2017年1月

   
霧の旗 沈黙ーサイレンスー 感じるツチンコ やり放題
シュート! ブラック・レイン 12人の優しい日本人 関の弥太ッペ
アルティメットマスターベーション
 しごきの山
男たちの不夜城 大津波(THE BIG WAVE) 海賊とよばれた男

霧の旗


日時 2017年1月29日
場所 TSUTAYA宅配レンタルDVD
監督 西河克己
製作 昭和52年(1977年)


柳田桐子(山口百恵)は東京の有名な弁護士・大塚欽三(三国連太郎)を訪ねた。兄が殺人罪で逮捕され、弁護を引き受けてほしいということだった。しかし大塚は九州で起こった小さな殺人事件の弁護をする気はなく、多忙を理由に断ってしまう。
大塚を訪ねた後、阿部(三浦友和)という雑誌記者に話しかけられる。阿部は大塚の事務所に取材で訪れており、そこで大塚に断られた桐子を見たのだ。「俺からももう一度頼んでみよう」と再度大塚の事務所に電話をかけるがやはり断られる。
数ヶ月後、大塚の事務所に1枚の葉書が届く。それは桐子が兄は有罪になり、結局獄死したという内容だった。
阿部は同僚と銀座のバーに行って驚いた。桐子がホステスとして働いていたのだ。
大塚はレストランのオーナー・河野径子(小山明子)と不倫の関係にあった。
桐子は同僚の信子(児島みゆき)から「彼氏が浮気しているらしい。一度尾行してほしい」と頼まれる。その彼氏健次(夏夕介)を尾行するとあるマンションに入っていった。しかしそこへ河野径子が入っていった。マンションの廊下で様子を伺っていると河野径子が血相を変えて出てきた。
健次は殺されていたのだ。桐子を見つけると「私がマンションに入ってすぐ出てきたと証言してほしい」と頼まれる。一旦は引き受けた桐子だったが。


山口百恵主演映画。この映画は封切りの時にも見ている。特撮ファンには有名だが、例の「惑星大戦争」と2本立てだったのだ。お目当ては「惑星大戦争」だが、ついでに見た。初めて見た「百恵友和映画」である。(と思っていたが、「泥だらけの純情」も見ていた。大林宣彦の「HOUSE」を目当てで見に行ったのだ)
山口百恵は大スターだったが、私は興味がなく(同じアイドルなら桜田淳子の方がよかった)映画は初めてだった。でもこの頃は歌番組も多かったから、興味がなくても目に入ってはいた。

山口百恵映画は「伊豆の踊子」から始まったが、当初は有名文学の映画化が続いた。しかしネタもつきたのか、役柄を広げるためか、この作品では初めて松本清張原作のサスペンスものである。
でもやっぱり山口百恵は演技はうまくないし、この路線は失敗と判断されたのか、次からは現代劇の恋愛ドラマ路線になっていく。

まずやっぱり山口百恵は下手である。
それに原作の問題か、脚本の問題か、こちらの年齢の問題か、大塚弁護士の言い分も分からなくはない。いきなり弁護士事務所に行って「兄は無実です。弁護してください」と言ってもそりゃ引き受けないよ。
弁護料のことが映画では理由になっているけど、本当に兄が犯人かもしれないし、「兄は無罪です」「はいそうですか、引き受けましょう」とはならんだろう。

それに兄も中学教師だが、生徒の修学旅行の金150万円を無くして自分で立て替えて、一部は高利貸しから借りたのだが、その高利貸しが殺された。殺された晩には実際訪ねていて、高利貸しの婆さんの死体を見て借用証書だけを盗んだというのだから、これはもう不利すぎる。

兄の死後、大塚はちょっと気になって裁判記録を取り寄せてみると、被害者の傷跡から加害者は左利きではないかと結論する、となると桐子の兄は無罪だ、と思うのだが、その程度なら推理ドラマとしては弱い。田舎の警察だって、それぐらいは・・・・

さらに大塚弁護士に復讐するのは解るのだが、たまたま尾行した同僚の彼氏が殺され、そこへ大塚の女がやってくるって話が強引すぎないか?
それで大塚が今度は河野径子のために桐子に頭を下げるっていう展開で最後には「河野さんが部屋で見たというライターも私が持ってます」と大塚を安心させ、部屋に連れ込んで肉体関係を持った後、「暴行された」と告発するという展開。
大塚弁護士も誘われたからってホイホイ乗るんじゃないよ。だからお前はだめなんだよ、と言いたくなる。

桐子も大塚もちょっと無茶な行動ばかり。これでは身から出た錆である。
で肝心の九州の老婆殺しの犯人は示されず、同じく健次殺しの犯人も捕まらない(石橋蓮司の健次の友人が殺したらしいという暗示はあるが)。
まあこの2件の真犯人は話の本筋には関係ないけど、ちょっと気になった。






