高い。同時期の東西の名作が同じ形式だというのは偶然とは言え興味深い。 映画の方は警察に被害届けを出しても「自分で探せ」といわれるだけ。相談した友人がバーのショーの演出をしているというのが特に意味があったのか私にはよく解らない。 翌日の日曜日に盗品が売られている広場に行ってみたが、すでに自転車は部品として売られている可能性もあって見つからない。 街で昨日の自転車を盗んだ若い男が老人と会話してるのを見かけ、その老人を追って教会へ。その教会では施しの食事を提供していた。老人を問いつめるものの、大したことは聞き出せない。そしてその老人を見失ってしまう。 その後、気を取り直してレストランに行ったが、かえって貧富の差を感じてしまったりする。 老人から聞き出した住所に行ってみると犯人らしき若者には出会えたが、結局盗品も証拠もなく、警官を呼んでも何も出来ない。近所の人からは「なんだお前は!」とつるし上げを食う。 憔悴するアントニオ。近くのサッカー場ではみんなサッカーに熱狂する声が聞こえる。子供を先に帰すアントニオ。 近くに自転車が止まっている。ついそれを盗んでしまうアントニオ。しかし彼は捕まってしまう。 持ち主はアントニオの子供ブルーノを観て「自転車が戻ったからもういい」と許してくれた。 雑踏の中に去っていくアントニオとブルーノ。 いや〜救いのないラスト。昔はイタリア映画とかフランス映画とかはラストが暗かったイメージがあるが、そのまんまである。この親子は明日からどうしていくのか。 「野良犬」の話に戻れば、三船の刑事も犯人の気持ちが分かると言っていた。「もしかしたら僕も彼になっていたかも知れない」と。 「自転車泥棒」では実際にアントニオも泥棒になってしまう。 当時観ていた日本人は「イタリア人も同じなんだなあ」と共感をもって観ていたのだろうか? 希望もないように見えるが、アントニオが犯した過ちを改める機会を神は(映画は)与えてくれた。 希望はないように見えるが完全にない訳じゃない。 それを信じて生きていこう。 望郷日時 2014年9月23日 場所 DVD 監督 ジュリアン・デュヴィヴィエ 製作 1937年(昭和12年) 銀行強盗のペペ・ル・モコ(ジャン・ギャバン)はアルジェのカスバに隠れて2年。地元の警察の無能とパリ警察は批判するが、「このカスバは迷路のように入り組み、裏社会の人間も多く一度逃げられたら逮捕は難しいんです」と答えるのみ。 ガサ入れを行うがペペの逮捕には至らなかった。その晩、ペペはギャビーというパリからやってきた洗練された美女と出会う。 カスバは安全だったが同時にパリからやってきたペペには窮屈だった。パリの匂いのするギャビーにペペはたちまち惹かれていく。 一方警察はペペをカスバから出てくるようにし向けようと情報屋を使って一芝居打つ。ペペの可愛がっているピエロという若い男の母親が病気だと行ってカスバから出させる、しかし帰ってこないピエロを心配してペペがカスバから出てくるという作戦だ。 しかし帰ってこないピエロについてペペは情報屋となった男が怪しいと睨む。ピエロは帰ってきたが、情報屋を殺して絶命する。 フランス映画の傑作の一つ「望郷」。 これも学生時代(だったと思う)にビデオで見ている。 だから30年ぶりぐらいか。70年代に整髪料のBRAVASのCMで草刈正雄がこの映画のラストシーンのパロディをしていたから、その頃までは案外知られた映画だった。今は全く聞かないけど。 田舎に隠れているうちにパリの女に出会って心を乱されていくって話なのだが、今見るとどうにもかったるい。 日活映画「赤い波止場」の下敷きになった映画でもあるのだが、あっちはまだやくざの抗争とかもう少し映画を派手にする要素があった。 でもこっちはそういうのが少ない。 たとえばピエロがいなくなって情報屋の男を捕まえるシーンがあるのだが、ここなんぞ深作欣二の映画ならペペたちが情報屋を捕まえた、時間が経ってピエロが傷ついて帰ってきた、情報屋を殺す、とテンポよくやったのでは?と思ってしまう。 ギャビーとは実はペペは3回しか会ってない。この短い時間で安全なカスバから危険な街に降りるのだからよほどパリを感じさせたのだろう。 カスバにいる「若い頃は売れていた」という女歌手が昔のレコードをかけるが、その歌は「アメリカにあこがれてアメリカに渡ったが、行ってみたら結局ニューヨークの貧民街から出られなかった」みたいな「アメリカはがっかり」の歌だ。それだけパリが自慢だったとも言えるし、フランス人のアメリカに対する感情だったのだろうか? ギャビーとペペが交際することをよく思わないスリマン刑事はギャビーの連れの男に忠告する。それを聞いた男は早速翌朝ギャビーとともに船で旅発とうとする。 ペペはそれを追ってついにカスバから出る。 このカット、ペペが歩いていくシーンはスクリーンプロセスで、歩くペペのバックを風景が流れ、幻想的な作り。 それだけ印象深い画になっている。 ラスト、船の汽笛にかき消されギャビーを呼ぶペペの声は届かない。有名なラストシーンだ。 素晴らしき哉!人生日時 2014年9月23日 場所 DVD 監督 フランク・キャプラ 製作 1946年(昭和21年) ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュアート)という善良な男が自殺しようとしていた。天の神たちは彼を死なせてはいけないと二級天使のクレランスを派遣することにする。神はクレランスにベイリーの今までの人生を紹介していく。 子供の頃、氷の上のスリ遊びで弟のハリーが池に落ち、それを助けたために風邪を引きそれをこじらせて左の耳が聞こえなくなった。彼の夢は世界で活躍する建築家になることだった。しかし父親が急死し、庶民の為の住宅ローンの会社を引き継ぐことになった。 町の銀行家のポッターはジョージが邪魔だった。彼が食い物にしようとする庶民をジョージが助けてばかりいるので何かと疎ましい存在だった。 新婚旅行に出かけようとした時に恐慌のため取り付け騒ぎが起きたが、その時に人々を助けたのも彼だった。 ジョージは耳の為に戦争に行かなかったが、代わりに弟のハリーは叙勲した。 その喜びもつかの間、会社の共同経営者の叔父が8000ドルを不注意で無くしてしまった。その金がなければ会社の金を横領したとして刑務所行きになってしまう。 彼はクリスマスイブの夜、絶望していた。 フランク・キャプラ作品。1946年だ。 このところ1940年代の映画を続けて観ているが、第2時世界大戦はヨーロッパやアジアと違ってアメリカ本土は戦場にならなかったから、ちょっととらえ方が違うかも知れない。関係ないがちょっとそんな気がした。 この映画、冒頭は星や星雲が会話する。 星が神様で会話する度にちかちか光るという設定。SF的というかファンタジーですねえ。 そこへ小さな星の二級天使がやってきてベイリーの生涯を知るという設定。天使も優秀と不出来がいるらしく、この天使は200年経っても羽根がもらえない。 今までのベイリーの人生を1時間半見せられた後、やっと天使が現れる。正直映画がおもしろくなるのはここからだった。 「俺なんかいなくたって誰も困らない」と嘆くベイリーに天使クレランスは彼がいない世界を見せる。 パラレルワールドの世界で、もうSF的でいいですね。 ベイリーのいない世界ではハリーは子供の頃に死んでいて、町はポッターが仕切っていた。妻も未婚のさえない女である。母も自分を知らないという。 ベイリーのいない世界では彼の周りの人々はことごとく不幸だった。 ベイリーは自分の価値を思い直し、元の世界へ戻ることを希望する。 で元の世界に戻ったら、例の無くした8000ドルの件は彼に助けられた町の人々が少しづつ寄付をしてくれて助かった!という展開。 ラストにはみんなでクリスマスらしく「蛍の光」を大合唱。ああ素晴らしい人生! という人々の良心の固まりで映画は終わって、観てるこっちは正直照れた。 あんな風に善意のあふれる世界はあこがれますねえ。 一つの夢や希望を見せたのだろうが、正直善意すぎてちょっと拒否反応をしたのも確か。 そもそも8000ドルは大切なお金なんだから、いくらハリーが叙勲して舞い上がっていたとはいえ、無くしちゃバカだよ。それを偶然手にしていたのがポッターというのも出来すぎ。 