セツアンの善人


日時 2001年9月8日13:00〜
場所 赤坂ACTシアター
演出 串田和美
出演 松たか子、岡本健一、斎藤晴彦

毎回劇評を書くときに断るんだけど、
演劇に関しては私は無知に近い。
だから今回滅茶苦茶な批判を展開するので
そういうのを読みたくない方は読まないでください。
あと松たか子が好きな方にもお薦めできません。
岡本健一についてはほとんど書いてないので
岡健ファンの方も読んでて面白くありません。
その辺のことを承知の上お読みください。

大体私は演劇をあんまり見ない。
見るとしたら出演者に美少年系のスターがいるとき。
ちなみにここ一年ぐらいに見た芝居は「二万七千光年の旅」(三宅健)
「ラパンアジールに来たピカソ」「母たちの国へ」(岡本健一)
「デジャブ01 伊集院警部補の憂鬱」(佐藤アツヒロ)「泣き虫弱虫石川啄木」(高橋和也)
ぐらいという風に見事に出演者で選んでいる。

何であんまり演劇を見ないかというと第一の理由は「高いから」。
7,8000円する芝居を見てつまらなかったらそりゃ悲惨ですから。
出演者など絶対に見る価値が保証されてる作品しか見る気になれません。
映画はまあ前売り券等を上手に利用すれば1300円ぐらいだから
失敗してもまあ許せる。(ホントは許してないけど諦めもつく)


ブレヒトの作風なんて全然知らなけど今回の作品は結局は
「人は善人と言うだけでは生きられない。悪人にでもならければ幸せにはなれない」
と言う事だと思う。

善人であるがゆえにシェン・テ(松たか子)はみんなから愛されるが
ずるがしこいセツアンの住人たちに言いように食い物にされてしまう。
そこで架空の従兄弟シュイ・タになりきって生きようとする姿を神様は許すか?
って話なんだが、そういう主人公を少なくとも芸能界で生きていくには
何の不自由さもなさそうな松たか子に演じられても、私にはなんだか居心地の悪さを
感じてしまう。

言い換えると「貧乏ながらも善人でありたいと願うが
善人というだけでは生きられない人間の哀しさ」ということがテーマの作品において
生まれてこのかた苦労などしたことのない、おんば日傘で大きくなった(ように見える)
松たか子が演じてもうそ臭いのだ。
つまりお嬢様、松たか子には「あんた見たいなお嬢様に貧乏しながらも人の幸せを
考える人間の苦労がわかる?」ってなもんである。

もちろん彼女には彼女なりの苦労がきっとあったろうし、こういう批判は
滅茶苦茶的外れなんだろうけど、私は松たか子ではミスキャストにしか
見えなかった。


あとね、これもまた的はずれな批判である事は百も承知で書くけど
この芝居を見る人は8500円払ってみてるのである。
たかが3時間の娯楽のために8500円だ。
ディズニーランドでさえ5000円ちょっとだ。
V6のコンサでも6000円だ。
私に言わせればかなり金銭的に余裕がある人が多いと言っていい。
言い換えれば金持ちなのである。
もちろんなけなしのお金をはたいてチケットを買った人もいるだろう。
何が言いたいかというとこの芝居を見るような人の多くは
「善人で貧乏か、金持ちで利己的を選ぶか」なんて悩みはもう通過した
人たちなのだ。
もちろん「金持ちで利己的」を選んでしまった人たちだ。
そんな人たち相手にこういうテーマの作品を上演する事自体
あまり意味がない。

赤坂ACTシアターなんて大劇場で8500円もの高額で豪華キャスト、
豪華スタッフで演じるべきテーマではない。
このような商業主義にまみれた公演で演じるにはテーマが不似合いだ。
せいぜい紀伊国屋ホール(でも大きい気がするが)程度で上演すべき
作品だ。



的外れな批判はこれぐらいにして、岡本健一。
いつもどうりの2枚目を好演。
カーテンコールでアコースティックギターを弾いてくれ、
男闘呼組のギタリスト時代を少し思い出させてくれた。


全然関係ないけどとなりに座っていたおばさんふたりずれの会話。
(パンフレットを見ながら)「この子、(岡本健一)最近いい芝居してるのよね。
伊丹監督の『マルタイの女』にも犯人役で出てたし・・・」
・・・・・それは高橋和也君です。