2016年12月

   
ストーンウォール ヒッチコック/トリュフォー 土竜の唄 香港狂騒曲
ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 19 ナインティーン 映画 妖怪ウォッチ 空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン! ぼくは明日、昨日のきみとデートする
まばゆい青春 オン・ザ・ロード この世界の片隅に 炎上
愛の処刑 手紙は憶えている 疾風ロンド 聖の青春

ストーンウォール


日時 2016年12月29日14:10〜
場所 新宿シネマカリテ・シアター2
監督 ローランド・エメリッヒ


1960年代の終わり、インディアナ州の高校生、ダニー(ジェレミー・アーヴィン)はNYのゲイタウン、クリストファー・ストリートにやってきた。
この7月に高校卒業を控えていたダニーだったが、同級生との同性愛行為が世間に知られてしまい、町にいられなくなって出てきたのだ。
行くあてのないダニーだが、たまたま知り合った男娼グループのリーダー、レイに助けられ彼らと一緒に住むことになる。
当時のアメリカでは同性愛は犯罪とされ、同性愛者に酒を売ること、終業させることすら違法とされ、ゲイバーは逆にギャングが経営している状況だった。
そんなゲイバーのストーンウォール・インでゲイ解放運動の活動家、トレバーと知り合う。レイたちのグループには世話になっているが、どこか人生に不真面目な彼らに馴染めないものを感じていたダニーは真面目そうなトレバーに惹かれ、彼の家に住むことになる。
元々コロンビア大学に進学が決まっていたダニーなので、無事大学に通うようになった。
ストーンウォール・インの支配人エドは店に来る若者たちで魅力的な青年を有力者にあてがい金を得てその金で警官も買収していた。
エドによってダニーも売られそうになった所をレイたちに助けられた。
地元の分署ではないNY市警によってエドは逮捕されそうになったが、分署の警官が逃がしてしまう。
それを見たレイたちは怒りの声を上げる。


1969年6月28日に「ストーンウォール・イン」起こった暴動を映画化。この暴動事件が発端になって全米各地でゲイ解放運動が起きたそうだ。
私はこの事件のことをこの映画が来るまで知らなかった。いや、そもそも60年代のアメリカでは同性愛は違法行為で彼らを雇うことや酒を売ることさえ違法だったとは知らなかった。

「日本は同性愛について寛容」などという文章を目にする度に「そうかなあ」と思っていたのだが、「アメリカでは犯罪だった」と聞くとまだ寛容だったな、と思えてくる。

主人公のダニーはゲイだったが、高校ではそれもいえず、幼なじみジョーは恋人と思っていたが、どうやら彼は「女とやりたいがやらせてくれないので、その代用でダニーの口を使っていた」という感じらしい。
だからダニーがジョーのモノをしゃぶっている所をいたずらな同級生に見られてしまったとはあっさり裏切る。
ここから彼の人生は一変。

父親は自分の息子がゲイとは認めないで病院で治療させようとし、それに反発してNYに家出する。
知り合った同世代のレイたちは万引きを平気で行ったり、どうにも不真面目で馴染めないものを私も感じたが、その裏には家族や地域に見放され誰も頼れる人がいないという状況に追い込まれていることも関連してるようだ。
パンフレットによるとストリートキッズの40%がLGBTだということだから、家族地域に見放されていくことによって貧困の連鎖が始まるのかも知れない。

そして前から警察の不当な差別に腹を立てていたゲイたちはエドが逃げるのを見逃した警察を見て怒り心頭、そこへダニーは信じていた正義の活動家と信じていたトレバーが別の男を口説いているのを見てついに切れ、レンガを投げた所から暴動が発生。

その時にダニーのやり場のない怒りの心境はよく伝わった。

事件後、実家に帰ったダニーだが、車に乗った父親とすれ違う。
この時父親はダニーのことを気づいていたが、口を聞くことなく別れていく。うん、そうだよな。そう簡単に父親の気も変わらないだろう。

この映画、アメリカでは評判はよくなかったそうだ。
それは事実に混じってフィクションの部分も多く、特に主人公はフィクションな存在で、暴動を始めたのが彼なのがダメらしい。
日本にいるとよく解らないが、ダニーは白人で、あの事件は少数民族(プエルトリコ系とか黒人とか)の人種差別の部分も事件の根っこにあったようだから、主人公が白人ではその辺がダメだったようだ。

映画のパンフレットで、よしひろまさみちという映画ライターが「主人公が事実と違うので、『ストーンウォール』というタイトルをつけたのがダメ。『ストーンウォール事件』にヒントを得た青春映画として見ればいいのだが」と公式パンフにも関わらず批判していた。
エメリッヒって「ゴジラ」の時もそうだけど、変えてはならない部分を変えてしまうという愚を犯す。

そうそう何でエメリッヒがいつものSFパニック映画ではなくこういうゲイの青春映画を撮ったのかと思ったら、彼自身がゲイだったのですね。
知りませんでした。





ヒッチコック/トリュフォー


日時 2016年12月29日12:25〜
場所 新宿シネマカリテ・シアター2
監督 ケント・ジョーンズ


有名な「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」にまつわるドキュメンタリー。
この本は私も持っている。百科事典の1冊ぐらい大きな本で、とても持ち歩いて読めるような本ではない。電車に乗っている時に本を読むことが多い私は持ち歩けない本は結局、その本の一部を読むだけで終わってしまう。
だから私も一部しか読んでいない。

そのドキュメンタリー映画だというのでどんなものかと思って観てみた。
最初はヒッチコック/トリュフォーのインタビューの様子を映画フィルムで収めていて、それを編集したのかと思ったら、もちろん本を作るときのインタビューは録音テープだけなので、この映画ではスチル写真にその二人の音声がかぶるだけ。

だから映像的な面白さはなく、ひたすら(私にとっては)退屈である。
正直、時々ちょっと寝た。
この程度の内容ならこの映画を観るのではなく、実際に本を読んだ方がいいのではないだろうか?