今はここまで無邪気な善意の映画は少ないから、(そうでもないか、俺が観ないだけか)ちょっと珍しい映画を観た気にはなった。 群衆日時 2014年9月23日 場所 DVD 監督 フランク・キャプラ 製作 1941年(昭和16年) ある地方紙のブルテン新聞はD・B・ノートンという富豪に買収され、編集方針の変更により多くのスタッフが首になった。コラムを担当するアンもその一人。「君のコラムは刺激がない」と言われ、最後のコラムに「私の名はジョン・ドー。失業し世間に絶望している。政治に対する抗議としてクリスマスイヴの夜に自殺する」という偽の投書を載せる。 世間の反応は大きく、ライバル紙のクロニクルはでっち上げだといい、市長は自殺されたら私の責任になると大騒ぎ。一方「彼を雇おう」とか彼に対する援助を申し出る声も大きい。 アンはこれを利用して部数を延ばそうと、ブルテン社に仕事を求めてやってきたウィロビー(ゲイリー・クーパー)という男をジョン・ドーに仕立てあげることにする。 ついに彼をラジオ出演させることになった。その原稿をアンが書く。しかしクロニクルはジョン・ドーは作られた偽者だとし、ウィロビーに5000ドルを条件にラジオの生放送で「ジョン・ドーは架空の人物で自分は違う」と言わせようとするのだが。 フランク・キャプラ1941年の作品。 最近クラシックの名作映画を鑑賞しているが昭和16年にこんな映画を作っていたのかと驚かざるを得ない。 マスコミが虚像を作って誰かをヒーローにしていくという体質はこの頃から変わっていない。最近では「盲目の作曲家」とか「若き割烹着を来た女性研究者」などなど。そして昔からそれを批判する声はあったのだ。 編集長とアンが「誰をジョン・トーに仕立てあげるか」を面接している時にウィロビーと出会う。 「見た目もいい。元野球選手というのもいい」完全にストーリーをでっち上げる気まんまんである。 結局、ウィロビーは自分がジョン・トーになることを引き受け、アンが作った原稿を読む。そこには「みなさんの隣人を愛しましょう。それが広がれば世界はもっと暮らしやすくなるはず」という。 これがアメリカ中の共感を得て、実践する人も多数。そして町にはジョン・トー・クラブなるその精神を広めようとする団体も現れた。 それを知ったウィロビーは考えを改め自分がジョン・トーであり続けることを引き受ける。 社のオーナーのD・B・ノートンの真の目的は自分が大統領選に出馬するにあたり、トーの支持者を味方につけることだった。 それを知ったブルテン新聞の編集長キャネルはウィロビーにノートンの企みを忠告する。 全米のジョン・トー・クラブの代表者が集まった集会でノートンの企みを暴露しようとするウィロビーだが、逆に「彼は偽者だ」と言われ、大衆の信用を無くしてしまう。 姿を消したウィロビー。彼はジョン・トーであろうとしクリスマスに自殺してしまうのか? マスコミの作られた虚像に大衆は熱狂する。 これも今でもある。政治家や政党に民衆は期待する。マスコミもそれをあおる。 しかし所詮は虚像。バレたときの反撃も大きい。 クライマックスはウィロビーは自殺してしまうのか?という点。 結局はジョン・トーを支持し、最初にウィロビーに「あなたの隣人愛の演説に感動し、実践している」と言った人々が「あなたの言ったことは正しい」と再び支持をしてくれて、ウィロビーは自殺しないですむ、というエンディング。 まあ甘っちょろいと批判も出来るけど、とにかくマスコミの作った虚像に踊らされる人々、それを作るマスコミ、という批判的な図式を描いて、今でも通じるテーマだと思う。 逆に今こそまた描いて欲しいテーマだと思う。 禁じられた遊び日時 2014年9月21日 場所 DVD 監督 ルネ・クレマン 製作 1952年(昭和27年) 1940年6月、ドイツ侵攻のためパリから逃れる人の行列があった。その行列にドイツの機銃掃射があり多数の人が亡くなった。少女ポーレットの両親や可愛がっていた犬も死んだ。 ポーレットはその近くの農家ドレの家のミシェルにと知り合い、彼の家でしばらく暮らすことになった。 可愛がっていた犬のためにお墓を作ろうというミシェル。しかし幼いポーレットはお墓の意味もお祈りも知らなかった。 「お墓には犬だけじゃ寂しそうだ。色んな動物のお墓も作ろう」。ミシェルは十字架を作ったが、ポーレットは満足しない。やがてミシェルは墓地の十字架を盗んでしまう。 世界的名作映画の「禁じられた遊び」。 映画を観たことのない人はいてもこの映画のテーマ曲を聴いたことのない人は少ないだろう。 哀愁を帯びたギターのメロディはそれだけで涙を誘う。 テレビ放送などで断片的に観たことはあったが、ちゃんと観たのは実は初めて。 戦災孤児の話で、昭和27年では日本でも自らの問題として今以上の実感を持って観客は観ていたのではないだろうか? ミシェルとポーレットはお墓作りという遊びをし、まるで死をもてあそぶかのようで、大人には信じられない。 しかし戦争そのものが政治家のおもちゃ、遊びではないだろうか? ミシェルがゴキブリを殺すシーンで機銃掃射をまねして殺していくが、まさに戦争など大人の遊びである。子供にはなんの関係もない。 まさに「禁じられた遊び」だ。 ミシェルのお父さんは隣の家といがみ合っている。 隣の家の息子はミシェルの姉とつきあっている。出来れ結婚を考えているようだ。しかし親の反対がありそうだ。 これは国家間の争いの暗喩なのだろうか? そして結局ポーレットは施設に送られることになり警官につれていかれる。 ラスト、大きな駅の雑踏。ポーレットは施設の修道女につれられてこの駅に来た。しばらくここで待っているように言われるポーレット。 近くで「ミシェル!」と呼ぶ声がする。ポーレットはミシェルが近くにいるのかと勘違いし、雑踏の中へかけていく。「ママ!」と死んだ母を呼びながら。 何とも悲しいラストだ。 以前洋画劇場で、淀川長治さんが「彼女はあれからどうなるんでしょう?夜の女になってしまうんでしょうか?」と言っていた。それが今なら実感でわかる。 この映画のクレジットタイトルはアルバムである。 普通に観れば「ちょっとおしゃれなタイトルだなあ」と思うけど、これも(淀川さんだったと思う)「戦争の記憶も今は写真のアルバムのようになってしまうのだろうか?という意味に思える」という趣旨のことおっしゃっていた。 とにかくもの悲しい、主題曲が心に染みいる反戦映画の名作だと思う。 市民ケーン日時 2014年9月21日 場所 DVD 監督 オーソン・ウエルズ 製作 1941年(昭和16年) 新聞で一時代をリチャード・フォスター・ケーンが死んだ。大富豪でフロリダに大豪邸を構えていたケーン。 最後の言葉は「バラのつぼみ」だった。 ケーンの生涯をまとめるニュースフィルムを作ったがどうもインパクトがない。記者のトムスンはケーンの最後の言葉、「バラのつぼみ」の意味を探るように命じられる。 最初に訪ねたのは二度目の妻で歌手のスーザン。しかし彼女は何も話すことはないと口を閉ざす。 トムスンはケーンを子供の頃に引き取った銀行の代理人のサッチャーの回顧録を読んでみることから始めた。 世界名作映画の1本に数えられる「市民ケーン」。 この映画は高校生の頃に観ている。その頃に観ていてよかったと思う。やはり名作は若いうちに観ておいた方がいい。 たぶん80年頃に観たと思う。この映画が出来て39年経って鑑賞し、それから34年経って再鑑賞だ。 (今回観たDVDだが、こういう格安DVDは日本語字幕はデジタルの段階で入れられるものばかりだと思っていたが、「映倫」マーク付きのもともと日本語字幕があるプリントをデジタル化したものだった。白い画面に字幕が出ると読みづらいったらありゃしない。でも字幕が縦なのだな。そうそう最近は字幕が横が当たり前だけど、昔は縦が普通だった) で、肝心の映画の方だが、正直面白くない。 ケーンは親が無一文だと思ってもらっていた金鉱の株券が値上がりしてそれを譲り受けるケーン少年は将来大金持ちが約束される。そのため相続人として銀行の管理におかれる。 25歳でその富を受け取ったケーン。彼は弱小新聞社を買い取り新聞事業へ。社会の不正を暴くのが楽しくて仕方ないといった調子で部数をのばしていく。 そして大統領の姪と結婚し、州知事選にも出馬する。 