沈黙ーサイレンスー


日時 2017年1月29日15:50〜
場所 新宿ピカデリー・シアター10
監督 マーティン・スコセッシ


1940年頃、キリスト教の若き宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は自分たちの師であるフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が日本で布教を行ううちに棄教したとマカオで聞かされる。
信じられないロドリゴはガルペ神父(アダム・ドライヴァー)とともに日本へ向かう。道案内としてマカオにいる唯一の日本人・キチジロー(窪塚洋介)を伴った。
日本についてキチジローの助けもあり、日本での信者に出会うことも出来た。彼らモキチ(塚本晋也)やイチゾウ(笈田ヨシ)は敬虔な信者でロドリゴたちを歓迎し、守ってくれた。
しかし奉行の井上(イッセー尾形)の取り調べに合い、踏み絵をさせられたがモキチたちは拒む。そのせいで彼らは海に貼り付けにされ、やがて死んでいった。
ガルペと離ればなれになるロドリゴだったが、やがては井上に捕まる。キチジローが密告したのだ。
井上の元で隠れ切支旦のモニカ(小松菜奈)やジュアン(加瀬亮)に出会う。井上の采配でフェレイラと再会するロドリゴ。フェレイラは「日本の風土にキリスト教はなじまない」と布教を諦めるように迫る。信じられないロドリゴ。ロドリゴに棄教を迫る井上。井上は他の信徒を拷問にかけ「彼らを助けたければ棄教しろ」と迫る。


マーティン・スコセッシの最新作。去年から話題になっており、日本の俳優が多数出演し、しかも台湾で撮影されたという。原作は遠藤周作。日本を題材にした映画をスコセッシたちがどう映画化したかが楽しみだった。

これが驚くほど違和感がない。今の日本の時代劇の方がよほど嘘っぽい。
たぶん「七人の侍」などを参考にしたのだろう。ロドリゴが山の上から日本の村を見下ろすカットなど、「七人の侍」の冒頭の村のカットによく似ている気がした。
セットにしても「金がかかってるなあ」と感心しきりである。
モキチや井上の英語(ポルトガル語ではなく英語だ)がうますぎるのが気になった。映画としてはアメリカ人が観るにはその方がいいだろうけど、英語がうますぎるあの当時日本人にはちょっと違和感。

映画は日本に来た宣教師の視点で描かれる。だから棄教を迫る日本の奉行や侍たちは悪人である。しかし中盤、井上とロドリゴの会話でそうともいえなくなる。日本人にとってはキリスト教の布教は日本を占領しようとする欧米の作戦の一つでしかないと判断する。

確かに日本人の立場からすればそう見えても仕方あるまい。
もちろんロドリゴたちにしてみればキリスト教の布教は人々に心の平穏や平和をもたらすという善意から行っているだろう。
しかし日本にとってそれはいいことなのか?
命を賭けてキリスト教を守った者たちもいるが、信教のために命を捨てるのは本末転倒ではないのか?
人の命と信教とはどちらが大切か?

そのことをロドリゴをはじめ映画を観ている私にも突きつけられる。
キチジローは裏切り者に見えるが、「生きてこそ」という視点に立てば裏切り者とは言い切れないのでは?
そんなことが問いかけられる。

日本人となったロドリゴは各国からの輸入品にキリスト教の布教関係のものがないかを調べる仕事をする。一見キリスト教に対する裏切りだが、彼にとってみれば無用な犠牲を出さないための手段だったのかも知れない。
ラスト、ロドリゴの遺体が火葬にされる。そこで彼は手に十字架を握っていた。やはり彼は彼なりにキリスト教信者だったのだ。

この映画には音楽がない。クレジットに作曲者の人名があるが、音楽を流して各シーンを盛り上げることはしない。ラストのクレジットにも音楽は流れず、波の音などの自然音が流れるだけだ。
音楽などで強調しなくても観ているこちらに問うてくるものがある。






感じるツチンコ やり放題


日時 2017年1月28日10:20〜
場所 上野オークラ劇場
監督 いまおかしんじ
脚本 守屋文雄
製作 オークラ映画


暇な休日、タクシー運転手の土田一郎(櫻井拓也)は妻の園子(涼川絢音)を連れて滝を見に行く。ところが山の中でツチノコに首をかまれ、失神している時にツチノコ(佐藤宏)に巣穴に連れて行かれてしまう。
助けだそうとした園子だが、逆に巣穴から手が抜けなくなってしまう。
それを助けてくれたのはツチノコを追って数十年の栗駒とおる(守屋文雄)だった。「見返りが必要だな」と言って園子を求めるとおる。
夫がいなくなって仕方なく連れだしスナックで働き始める園子。同僚の須山里美(安野由美)はどうやら指名手配されているらしい。
そこで客としてやってきたのが小袋良男(二ノ宮隆太郎)。彼は依然人間だったが、地獄に堕ちて閻魔様に頼んで元の世界に戻してもらったが、牛、豚、犬になってやっと人間に戻ってきたという。
そこへ加藤うさぎ(月本愛)という女子高生がやってきた。彼女は一郎におしっこを飲ませる代わりに100万円貰う約束をしたという。彼女の夢はその100万円でブラジルに行って「ぶっとびキノコ」を食べることだった。


