映画「ひとりだち」

日時 2004年12月1日〜12月9日
場所 渋谷アップリンクファクトリー
監督 越坂康史
出演 三輪ひとみ、塩田貞治、大工晶子

(公式HPへ)

<作品紹介>

映画といってもビデオ作品で上映時間は48分という中篇。

美容師の矢澤梨花(三輪ひとみ)は無職の青年福田稔(塩田貞治)と同棲中だった。
ある夜、梨花は道でうずくまっている女性・芙美子(大工晶子)を助ける。
家に連れて帰って休ませていたが、彼女は偶然にも稔の美大時代の後輩だった。
今は絵を描くのをやめていた稔だったが、芙美子は彼に自分の絵を描いてほしいという。
はじめは渋った稔だったが、彼女が病気でもう長くないと聞かされ、彼女の絵を描く
気になる。
梨花に内緒で芙美子と会いながら絵を描く稔。だが梨花は芙美子の見舞いに行きたいと
言い出し、稔は観念して芙美子の絵を描いていることを白状してしまう。
梨花に申し訳ないと思う芙美子は死ぬというのはうそだと打ち明ける。
一旦は気が抜けた稔だったが、だがそれは梨花に心配をかけたくないという芙美子の
心遣いから出た言葉だった。
芙美子が入院するにいたり、やはり彼女の命が短いことを知る。
本気になりデッサンのやり方から練習しなおす稔。
絵が完成した時、芙美子は息を引き取った。
彼女によって自分にとっての絵を描くことの意義を再発見した稔はそれまでの
生活を改め、絵画教室の先生として絵を描き続ける決意をする。
梨花はそんな稔を受け入れ、二人は別々の生活を始めるのだった。

<感想>

ソフト化される確率はかなり低いのでストーリーは全部書いた。
これが出来としてどうだったかというと、一言で言って学生映画を見てる気分になった。
なんか映画研究部の学生が友達集めて作った映画と同じレベルのなのだ。

何しろ僕は塩田くんを応援している立場のでこの映画も誉めたいのだが、それはちょっと
つらい。
以下どのあたりがよくないか検証したい。

まず技術的な問題。
ビデオ撮りの安っぽさは許すとして、音が最悪。
余計な音まで拾っているのだ。
コーヒーカップがカチャカチャいう音とか、人が歩くときの靴音とか道路を走る車の
音とか必要以上に拾っている。
はっきり言ってホームムービーで同録したようなレベルなのだ。
また画像にいたってはブロックノイズが発生してるカットがあった。

次にシナリオ。
塩田くんの主演映画なので合計3回見たのでいろいろと気がつくのだ。
もちろん普段映画を見てるときでも「その展開はないだろう」と思う時はあるのだが
それにしてもひねりがない。

まず最初。
主人公の梨花はおばあちゃん(あ子)の経営する美容室で働いているのだが
そこへ稔がパチンコ代5000円を借りに来る。
ここへおばあちゃんのナレーションが入るのだが、「矢澤家の女性は男では苦労する
星に支配されているようで・・・」とそんなグータラな稔との交際を認めている。
普通肉親だったら働きもしないヒモのような男との交際は反対するのではないだろうか??
梨花がそんな男と付き合うのはまあ有り得るとして、おばあちゃんは交際に反対する立場に
いたほうが「おばあちゃんに見つからないように付き合う」という形でひねりが出せたのでは?

そして梨花と芙美子の出会い。
倒れているところを偶然通りかかる、という偶然性は許すとしてその後家に連れて行くのは
おかしいと思う。
物騒な昨今、見ず知らずの他人を家に上げるのは無用心だ。
ここは彼女を家に連れて行かざるをえないシチュエーションが必要なのでは?

稔との再会。
再会したときに稔は彼女のことをほとんど覚えていなかった。
しかしこの後の展開を考えると(それはそれであざとい気もするが)かつて二人は
付き合っていた、という設定のほうが盛り上げやすいのではないだろうか?
でなかったらまったくの初対面だ。

また稔と芙美子が再会するシーンだが、稔がパチンコに大勝して帰ってくる。
その時に稔は景品がいっぱい詰まった大きな紙袋を抱えて、すしも買って帰ってくる。
パチンコで大勝したことを示すのに「景品がいっぱい詰まった大きな紙袋」を抱える、
というのも時代が古くないか?
いまどきのパチンコは勝ったら両替してしまうから、「景品がいっぱい詰まった大きな紙袋」
というのは「4コマ漫画のサザエさん」の世界の話ではないか?
同じ理由ですしを買ってくるというセンスも古い。
ここはブランドのハンドバックでも持ってきたほうが今風だ。

そして芙美子が不治の病だという話。
いまどき不治の病というのは話としていささか陳腐ではないだろうか?
「愛と死を見つめて」か大映ドラマの世界だ。

また稔が絵をやめた理由もなんとなく辞めた、ではなく、もっと理由づけを
はっきりさせるべき。
そのほうが絵を再開したときに彼の葛藤があってもっと面白くなったのでは??

梨花と稔が二人で芙美子を訪ね、先に帰った梨花を芙美子の母が追いかけて二人で
公園で話すシーンがある。せりふはなく、オフの画面なのだが、おそらくは芙美子の
母が梨花に芙美子は命が短いと告げていることは想像できる。
でも初対面の芙美子の母がなぜ梨花にそのことを告げねばならないのか?

そして絵を描いてる途中に気分が悪くなった芙美子をベッドに連れて行き、そこで
二人がベッドに倒れこむシーンがある。
予告でこのシーンを見ると、二人の関係が肉体関係になるそうなどきりとさせるものがあるが
実は純な二人はハッとして体を離してしまう。
そして確かこの後、稔は酔っ払って深夜に帰宅するのだが、なぜ彼は酔っ払うのか?
その辺がよくわからない。

そして芙美子が入院するにいたり、稔は彼女の体がやはり悪いことを知る。
それで慟哭の叫びを上げて絵に顔をこすりつけ、顔中に絵の具がつく。
その後、絵の具だらけの顔で渋谷でデッサンをする。
何でここでデッサンをするのかがよくわからないが、たぶん基礎からやり直そうと思うぐらいに
真剣になったということなのだろう。
でも絵の具の感じもさっきと違うし、再び塗ったということなのだろうか?
稔が寝食も忘れ、顔に絵の具がついていることに気がつかないぐらい絵に没頭していることを
表現するなら、顔についた絵の具は撮影のたびに同じにしなければならない。
それが毎回のように変わっていては、稔がわざと絵の具を顔に塗っていることになり、
その動機がまったくわからなくなる。

そして芙美子の死のシーン。
死んだ連絡が梨花に入る直前、彼女はハサミで指を切ってしまう。
これもあざといよなあ。
そして芙美子の死に居合わせた稔だが、絵を描き終わって彼女に背を向けて
画材をしまっているときに手に持っていたりんごがポロリと落ちる。
悪いけどちょっとステレオタイプ過ぎると思う。

このようにいろいろ言いたくなる映画なのだ。
なんだか学生映画なのだなあ。
この文章を監督も読むかも知れないからあんまり批判的なことは書きたくないのだが、
もう少し完成度を高めてほしかった。


(04年12月26日更新)