しかしその頃は仕事に夢中な夫と妻の間には溝が生じていた。スーザンと知り合ったのもその頃。 州知事選では当選確実と思われたが、スーザンとのことをマスコミにリークされ落選した。 この頃からケーンは暴走する。 そのスーザンとは結婚した。彼女がオペラ歌手志望だったので、ケーンはその財力で彼女をスターにしようとするが実力が伴わないので無理だった。大学時代からの親友で今はケーンの新聞で劇評を担当するリーランド(ジョセフ・コットン)も酷評しかけたが、ケーンに対する友情が邪魔したのか書き終えることが出来なかった。しかしケーンはその酷評の原稿を書き終え新聞に掲載した。 「このままでは私が笑い者になるだけだから歌をやめたい」というスーザンをケーンは逆に許さない。 で、ラストが近づく。 面白いのはトムスンなどの記者が全く没個性なのだな。いや顔もシルエットになってろくに解らない。 完全に聞き手に回って自分の意志とか思いが出てこない。 ここまで聞き手が没個性なのも珍しい気がする。 最後にはケーンの大豪邸の執事にたどり着く。 「バラのつぼみ」は死ぬ前にも一度聞いたことがあったが、私には何のことかは解らないという。 その頃、ケーン邸ではがらくたから処分されていた。 ケーンが子供の頃に遊んでいた雪ぞりにかかれていたのが「バラのつぼみ」だった! というオチ。 つまりお金や力を得たけど、結局彼が欲しかったのは彼が両親と暮らしていた愛のある時間だった、という話。 なんかこう陳腐な感じがするのだなあ。 高校生の時もそう思ったけど、今回もそう思った。 やっぱりその時代に観ないと解らないかなあ。 でもこの映画、日本ではブルーレイが発売されてない。 つまり名作とは言われてるけど、今商売にはならない映画と言うことか。「カサブランカ」がブルーレイになったりしているのを見ると現在での人気の差が見えてくる気がする。 カサブランカ日時 2014年9月21日 場所 DVD 監督 マイケル・カーティズ 製作 1942年(昭和17年) 日本公開 1946年(昭和21年) 北アフリカのフランス領カサブランカ。この町にはドイツからアメリカへの亡命者の中継地としていろんな人々が集まってくる。 この町で酒場を経営するリック(ハンフリー・ボガート)はアメリカ人。一見冷たいようだが、実は人情に厚い男だった。今日も通行証を持ったドイツ人の役人が殺され、盗まれた通行証を奪った犯人がリックの店で逮捕された。通行証は逮捕の前にリックが預かっていた。 そんな時、逃亡中の反ナチ組織の指導者ラズロという男がやってきた。同伴してるラズロの妻を見て驚くリック。 彼女こそリックがパリにいた頃に愛し合ったイルザ(イングリッド・バーグマン)だった。リックはパリがドイツに占領される直前、イルザとともに逃げるつもりだったが、彼女は「一緒にはいけない」と置き手紙を残して去っていったのだ。 数年ぶりの再会につい恨み言を行ってしまうリック。 しかしイルザは夫と無事亡命するためにリックが持っている通行証を譲ってもらうよう頼むのだった。 世界的名作映画の一つ「カサブランカ」。 ずっと以前にビデオで観たことがあったが、今回DVDで再見した次第。 まず思ったのはこの映画が昭和17年の製作であることだ。 太平洋戦争も始まり日本もドイツも敵国状態。フランスもドイツ占領下にあり、カサブランカの警察署長も表向きはドイツに協力しながら、どこか反発しているという複雑な関係だ。 リックの店で酔っぱらったドイツ兵がドイツ語で歌を歌うとお店の客やフランス人はフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を合唱する。 (日本の「あゝ特別攻撃隊」という戦争映画に「同期の桜」と「喜びの歌」を歌いあうシーンがあったが、この「カサブランカ」が元ネタだったか) 自分を捨てた女、しか実は結婚していたという事実を隠しながら(まあ女にしてみれば夫はナチに殺されたと思っていたという事実はあるにせよ)自分とつきあっていたという裏切り、そんな女にはどんな寛容な男でも恨み節の一言も言いたくなる。言わなかったら神様である。ハンフリー・ボガートだって女に捨てられることはあるのだ。 そんな自分を捨てた女と相手の男のためになるよう亡命させ、自分はひとりたたずむ。 いや〜かっこいいね、男だね。 「男はつらいよ」の世界ですよ。 「時の過ぎゆくままに」が名曲とか「君の瞳に乾杯」とか「昨日何してたの?」「そんな昔のことは覚えていない」「今夜どうしてるの?」「そんな先のことは解らない」とかいろいろ使い回されすぎて、今やチープにさえなってしまった名台詞のオンパレードだが、これもひとえに主演がハンフリー・ボガートとイングリット・バーグマンであればこそ。 主演が最初後のアメリカ大統領のロナルド・レーガンだったと考えると映画というものはつくづく偶然の要素に左右されるなあと実感する。レーガン主演だったらここまで名作扱いされていたかどうか。 監督のマイケル・カーティズなんて他の作品は特に知られてないし。 ハンフリー・ボガート主演の「男はつらいよ」。僕の中でのこの映画の位置づけはそういうことになっている。 (クレジットを観ていたら編集にドン・シーゲルの名前があった。このころから映画界で活躍していたのだな) 海を感じる時日時 2014年9月20日18:40〜 場所 テアトル新宿 監督 安藤尋 舞台は1970年代後半。 恵美子(市川由衣)が高田洋(池末壮亮)と出会ったのは高校時代の新聞部の部室だった。 授業をさぼって部室にいた恵美子に先輩の洋はキスを迫り、恵美子は受け入れた。「女の体に興味があっただけ。誰でもよかったんだ」 その数年後、恵美子は大学に行った洋を追って上京していた。高校時代、恵美子は洋の興味の赴くままに体を許していて、一度は生理がなくなり、妊娠を心配したこともあった。 父を亡くし、母子家庭に育った恵美子だったが、洋との交際は母親からは反対された。「みだらな女だ。そんな子に育てた覚えはない」と責められたが、恵美子は洋とのつきあいをやめなかった。 やがて洋が一緒に暮らそうと言ってくれたのだが。 最近お気に入りの俳優は福士蒼汰と池末壮亮。今年は特に池末の出演作は多いが、この映画も池末主演(実際の主演は恵美子の市川由衣だが)だから観た。 女と男の腐れ縁のような関係を描いていくのだが、なんだか70年代の日活ロマンポルノのようだと思ったら脚本は荒井晴彦。パンフレットを読んだら原作の発表は78年だが、その頃に映画化の話があり、荒井氏が当時脚本にしていたようだ。その脚本を一部手直しして(当時の風景など今では撮影困難な場面を削除した程度らしい)今回の映画化になったとか。 結局その、「女が男に無視されながらも惚れてついていく」というのがよく解らない。「まあそういう事もあるだろうな」というのは頭では(理屈では)解るが、実感として「そんなことがあるだろうか?」という気持ちになり、自分のものとして感じられないのだ。 要するに「男が女に無視されながらも惚れていく」というのはよく解るのだが、それが女もそうするかというのが体験的に「あり得ない」と思ってしまうのだ。 だから映画を観ていて「そんなことはないだろう」という自分の持っている短い尺度でしか判断できず、まるで嘘くさい話にしか思えないのだなあ。 最後に恵美子も居酒屋で知り合った(というのは正確ではないか。看板になった居酒屋を出た後で知り合ったサラリーマン風の男)のアパートに行って体を交えてしまう。 それを洋への反発からか、恵美子は洋に話す。 そして洋は怒って部屋を出ていく、ということで洋との関係は終わった(?)。 この手の話を理解するにはまだまだ修行が足りなくて正直女心はさっぱり解らない。 池末壮亮はあのちょっと虚無的なところがいいですね。 今後も期待したいです。 ルパン三世(2014)日時 2014年9月20日14:40〜 場所 新宿ピカデリー・シアター5 監督 北村龍平 フィリピンの博物館から古代オリンピックの最初のメダルが盗まれた。この事件、ルパン三世(小栗旬)や峰不二子(黒木メイサ)などが争って盗もうとしていたが、最後に手に入れたのはマイケル(ジェリー・イェン)だった。 彼らは泥棒組織「ザ・ワークス」のメンバーだったが、ボスのドーソンは引退しようとしていた。