いまおかしんじ監督の最新作。オークラのピンク映画。
10年くらい前からつちのこをモチーフにした映画を狙っていたそうで、脚本は守屋文雄。「おじさん天国」のイカや閻魔大王、「おんなの河童」の河童と同じく不思議な生き物が登場。

冒頭からツチノコが登場し、快調な滑り出しだったが、途中からツチノコは姿を消し、輪廻転生に話が移ってくる。正直、ここで戸惑った。
良男は園子の部屋に居候し始めるのだが、うさぎの話を聞いて自分もスナックで女装して働き始める。そこへやってきたのが保健所に勤める大山(岡田智宏)と古山(川瀬陽太)。実は良男は犬の時代に大山に捕まってことがあったのだ。(でもここは分かりづらい)

うさぎは日本にもあると分かったぶっ飛びキノコを求めて山へ。そこは例のツチンコの住む山。
ぶっとびキノコのことを教えて貰う代わりにとおるに体を許すうさぎ。

警察に逮捕されそうになった里美と一緒に夜の町を歩く園子。
里美が前からやってみたかったという「全裸で町中を走る」というのをやってみる。

このように話がどんどんツチノコから離れていくのがちょっと違和感が残った。ツチノコを追いかける男とツチノコの生霊と女の子がどうのこうのという話を(勝手に)イメージしていた私の問題なのだが。

最後はもう一度一郎を求めてツチノコの山へ。
巣穴に手を突っ込み、指と指が触れ合う二人。滝の前で全裸になって抱き合う二人。(このシーン、映画では雨は分からないが実は土砂降りの中で撮ったカットだそうだ。櫻井と涼川が濡れているのだが、滝のしぶきで濡れているように見え、違和感はない)

最後は園子を求めてさまよった良男と再会。どうやら一郎が良男を導いたらしい。良男とこれから暮らしていくと決めた園子の幸せそうなアップでEND。
不思議な生き物がたくさん登場する(鯉の生まれ変わりと称するおじさんも登場する)けど、最後には一郎と園子のほんわかした愛情が感じられる見終わったあとほっこりした気分になれる映画。

話の整理がついていない気もするが、ラストのほっこり感は捨てがたい。
(「たそがれ」と「かえるのうた」が同時上映)





シュート!


日時 2017年1月22日13:00〜
場所 シネマ・ノヴェチェント
監督 大森一樹
製作 平成6年(1994年)


静岡県掛川高校に入学した田仲俊彦(中居正広)は中学でサッカーで活躍したので高校もサッカー部に入ったが、毎日ユニフォームの洗濯などをさせられ、ボールに触らせてももらえずふてくされていた。だが新規にマネージャーになった一美(水野美紀)が勝手に1年が2年に試合を申し込んでしまう。1点差で負けた1年チームだったが、「今度の大会の出場メンバーは1年からもとる」と先輩の神谷(草なぎ剛)に言わせるほどになった。そしてこの試合がきっかけで高校ではサッカー部に入らなかった中学のサッカー仲間の健二(森且行)や和広(香取慎吾)も加わった。
そこへあこがれの先輩の久保さん(木村拓哉)も復帰。掛川高校サッカー部は快進撃を続ける。
しかし久保が試合中に倒れそのまま亡くなってしまう。もともと久保は心臓に持病があってサッカーを続ければ長くは持たないと医者から言われていたにも関わらずサッカーを続けていたのだ。
一旦は掛川高校を辞め東京に出ようとした俊彦だったが。


Jリーグが発足し、日本にも本格的に野球と並んでプロサッカーが人気を呼び始めた頃に出来た映画。サッカーブームを人気のアイドルグループSMAPで映画にしようという相変わらず安易な発想で出来た松竹映画。
封切り当時もあまり面白くなかった覚えがあるが、今回見直してもやっぱりその感想は変わらなかった。

なぜだろう。
やっぱり話の縦糸がしっかりしていないからではなかろうか。
原作マンガ(未読だが)を単にまとめただけだからだろうか?こういったスポーツ映画では話のゴールが決まっていないと目的が見えない。
「○○大会に出場する」「優勝する」などの最終目的がはっきりしないのだな。ただ「試合がありました。負けました。または勝ちました」では者足らない。
その最終的な試合のためにメンバーを集めたり、争いがあったりの紆余曲折が面白いのだが、そういうのはなく、ただ試合が続くだけである。
木村拓哉の久保先輩が死ぬところなど唐突すぎる。あそこは事前に伏線として久保の病気を事前に出しておくべきではなかったか。

また久保の死をきっかけに東京に出るとかいいだすが、これがどうしてなのかがちょっと理解できない。
その辺は脚本の描き込みが悪いのか、中居の演技が悪いのか。

あとSMAPを使ったのが本当によかったかどうか。
SMAPは6人だがこの6人の出演シーンが均等ではないのである。ほとんど中居の主演で、木村拓哉がおいしいところを持って行く。
稲垣吾郎に至っては木村拓哉が死んでからの登場になるので出演シーンは少ない。
やはりSMAP6人がそろうシーンが欲しいよなあ。だからこそこの原作でよかったのか、と思ってしまう。