またデヴィッド・フィンチャー、ポール・シュレイダー、ピーター・ボクダノビッチ、マーティン・スコセッシ、リチャード・リンクレイター、黒沢清などのインタビューが挿入されるが、
「『映画術』はとても勉強になった。ペーパーバック版を持ち歩いて読んだ」
「『サイコ』はすばらしい映画だ。映画史に残る傑作だね」
とかそんなような感じで大した話はなく、素人の映画ファンと同じレベルだ。

1時間20分程度の映画だが、特に観るべき点はなかったなあ。
これだけ内容のないドキュメンタリーも珍しい。

ヒッチコックも50年代60年代はヒットはするがアメリカでは評論家には誉めてもらえなかったようで、それを認めたのはトリュフォーというのが面白い。
この本の出版前のことを知らない私にはちょっとピンとこなかったが、この本の出版によってヒッチコックの評価が変わったそうだ。
なるほど。

私には非常に観る価値を感じない内容だったが、それでも映画館はかなり埋まっていた。私よりも年上の人が中心だがそれでも固定ファンによる興行まだあると思う。





土竜の唄 香港狂騒曲


日時 2016年12月28日20:50〜
場所 新宿ピカデリー・シアター4
監督 三池崇史


潜入捜査官の菊川玲二(生田斗真)は潜入している組織の幹部・通称パピヨン(堤真一)に気に入られ、二人で敵対する大阪のヤクザ、蜂乃巣会を押さえ込むに至った。
今度の相手は最近のさばっている中国マフィアの仙骨竜だ。これを叩くように会長の轟周宝(岩城滉一)より命じられる。
どうやら仙骨竜は日本のヤクザと手を組んでいるらしい。それは最近轟きより破門になった桜罵(古田新太)だ。
一方、警察では暴力団対策に若きエース、兜真矢(瑛太)が配属された。ヤクザと警官のもたれ合いを絶対に許さない兜は警官の綱紀粛正を厳しくする。
玲二は轟の娘、迦蓮(本田翼)に気に入られた。ところが桜罵は迦蓮を誘拐し、自分や仙骨竜が開催する人身売買オークションにかけようというのだ。このオーディションは美しい女性を拉致し、中東、アジア、ヨーロッパの富豪たちに売りつけようというオークションだった。
迦蓮を救うためパピヨンと玲二は香港へ。
だがこのオークションには黒幕がいた!


フジテレビ製作なので、「めざましテレビ」では散々紹介コーナーをやっていた本作。
予告などでも生田斗真が全裸で股間にスポーツ紙だけを当てた状態でヘリコプターにつられているカットが出てきたけど、それはファーストカットだった。
最初に見せ場を見せてしまった。
見終わってから1作目の感想を読み返したら同じようにベンツのボンネットに全裸で乗っかっているカットもファーストカットと書いてあった。
もはやシリーズの定番らしい。
もし3作目があったら、また生田斗真の全裸から始まるのですね。

前作はやたらコミック的でイヤになった記憶があるのだが、今回は予算の都合なのか前作ほど派手なコミック的な演出は潜めた印象。
後半、香港に行くが、これはほとんどスタジオで香港には実景の素材撮りぐらいしかしてないのではないか?
香港映画祭で上映した話を「めざましテレビ」でやっていたけど、香港の人は満足できただろうか。

黒幕が実は瑛太の正義の警察官というのは誰でも途中で解るだろう。
まあ基本コメディとして作ってるだろうから、謎解きの意外感は不要か。
でも上映時間が2時間あり、話の展開が特別多い訳でもないから、後半の瑛太との対決など少しクドくて退屈した。

仙骨竜と瑛太の不正警官は倒したが、今回も轟周宝には届かず。
こうなると3作目を作って欲しくなるが、堤真一と組んでいくらでも敵を倒していくパターンもあるので、次では終わらないかな。
生田斗真が好きだから観たけど、そうでなかったら観なかった映画。

映画が始まる前の予告で生田斗真が性同一性障害らしい「彼らが本気で編むときは、」をやっていたけど、その役柄が違いすぎて笑ってしまう。



ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー


日時 2016年12月24日18:30〜
場所 新宿ピカデリー・シアター3
監督 ギャレス・エドワーズ


帝国軍の最終兵器・デススターの建造が遅れていた。その責任者のクレニック長官は惑星ラ・ムーに科学者のゲイレン・アーソを訪ねる。彼の力が必要なクレニックはゲイレンの妻を殺し、拉致するが娘のジンは逃げおおせる。
15年後。今は大人になったジン(フェリシティ・ジョーンズ)帝国軍にとらえられていた。そこへ反乱同盟軍の情報将校キャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)が訪ねてくる。帝国軍から脱走した貨物船のパイロットが、反乱軍の中でも過激派のため反乱軍自体と疎遠になっているソウ・ゲレラの元に逃げ込んだというのだ。その脱走パイロットから情報を得るためにアンドーはジンに同行を依頼する。実はゲレラはジンの育ての親で、反乱軍自体とは反目しているゲレラもジンが一緒なら会ってくれるだろうという判断されたからだ。
帝国軍から逃げ出すときに盲目の剣の使い手チアルートや勇猛なベイズ・マルバスとも知り合う。
パイロットに会うジンたちだったが、彼はゲイレンからメッセージを預かっていた。そのメッセージを再生してみると「究極の兵器デス・スターの中心部を叩けば一挙に破壊されるように作っておいた。そこを破壊してほしい」という内容だったが、メッセージのホログラムを録画した記憶装置は帝国軍の襲撃の時に亡くなってしまう。
ジンたちは反乱軍にその話をするが、「そんなあやふやな話では艦隊は出せない」と却下されてしまう。
仕方なくとりあえず父の生存を確認し、話の裏をとるためにジンたちは父のいる惑星イードゥに向かう。しかしアンドーは密かにゲイレンを暗殺する指令を受けていた。


「スター・ウォーズ」シリーズの新作。
今回は実写映画としては初のスピンオフ、番外編となる。
いわゆる1977年の第1作の直前の話だ。

ストーリーを書いたけど結構な分量になった。
話が複雑、というか長い。正直、飽きてくる。ああやっぱり私は「スター・ウォーズ」はそれほど好きではないのだな、と思う。

どうも面白くないのは登場人物に魅力がないからだ。
キャラクターが明確で印象に残るのは盲目の剣の使い手チアルートぐらい。観る前にツイッターで「座頭市がどうした」という意見を見たが、ああこのことか、と納得した。
確かに座頭市だ。「座頭市」はアメリカでもソフト化されているから「スターウォーズ」のチームが知っていてもぜんぜんおかしくない。
せっかくなら真っ暗になって「目明きのあなた方に解るかい?」と言ってズバスバ切っていくシーンが欲しかったな。