が、その日、父をドーソンに殺されたと信じているマイケルによって殺された。 同時にドーソンが持っていたクレオパトラの首飾りもマイケルによって盗まれてしまう。しかしその首飾りは中央に飾られるべきルビーがなかった。そのルビーはプラムックの要塞のような金庫、ジ・アークに保管されている。 ルパンは次元大介(玉山鉄二)、石川五右衛門(綾野剛)、峰不二子らを仲間にしてそのルビーを盗もうとするのだが。 「ルパン三世」の実写化。今更「ルパン三世」の実写版かと思うが、結構お客さんは入っているから、やはりそれなりに需要はあるのだろう。 正直、観ようかやめようかかなり迷ったが、ピカデリーのポイントで無料鑑賞が可能なので、タダで観た。 迷った理由はひとえに監督が北村龍平だからである。 とにかく私は彼が嫌いなのである。 「ゴジラ・ファイナルウォーズ」を観て、もう完全に彼を憎む境地に達している。 とにかくセンスがあわないのである。 今回もカットの切り替わりのタイミングが早すぎて、生理的にあわないのだ。 カットの間があわなくていらいらするなんていう映画監督は北村龍平だけである。 だからとにかく早く終わらないかと思いながら観ていた。 そういう訳だから小学生並みの感想しか出てこないのだが、キャストについて書いておくと全員よかったんじゃないでしょうか。 小栗旬は完全にアニメ版の「ルパン三世」を意識していて、山田康雄のせりふ回しをまねようとしている。 でも正直それでいいと思う。 浅野忠信も声や話し方が、確実に納屋悟朗を意識していた。 結局「ルパン三世」の人気を作ったのは山田康雄らのアニメ版の力が大きい。アニメのルパンはみんな観ていてもモンキー・パンチの原作を読んだことがない人は多いんじゃないだろうか? 一時期藤原紀香が人気があった頃は「彼女を峰不二子で」という意見があったが、今なら確実に黒木メイサだろう。 映画の舞台を日本に限定せず(むしろ少ない)、タイ、フィリピンなどを舞台にして、もともと「ルパン三世」の持っていた無国籍なスケール感が発揮されたのだから。 シリーズ化を期待しての製作だろうが、はたして作られるか。その際は監督は変えてほしい。 監督が替わったら観たいと思う。 舞妓はレディ日時 2014年9月15日14:10〜 場所 新宿ピカデリー・シアター6 監督 周防正行 京都の小さいながらも歴史のある花街、下八軒。そこへある日突然「舞妓になりたい」と津軽と鹿児島の訛りの入り交じった少女、春子(上白石萌音)がやってきた。 お茶屋の「万寿楽」の女将の千春(富士純子)は「素性のしれない人を入れるわけにはいかない」と断ったが、下八軒には今は舞妓は百春(田畑智子)しかおらず、舞妓は欲しいところだった。 たまたま居合わせた言語学者の京野(長谷川博巳)が方言指導をするというので、結局は千春も春子を受け入れる。 挨拶から行儀作法、踊り、三味線の修行を始めるが、厳しい世界だ。 「舞妓はレディ」という「マイ・フェア・レディ」を意識しまくったタイトルだし、芸者の世界など縁もないし興味もない。観るつもりはなかったのだが、出演者に妻夫木聡がいるのでやむなく観ることに。 (妻夫木が出ている映画作品は全部観ると決めているので) しかしやっぱり観なければよかった。 1から10までこの映画に乗れないのである。 まず舞妓とか芸妓に興味がない。私は舞を観ても何も感じないタイプの人間だ。もともとダンスってあまり興味がくなくて心を動かされないのである。 それ以上に「芸者遊び」という上流階級の遊びを憎んですらいるのだろう。 映画中、実は芸者とお客の間に生まれた子でいわゆる妾の子、である京野の助手(濱田岳)が「君はなんで舞妓になりたいの?きれいな着物とかにあこがれたから?きれいごと言っても所詮はお酒の相手をする水商売にすぎない」と言い放つ。 もう120%賛成である。 所詮は水商売と下に観るのではなく、そういうものをいかにも「日本文化」のような高尚なものに祭り上げる考えが解らん。 お金の話は全く出てこないが、きっと何十万もするような遊びで、私の月給など1回か2回で消えてなくなるような高額な遊びだし、私には縁のないもの。 私なんかからするとホテトル嬢を描いた「ホテトル嬢 悦楽 とろけ乳」の方がよっぽど心に響くものがあった。 常連客として岸部一徳の呉服屋の旦那が出てくるが、あんたも遊びに使う金があったら、従業員に還元してやれよ、と言いたくなる。 でラストは実は春子の母は舞妓だった、みたいなことがオチなのだが、だから何なんだよという感想だなあ。 「終の信託」といい本作といい、周防監督も「それでもボクはやってない」以外はあわない監督だなと思う。 イン・ザ・ヒーロー日時 2014年9月15日11:00〜 場所 新宿バルト9・シアター2 監督 武 正晴 本城渉(唐沢寿明)はヒーロー番組「神龍戦士ドラゴン・フォー」のドラゴンレッドを演じるアクション俳優。ただし顔見せなしのスーツアクターだ。 「ジャリ向けの番組」とバカにする人間も少なくないが、いつかは日本で本当のアクション映画に出たいという夢を捨てていない。 その「ドラゴン・フォー」の映画版が作られる事になり、新人の人気俳優・一ノ瀬リョウ(福士蒼太)が参加する事になったが、彼は完全にこの映画をバカにしている。彼にとっては今度日本でロケするハリウッド映画「ラスト・ブレイド」の出演オーディションの事で頭がいっぱいなのだ。 マネージャーは「いい機会だからアクションを覚えてこい」と言われるが、全くやる気がない。 撮影所にやってきた「ラスト・ブレイド」のスタンリー・チャン監督にいいところを見せようと、撮影中の殺陣のシーンをやらせてもらうが、大失敗。 この事がきっかけで一ノ瀬も心を入れ替えてアクションを勉強する。 「ラスト・ブレイド」の出演も決まった一ノ瀬。 監督はCGもワイヤーも使わないアクションを撮りたいという。しかしそれを聞いて香港から来たアクション俳優はビビって帰ってしまう。 ツイッターなどではやたら評判のいい本作品。映画ファンの涙腺を刺激してるようだ。 正直、映画人が作る「映画万歳!」的映画は手前味噌過ぎてあまり好きではない。さらに主演はあまり好きではない俳優の唐沢寿明。パスしようかと思ったが、最近お気に入りの若手、福士蒼太出演と聞いて観に行った。 ああ、確かに映画ファンの涙腺を刺激するなあというのが率直な感想。 冒頭、「ドラゴンフォー」という架空の番組のオープニング映像が流れる。その「ありそうな」映像に爆笑である。 やがて新人がベテランに指導されていくという映画のお決まりの展開。 僕自身は戦隊ものには思い入れはないけど、怪獣ものなら思い入れがある。一ノ瀬リョウがマスクをヒーローマスクをかぶってみるシーンがあるが、私の想像以上に視界は狭い。ゴジラなどの怪獣ではもっと狭いだろう。 事実上彼らは盲状態で演技していたと言っていい。 そんなスーツアクターたちに限りないリスペクトと愛情を持って映画は進行する。 そして「ラスト・ブレイド」のアクションを本城が演じることになった!という予想通りの展開で裏切らない。 CGを使わないと言っていた監督だが、セットにCGを使うことには抵抗がないらしく、2階から飛び降りる時の屋根の部分はグリーンになっていて、明らかに合成用。 しかしこのシーンのアクションの途中から屋根がちゃんと現れるので、「映画中映画」のシーンが「この映画」のシーンになっていく演出なのだろう。 とにかく我々が何気なく観ている映画はこういった危険を顧みない「映画バカ」に支えられており、その方たちへの賛辞は私は惜しまない、と言ったら信じてもらえるだろうか? 以前TBSの取材番組「情熱大陸」で福士蒼太が取り上げられ、この映画の撮影中を収録されていた。 その時に唐沢が「『情熱大陸』っていう位だからさ、なんか情熱的なコメントしたほうがいいんじゃない?」というシーンがあったが、今思い出すとこの映画のまんまの情景で、面白い。 福士蒼太、よかった。 テロ、ライブ日時 2014年9月14日14:15〜 場所 ヒューマントラストシネマ渋谷・スクリーン2 監督 キム・ビョンウ 数年前までテレビの人気ニュースキャスターだったヨンファ(ハン・ジョンウ)は今はラジオ番組を担当している。 