今回観ていて驚いたのはジャニーズの面々が意外と出ていたのだ。
井ノ原快彦が中居の同級生役だし、長野博は敵チームのメンバーで登場。あと堂本光一と堂本剛が掛川を応援する観客で登場。kinki kids結成前かと思ったら、クレジットでは「kinki kids」と出ていた。
同じシーンで男闘呼組を解散した後(だと思う)の前田耕陽も出演。
長野とか井ノ原なんてV6結成前だから全く知らなかったわけだ。

途中、中居や森、香取が東京のディスコに遊びに行ってナンパして失敗するシーンがあるが、これがいかにも「バブルの頃」という感じだった。
インクスティック芝浦がモデルだったのだろうか。その後にハンバーガーの森永ラブに行くので、芝浦店で撮影したのかと思った。分からんけど。





ブラック・レイン


日時 2017年1月22日
場所 DVD
監督 リドリー・スコット
製作 1989年(平成元年)


ニック(マイケル・ダグラス)はニューヨークの刑事。ヤクの売人の金を1万ドルほど盗んだ疑いで査問会に呼ばれていた。査問会の後、同僚のチャーリー(アンディ・ガルシア)と昼食に寄った店である日本人がテーブルで食事をしていた日本人から何物かを奪い、殺害するのに居合わせてしまう。ニックたちはその男、佐藤(松田優作)を逮捕。彼を日本に移送する役目を命じられる。
大阪に着いてすぐにやってきた警官たちに佐藤を引き渡すニック。しかし彼らは偽警官だった。気がついて追いかけたときはすでに遅かった。
大阪府警で刑事部長(神山繁)からNYに帰るよう命令されるニックたち。しかし自分の事件だとして捜査に参加を要求。仕方なく英語が出来る男ということで松本正博警部補(高倉健)と一緒に行動することに。
佐藤などヤクザが出入りする店に行くニックと松本。そこでジョイスというアメリカ人のホステスにと知り合うニック。
翌日、松本たちと佐藤のアジトに向かう。そこにあった100ドル札を1枚くすねるニック。それを見逃さなかった松本。
松本は「やっぱり君は汚職刑事だ」と失望するが、実はニックたちはそれが偽札だと疑ったのだ。彼らの指摘通りの100ドル札は偽札だった。
佐藤はヤクザ同士の争いの中で切り札としてその偽札の原版をNYで奪ったのだ。はたしてニックたちは佐藤を逮捕できるか?


日本ロケが話題になった有名なアメリカ刑事映画。
松田優作の遺作になり彼が出演したアメリカ映画であり、ハリウッド進出も期待されただけにその死は余計に惜しまれた。

珍妙な日本とか、お決まりの芸者、富士山は出てこない。それだけは十分立派だが、そこはリドリ・スコット、大阪が近未来の不思議な街、それこそ「ブレード・ランナー」に登場する街に見えてくる。
日本の街ではあり得ないスモークをたき、壁に空いた穴から逆光が射す風景はまさに「リドリー・スコット!」である。

溶鉱炉のある工場の事務室でヤクザが密会するシーンがある。ここなんかも話としてはおかしいのだが、溶鉱炉の鉄が流れてくカットなど、妙に美しく、映像としてはきれいだった。こういう映像優先のところが「リドリー・スコット!」と思ってしまう。日本の監督でこんなことをするのは鈴木清順くらいですよ。

日本は組織を重んじる、アメリカは個人で活躍するという日本とアメリカの刑事、というか社会の違いという視点が物語の根底にある。
「それほど組織ばかりでもない」とも思うが、「シン・ゴジラ」などを観ると「一人のヒーローが日本を救う」のではなく、「個人の集合体(巨災対)が日本を救う」という視点で私自身も納得したので、中(日本)にいると分かりにくいが、外(アメリカ)から観るとそれは特に感じるのかも知れない。

また戦後のアメリカ式民主主義が佐藤のような金だけしか考えない、仁義もヘッタクレもないヤクザを生んだと日本ヤクザの大親分・菅井(若山富三郎)に言わせている。
深作欣二の「仁義なき戦い」などの実録ヤクザを観てるとそうでもなかろうとも思う。しかし古い世代のアメリカに対する反発を描くシーンにはなっていた。その前にB29の空襲で3日間防空壕に隠れていて外に出たら「黒い雨」が降ってきたと回想する。これがタイトルの「ブラック・レイン」の元である。しかしその割には反米的な部分はなく、この若山富三郎の回想はとってつけたような印象がある。