登場人物もアンドーも脱走パイロットも同じような髭面で、役者がなじみのない人だからちょっと混乱する。そう考えると初期の「スターウォーズ」はルーク、ハン・ソロ、レーア姫、チューバッカなど衣装も身長も全然違ってそれぞれキャラが立っていたと思う。

観ている最中にどうにも飽きてきた理由の一つに空中戦(宇宙戦)が亡いことなのだな。ラストでXウイングたタイ・ファイターとの空中戦が始まって一気にテンションがあがったよ。
でも主人公たちが地上戦で空中戦に参加してないから、ちょっと盛り上がりに(私にとっては)欠ける。

あと演出にギャレすらしさを感じなかった。
2014年の「ゴジラ」の時に思ったが、溜めて溜めて溜めてドーンと盛り上げるのがギャレスらしさだと思うが、そういった点はなく、普通のアクション映画の盛り上げ方だ。
もはや「スター・ウォーズ・プロジェクト」のようにチームで作っている「スター・ウォーズ」には監督の個性など出しようがないのだろうか。
だとしたら誰が監督しても外れはなくなっていくだろうが、当たりもない気がする。




19 ナインティーン


日時 2016年12月24日15:30〜
場所 神保町シアター
監督 山下賢章
製作 1987年(昭和62年)


イースト(東山紀之)、ウエスト(錦織一清)、サウス(植草克秀)は西暦2550年のタイムパトローラー。彼らは1998年の東京にやってきた。たまたま知り合ったミヤコ(小沢なつき)の家に自分たちの任務を終えるまでいさせてもらえることに。
その頃謎の殺人事件が連続しており刑事(柳生博)たちがミヤコの家にもやってくる。どうやらイーストたちが殺人犯と思われてるようだ。
自分たちの身分は明かせないと最初は渋った彼らだが、ついに自分たちの正体を話す。
2550年の世界で彼らともう一人、ソフィアの4人はいつも一緒だった。いつしかイーストとソフィアは恋人同士になっていた。ソフィアは惑星探査のチームのメンバーに選ばれ、探査に向かったが、帰ってきたときにはその星の影響で乗組員39名全員がヴァンパイアになっていた。
19名は過去に、20名は未来に逃亡した。過去のヴァンパイア伝説はすべてその19名が原因だったのだ。
38名はすでに殺され、残るはソフィアのみ。ソフィアを葬るなら自分たちの手で行いたいとイーストたちは志願したのだ。


山下賢章監督作品。これで山下監督作品の3本、すべて鑑賞したことになる。
結論から言うと、完全に最初の時点で私の観たい映画とは違う映画になっていた。
少年隊の3人は厚手のポンチョのような体の全身が隠れるような服を着ている。しかも登場時には顔を目以外は覆っている。さすがに顔は途中から外すが、それにしてもがっかりである。

アイドル映画である。まずはアイドルを見せなければなるまい。
顔だけ見れればいいかと思ったが、そのポンチョのような服のおかげで体が見えない。別に裸にならなくてもいいのだが、スタイルとか身のこなしといった魅力も全く隠されてしまう。
これはまずい。
もうこの点でがっかりである。
顔だけでなく全身の動きやスタイルもやはり重要なアイテムだと思う。
もうこの段階で(私の中では)アイドル映画として失格である。

また設定も複雑で(実は複雑ではないのかも知れないが、出演者の滑舌が悪いせいか解りづらい)、未来でヴァンパイアで1998年の連続殺人事件(これが誰が犯人なのかよく解らないし伏線として生かされていない)で未来から主人公と同じようなハンターがもう一人(ゼブラという名前)来ていてそれがアンドロイドでヴァンパイアをたくさん殺すと人間と同じプログラムを入れてもらえることを願っているとかいろいろ伏線が多すぎ。

もう一人のハンターの話も最後の最後で語られるからもったいない。早く語られれば彼との競争も加わって面白くなったと思うのだが。

そして柳生博の警官がコメディリリーフとして登場するが、東宝アイドル映画の伝統(と言っていいのか)面白くなく笑えないコント(みたいなもの)をするのである。

一定の評価はあるみたいだけど、私は主人公たちが体を隠す衣装を来た時点でダメでした。







映画 妖怪ウォッチ 
空飛ぶクジラとダブル世界の大冒険だニャン!


日時 2016年12月24日10:35〜
場所 新宿ピカデリー・シアター7
監督 ウシロ シンジ
実写パート監督 横井健司


さくらニュータウンの上空に300mの巨大なクジラが現れた頃、ケータたちはいつもとなんだか違う世界に紛れ込む。そこは肌も妙にリアルで毛穴まである。ケータが「毛穴の世界」と名付けたこの世界は実写の世界。
町へ繰り出し友達を訪ねるが、みんななんだか少しずつ違う。困っている時にコアラに似た妖怪が現れる。ケータはその妖怪をコアラニャンと名付ける。コアラニャンが自分たちの世界を毛穴の世界にした悪い奴だと思って問いつめるがコアラニャンは言葉が話せない。
しかしコアラニャンの鼻をスイッチで押すと元の世界と行き来出来ることが解ってほっとした
再びクジラが現れたとき、そこの描かれている模様に心当たりがあり、確かめてみるとそれは文房具屋の看板に描かれていたクジラだった。しかし実写の世界ではその向かいにある駄菓子屋が病院になっている。
その病院でカナミという少女に出会うケータたち。
実は実写の世界でバレイをしていたカナミが交通事故に合い、足が以前のように動かなくなってしまった。カナミは再び踊りたくて実写の世界からケータたちの本来の世界に移ってきたのだ。


「妖怪ウォッチ」初鑑賞。今回斎藤工と山崎賢人が妖怪役(山崎賢人はエンマ大王様、斎藤工はぬらりひょん役)でゲスト出演するので、それで観に来た。ワンシーンほどのゲスト出演だから、コストパフォーマンスは悪い。

それにしても「妖怪ウォッチ」というアニメの世界観というか大体の内容はよく解った。要するに藤子・F・不二雄と同じだ。
小学生の主人公がいて、人間以上の力を持ったキャラクターが友人として登場。彼の力を借りて物語は進んでいく。
ドラえもんが妖怪の複数のキャラクターになったのだな。
今回はすこししか出なかったけど、しずかちゃんやジャイアンやスネ夫にあたるキャラクターもいるようだ。