ニュースについてリスナーと電話で対話しながら問題を掘り下げていく番組だ。今日は政府の税制改革についてがテーマだが「電気代が高い」という意見が出てきて、テーマが違うから電話を切ろうとする。するとその男は「なぜ切る?切ると橋を爆破する」と脅迫してきた。 相手にしなくてCMに入ったヨンファだが、直後に放送局から見える場所にある橋が爆破された。 まだ他の放送局は犯人からの脅迫電話について知っていない。特ダネをつかんだと驚喜するヨンファ。この特ダネを手みやげにテレビのニュースキャスターに復帰を局長に持ちかける。 視聴率のためには仕方ないと渋々了承する局長。 テレビ中継のため、ラジオブースは臨時のスタジオとなりラジオのスタッフは追い出される。 犯人との交渉再開。犯人は自分の名前を名乗った。そして動機と目的も。自分は土木建築の作業員で爆破した橋も造ったという。そして2年前、国際会議の際の補修にも参加した。そのときに事故があり、3人の作業員が死んだ。 しかし警察も消防も国際会議に頭がいっぱいで救助しなかった。犯人の要求はその遺族への補償と大統領の謝罪だ。 橋の爆破テロリストが生中継を要求し、それをキャスターが中継しながら進行するという話を聞いただけでもノンストップサスペンスが期待されるが、その期待は裏切られない。 「とにかく視聴率!」という考えは日本でもアメリカでも韓国でも変わらないらしい。たぶん世界のどこでも。 視聴率の為なら何でもするというわけで、まずは犯人が要求してきた21億ウォンを内緒で放送局は支払う。 警察が介入してくる。ユンファは自分の復帰のために何が何でも「人道的見地に立って」犯人の要求を飲もうとする。 交渉中にエキサイトしてしまったユンファを交代させようとするが、犯人は事前にユンファのイヤホンに爆弾を仕掛けて置き逃げることを許さない。 (でも正直、交代したキャスターのマイクが爆発したり、ユンファのイヤホンに爆弾とかどうやったんだよ?とシナリオに疑問は感じる。この点は事前になんとかして欲しかったと思う) 大統領の代わりに警視庁の長官がやってきて、犯人を挑発する。というか計算ではなく本気で喧嘩売る。「お前のような奴と政府は取り引きするか!」 長官のイヤホンは爆発して長官死亡。 警察もちょっとバカである。 ユンファは何としても大統領に謝罪させる方向で話を進めるが、やがて局や政府の意向に逆らうことに。 それで今度はユンファの癒着スキャンダルをネタに彼を下ろそうとする。 もう誰が敵で味方か解らない。 犯人は結局名乗った元作業員の息子だったのだが、ユンファが「なぜ俺を標的にした?」と問うと「親父はお前の番組しか見なかった。理由は信用出きるからだと言っていた」 我々視聴者はテレビのキャスターを「何となく信用出来そうだ」と言ってその人の番組を観る。 なぜ信用してしまうのだろう?会ったこともないくせに、人柄が解るのだろうか? 「なぜ謝罪するのがそんなに難しいんだ!」とユンファが言う。それもこの映画の言いたいことの一つだと思う。 でもそれ以上にテレビをつい信用してしまう我々視聴者と、テレビの実態の矛盾とを突かれている気がして一番印象に残った。 最後は犯人がビルを爆破し、併せて放送局のビルも倒壊させようとする。なぜかユンファにまで射殺命令が出てしまう。 政府やマスコミの「実は視聴者のことなど何も考えておらず、自分のことしか考えていない」という主張もよく解る。でもマスコミを信じてしまう我々。 単なる政府やマスコミ批判だけでは終わらない何かを感じた。 若い監督らしくカメラがちゃらちゃらと揺れまくるのが気になるが、総じて面白かった。 陶酔遊戯日時 2014年9月13日17:25〜 場所 光音座1 監督 佐藤寿保 製作 ENKプロモーション サカタとシラカワは高校時代フェンシング部で一緒だったサラリーマン。今はお互いに就職してあまり会わない日々だったが、新宿でばったり再会した。 久々にシラカワはサカタの部屋に泊まった。かつてはお互いの体を重ねた日々だったが、今はシラカワにはタカコという恋人がいる。 そのタカコはサカタにホテルで迫るが、サカタは何もしなかった。代わりに隣の部屋で繰り広げられる会社の部長と先輩社員の怪しい関係の声を聞いていた。 ある日、サカタの家に「厳正なる抽選であなたにハワイ旅行が当たりました!」という電話がある。 カフカの「変身」を読みながら寝てしまったサカタは翌朝虫(何の虫かは解らない)になっていた。 サカタは仕方なく、例のハワイ旅行が当たりました!の会社に行ってみた。そこで勧誘をしていたのはシラカワで、お客は部長だった。 佐藤寿保監督はゲイピンクは多いが、正直面白かったのものより気に入らなかった映画の方が多い。 「狂った舞踏会」なんて嫌悪すら感じた。 この映画も途中から迷宮の世界に入り、よく解らなくなる。 虫になった主人公はシラカワが缶入りウーロン茶を飲んだ際に一緒に体に入ってしまってその体に乗り移る。でもシラカワの意識を乗っ取った訳ではない。 部長はシラカワにSM的に攻められ、今度は部長に乗り移る。 で、部長が怪しげなクラブに行くとそこには山本竜二の店長がいて今度はSM的に責めてそして新しく女性が現れたと思ったらそれはタカコで・・・・でも起きたら夢だった。 という展開。 で起きたらサカタの元にシラカワがやってきてフェンシングで決着をつけようと戦いが始まって・・・ともう何がなんだか迷宮の展開。 正直どういうラストを迎えたかよく覚えていない。結局また夢から覚めて悲鳴をあげたところでシラカワ登場。 「さめることのない夢なら寝ても起きてても一緒だろ?」という江戸川乱歩みたいなことを言って壁に映る蜘蛛のような虫の姿でエンド(だったと思う) 針振れすぎ。ゲイ映画だからといって何でもしていいというものではない。 でも主役の沢田詳太郎は眉のきりっとしたイケメン。相手役の福田理はこちらもちょっと和風のしょうゆ顔のイケメン。この二人はよかった。 やっぱり1日に5本も映画を観るものではないな。 尚、助監督は瀬々敬久だった。 本日はN−STAGE10周年の記念興行付き。 映画とストリップという昔ながらの興行形態が味わえた。 エクスタシー日時 2014年9月13日16:15〜 場所 光音座1 監督 小林悟 製作 横浜に住む五郎はテレビで外人部隊のことを放送しているのを見て、「戦争はかっこいい。自分も外人部隊に入りたい」などと言って親に電話する。 そんな時、あるアメリカ海軍の少尉エドから道を聞かれる。日本人の文通相手から数ヶ月前に「今度アメリカに行くので会いたい」という手紙をもらったが、会えなかったので、それで日本に来て横浜の彼女の手紙あった住所を訪ねてきたのだ。 五郎はその家にエドが訪ねてきた小田切マリはいなかった。アメリカに行ったままらしい。 港の見える丘公園で、マリによく似た女性を見かけ声をかけるが、彼女は否定する。そのうちに3人の男にエドは拉致されてしまう。 小林悟監督作品。正直この監督のゲイピンクが面白かった記憶がない。 もう脚本がメチャメチャである。 3人の男はエドを拉致してどこかに監禁し、無理矢理犯す。別にゲイでないのに犯す。 3人のうち一人はマリの兄らしい。マリがアメリカに行ってどうしたこうしたアメリカが憎いとか言ってるけど、なんでエドを犯すのかよくわからない。 ここで着衣のまま犯すので、男性ヌードを期待してる人にはがっかりだろう。 で外に捨てられていたエドをたまたま五郎が見つけ、自分の部屋で介抱する。朝になって見たらエドがいなくなっているので、五郎はエドを探す。その途中でマリに似た例の女性(これがメガネをかけた太めでお世辞にも「いい女」ではない)をまた発見し、話しかけたところ例の3人組に捕まってまたまた3人に犯されてしまう。 そして捨てられて自分のアパートに帰り、そこへ帰って来たエドから「明日戦場に行く」と告げられる。 そこで「お前のことを愛している」と二人で犯しあって結ばれる、という何も脈略もない話。 結局例のメガネブスはマリに似た妹でエリ。お姉ちゃんは何かの事情でホームステイに行ったアメリカで死んだのだ。事情はさっぱり解らないが。 で最後はエドを五郎とエリが港の見える丘公園で敬礼して見送る。 なんのこちゃ?? 五郎が外人部隊に入る話はどうなったの? 五郎のアパートのカレンダーが5月で1日は日曜日だった。