そして菅井対佐藤の一戦があって、そこへニックや松本も参戦して佐藤を逮捕するシーンになる。
ここで松本もニックも軽機関銃をぶっ放している。日本の警官で軽機関銃は撃たないだろう、と思うがここはアメリカ映画らしさである。
最後にニックが佐藤を追いつめ、泥の中での格闘戦になるが、ある程度戦ったところで、一転、ニックが佐藤を逮捕し終わって警察に連れて行くカットになったのには初めて観たときには驚いた。
だらだら戦いを続けても仕方がないのは分かるが、あそこでズバンとカットしてしまうあたりの勇気はさすがである。

ラスト、空港で松本がニックを、見送るシーン。ここで私は記憶違いをしていた。ワイシャツを渡すのは松本がニックに渡したと思っていたのだ。
堅物の松本だからこそワイシャツを選んだという発想が面白かったのだ。
でも逆でニックが松本にワイシャツを渡したのだった。
記憶って当てにならんな。

あとドル紙幣の偽札の原版を巡っての争いが物語のベースにあるが、あんな原版では偽札は出来ないだろう。結構いい加減だな、と思った。

他に出演は佐藤の部下で内田裕也、ガッツ石松、菅井の部下で安岡力也、島木譲二。島木は吉本新喜劇で喜劇を普段演じているから何か可愛らしいヤクザに見えた。あと国村隼も出ていたようだ。

今回観たDVDは4:3のブラウン管の中でシネスコになっているから、今の16:9のテレビで観ると実に画面が小さい。ブルーレイも1000円ぐらいだから買い直そうか知らん。






12人の優しい日本人


日時 2017年1月21日
場所 DVD
監督 中原俊
製作 平成3年(1991年)


12人の陪審員が会議を開始した。事件は21歳の女性が元の夫を殺害したと思われる事件だ。被告は事件当日、元夫に居酒屋に呼び出され復縁を迫られた。しかし夫は酒を飲むと暴れる性質で今は無職。復縁を断った被告だったが、居酒屋を出て夫に追いかけられ、人の少ないバイパスに行き、そこで通りかかったトラックに夫は引かれて死んだ。
果たして夫を突き飛ばして殺したのか?殺意があったのか?正当防衛か?
12人の評決は全員無罪。あっさり決まったかに思えたが、陪審員2号(相島一之)が有罪を主張し始めた。
2号は他の11人を説得できるのか?有罪、無罪、意見が変わり評決の行方は見えない。果たして最後に彼らがたどり着いた結論とは?


この映画は映画館では観ていない。
封切り当時は仕事が忙しくて映画から離れていた時期である。それでもタイトルが面白そうだったのでレンタルビデオで観た。一時期この映画にはまって毎日のようにビデオで観ていた覚えがある。
おかげで台詞もかなり覚えてしまった。
三谷幸喜の舞台劇を三谷自身が映画用に書き直し、中原俊が監督。

この12人の陪審員の演技のアンサンブルがすばらしい。
台詞の間合い、リズムといったものが完璧で、まるで音楽を聞いているようなリズム感さえ感じる。
この映画には音楽はオープニングとエンディングしかなく、劇中は全くない。それも必要はないほどに役者の演技の掛け合いがいいのだ。

12人の陪審員の人生はそれぞれだ。
議論が好きな男(村松克己)、仕事が忙しくてさっさと帰りたい男(大河内浩)、女にだらしがない被害者に対し怒りを覚える男(梶山善)、口べたな奥さん(林美智子)、議論が嫌いな喫茶店マスター(上田耕一)、議論に参加しない自称弁護士(豊川悦司)などなど。
やがて陪審員2号の強硬な主張で有罪に傾いていく。
しかし「無罪だと思う」「その理由は?」「フィーリングかな?」としか答えられなかった無罪を主張する男(二瓶鮫一)に弁護士(?)が協力し徐々に有罪の主張を切り崩していく。

この無罪、有罪、無罪と逆転していく様子が実にスリリング。
もともと事件ははっきりしない。殺意があったかなかったかなど実に曖昧な要素が多い事件だ。
「個人的な事情を持ち込むのはやめましょう」と陪審員2号は言う。

しかしラスト、「ここで裁かれているのは被告なんです。あなたの奥さんじゃない」という台詞ですべて決着がつく。
今回久々に(ひょっとしたら20年ぶりぐらい)にこの映画を観たが、この台詞で泣いた。
結局裁判と言っても人間は自分の個人的な価値観や人生の信条から逃れられない。

私はこの映画で三谷幸喜(脚本)の名前を覚えた。
彼の最高傑作だと今でも信じている。






関の弥太ッペ


日時 2017年1月14日
監督 山下耕作
製作 昭和38年(1963年)


関の弥太郎こと弥太ッペ(中村錦之介)は10年前に生き別れた妹を探す旅を続けていた。祭りの晩、弥太ッペが目を離した隙にいなくなったのだ。今はどこかで夫婦になっているか、それとも女郎に売られているか。
バクチで稼いだ泡銭だが、五十両を肌身離さず持っていた。
旅の途中、お小夜という女の子を連れた男に出会う。ところがこの男が泥棒で弥太ッペがちょっと目を離した隙に五十両が盗られてしまった。
あわてて取り返したものの、同じように追ってきた森介(木村功)に殺されてしまう。男はこの先の旅籠・沢井屋にお小夜を連れて行ってくれとお願いして息を引き取った。
実はお小夜はかつて沢井屋の一人娘で、13年前に誘拐された娘の一人娘だったのだ。沢井屋にしてみれば孫娘である。
最初は素性の知れない娘と拒絶したため、弥太ッペは例の五十両をおいて「この金でこの娘を10年間泊めてやってくれ」と言って去っていった。
人づてに聞いた妹の消息を確かめてみると、彼女は女郎になってしかも去年亡くなっていた。