映画の内容は「もう一度踊りたい!」という強い執念が巨大クジラを生んでしまったという展開。こういうのよくあって円谷プロだとその邪悪さが生んでしまった悪者を万城目淳やウルトラマンや牧史郎が解決してくれる。

この映画の場合だと妖怪たちがそれぞれ力を合わせてこの巨大クジラという悪のキャラクターに挑んでいく。
やや長い気もするが(私は途中で飽きた)ここのあの手この手がこの映画の作り手に取っては肝なのだろう。

山崎賢人と斎藤工の出演はうれしいが、二人とも妖怪メイクをしての登場で、そのイケメンぶりはそれほど味わえない。
その代わりケータ役の南出凌嘉(難しい字だなあ。あんまり読み方が難しい名前を付けると何かと面倒だよ)くんがなかなかの好演。
CGキャラクターとの共演も実に自然。というか堂々とした演技。
最近の子役はみんな堂々としていてうまい。

アニメと実写の世界をパラレルワールドでつなぐという実験的な摩訶不思議な映画。でもなかなか楽しかったですよ。





ぼくは明日、昨日のきみとデートする


日時 2016年12月22日21:40〜
場所 TOHOシネマズ新宿・スクリーン11
監督 三木孝浩


京都の美術大学に通う高寿(福士蒼汰)はある日通学の電車である女性に一目惚れする。普段そんなことはしない高寿だが、その日は勇気を振り絞って彼女が降りた駅で声をかける。「あの・・一目惚れしました。メルアド教えてもらえませんか」「ごめんなさい。私携帯持ってないんです」その答えをやんわりとした拒絶と解釈した高寿だったが、彼女は「ホントに持ってないんです」。「また会えますか」という高寿に彼女・愛美(小松菜奈)は「はい、また明日」と行って去っていった。
彼女のことを高寿は親友の上山(東出昌大)に相談する。「お前がナンパ?!でもまたきっと会えんじゃね?」と軽く言う。
翌日、高寿が授業の課題の写生をしている所に愛美は現れた。「ああ、この絵、張り出される奴ね」と不思議なことを言った。
やがてデートを重ね、高寿は「付き合ってください」と告白する。
自分の部屋に呼び、ついにキスをして体も重ねる。
その日彼女が帰った後に彼女が忘れていった手帳を見る。
そこにはこれから二人の間で起こることが書いてあった。


福士蒼汰の久々の映画主演作。最近は山崎賢人の主演作が多かったが、やっぱり福士蒼汰の黒髪さわやか青年は観ていて気持ちがいい。
もうこの映画は完全に福士蒼汰と小松菜奈を観る映画で、そういう映画である。

「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」という不思議なタイトルから、何やら彼女は不思議な存在らしいとは解る。
この映画、メインタイトルは映画が始まって約50分、二人の仲が順調に進んでいって高寿が手帳を観る直前で出る。

観ている途中は、彼女の正体がオチなので正体は最後に明かされると思っていたので、この展開はやや意外だった。
実は彼女は別の世界の人間で、高寿のいる世界とは時間の流れ方が逆だという。

正直、解りづらい。観てるこっちはなんだか混乱する。
しかし高寿も同様に混乱しているのだ。
高寿にとっての未来は彼女にとっては過去、逆に言うと愛美にとっての未来は高寿にとっての過去。
高寿は悩む。
やがて彼女との過ごし方に迷いをなくした高寿は最後の日に彼女の絵を描く。
その部屋にやってきた彼女に「最初の日にいきなりモデルなんてびっくりかな」という。

書いていて解ったけど、この映画は自分とは違う立場の人間をどれだけその人の立場に立って考えられるかということなのだ。
時間軸が違う、だから記憶が共有できない。そんな相手の立場を想像して思いやっていくラブストーリーなのだ。

ラストで愛美の立場からの時間軸が流れる。
高寿にとっての初めてのことはすべて愛美にとっては最後のこと。お互いを名前で呼ぶのも手をつなぐことも。

ファンタジックなラブストーリーで「忘れないと誓った僕がいた」に匹敵する良さだ。
東出昌大は完全にゲスト出演で出番は少ない。
しかし福士蒼汰のさわやかさは全編で堪能できる。
よかった。


まばゆい青春


日時 2016年12月23日17:35〜
場所 光音座1
監督 浜野佐知
製作 ENK

主人公は警備員の仕事をしている。朝、部屋で起きたら昨夜消防士のユニフォームを来た男に犯された記憶があった。あれは幻なのか、夢なのか?
昨日は仕事が終わった後、先輩と職場でちょっと飲んだ。ほろ酔い気分の時に一軒のバーによった。
主人公は記憶を頼りにそのバーに行ってみる。確かにあった。
そのバーはゲイバーらしく、マスター(山本竜二)が若い客の股間に顔を埋めている。
主人公は若い男に声をかけられた。「友人がこのあたりで犯されたらしいんだけど」とその若い男に訊くと、「明日会ってくれたらもう少し詳しく話してあげる」
翌日、その若い男に会うと自分の部屋に行こうと言う。若い男に言われるままに体の関係を持つ。この男が消防士ではないらしい。
翌日もう一度バーに行ってみると、別の男から話しかけられる。翌日その男に会うと主人公の部屋に行きたいと言う。主人公はまた体の関係を持つ。そしてマスターはプレイルームを持っていると教えてくれた。
マスターが消防士なのか?
翌日、主人公はそのプレイルームに行ってみた。


旦々舎である。浜野佐知監督作品。脚本は山崎邦紀。山崎が監督だと訳の分からん自己満足映画を撮るが、監督が浜野だとそこまでおかしくはならない。
まあ、観るに耐えた。

主人公は制服フェチで警察官の制服にあこがれていたが、成れなかったのか警備員の仕事をして似たような制服で満足しているらしい。
んで、「親戚からもらった」という警官の制服も持っている。
それを着てテープに録音した「どちら様ですか?」という声を再生して、「○○署の者です」とやっている。なんか陰にこもって暗いなあ。

んで警官の制服を着てそのプレイルームに行ってみるとバーで働いているこの映画に出てきた中では一番のイケメンが出てきて、「僕が消防士だよ」と言う。んで消防士と警官のプレイが始まるという展開。
主人公は男とする自分を少し悩むが(本当は警官の制服が好きな女の子と付き合うのが夢なのだ)、「制服が好きなら男も女もいいじゃないか」と考えを改めて、例のバーに行く。
そこでみんなが拍手で迎えてくれてお客もマスターもふんどし一つになって乱交となる、でFIN。(浜野作品はみんなENDではなくFINなのだな)