5月1日が日曜日なのは最近では1983年、1988年、1994年、2005年。 1988年かな。髪型とか80年代ぽかったし、83年ではまだ薔薇族映画はなかったかも知れないし。 ゲイピンク初期のどうやって作ったらいいか解らない時代の映画でした。 背徳の海 情炎に溺れて日時 2014年9月13日13:20〜 場所 光音座2 監督 竹洞哲也 製作 平成26年(新作) 海岸を歩くナツミ。彼女はまるで入水自殺をしようとしてるかのようだ。そこへ若い男、ケンタがやってきた。ケンタはなにやら異常な空気を漂わせてる。 ケンタはナツミを助けると同時に襲い出す。 その後、ナツミはケンタを自分の家に入れ簡単な食事をだした。そこへこの町で顔を利かせる男(森羅万象)がやってきて、ナツミを襲うとする。なんとか交わしたナツミだが、なにやらいきさつがありそうだ。 それをケンタに聞かせるナツミだが。 倖田李梨さんのピンク映画出演100本目記念映画。 最初にピンクに出たのが2004年(公開は2005年)だったそうだから、10年弱で100本だから平均年10本。減少するピンク映画の数(最近は年40本ぐらい)を考えると年10本はすごい数だ。大女優と言っていい。 話の方は数年前に国の政策でこの漁村に工場が造られた。 ナツミの父は「海が汚れる」ということで建設には反対していた。しかし父、母そして自分の恋人の3人は海で死体となって発見された。 ナツミと親しいアケミ(倖田李梨)はケンタの姿を見て驚く。ケンタは殺されたナツミの恋人に生き写しだったのだ。 すべてを話したナツミはケンタになぜこの土地を離れないかと言う。「私がこの土地を離れたら死んだ父や母のことも忘れてしまう。私がここにいることで罪を忘れさせないで怯えさせてやる」 工場は出来たがやはり海は汚染された。例の工場建設を進めた男は人には「この海の魚は食うな」と言いながら自分は食べていく。 また男はナツミの家にやってくる。「俺が殺したようなものだ。しかしな、悪人は怯えさえも楽しんでしまうんだ」 ついにナツミは男に包丁を持って立ち向かう。それをやめさせるケンタ。 しかし今度は男から包丁に向かっていった。「俺があんたを襲えばイヤになって町を出てくれると思ったんだ」 事件が終わった後、アケミがナツミに言う。 「長くはなかったのかも知れない。あの人、人に魚は食べるなって言って自分は食べていたでしょう。自分なりの責任だったのかも知れない」 この映画では工場建設となっているが要するに国の政策に翻弄される家族を描く。それは工場でもあり、米軍基地であり、原発だろう。 国は失敗しても責任をとらず、その被害を受けるのはいつも庶民である。 そういう映画だ。 今日は上映後に倖田李梨さんと今日上映の3本の脚本をすべて書いた小松公典さんの舞台挨拶付き。 舞台挨拶後、この映画を観ながら気になっていたことを確認した。時代設定が現代かどうかである。 やはり70年代を設定しているという。ナツミが東京に行ってサンシャインに行ってみたいとよく言っていたが、それはサンシャインが出来た時代なので意識して言わせたせりふだそうだ。映画をよく見るとアケミの夫(岡田智宏)が札束を前にしているシーンがあるが、その札束はよく見ると聖徳太子である。 でも時代設定が過去だからと行って過去の話ではない。 現代でも「工場」を別の何かに置き換えれば十分に成り立つ話だ。 倖田さんの100本にふさわしい良作だったと思う。 さびしい人妻 夜鳴く肉体日時 2014年9月13日11:10〜 場所 光音座2 監督 竹洞哲也 製作 平成17年(2005年) アケミ(倖田李梨)の夫はある日失踪し3年の月日が流れた。今は母親と大学生の妹と3人暮らし。 「お姉ちゃんも旦那のことは忘れて再婚したら?いい人いないの?」と妹にせっつかれる。 実は密かに思っている人はいた。近所の商店街にある古いおもちゃを扱う店の店長だ。 今日も買い物帰りにその店に寄り、店長のケンタと話すようになる。 ケンタには近所のソバ屋の出前持ちをしている女性と縁が切れないでいた。今は縁を切りたいと思っているケンタだが、押し掛ける彼女に誘われるままに体を重ねる日々だった。 やがてアケミとケンタは親しくなるが、それを出前持ちの女性が嫉妬する。 倖田李梨さんのピンク映画出演100本を記念しての光音座2での特集上映。 これが倖田さんのピンク映画デビュー作だそうです。 冒頭、渋谷のスクランブル交差点で突然欲情したアケミはその場でへたり込む。「大丈夫ですか」と声をかけた男性と「したいの?」と言って公衆トイレの一室でしてしまうというシーンから始まるこの映画。 ピンク映画らしいサービス精神旺盛なオープニングだ。 で、おもちゃ屋がロケされているのは高円寺のゴジラやだ。店長の名前がオオツキケンタ。大槻ケンヂから来ているのだろうか? 妹の恋人の大学生はSM好きでS。妹とのプレイシーンがあるが、別に話の筋とは関係なく、SMシーンが入る。 服を脱がせると縄で縛られているのだが、「こんなスケベな体なのに何でもない顔して歩いているなんて嘘つきだね。嘘つきはお仕置きしないと」と言ってネツネチと攻めるシーンはよかった。 話はアケミに戻って出前持ちの女から呼び止められ、ケンタと自分がしているところをアケミは見せられる。 ショックを受けて家を飛び出すアケミ。街で若い男にお金を渡し、抱いてもらう。ケンタはそれを追って彼女が行った海へ。「家に行ったら妹さんがアルバムからこの海の写真が無くなってると聞きましたからここかと」。 二人はそこで結ばれる。 このシーンでケンタは自分の店でアケミが見ていた昔のおもちゃの指輪を渡す。それはアケミが昔持っていたが、落としてしまった指輪と同じものだった。 その指輪をもらった時の倖田李梨のうれしいような照れている表情がいい。 映画の前半で母親がアケミについて「食べ物を少し残す癖がある。本人に言わせるとあるものがなくなってしまうのが怖いという」というシーンがある。 それを受けてラストは結ばれた後のアケミとケンタが海を歩く。その時にアケミは肉まんを食べているのだが、ちょっと迷って最後の一口まで肉まんを食べる。 彼女の成長を示すハッピーエンドでとてもよかった。 数少ないお気に入りの女優の倖田さんのデビュー作を映画館で(しかもフィルムで)観ることが出来、よかった。 この後、加藤義一監督「痴漢電車 夢指で尻めぐり」上映。こちらは以前グリソムで観ているが、やっぱり後半寝た。 大アマゾンの半魚人日時 2014年9月11日 場所 DVD 監督 ジャック・アーノルド 製作 1954年(昭和29年) アマゾンで化石を発掘中のマイーヤ博士は大きな手の化石を発見した。水掻きがついているが人間の手のような形をしている。 体の他の部分の化石を発見するために街の研究所に行き、魚類学者のデヴィッド・リード博士、その助手で恋人のケイ、研究所所長のマイクらに協力を求める。 発掘場所に帰ってみたところ、留守を守っていたマイーヤ博士の助手は何者かに殺されていた。発掘は再開されたが、なにも出てこない。近くの川が流れ込む入り江に化石があるかもと考え、その入り江に行ってみた。 だがそこには恐ろしい半魚人が住んできた! ワゴンセールでアウトレット品として500円で売っていたので購入したDVDで鑑賞。以前からタイトルだけはよく聞いていていつか観ようと思っていたのだ。 半魚人の写真は「SFホラー映画特集」的な記事ではよく観ていたので、その造形の魅力は知っていたが、「所詮昔のB級ホラー映画だから」と内容の方はあまり期待していなかったが、これが期待以上に面白かった。 DVDジャケットの解説に「スピルバーグが影響を受けた」と書いてあったが確かにその通り! 入り江(「ブラックラグーン」と呼ばれ、原題はアマゾンじゃなくてブラックラグーン)に行って底に化石がある可能性があるかを調べるためにリードが潜る。 出てきてからケイにどうだったかを訊かれ、「最高にきれいだ」と答えると、リードたちが船の中に入るとケイは一人で泳ぎ出す。 この時の白い水着がまぶしい。でもこのシーン、惜しいことに白黒なのだよ。だから正直、この入り江の美しさがカラー映像を見慣れている私には伝わってこない。 半魚人は冒頭から登場するが最初のうちは手とか足しか写らない。