中村(萬屋)錦之介主演映画。
まあこの手の映画は絶対に自分ではチョイスしないが、機会があったので観てみた。つまらなかったら寝るつもりだったが、結局最後まで鑑賞。

話の方はそこから10年一気に飛ぶ。
弥太ッペは妹を亡くした喪失感から人生投げやりになり、今やヤクザの喧嘩の助っ人家業。
そこで森介と再会。二人で知人(月形龍之介)と酒を飲むと、例のお小夜は今は娘盛りで縁談がひっきりなしという。
ところがお小夜自身は自分を10年前に届けてくれたあの男が忘れられないという。
「二人とも心当たりがあってその男にあう機会があったら、一度沢井屋に顔を出すように言ってくれ」と言われる弥太ッペ。

ところが森介の方がなりすまして沢井屋に入り込む。
木村功が演じるこの小悪党が楽しい。悪役キャラとしては面白い。
結局、森介も弥太ッペの手に掛かり、一巻の終わり。
そしてお小夜とも何とか再会を果たす。

自分はヤクザものだから、と弥太ッペは名乗らないのだが、ここでお小夜が気づく当たりがもう一ひねりあるともっとよくなった。
そう思うとやっぱり「街の灯」はうまいなと思う。

一番よかったのはラストシーン。
結局弥太ッペは浮き世の義理の喧嘩に巻き込まれてしまう。
その喧嘩の場所に向かって一本道を進む後ろ姿で終わる。
まるで「第三の男」のような構図で、死地に向かう姿はかっこいい。
あれが最後に立ち回りがあって弥太ッペが死んでいく姿まで描いたらちょっと興ざめになったかも知れない。

鮮やかなラストが一番印象に残った。






アルティメットマスターベーション しごきの山


日時 2017年1月14日13:15〜
場所 光音座1
監督 山崎邦紀
製作 OP映画


人気のない山奥で究極のオナニーを探求する黒鬼(樹かず)とその仲間たち。紅葉の美しい景色の中で尻をだしオナニーをしていた。
そんなところへ大学でオナニズムを研究するという男・谷地が現れる。彼もメンバーに入れて欲しいと頼むが、黒鬼たちはゲイマスターベーションを実践しているので、ノンケの谷地は一度は断られるが、彼の熱心さにほだされて、黒鬼は準メンバーとしての参加を許可する。
彼らの間で繰り広げらる数々のオナニー。
黒鬼はメンバー間のフェラチオ、アナルセックスは禁じていた。
しかしメンバーの中にはお互いでフェラする者が現れたり、ついにはアナルセックスに至る者が出てくる。


年に2回の新作ゲイピンク映画。
あろう事か私の大嫌いな山崎監督である。15日には舞台挨拶が行われ、当日限定の女性鑑賞ツアーも行われるとか。ピンク映画を好きな女性ってはっきり言うけどよほどの変わり者である。

それはおいておいて、究極のゲイマスターベーションを追求する話である。はっきり言ってあほらしいし、面白くない。
元来映画というのは、普段の自分の生活では出来ないことを映画の中でやってくれることが映画の醍醐味なのだ。
だから普段しているオナニーの探求を映画にされても面白くなりようがない。

そうは言っても合宿所で夜に普段の研究の成果と称して、電動の道具を使って乳首に刺激を与えてオナニーするとか、VRの機械を頭につけてオナニーするとかの姿がおもしろおかしくコマおとしで表現される。
でもそういうのって観ていて面白くないんだよね。基本的にオナニーはしてる本人だけが楽しいものだから。AVでもオナニー姿が出てくることがあるけど、あれはそれなりに人に見せるように演出がされたオナニーだ。

で映画に話を戻すと、フェラをしたメンバーに対しては結局は口頭注意で済み、自ら「究極のオナニー」として手をふれないで射精するのをみんなに見せる。
アナルセックスに対しては自らのいたらなさを感じたのか、究極の「やってはいけないオナニー」というをやってみせる。
それは自らロープで首を絞め、死ぬ寸前の究極の快楽を感じるというもの。
やってみせるっていったって、みんなの前で死ぬんじゃなくて、オナニーしながら死んだ姿で発見されるというものなんだけどね。

でもセックスを禁じてまでオナニーを探求し、ついには死んでいくってそういうラストにはついていけんなあ。
ゲイピンクはハッピーエンドが観たいです。

あとコーンフレークを作ったケロッグはアメリカの若者がオナニー出来ないように肉とかではなくとうもろこしを使った食事を考えたという話が出てきたが、ほんとだろうか?
そんなことをしたら男女のセックスも出来なくなる気がするのだが。






