2000年12月

ゴジラXメガギラス
 G消滅作戦
エクソシスト
・ディレクターズカット版
愛のコリーダ2000

ゴジラXメガギラス G消滅作戦

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日時 2000年12月17日18:30
場所 日本劇場

ゴジラの新作は公開初日か2日目までに日劇で見ることにしている。
第一作で日劇がこわされて以来、ゴジラの新作は日劇で見るのが正しい
ゴジラファンというものだ。
さて今回の新作、出来はいいほうだと思う。
怪獣映画の醍醐味はなんと言ってもミニチュアワークだ。
実物の風景と寸分たがわぬミニチュアの中で破壊が行われるシーンは
現実の破壊のカタルシスが(たとえ錯覚であっても)たまらない
渋谷水没シーンは久々に見た圧巻シーンであった。
しかし、水没してゆくシーンはなく、「大変な事になってるぞ!」
のセリフの後にもう水没してしまってる渋谷である。
映像が逃げた。
「タイタニック」は違った。映像が逃げなかった。

あとお台場の決戦シーンはやはり夜であってほしい。
今日、私は別の用事でお台場にいたが、やはり映画を見た後に
お台場に行けばまた格別のものがあったろう。
(ちなみにフジテレビの横に映画では現実にないビルが出来ていた)
パンフを読むとラストカットは昔みたいに怪獣を見送るロングショット
はとりたくなかったということだが、やはりここはお決まりで
やってほしい。
メガギラスのもとになるのを山梨から持ってくる少年、
後半ドラマにまったく絡まないのも不満。
市井の人間が怪獣に立ち向かう姿もほしい。
Gフォース(じゃないか)ってのはもとから不満なんだ。
でも今回の作品は基本設定も首都が大阪に移っており
その辺からちょっと不満もある。
首都が大阪だったら、渋谷やお台場があんなに発達してたかしらん。
その辺も気になるのだね。

メガギラスの渋谷初登場シーン、いまだにSF映画はエイリアンの呪縛から逃れていない。
もういいかげんエイリアンから抜けてもいいんじゃないか!20年以上も前の映画だぜ。
でもあの粘着液を吐くというのの原点はエクソシストにあることが先週わかった。
あっちもすごい映画だったわけだ。

まあゴジラ映画は思い入れも深い分、どんな映画を作っても
何かしら不満は感じるんだろうな。
僕にとっての名作は「キングコング対ゴジラ」なんだから。


エクソシスト・ディレクターズカット版

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日時 2000年12月10日(日)19:30〜 
場所 新宿東急

先週に引き続き私にとって封印されていた幻の映画である。
正直に言って肩透かしを食らった。
もっと怖いかと思っていたのだ。
第一、「めざましテレビ」なんかで例のスパイダーウォークとか
首の180度回転シーンとか見ちゃってるからね。いわゆる恐怖シーンは
全部見ていた。

それよりもこの作品はとにかく世の中のフィーバーぶり(もっともこの言葉は
当時なかったが)がすごかったのだ!
「失神者続出!」とかまるで禁断の映画のような扱いをされ、
私自身もまだ小学生で、とても怖くて観に行く事など出来なかった。
私の中では封印された映画であった。
そしてこの映画は後のオカルト映画に影響を与え、映画の流れを変えたのも
また事実である。

その翌年に例の「ノストラダムスの大予言」が出版され、これもまた大きな話題だった。
そして世の中は一気にオカルトブームになり、ようような映画が公開された。
(「決して一人では見ないでください」というコピーで有名なサスペリア、オーメンも
そのひとつ。サスペリアはもう高校生になっていた私は見たが別に怖くなかった)
上裕史彦もこの時代に10代だった一人である。
この映画の影響でオカルトブームが起こったとすれば、日本の歴史に残るあの事件の
きっかけになったと考えると、この映画の後に与えた影響はものすごい。

果たして現在、20数年後にまで語り継がれ、映画の流れを作ってしまう映画があるだろうか?
ない。 


愛のコリーダ2000

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日時 2000年12月2日16:05〜
場所 シネアミューズウエスト

「愛のコリーダ」は見ていた。
確か1983年の「戦場のメリークリスマス」の公開に
ちなんだ文芸座の大島渚特集だったと思う。このときの感想は
さっぱりわからなかったというのが正直なところだった。
作品の内容は(ストーリーは)理解したが心に残るものはなかったという
意味である。
何しろぼかしは多いし、ボカシだらけで何をしてるかわからん画面もあるし、
マスキングさえされていた。(画面には二人で写っているはずなのに
まるでマルチスクリーンのような感じで顔のアップが二つ上下に並んでいたりしたのだ)
アホな私はマスキングの意味がわからず顔のアップだけでマルチスクリーンを作る
演出だとさえ勘違いしていた。
しかもプリントの状態は悪く、画面に雨が降りっぱなしだった。
その上、私もまだ若くセックスの経験(人数ではない)も数えたら
片手に余るような頃である。

これではこの作品を本当に見たとはいえなかったのだ!
プリントの面からも、受け手(つまり私)の成熟度からも。

今回の作品もぼかしはある。しかしそれは必要最小限度にとどまっており
性器そのものを何とか隠している程度である。
それ以上に驚いたのは作品の画の美しさだ。
特に赤の発色が美しい。
カットのどこかに常に赤がある。
燃えるような情熱の赤だ。
セックスの高揚感、エクスタシーに達している赤である。

この映画はセックスばかりである。二人だけの世界で24時間セックスだ。
しかし不思議とポルノ映画にありがちないやらしさはない。
観客にとっては美しい二人のデイトにしか見えない。
それはもうなんといったて画面の美しさである。
大島渚のような一流監督だからこそそろえられたスタッフといっていい。
ここに大島がポルノを作る意味があった。

途中で70歳の芸者を吉が犯すシーンがある。
あれは天皇制に対する挑戦とする解釈がある。
どうなのだろう?僕にはよくわからない。
しかしもうひとつの国家をあらわす兵隊の行進とすれ違うシーン、
あれは国家に対する主張であったと思う。
あの時、吉はやや背中を丸めて歩く。
別に堂々と敵対していくつもりはなかった。
むしろ世の中の流れは関係ないといった感じであった。
大島は今回、作品の中では国家に対しての挑戦はしていないと思う。
あの吉と兵隊のすれ違いは今回は国家とは立ち向かうのではなく、
すれ違いですよという意思表示だったと思う。

今回、大島は国家との戦いの場を法廷にしたような気がしてならない。
ああいう映画を作れば検閲に引っかかるというのははじめから明らかであった。
表現の自由、あるいは思想検閲を映画を作って訴えるというある意味自己満足的な
やり方ではなく、法廷で争う事にしたのではないか?
結果は負けもしなかったが勝ちもしなかった。
彼はこの作品あたりから、テーマを「国家あるいは日本」から「人間の生と性」に変わっていったように
思う。
このあたり、裁判の勝ち負けが関係しているのか、単に年をとって考え方に変化が生じ、国家なんて
小さいものをテーマとせずに、もっと人間の根源の「愛と生と性」関心が移ったのか
それは本当のことはよくわからない。

ただし、ひとつ言いたいのは今年彼は紫綬褒章を受けた。
国家から認められ勲章をもらったのである。
彼が丸くなったと見るか、堕落したと見るかは人それぞれの解釈だ。
しかしその転機となったのはあるいはこの作品だったのかも知れない。


余談だが劇場で売っていた朝日グラフのインタビュー記事、大島がインタビューアーに対し
ほとんど喧嘩腰なのが面白い。何かあったのだろうか?
藤竜也は丁寧にインタビューにおおじていたけれども。