マイーヤ博士の助手を殺すときも手と助手たちの恐怖の顔だけだ。 そしてついにケイが泳いでいる入り江のシーンで登場する。水中から水面近くを泳いでいる姿を捉え、カメラの手前を半魚人が泳ぐというシーンは完全に「ジョーズ」の元ネタである。このシーンは本当にハラハラした。 そしていよいよ半魚人が見つかってからはリードたちと攻防戦になる。 ところが半魚人は強い強い。 水中銃で撃たれても死なない。魚を殺してしまう毒薬を巻かれても死なない。 弱ったところを捕まえられて、水中の檻に入れれててもその檻を破って出てしまう。 さらに頭もよくて「半魚人には装備も無くては殺されてしまう。一旦退却」とリードたちは帰ろうとするのだが、川の途中を木でふさぎ、船が通れない。 その木をどかそうとしているところをまた襲って・・・・と人間と半魚人の攻防は続く。 そしてケイを抱きかかえて連れ去り、洞窟に行ったところを怒り心頭のリードたちに追いかけられ、ライフルで数発撃たれてついに絶命。 「少人数の中で一人づつ襲われていく」という設定も後の「エイリアン」につながっていくと思う。 アメリカのSFホラーの原型を作ったと言ってもいいかも知れない。 この映画、日本では2Dとしての公開だったが、アメリカでは3D(立体)映画として公開されたそうだ。 道理で水中銃を撃つときなどカメラに向かって撃ってきて、ぶわーと水泡が立つところなど完全に立体映画を意識している。 当時の3Dってどんな感じだったのか、是非拝見したいものだと思う。 フライト・ゲーム日時 2014年9月9日19:30〜 場所 新宿ピカデリー・シアター6 監督 ジャウム・コレット=セラ 航空保安官のビル(リーアム・ニーソン)は実はアル中。勤務する航空機に乗るときも酒がやめられない。今日もNY発ロンドン行きに乗務した。一般乗客を装い私服で乗務し犯罪者に対応するのが仕事だ。 ロンドン行きが離陸してしばらくして保安官専用のメール受信機に謎のメールが入る。「指定された口座に1億5000万ドル振り込め。さもなくば乗客が20分に一人死ぬ」 これは保安官専用回線だ。ビルはもう一人乗っている保安官に疑いをかける。しかし彼は犯人に脅かされ利用されているらしい。機内のトイレで尋問をするうちに拳銃で抵抗したので、やむなくビルは彼を絞め殺してしまった。 時間はちょうど20分。機長に事態を報告したが、あまりに無茶な要求に「いたずらだろう」と取り合ってもらえない。 犯人とメールのやりとりをしてみる。乗客の中で携帯をさわってる奴が犯人だ! この映画、7月頃から予告編を観て面白そうだと思って楽しみにしていた次第。 20分おきに誰かが殺される、というのだが最初に殺したのがビルなので驚いた。 これって話がとんでもないことになってしまうのでは?あるいは「夢オチ」? 話を広げすぎるとかえって収集がつかなくなるのはよくあること。 そして本当に犯人は機内にいるのか? 機外からメールをやりとりしていているのでは? でも結論を書くと犯人は機内にいたし、夢オチ(もしくはアル中の妄想的なもの)ではありません。 ビルは機内にいた携帯のアプリを開発している人を見つけ、相手の携帯にウイルスを送って、自分からのメールを受信すると音が鳴る仕掛けをしてみる。 案の定鳴った!と思って尋問すると彼は突然死してしまう。 その前に機長も亡くなっているのだが、機長はトイレから毒のついた針を吹き矢で殺されたと判明。 しかし地上の管制センターではビルが飛行機をハイジャックしたとしてニュースにされてしまう。やがて乗客が騒ぎだす。 という展開。 この映画、ほとんどが機内で話は進行し、地上管制センターは出てこない。前にも別の飛行機パニックもので思ったが、意外と低予算で出来るのでしょうね。 もちろんアメコミヒーローものなんかに比べれば、というレベルですが。 「犯人の目的は金だけではないのでは?航空保安官に恨みを持つのでは?」とビルは考えるが、それは動機につながる。 航空機のセキュリティが格段に厳しくなり、指紋登録まで行うようになったのは911からである。 その911が動機につながっているのだから、やっぱりあの事件はアメリカの歴史に大きく残されてしまった事件なのだなあと改めて実感。 犯人たちは飛行機に爆弾を仕掛け、今回の事件はアル中で精神不安定(彼は娘を幼くして亡くしてしまってからおかしくなったのだが)なビルがハイジャックして自爆したという筋書きで進めようとする。 そして爆弾を発見し、被害を最小限にしようとする、というこういう航空パニックのセオリー通り爆弾爆発、緊急着陸!という展開。 いやあ、ちゃんとお約束の展開でこちらは大満足。 惜しいのは飛行機が飛んでいるカットや爆発がもろCGなのがわかってしまうこと。 一時代前の未発展の頃のCGなのが実に惜しい。 十分面白かった。 青べか物語日時 2014年9月7日13:15〜 場所 神保町シアター 監督 川島雄三 製作 昭和37年(1962年) 「私」(森繁久弥)は大して売れない小説家。でも何とか食ってきている。行きつけの焼鳥屋のようなにぎやかさの寿司屋で客や亭主から「先生、顔色がよくないよ。どっか転地したら?浦粕なんかいいよ」と言われて東京から千葉に入ってすぐの海辺の町にやってくる。 そこの住民は無遠慮で口が悪く一筋縄ではいかない連中ばかり。漁師(東野英治郎)、消防団団長(加藤武)などなど。 やってきて早速漁師から無理矢理にべか船を買わされてしまう。そのべか船は青かったことから私は子供たちから「青べか先生」と呼ばれるようになる。 雑貨屋の息子(フランキー堺)が嫁をもらったと人々は大騒ぎで噂話で持ちきりだ。 桜井浩子さんが自伝の中で新人時代の思い出でこの映画の話をされていたのでいつか観たいと思っていた映画。 「作曲家 池野成の仕事」という作曲家特集での上映(池野成は私は「その場所に女ありて」が印象深い)。 映画では舞台となる地名が浦粕となっているけど、実際は浦安。それとも浦安の中に「浦粕」という地名があったのか? 正直時代設定がいつかわからず最初は混乱した。戦前の話?と思っていたら警察官の服装が紺色の昭和後期の制服だし、登場人物が「スーダラ節」を口ずさんでいるから、 映画製作時の「現代」なのだろう。 東宝映画に出てくる東京に見慣れていると、「一体何処の田舎で時代はいつだ?」と思えてきた。 しかし東京のすぐとなりである。 時代は東京オリンピックも近づいているが、気配もない。 1980年代には「ディズニーランド」が出来るわけだが、その前はこんな土地柄だったのか。 出てくる人物がみんなダメ人間(私に言わせれば)。 図々しくて働かずにタダ酒ばかり飲んでいるように(見える)連中。こう言った人物が肯定的に描かれる映画、私はダメなんです。 川島雄三は「洲崎パラダイス赤信号」でもこういったグータラ人間を描いていたが、この映画も好きになれなかったし、どうも私は川島雄三とは目指してる方向が違うようだ。 で、肝心の桜井浩子さんが何処に出てくるかというと、その浦粕の町に左卜全演じる元船長が出てくる。船長と言ってもかつて東京と浦粕の間にあった渡し船の船長。 この船長は定年の時に「退職金はいらねえから自分が乗っていた船が欲しい」と言って船をもらって船上生活をしている。 その船長が「私の初恋の話を聞いて下せえ」と言って語った話。19の時に惚れあって女性がいたが彼女の父親が結婚を許さない。彼女は結局海苔問屋に嫁いでいった。 そして自分が江戸川を航行していると音を聞きつけて彼女がやってきて川の土手を走って手を振ってくれる。自分は汽笛を鳴らす、ということをしていたという。 その回想の彼女が桜井浩子さん。 すばらしい笑顔で土手を走り見送ってくれる。 桜井さんの自伝で「2、3回の登場で時間にしたら1分ぐらいでせりふもなかったが、好評だった」と言っていたが、それも納得である。 映画自体は好きではないジャンルの映画で、面白くもなかったが、桜井さんの出演シーンを確認出来ただけで、満足した。 その後、5時45分から同じ桜井さんの本に出ていた「花影」が上映された。観ようかとも思ったが、この映画ではエキストラ的役だったそうで、しかも川島作品でなんだか好きになれない映画の予感がしたため、パスした。ごめんなさい。 