山崎邦紀らしい夢と現実が曖昧になった世界。
今回は訳わからん世界に入りすぎずにまあ鑑賞に耐えた。

本日の同時上映は「素敵な片想い」。これは以前グリソムギャングで観た。
映画全体の感想は変わらないが、吉岡睦雄さんと佐野和宏さんの絡みが会ったのは驚いた。その頃はまだ吉岡さんという役者は意識していなかったのだな。



オン・ザ・ロード


日時 2016年12月23日15:00〜
場所 シネマ・ノヴェチェント
監督 和泉聖治
製作 昭和57年(1982年)


代々木東署の白バイ警官・富島(渡辺裕之)は追跡中の飲酒運転の車がスクーターと接触し、女性が転倒したのを知っていたが、飲酒運転の車の追跡を優先してしまう。署にかえって課長(室田日出男)に確認したが、女性は軽傷だという。安心した富島だったが、その女性・比嘉礼子がファッションモデルで今回の事故で足がびっこになり、モデルを辞めざるを得なくなったのを知る。
課長は「下手に対応すると警察の失態となってマスコミが騒ぎ出す。もう済んだことだ。お前はなにもするな」と諭す。しかし納得出来ない富島は彼女の元に謝りにいく。
だがモデルを辞めた礼子は故郷の沖縄に帰る決意をしていた。姉(秋川リサ)とともに車で鹿児島まで行こうとしていた。それを知った富島は礼子たちの車を追いかけ始める。


シネマ・ノヴェチェントがニュープリントを作成し、6月からロングラン興行をしているこの映画。そこまで館主が入れ込むならとつき合いで見に行った。

正直言うけど、私には全くだめ。今年のワーストワン候補。

主人公の行動にまるで納得できないのだ。
まず冒頭で乱暴運転している男(岡田真澄)を追跡するのだが、この時応援を要請する連絡をしていない。警官ならするはずだ。
さらに暴走者がバイクを転倒させたのを目撃した後、彼は一瞬迷って暴走車の追跡に乗り出す。

いや、アカンでしょ。警官であるかないか以前にドライバーとして事故に関わったら救護を第一とすべきだ。百歩譲って数ヶ月間追い求めた容疑者だったら迷うのも理解できるが、ここは事故の被害者を優先すべきである。そして暴走車は署に連絡してそちらに逮捕してもらうべきなのだ。

もう完全に映画に乗れない。

そして比嘉姉妹も車で鹿児島まで行くのが理解出来ん。いや飛行機で行けよ。だから私は羽田まで富島が追いかけるのかと思ったら、東名に入っていくのでびっくりした。
で礼子に「何の用?」と言われ「いや謝りたくて。責任取るから」と富島が言うのだが、どう責任を取るというのだ。
はっきり言って単なるバカである。

主人公がやくざ者とかそういうタイプの人間ならともかく、いやしくも交通課の警官だ。交通事故がごめんで済まないことぐらい知っていて当然。
主人公、というより作り手の倫理観と私では全く異なる。
私がプロデューサーでこんな脚本が持ってこられたら、「バイクで日本を疾走する」という点以外は全面的に書き直させる。

そして礼子が徐々に富島を好きになるというのもいただけない。
まるでピンク映画にありがちな、「レイプされた女性が犯人を好きになる」的な「あり得ない男の幻想」に見えてしまう。
あと途中で富島が子犬を拾って旅の道連れにするのだが、あのねえ、動物って無責任に飼っちゃだめだよ。最後まで面倒みる覚悟がなきゃ。

とにかく最後まで主人公がバカで自己中心で共感できない。
今年観た最低映画の候補である。






この世界の片隅に


日時 2016年12月15日18:25〜
場所 テアトル新宿
監督 片渕須直


昭和19年2月、戦争も悪化し配給もままならない状況で、18歳のすず(のん)は生まれた広島から呉にお嫁にやってきた。
すずは子供の頃から「ぼーっとしている」と言われたが、絵を描くのが大好きな優しい女の子だった。旦那さんは呉の海軍の軍法会議所で文官をしている北條周作。周作も義母や義父も優しくしてくれたが、周作の姉、径子は結婚していたが、夫が亡くなって嫁ぎ先が下関に疎開することをきっかけに離縁して呉に戻って同居することになった。ハイカラだった径子はのんびりしたすずをちょっと頼りなく感じ、冷たくあたったが径子の娘の晴美は懐いてくれた。
北條家は山の上にあり、そこからは港がよく見えた。ついそこから港をスケッチしていたすずだったが、憲兵にスパイ行為だとしかられる。
やがて空襲も激化。空襲後の不発弾に見せかけた時限爆弾のおかげで晴美は爆死、一緒にいたすずも右手を失う。
やがて昭和20年8月6日がやってくる。


公開後からとにかく評判のいい本作。原作のこうの史代は「夕凪の街 桜の国」で知っていて、そのやさしいキャラクターの絵柄は好感を持っていた。

昭和20年で広島、呉が舞台となれば当然、原爆であろう。
「夕凪の街 桜の国」も戦後の広島における原爆後遺症がテーマだったが、今回は戦時下の暮らしがモチーフだ。
食べ物がない時代に道で摘んできた草をおいしく食べるなどの工夫がなされていく。

とにかく、のんの声がいい。すずのおっとりしたキャラクターにぴったりで、のんの声が聞こえてくる度に見てるこちらも優しい気持ちになれる。
絵の優しさも相まってほのぼの感がいっぱいだ。

だからこそその対比としての戦争が憎らしい。
しかしただ憎むだけでなく、初めて空襲を見たすずは「いま絵の具があったら描いてみたい」とも思ってしまう。その花火のような美しさの下では人が死んでいるのに。

そしてこの映画には私の予想と違っていた点が2つあった。
一つはすずと小学校の同級生で、今は巡洋艦「青葉」の乗組員の水原哲が訪ねてくるシーン。
周作は「あなたを家に泊めるわけにはいかない」と行って隣の納屋に泊まってもらう。そして周作はすずに「昔の同級生とつもる話もあろう」と言って納屋に行かせ、母屋の鍵をかけてしまうのだ。どうやら周作はいつ死ぬともわからん海軍の兵士に妻を一晩貸そうとしたようなのだ。
実際、水原はすずのことを憎からず思っていて(いや好きなのだ)、納屋で二人きりになったとき、接吻をしようとする。すずは思わず拒むのだが、このシーンは生々しくて私がこの作品に抱いていたイメージと違って意外だった。