男たちの不夜城


日時 2017年1月14日12:15〜
場所 光音座1
監督 山崎邦紀
製作 大蔵映画


ビリー人形を愛する三吉は2丁目で立ちんぼ(売り専)をしていた。
同じくビリー人形を愛するちょっとチンピラ風の青年にからまれ、路地で殴られたところを別の男に助けられる。
また三吉が川に釣りに行ったときに男に声をかけられ、ついていくと縛られ魚にコンドームを被せた物を挿入された。
チンピラ風の青年の方はビリー人形が人間になったような男と暮らしていた。ある日バーに入るとそこはスタッフは白いパックをしたまま営業していて、やがてふんどし姿で客とお尻をこすり会わせ始める。
三吉は「お前なんか人形になってしまえ」とチンピラ風の男の連れに言われ、ラストでは2丁目をビリー人形と同じく水兵服を着て歩き回る。


毎回毎回不愉快になるだけの山崎邦紀監督作品(本当は崎の字は大ではなく、立らしい)。
これから山崎作品の時はパスしようか知らん。
今回は新作が山崎作品なので特集上映ということで同時上映も山崎作品。

独特の山崎ワールドということでファンも少しはいるらしいが、私は何度も言うけどダメである。
観客が何の映画を観に来ているのか全く理解せず、ただただ独自の変態ぶりを押しつけてるだけ。

魚にコンドームを被せたり、魚をさばいたのを男の腹の上に載せてニタニタするなど、こっちが気持ち悪くなった。

そういえばビリー人形ってあったなあ。
アメリカ製(だと思う)のゲイ人形なのだが、たくましいマッチョな体でアソコもしっかり(映画にも出てくる)している奴。
でもアメリカでブームなのか輸入されたけど、日本でははやったんだろうか?

とにかくもう二度と観たくない、と思ってしまう相変わらずの山崎作品。





大津波(THE BIG WAVE)


日時 2017年1月9日

監督 テッド・ダニエルウスキー
製作 1961年(昭和36年)


日本。この村は海岸の近くに住む者は漁師を営み、丘の上に住む者は田畑を耕していた。漁師の息子トオルと農家の息子ユキオは仲がよかった。
ユキオの妹セツ(ジュディ・オング)はトオルに対し好意を持っていたが、まだ子供ゆえにその気持ちは素直な恋心には至っていない。
村の長(早川雪州)は地震を予知し、「津波がやってくるから高台の儂の家に避難しろ」と村人たちに声をかけても人々は信用しない。
やがて火山が噴火し、大津波がやってくる。
トオルは津波にさらわれそうになったが、木に捕まったり周りに助けれたりして九死に一生を得る。
トオルの両親は死に、村の長に「儂の家の子になれ」と言われるが、彼は断る。
数年後、今は立派な漁師になったトオル(伊丹一三・後の十三)。
セツ(笹るみ子)も成長し立派な娘になっていた。
ユキオ(ミッキー・カーチス)はトオルは別の漁師の娘を好きだと思っていたが、結局セツと結ばれる。
二人は幸せに暮らした。


ノーベル賞作家、バール・バック原作の映画化。
この映画は津波の特撮シーンを円谷英二が担当したことで一部の特撮ファンからは幻の映画とされてきた。
アメリカ映画で、出演者、登場人物は全員日本人だが台詞は全部英語である。おもしろいかと言われれば(字幕なしのため内容の理解が及んでいない部分はあるにせよ)面白くないと言わざるを得ない。

また時代設定や場所の設定があいまいで、あくまでパール・バックの頭の中にある「日本」の話である。
江戸時代の話でも話は通じるのだが(いっそその方が日本人にはわかりやすい)、人々はランニングシャツを着て作業ズボンを履いている。だからそんな昔ではない。でも戦争の影とか時代を想起させる物はない。

画面サイズはスタンダードでモノクロ。テレビ映画という話もあるが、IMDbには公開日が記されており、劇場公開はされたようだ。

そんな中でも出色は笹るみ子だろう。彼女のカットになると画がきらっとしてくるのだ。
東宝の新人女優だったわけだが、本人に女優指向がもともと無かったせいか、それほど活躍せずに終わったようだ。
今回知ったが、後のなべおさみ夫人で、タレントで特撮オタクのなべやかんの母親である。なべおさみがこの映画を観たら、奥様の若い美しい姿を見て泣くんじゃないか。

以下ネットで読んだ情報とか、友人知人から聞いたこの映画に関する噂話を書いておく。信憑性とかない、単なる噂話。

もともとこの映画、ワーナーとかコロンビアなどのメジャーな映画ではない。極めて規模の小さい映画である。
パール・バック主導で作られたインデペンデント映画みたいなものらしい。だからこそ余計にソフト化なりがなされにくい状況らしい。

