鉄道員(ぽっぽや)

1999年  東映  監督 降旗康男


実は高倉健はこの映画を撮るために今まで映画に出演していたのでは
ないか。
もちろんこれはあやまった考えだ。言い方を変えよう。
この映画の高倉健は戦後日本の男たちのたどりついた姿そのものである。
オープニング、雪のホームに高倉健が立っている。
もうそれだけで私には涙である。

私が高倉健をリアルタイムで見たのは「新幹線大爆破」「冬の華」あたりからである。
雪のイメージは「八甲田山」ぐらいからだ。この頃から「動乱」「海峡」
「居酒屋兆治」と年一本ペースになっていった。
しかしまだ映画スターだった。
「〜主演」だけで客を呼べるのはもはや高倉健だけになっていた。
そんなに好きなスターでもなかったが、テレビドラマにも出ず、バラエティにも
出ず、自分の仕事場を映画のみとしているスタンスが、私は大好きだった。
映画が斜陽化していくなかで、会社は変わっても映画というものにこだわりつづける
彼の姿勢に共感を憶えていた。

彼の演じる役はヤクザその他仕事は変われど、一貫して日本男児のあるべき姿だった。
寒さの中にじっと立ち、口はいつも真一文字に結ばれ、自分に厳しく、感情に流されず、
やらなければならないと信じたことをやりつづける信念の強さ、口ベタで言葉は
少なく、自分の考えは行動でしめす。
妻や子供を愛しているが、やさしい言葉は不器用なので言うことは出来ない。
しかし心に秘める熱い気持ちは誰にも負けない。
そんな日本中の男たちの理想とする姿を演じつづけたのだった。

映画の中、何度も「テネシーワルツ」が流れる。
もちろん故江利チエミ(元高倉健夫人)の代表曲である。
現実の高倉健と江利チエミの生活はどうだったかはわからない。
しかし、私には高倉健が亡き江利チエミを偲んでいるかのように思えてくる。
ちょうど佐藤乙松駅長が死んだ妻を思いつづけてるいるように。


乙松の鉄道員(ぽっぽや)人生は戦後世代の象徴である。
「D51を走らせる事が戦争に負けた日本を復興させる事だと信じていた」
まさしくそれは戦後の日本人たちの姿だったのではないか。
高度経済成長による集団就職、国際化になり海外でも活躍しようとする若者、
炭鉱の閉鎖という産業構造の変化、国鉄からJRへ。
どんな時代になろうとも何とかがんばってきた戦後の日本人。
しかしその日本人がたどり着いた場所が現在の不況、倒産、リストラ、人員整理。
乙松にとっては幌舞線の廃線である。

自分の人生の終わりを感じた時、死んだ娘の幻想が現れる。
娘は乙松にとってこういう娘になって欲しかったという理想の姿と
なって現れる。
しかし日本の現実の娘たちは父親を尊敬したりなどしない。
完全に乙松の幻想であり娘に自分を許して欲しくて、こういう自分を理解
欲しかったとぴう身勝手な幻想になっている。
その点をわがままだと批判する事は簡単だ。

しかし、これは映画なのである。
映画は人の夢を描くものだとすればこれでいいのではないか。
映画の中ぐらい自分を認めて欲しいと思うのは自然だ。
ぽっぽや一筋に生きつづけた乙松の姿に自分をダブらせる男も多いと思う。
そんな仕事一筋に生き死んでいく乙松の姿は、戦後、がむしゃらにそして不器用に
働きつづけ、働く事しか知らなかった日本の男たちの姿であり、
映画一筋に生き続けた高倉健自身の姿である。

高倉健、202本の映画出演を集大成させたのがこの「鉄道員(ぽっぽや)」だ。
1931年生まれ、撮影時67歳、零下20度の雪の中のロケを行う映画魂だ。