そして後半の展開。
すずは晴美を救えなかったことを悔やみ、右手を失い家事が不自由になり、それを苦にして一度実家へ帰ることを決める。それが8月6日なのだ。
映画を見てる最中、「何年何月」と表示される度に8月6日が近づいてきてドキドキしっぱなしだった。
ところが呉の家から実家に帰ろうかという時に原爆が落ちるのだ。だからすずは原爆の直接の被害は受けずに生き残った。
この展開は意外だったなあ。
てっきり8月6日に実家に帰りそこで原爆にあうと思いこんでいたからだ。
死なないにしてもすずを通して原爆で壊滅した広島の地獄絵を描くと思っていたので、予想が外れて肩すかしを食らった気がした。
たしかにそれでは今までに幾多もあったからな。

すずの妹は原爆病で長くないことが暗示される。
だがすずは片手を失ったが、賢明に生きていこうとする。
それを希望と感じるか、甘いと感じるかは人ぞれぞれだと思う。
この映画をご覧になった方とそのあたりを話してみたい。






炎上


日時 2016年12月11日
場所 TSUTAYA宅配レンタルDVD
監督 市川崑
製作 昭和33年(1958年)


昭和19年、溝口(市川雷蔵)は父(浜村純)の紹介で驟閣寺に徒弟として住むことになった。この驟閣寺の住職(中村鴈治郎)と父が修業時代からの友人だったので父が遺書に残した手紙に「息子をくれぐれもよろしく頼む」とあったのだ。溝口は父から驟閣寺の美しさを常日頃聞かされていた。
どもりで要領の悪い溝口は先輩や副住職(信欣三)が疎ましくされる。
やがて終戦。進駐軍やそれを相手の女もやってくる。
今や観光地となって儲けまくる驟閣寺。
住職は芸者を囲っている。溝口の母がこの寺で働きたいと言ってきたが、溝口は反対。溝口はかつて故郷の寺で母は他の男と浮気をしていて、それ以来憎んでいた。結局は住職に計らいで下働きの仕事をするのだが。
溝口は大学に入る。そこでびっこの戸苅(仲代達矢)と知り合う。彼はびっこを使って女の母性本能に訴え、それで女をものにする男だった。


三島由紀夫の「金閣寺」を市川崑が映画化。タイトルが違うのでどこからか映画化反対の声が上がってやむなく変更したのかと思ったが、ネット情報ではそういうわけではないらしい。
小説「金閣寺」はそのままでは映画にならんと判断し、大幅に変更したようだ。

原作は未読だが、アメリカ映画「MISHIMA」の中に出てきた「金閣寺」の映画化でおおよその内容は知っていたが、「戦争中にやがて空襲で金閣寺は焼失すると願った溝口が、戦争が終わって金閣寺も焼けずに残ってショックを受ける」あたりがばっさりない。

原作は未読だが「美を破壊する、または破壊される」ことを願った溝口ショックが全くなくなっている。これは意外だった。
自らもどもりで「美しくない人間」と思いこみ、金閣寺の美しさへのコンプレックスからくる破壊衝動、がこの「金閣寺」だと思っていたので、どうも違う感じがある。
原作は未読だからあまり決めつけたことは言ってはいけないが。

要するになにが言いたいのかというと、「MISHIMA」に出てきたような追いつめられた破壊衝動というものを本作からは私は全く感じないので、どうにもピントが違う映画に見えてしまった。

しかし焼失前の金閣寺はかなり金箔も落ちて、今の再建した金閣寺とは違っていたらしい。焼失前の金閣寺を撮った写真は白黒ばかりだし、カラーもあるにはあるようだが、今の(後の)カラー写真と違って色の感じが違うので、本当はよくわからない。

だからそもそもそれほど美しくない金閣寺を燃やした実際の犯人の心境も理解できない。「MISHIMA」に出てきた映像化された金閣寺は今のような(考えられる創建時の姿)のピカピカの金閣寺だ。
だからこの金閣寺を破壊したくなる衝動は理解できなくもないが、それにしてもぼろぼろの金閣寺なんかなぜに放火したのか。
私にはちょっと理解できない。





愛の処刑


日時 2016年12月9日
監督 野上正義
製作 昭和58年(1983年)


海辺の町の中学の体育教師の大友隆吉(御木平介)は町の人々から責められていた。
言うことを聞かない生徒の田所(板垣誠)を雨の中30分以上立たせ、それが原因で田所は肺炎になって死んでしまったのだ。
田所の葬儀の晩、隆吉の住む家に田所の同級生の今林(石神一)が訪ねてきた。
今林は「先生は田所の死に責任があります。その責任をとるために今夜私の目の前で切腹してください」という。
大友はそれを受け入れた。
まず井戸水で行水をし身を清める。次に六尺ふんどしをきりりと締め直す。
いよいよ切腹が始まる。


三島由紀夫が榊山保名義で昭和35年に会員制雑誌「アドニス」の別冊「APOLLO」に発表された短編小説「愛の処刑」の映画化。
監督はピンク映画で主に俳優として活躍した野上正義。
公開当時知ってはいたが、今ほど三島由紀夫には関心がなかったので観なかった。
三島由紀夫が変名で書いたとは言っても「実は三島が作者では?」とはずっと言われていたようだ。現在は三島の遺族も三島の作品と認め、全集にも収められている。

観た人の評判はよかったのだが、やっぱり自分の目で観ないと安心できない。
率直に言って素晴らしい出来だと思う。
ただし観た人は「今林役の少年がよくない。ミスキャストだ」という意見を複数聞いた。私自身も映画を観る前はスチルなどで観て「う〜んちょっとイメージと違うかも」と思ったのだ。
要するに一般的な美少年のイメージを想像してしまったのだ。

しかし映画を観たら私はそうは思わなくなった。
今林少年が私には中学生の三島由紀夫に似せていると思ったのだ。
三島の自分の性的興味の変遷を描いた出世作「仮面の告白」を読むと、彼が生まれて初めてオナニーをしたのは「聖セバスチャンの殉教」を観て異様な興奮を覚えた時だという。

そして彼自身が脇毛に関心があったり、汗くさい男の臭いに興奮していたとある。また合戦の絵で血を流して切られていく武士の絵にも興奮していたという。
そういう凄惨な姿に興奮する性癖の持ち主だったのだ。
この映画の少年も同様だ。今林少年も隆吉の腋臭に興奮し、隆吉の血を見て「先生の血、初めて見た。きれいですね」と恍惚の表情を迎える。

三島自身も血を流す男の姿を見て興奮していたのが、やがては自身が切腹することを願うようになる。それを小説にしたのが「憂国」、そして自身が脚本・監督・主演をし映画版「憂国」さえ作った。
だからこの映画を「三島少年対大人になった三島」の構図と観るのはあながち間違っていない気がするのだが、それは深読みだろうか?