従ってスタッフなどもパールバックの個人的な縁でつながってる人たちが使われている可能性が高い。監督もパールバックのお友達だったのではないか?(そもそも大した監督ではないらしい)

日本ロケに関しては戦前から外国映画の日本への輸入を手がけていた有名なK氏の奥様の方が、パール・バックと以前から(たぶん映画祭などを通じて)知っていた縁で橋渡しをしたらしい。
しかもその娘さんが出演者の一人と後に結婚しているので、これまた仲間だからキャスティングされた可能性がある。

円谷氏の特撮シーンはそれほど多くはない。しかも一説では円谷英二はほとんどタッチせずに、彼のスタッフだけでやった可能性もある。という話だが、信憑性は解らない。

そんな感じでいざ見てみたら特撮シーンはあまりなく、タイトルからイメージされるパニックスペクタクル映画ではない。
かなりがっかりだが、まあそんな物かも知れない。






海賊とよばれた男


日時 2017年1月2日20:50〜
場所 新宿ピカデリー・シアター4
監督 山崎貴


1945年敗戦。奇跡的に残った國岡商店。元は石油の販売をしていたが、戦争でその設備を無くし社員たちは会社の解散を予想していた。
しかし店主である鐵造(岡田准一)は「これからは日本の再建だ。下を向いている暇などない」と叱咤する。
しかしとりあえずの仕事がない。元海軍の藤本(ピエール瀧)が持ってきたGHQの要請を受けたラジオ修理事業を引き受けることにする。
鐵造は北九州の出身。地元で機械油や石油や軽油の販売をしていたが、すでに出来上がっている販売網に食い込むのは用意ではなかった。そこで彼は海の向こうの門司の漁船にまで手を広げる。しかし門司の業者が許すはずもなく軋轢は高まったが、強引に切り抜けてきた。
そうやって戦前は満州に進出。しかしここでアメリカのメジャー系の石油企業の壁にぶつかる。
戦後も国内の他社、GHQなどからの無茶な要求に応えながら徐々に規模を大きくしていく。
しかし元の石油の輸入をアメリカに頼らざるを得なかった國岡は、やがてメジャーが取引停止を申し出たことによって窮地に立たされる。


原作=百田尚樹、監督=山崎貴、主演=岡田准一という「永遠の0」トリオが放つ完全に柳の下のドジョウねらい企画。
柳の下のドジョウを狙うことはいけないとは思わないが、どうやらヒットはしていないようだ。
要因はいくつかあろう。
映画としてはよくまとまっているし、出来は悪くないのだが根本的に私には受け入れられなかった。

理由その1
出光がモデルらしいのだが、こういうスーパー出世男の自慢話を延々と聞かされて今の私はいい気分にはならない。
若い頃ならまた違ったかも知れないが、今の私はこういう出世自慢話は鼻につく。
スーパーマン的な男ががんばってどうにかなる世界ではないといやというほど思わされてるので、「そりゃあんたはたまたま時代がよかったということもあるでしょ。それをその人の頑張りがすべてみたいに自慢されてもあんたの勘違いだよ」と一種負け犬の遠吠えを叫びたくもなる。
そういう意味では無名一役人たちが集団で団結して戦い抜く「シン・ゴジラ」に登場する「巨災対」の方が肩入れしたくなる。

理由その2
岡田准一に老け役をやらせたのは失敗。
いや岡田准一は熱演しているし、彼の演技は努力賞ものなのだが、彼の老け顔を観客が観たいかというとそれはまた別ではないか。
観客は彼のイケメンぶりが観たいわけだから、ラストですこし老け役になるならともかく、物語の半分は戦後なのだからそこで60過ぎの老け姿を見せられてもしらけるばかりである。

理由その3
ここ数年ブラック企業大賞など働きすぎ、働かせすぎの企業は批判される時代になってきた。かつては猛烈に働くことは美徳とされたが、今は必ずしもそうではない。いやかつては猛烈に働くことでそれなりの対価なり得るものがあったのだ。しかし今や働けど働けど我が暮らし楽にならざりで、「猛烈に働くことが美徳」という価値観だけが残ったのである。
この映画の鐵造を観ていると「あんたみたいな人間が21世紀の時代のブラック企業を生む体質を作った」と思わざるを得ない。
まあ鐵造自身というより、鐵造の後継が「猛烈に働くことが美徳」を会社にとって都合がいいだけに解釈したとも言えますが。

以上の理由で今の私にはとても楽しめる内容ではありませんでした。

それにしても石油事業再開とともにそれまで会社を支えてきた事業の一つのラジオ部はどうなったのだろう?
あっさり解体されたのだろうか?その後の藤本をはじめとするその部門の社員たちはどうなったのか?
あと妻の綾瀬はるか。意外と出番が少なかったが、離婚してから鐵造は再婚したんだろうか?まあ90歳になったラストで孫たちが出てきたから結婚はしたんだろうけど、全くドラマに絡まなかったな。彼ほどの人物なら妾の2、3人はいてもおかしくないですが。

映画ではいっさい説明が無かったが、とても気になった。