続清水港日時 2014年9月7日10:30〜 場所 ラピュタ阿佐ヶ谷 監督 マキノ正博 製作 昭和15年(1940年) 舞台演出家の石田(片岡千恵蔵)は新作舞台の「続清水港」が初日が近いにも関わらず、どうにも仕上がらなくて困っていた。秘書(轟夕起子)も親切にと思って助言をするが、石田にとってはかえって雑音だ。 劇場の自分の部屋で寝てしまった石田だが、起きてみたら自分は森の石松になっていた! 「いったいここは何処だい?」思わずそう口走ってしまう石田だが、周りは石松だと思ってるので気違い扱い。許嫁のおふみ(轟夕起子)は悲しそうな顔でみる。 親分の次郎長はそんな石松に「気晴らしの旅を」と四国行きを提案。しかし史実では石松は四国で渡世の喧嘩で殺されるのだ。四国行きを断ろうとする石松。しかしおふみが「お前さんの話では一人で行くから殺されるんだろ?ならあたしも行くよ。そうすれば殺されないかも知れない」 その言葉に納得し、石松とおふみは四国へ向かうのだが。 「続清水港」の「続」は本来は旧字体。黒澤明の「姿三四郎」の続編と同じ字を書く。 ラピュタ阿佐ヶ谷での「戦前日本SF映画小回顧」(が正しい特集名)での上映。もう1本上映があるが、これは「孫悟空」で以前観たことがあるのでパス。これでこの特集での全作品鑑賞をした。 「続清水港」というタイトルだが、「清水港」という映画があってその続き、という意味ではない。「森の石松」ものの番外編的作品だ。 実は期待以上の面白さだったというのが本音。 映画は森の石松が四国で殺されるシーンから始まる。しかし演出家の石田はどうにも面白くなくて役者を「大根!」と罵倒する。そして「脚本がどうにもよくない。書き直しだ!」と言い出す。初日まで時間がないので劇場の専務(志村喬)は「いっそ石松を殺さないでおいたら?新解釈ということで」というが納得できない。 それでふて寝して起きたら自分が石松だった!という展開。 最近よくあるタイムスリップもののハシリだね。 人物に成り代わってるからタイムスリップとはちょっと違うか。 そこで石松がとんちんかんな言動を繰り返し、観客の笑いを誘う。ここ、演じているのが片岡千恵蔵だから(お笑い系の役者ではないという意味)、余計に面白い。 旅の途中で襲われその斬ってしまった刺客の子供を預かったりして、また四国へ渡る船で浪曲師の虎造と知り合ったりする。 有名な「スシ食いねえ」のシーンがなかったのはちょっと意外。上映されたプリントにそこが欠落していたのか?それとも最初からなかったのか? 四国へ行って幼なじみの兄貴分七五郎(志村喬)と再会。「旅館に泊まるなんて水くせえ」とばかりに七五郎の家に。この前のシーンでおふみから「お前さんから聞いていたとおりのことが次々と起こる。七五郎の家に行ったら次は殺されるよ」と言われたので七五郎の誘いは断ろうとした石松だが、どうにも断りきれない。 ここで七五郎の家に行ったら貧乏の極みで酒を買う金もない。仕方なく着ていた着物を売って自分は裸で「暑い暑い」と言う始末。しかし買ってきた酒は量が少なく仕方なく水で量を増やすが酒はまずくなるばかり。 そんな時やくざから呼び出しがかかり、石松は行かざるを得なくなる、で結局は殺されてしまう。 結局歴史は変えられない。と思っていたら話は現代に戻り、石田が夕べ寝た部屋で目を覚ます。という夢オチ。 実は最初に石田が石松になったときに「夢に違いない」と言って自分をひっぱたくシーンあり。つまりここで「夢ではない」と自分で言っておきながら結局は夢オチ。 夢オチを否定するのは今だからであり、この当時はまだまだ夢オチが許されたのだろう。そうやって夢オチが多くなってくると「それって安易だよね。またかって言われるよね」と作者たちも思うようになり、今では「卑怯な手」という認識になったと思う。 小国英雄脚本だが、巧妙な会話の楽しさがあり今でも十分笑うことが出来た。 面白かった。 今回の特集で一番楽しめた映画と言えるかも知れない。 密林の怪獣群日時 2014年9月6日10:45〜 場所 ラピュタ阿佐ヶ谷 監督 山内俊英 製作 昭和13年(1938年) 埼玉県秩父の正丸峠付近。今日も大学生ぐらいのグループが山登りの為にやってきた。峠の茶店の主人は「あの山に入ると死んだり、丸裸にされたりろくなことはない。なんでも恐ろしい類人猿が住んでるらしい」と止める。 でも学生グループの智恵子は逆に興味津々。恋人の弘を連れて山の中へ。ちょうどやってきた木こりが案内を買ってでる。 この秩父の山の中には実際に母親と男兄弟二人の3人の類人猿が住んでいた。 実はこの木こりがくせ者で、山に入った登山者を仲間を使って襲ってしまい、それを類人猿の仕業にしていたのだ。 今回も智恵子たちは木こり一味に襲われたが、智恵子の悲鳴を聞きつけた類人猿の兄弟が助けてくれた! 大都映画。サイレント作品なので今回は活弁付き上映。 「キング・コング」の影響を受けて作られた映画、ということだが、結果としてとてもそうは見えない。 まず山に住んでいる類人猿。これがサイレントだがちゃんと日本語もしゃべるし、毛皮を着てるだけであとは人間と一緒。立派な山小屋に住み、母親(大山デブ子)に至ってはめがねまでかけている。これは類人猿ではないだろう。 ただの「山奥に住んでいる人」だと思います。 類人猿に助けられた智恵子はけがが治るまで類人猿の家にやっかいになります。その中で川で泳いだり、絵を描いたりのどかな時間を過ごします。 やがて類人猿の兄弟は年頃なので、智恵子を好きになり、やがて取り合いになります。 「どっちかを智恵子さんに選んでもらおう」ということになり、二人で告白します。 でも智恵子は「二人のことは友達としか思えない」と冷たいことを言います。そして山を去って都会に戻る決意をします。 しかし例の木こり一味が襲ってきます。類人猿の兄弟はなんとか助けますが、兄の方は死んでしまいます。 そして都会の仲間が助けにきて智恵子も無事に東京に帰りました。 でここからが驚くのだが、類人猿の弟の方が東京に出ていくというのだよ。しかも母親から餞別もらってがま口に入れる。 完全に現代社会に入ってるじゃん。 根本的に設定に混乱があるなあという誰でも思う感想を持った次第。 珍品だった。 玩具映画日時 2014年9月6日10:30〜 場所 ラピュタ阿佐ヶ谷 玩具映画というのはかつて富裕層向けに販売されていた家庭用映画の総称(と言っていいのか?)。 今回ラピュタ阿佐ヶ谷での「戦前日本SF映画小回顧」特集でのSF的、特撮的要素の多い7本の上映。 いずれも上映時間は1分〜2分ぐらいだから7本あわせても10分強しかない。 上映されたのは以下の7本。 「火星飛行」(アニメ) 複葉機で空を飛び、雲を突き抜けやがて宇宙へ。 そして火星を見つけ着陸する。(飛行士は特に酸素マスクとかヘルメットはない) すると火星には大きな怪物がいて、襲われそうになったので逃げ出す。 火星旅行するというSF冒険談が楽しい。 「探偵ターチャン殺人電波」(アニメ) 博士が機械から発射される電波を当てると力が強くなる機械を発明。さらに電波を強くすると殺すことも可能だという。 その話を聞きつけた悪い奴に夜その機械を盗まれる。少年探偵ターチャンがその機械を追う。悪い奴は日本の敵のスパイに売りつけようとしていた。それを知ったターチャンはその機械を奪い返し、追ってくる悪い奴を強力電波でバッタバッタと倒していく。 機械は博士に戻りメデタシメデタシ。 敵のスパイが狙っている、というのが戦争前の発想だなあと思う。敵のスパイに気をつけましょうという国策映画とも言える。でも面白かった。 「正ちゃんの動物地獄」(アニメ) 正ちゃんが地獄へ行って地獄に堕ちている河童とか人に化けたタヌキなどを助けだし、閻魔様と対決するという話。 「快傑たか」 すいません7本一度に観たので覚えてません。 「夢現三百年往来」 すいません7本一度に観たので覚えてません。 「忍術大進軍」 時代劇です。戦場です。何百人という兵が斬りあうシーンはありませんが、少人数で鎧甲を着た侍たちが斬りあいます。 「忍術真田十勇士」 真田一族が忍術を使って戦うチャンバラ映画。 それにしても爆発して地面から煙が出たり、一瞬で人物が消えたり入ったりというのは今の「仮面ライダー」や「戦隊」シリーズにつながる元祖なのだなと思ったりしました。 |