また隆吉に「先生はいつ死ぬんですか!」と迫るシーンは後の森田必勝が三島に「先生はいつ立つんですか!」と迫ったことを想起させる。
なんだか三島自身の実人生を表しているようで実に興味深い。
監督は亡くなっているので、私の考えは確かめようがないけど。

ロケ地は千葉の勝浦の廃屋になった元網元の家を使ったそうだ。
この家が見事で映画の重厚感を増している。この映画の成功の何割かはこのロケ地が使用できたことにあると思う。

その立派なロケ地を生かし切った撮影・伊東英男 照明・石部肇の画作りが素晴らしい。
隆吉が禊ぎの行水をするシーンなど、バックライトで隆吉を照らし実に美しい。
切腹する床の間の周りを赤や青や緑の照明で照らし、いっそうの不可思議な空間を作り出すことに成功している。

そして隆吉を演じた御木平介。
今で言う細マッチョの体型で先の行水のシーンで動く背中の筋肉が実にセクシーだ。
また映画「憂国」で「三島のふんどしがおむつみたいだ」と一部では批判されたようだが、本作では六尺ふんどしを小さく締め、まるで映画「憂国」への反論、「ふんどしってのはこうやって締めるんですぜ、先生」と言っているようで面白い。

三島由紀夫の名作は、数々あるがその中でも彼の性癖を描いた見事な作品。もっと上映される機会が多くなればと思う。






手紙は憶えている


日時 2016年12月4日10:15〜
場所 角川シネマ新宿1
監督 アトム・エゴヤン


ゼブ(クリストファー・プラマー)は90歳。ある朝老人ホームで目が覚めると妻がいない。スタッフはゼブの妻は1週間前に亡くなったという。
喪が明けるその日、彼は同じホームに住むマックス(マーティン・ランドー)に「君にはやるべきことがある。この手紙に全部書いておいた」と言われる。
その手紙に従い、ホームを抜け出すゼブ。朝になってホームではゼブがいないことがわかり、息子に連絡。しかし手がかりはなく何か連絡があるのを待つしかない。
ゼブは列車に乗って遠い町へ。そこで手紙の指示通り銃を買う。手紙の指示通りにホテルに着くとすでにマックスから連絡もあり料金も払ってある。
ある男の家を訪ねるゼブ。男は自分と同じような老人だ。「ルディ・コランダーか?ドイツ軍にいたか?」。男は質問を肯定した。「アウシュビッツいたな」それは否定した。自分は北アフリカ戦線にいたという。証拠の写真も見せてもらった。
ゼブは「すまなかった。人違いだ」と謝ってその場を去る。
ゼブもマックスもアウシュビッツの捕虜の生き残り。自分の家族を殺したナチのオットー・ヴァリッシュはルディ・コランダーと名前を変えている。そしてマックスはそれらしき男4人を探し出した。その中からオットーを探し復讐しようというのだ。


ツイッターなどで友人が誉めているのでその存在を知った映画。そうでなかったら存在すら知らずに見逃すところだった。
一言で言えば今年一番の「見逃さなくてよかった」大賞である。

ゼブは認知症が進んでおり、時折自分がどこにいるか、何をしているのか解らなくなる。そんな男に復讐など出来るのかと見てるこちらははらはらする。
ところが見た目な人のいい老紳士なので、みんな意外と親切にしてくれる。これが荒くれ者だったらこうは親切にされずに何かと障害だらけだ。
人に親切にされる復讐者とは珍しい。

マックスが託した手紙の全文は最初は解らない。徐々に判明していく。
一人目は「国のために軍隊で働いただけだ。アウシュビッツのことは戦後まで知らなかった」という。うん、多くのドイツ兵がそうだったに違いない。
二人目は「私もアウシュビッツにいた」という。しかし兵士としてではなく、捕虜としてだ。彼は同性愛者として捕らえられていたのだ。

ただ人違いでもそれぞれの存在がナチ、ドイツを象徴していく。
3人目はナチの信仰者だった。しかも本人は亡くなっていたが、息子がゴリゴリのナチ信仰者なのだ。
あれほど世界的な批判を受けているナチだが、それでもその信仰者は現れる。ちょうど日本でも「鶴橋大虐殺をします!」というヘイトスピーチを女子中学生が行ったように。

4人目。やっとたどり着いた。4人目のルディ・コランダーに会ったとき、まずゼブは声で判断する。そうなのだ。私も経験があるが、姿は年をとると変わってしまうが、声は割と変わらない。だから昔の同級生に会ったとき、姿よりも声で思い出したものだ。

ラストに衝撃の事実が!とチラシに書いてあったので、実はそれほど驚かなかった。そういわれた時点で衝撃の事実とは何かを想像してしまう。
そうなると実は・・・・というのが私がちらっと思ったとおりだった。
この点は宣伝部がネタバレしてしまった。惜しい。

この映画の原題は「REMEMBER」。邦題では「手紙が〜」がついているが、原題は主語を特定していない。
戦後70年、記憶はすでに曖昧で、誤ってまたは正しくない形で伝えられている。
もはや被害と加害の記憶もごっちゃになって区別がつかなくなっている。

日本がそうである。
加害の記憶は薄れ(意図的にかも知れないが)、被害の記憶ばかり強調される。加害者だったのに、自分が被害者のようになってしまっている。
そしてそれだけではなく、過去を賛美する人も現れ始めている。

4人のルディはそれぞれを象徴する人々だ。観客は主人公と一緒に「ナチの過去はどう記憶されているか」を探る旅にもなっている。

ナチをあちらの国の出来事と言ってはいけない。
日本にも多かれ少なかれそういう面もある。いや日本やドイツのような敗戦国だけではない。戦勝国だってそう。
戦争の記憶は正しく記憶(REMEMBER)されなければならない。
そんな作者の思いが伝わってきた。





