最後の晩餐


監督 マルコ・フェレーリ
製作 1973年(昭和48年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


パリの郊外のある邸宅、ここに料理家のウーゴ、パイロットのマルチェロ(マルチェロ・
マストロヤンニ)、裁判官のフィリップ(フィリップ・ノワレ)、テレビのプロデューサー(?)
のミシェルが集まった。
彼らはこの邸宅に集まり、これから贅沢を極めた料理を食べ続け死んでしまうつもりで
集まったのだ。
初日はポルノのスライドを見ながら生牡蠣を食べた。しかし女好きのマルチェロの発案で
女たちを呼ぶことにする。
マルチェロは娼婦を3人呼び、また昼間この邸宅を見学に来た学校の女教師のアンドレアも
この邸宅にやってくる。
彼らはセックスをし、食べ、またセックスをして食べ続ける。
やがて一人、また一人と死んでいく。


この映画は日本初公開時に劇場で見ている。でも1973年は小学生だ。
中学1年ぐらいに見た記憶があるから、日本公開まで2年ほどあったのだろうか?
もちろんこの映画を見に行ったわけではなく、「チャップリンの殺人狂時代」を目的で行ったら
(当時まだ一般的だった2本立ての)同時上映でたまたま見てしまったのだ。

これはそんなローティーンの男の子には衝撃ですよ、トラウマになりましたよ。
おっぱいが出てくるだけでも刺激が強いのだが、それが食欲と性欲が一体になった饗宴が
繰り広げられる。
衝撃的だったが、映画の本質は理解していたように思う。
難解ではなかった。むしろわかりやすかった。

人間は何のために生きるのだろうか?
何を目的で生きるのだろうか?
それはセックスの欲望であり、食べることへの欲望だ。
権力とか名誉とか地位と金銭といったものへの欲望もあるだろうが、しかしそれとて性欲や食欲を
満たすため手段でしかないのではないか?

この映画の4人の男たちはおそらくは高額所得者であり、世間的には地位も名誉も得た男たちだ。
しかし(おそらくは)そんなもののでは飽き足らず、ついには究極の欲望である食欲や性欲を
満たしきって死のうと思う。
食欲や性欲を極めることが人間の生きる目的なのだ。
目的が達せらればこれ以上生きる必要はない。
そんな気持ちがなんとなく(初めて見たときから)よくわかった。

マルチェロは女のパンティを海賊のアイパッチのごとく目にはめておどける。
またおなかにガスが溜まったミシェルはおならをし続ける。
ウーゴは豊満なアンドレアのお尻を生地にせタルトを作る。
女の裸体にケーキのクリームを塗りつける。
やがてトイレが壊れ糞尿が部屋に飛び散る。
排泄も食欲も性欲も一切が一緒になった一種狂気ともいえる世界が繰り広げられる。
そして最後のひとりとなったフィリップは女性の乳房の形をしたプリンを食べながら死んでいく。

食べ物に対する冒涜を感じる人もいよう。
しかし実は私には狂気には思えなかった。
実に人間的な欲望にしか見えなかった。
すべての欲望はつまりは食欲と性欲に帰着するのではないか?

権力も金銭もすべてはこの欲望を満たすための手段でしかない。
死んでいく主人公達が実はうらやましく、自分もいつかやってみたい衝動に駆られる。
しかしそれほどの金も勇気もない私はチマチマとほどほどの欲望を満たしつつ生きていく。

しかしこの人間の欲望の本質を描いた映画に、なにか憧れを感じずにはいられないのだ。