疾風ロンド


日時 2016年12月3日17:15〜
場所 TOHOシネマズ日本橋スクリーン3
監督 吉田照幸


栗林和幸(阿部寛)は医学研究所の研究員。ある朝、彼の研究所で「K55」という新しい病原菌がなくなってるのを発見した。それは彼の部下だった葛原が偶然作り出してしまった病原菌だった。それはまだ治療薬がなく、最強の兵器になってしまう。あわてて所長(柄本明)に報告すると、所長にはすでに葛原から「『K55』を返してほしければ三億円払え」と脅迫するメールが届いていた。「ある雪山の林の中の木の下に埋めた。木にはテディベアのぬいぐるみを付け、そこには発信器を取り付けた。金を払えば発信器に反応する受信機を渡す」というのだ。
しかしすぐに警察から連絡が。なんと葛原が交通事故で死んだというのだ。彼の遺品から「K55」の在処を示す受信機が見つかった。
この研究をしていたことが解ると栗林も所長も責任が問われる。だから警察には言えない。
「なんとか探してこい!」所長の無茶ぶりに応えるため、栗林は奮闘を開始する。
スノボをする中学生の息子、秀人(濱田龍臣)の協力で雪山は野沢高原らしいと推定する。栗林は息子を連れて野沢高原へ。


設定はいいがどうも話はもたつく。
主人公が颯爽と捜索を開始するならともかく、ヘタレな男、ということなので全くあてにならない。映画としてはコメディとして予告編でも紹介されたが、阿部寛が演じるとどうもかっこよすぎる。それにコメディとしても切れ味が悪く、もう一つはじけない。

しかも栗林も怪我をして歩くのもままならなくなったため、スキー場のパトロール隊員(大倉忠義)と恋人・千晶(?)のスノーボード選手(大島優子)に探してもらう展開。
これでは主人公がただ待つだけになってしまう。
どうにも歯がゆい展開だと思う。

しかし後半、テディベアがスキー客の女の子が持っていると解ってからは急展開。ここからは逆転逆転の展開で話がいよいよ本領である。
ここからが面白くできているだけに前半のもたつきがどうにも惜しい。

テディベアを手にしたと思ったら、そのぬいぐるみは中学生からもらった、その中学生は秀人が知り合った地元の中学生の協力で解ったが、なかなか捕まらない、しかも所長の部屋を盗聴していた葛原の協力者の女に情報が漏れ中学生は謎の男(ムロツヨシ)に捕まってしまう、男がK55が入った瓶を持ち去り、それを千晶が何とかとり返すがすり替えられていた、しかし・・・と逆転逆転また逆転と後半の逆転劇はさすがベストセラー作家東野圭吾の力(だと思う)。

栗林と秀人が和解するシーンなどちょっと泣いた。
また最後に悪い奴が捕まるオチもいい。

出演者では濱田龍臣がいい。「ガッチャマン」で彼を知ったが、大きくなって実にイケメンになった。山崎賢人にもいつまでも高校生役も出来ないが、これからはしばらくは濱田が活躍しそうなスター性だと思う。
今後に期待したい。





聖の青春


日時 2016年12月2日19:25〜
場所 新宿ピカデリー・シアター5
監督 森義隆


村山聖(松山ケンイチ)はプロ将棋士。同世代の羽生善治(東出昌大)たちと共に将棋界を席巻していた。しかし彼は子供の頃から腎臓の難病ネフローゼ症候群に冒されており、常に病気と闘っていた。
彼にとってのライバルは羽生善治。大阪に住んでいた村山は東京に出ると言い出す。母親(竹下景子)をはじめとして周りは体が心配で反対したが、師匠の森(リリー・フランキー)は賛成し、東京の知人に村山を託す。
しかし村山の病気は進行し、だが病気の治療より将棋や麻雀を優先するかれはやがて膀胱癌に冒されていた。「手術をしなければ3ヶ月、手術をしても再発の可能性は50%」と診断される。
「麻酔をして頭が鈍るくらいなら死んだ方がいい」という村山だったが、手術を承知する。しかし彼の体は限界を迎えつつあった。


脚本・向井康介。
村山聖は以前にもテレビドラマになっていて(見てはいない)、知っていた。しかしそれは死後ドラマ化されたからであり、生存中の活躍は将棋ファンではない私は知らなかった。

しかしあれほどの天才が病気で倒れたとは神様も意地悪である。劇中でも語られるが、村山が将棋を覚えたのは、子供の頃から病気で入退院を繰り返し、その病院での暇つぶしだったからというのは何とも皮肉である。

また羽生と村山は実に好対照である。
村山は不潔で、口も悪く、人から好かれるタイプではない。(私なんか会っていたら嫌いなタイプだ)。その点、羽生は清潔感があって礼儀も正しくて誰からも好かれそうな好青年である。
実際、羽生人気もこの好青年ぶりが受けたと思う。

松山ケンイチは最近ちょっと太ってきたが、今回は役に似せるために堂々と太っている。それよりも私が評価したのは東出昌大である。
東出は「桐島、部活やめるってよ」以来、彼の映画作品は(たぶん)すべて見ているぐらいに注目している。
正直今までは「長身のイケメン」でしかなかったが、今回は演技者として一皮むけた感がある。
彼は190cm近い長身だが、今回は(撮り方もあるけど)そういった彼の売りを封印し、役になりきっている。
羽生は将棋に詳しくない私でも知ってる有名人だが、実に羽生になっておた。
将棋が終わった後、棋士たちがお互いの手を検討しあって「あの手を打たれたときはドキッとしました」「あの手のあたりからもう追いつめられましたね」と感想を言い合うのが面白い。そう思っていたのかと観客は知る。

将棋のシーンはどうするかと思っていたが、特に勝負の行方を追ってはいない。今どういう局面になってるかは(将棋ファンにはわかるかも知れないが)私にはさっぱり分からない。それでも緊張感は伝わってくる。
駒をドアップにしたりとか、CGで駒の動きを強調したり、光を合成で付け足したりするなどの奇をてらった演出がないのが好感が持てる。

松山ケンイチ、東出昌大の演技合戦が(特に東出昌大)が記憶に残る。
二人にとっても代表作になろう。