2003年9月

日本の青春
28日後... ロボコン 十三の眼 七つの顔
明治大帝と乃木将軍 天皇・皇后と日清戦争 軍神山本元帥と連合艦隊 ゲロッパ!
座頭市千両首 砂の器 幸福の黄色いハンカチ 「されどわれらが日々−−」
より 別れの詩
座頭市喧嘩旅 座頭市兇状旅 新・座頭市物語 続・座頭市物語
座頭市物語 太平洋戦争と姫ゆり部隊 座頭市 天使の牙 B.T.A

日本の青春


日時 2003年9月28日18:45〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 小林正樹
製作 1968年(昭和43年)

(詳しくはキネ旬データベースで)

向坂(藤田まこと)は渋谷で特許事務所を開くさえない中年男。
彼は耳が悪く補聴器が必要な人間だ。ある日部下が銀座で偶然入ったバーの
マダムが、自分の上司が向坂という名前と聞いて、伝言を託す。
それはある詩だった。
その詩は向坂が学生時代の下宿先の娘・芳子(新玉三千代)が気に入っていた詩だった。
向坂はそのバーを訪ねてみる。

「日本の青春」とはなんとも壮大なタイトル。
そしてこの作品は「人間としてするべきこと」「人間としてしてはいけないこと」、
つまり人間の義務を問うている。

向坂は実は戦時中の兵隊時代に上官・鈴木(佐藤慶)に捕虜に制裁を加えることを
命じられた。
しかしその命令に従えなかったために逆に上官から折檻をうけ耳が遠くなって
しまったのだ。

戦後23年、向坂は学生時代に好きだった芳子と再会する。
その芳子の亡き夫が残した研究を買ってくれる人はないかと相談をうけ、
横浜の会社社長を紹介される。
ところがその社長はあの鈴木だった。
あなたの耳をこんなにしてしまった男に関わりたくないと芳子は鈴木との
取引を断るという。
しかし女としても芳子を気に入った鈴木は強引に押してくる。

もう一度鈴木とあった向坂は「あんたのことは好かん!」と決別を宣言する。
鈴木は戦時中の自分の行為を「時代がそうさせたのだ。君こそヒューマニズムを
振りかざしているが、要は時代に乗れなかっただけだ」と非難する。
芳子も向坂に共感してくれたものの、やはり鈴木という「現実」に屈してしまう。

すべてがいやになった向坂は一度は家出して蒸発を考える。
戦時中も兵役から逃れようと蒸発を考えたが出来なかった。
今度も家族を捨てることは出来ないと家に帰る決心をする。

最後まで書いてしまったがこれがこの映画の内容だ。
この他にも黒沢年男の浪人中の息子が偶然知り合った自衛官にあこがれて
防衛大学の受験を考えたりする。
また当時多かった人間蒸発をやら自衛隊問題や戦犯の戦後の問題やら
時事的な問題も多く含んでいて、向坂と同世代のいわゆる「戦中派」の苦悩を描いた
作品のようでもある。

しかし、この作品が抱える問題はそんな時事的な問題ではなく、いつの時代にも
もちろん現代にも共通する「人間の義務」について描いているのだ。

戦時中の体験は「無抵抗な捕虜を『上官の命令だから』という理由だけで虐待は
できない」と思い、自分の思うように生きてみたら?という薦めにより家族を
捨てて芳子との新たな生活を一度は夢見たが、
「家族を捨てるという無責任なことは出来ない」とやはりもとの生活に戻る。
「自分の信じることをする事と、無責任に生きる事は違う」と結論づける。

「人間の條件」をとった小林正樹らしい骨太の作品だ。
藤田まことのシリアスな演技が光る。

しかし息子の黒沢年男の彼女が彼女(酒井和歌子)が、実は鈴木の娘だったりというように
人間関係がやや強引で登場人物がテーマを浮き立たせるための記号化しすぎている
きらいがある気がしないでもない。
また時折岡本喜八の「江分利満氏の優雅な生活」のようなユーモラスなナレーションが
入るときがあって、演出のポイントが定まらない感じがするときがある。
そういう風にいくつか欠点もあり、完璧な作品とはいえないが作品全体としては僕は大好きだ。

しばらくしたらもう一度観てみたい映画だ。


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28日後...


日時 2003年9月27日19:00〜
場所 渋谷シネクイント
監督 ダニー・ボイル

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ある日、過激な動物愛護団体は動物実験に使われている猿を逃そうとする。
しかし、その猿は感染したものをただ凶暴にしてしまうウイルスに
感染していた。
28日後、主人公、ジムは病院で眼を覚ます。交通事故で昏睡状態にあったのだ。
しかし、病院には誰もおらず、街に出ればロンドンは荒れ果てていた。


だから何?という思いがぬぐいきれなかった。
つまらなくて寝てしまう、というほどではないのだけれど、
なにかピンと来るものがないのだ。

見所は最初の方の人が全くいなくなったロンドン。
ビッグベンの向かいに観覧車が見えて「おお、これが噂の観覧車か!」と
妙なところで感心した。

で映画は生き残った人々が集まってウインチェスター郊外の軍隊を目指す。
途中トンネルでネズミの大群に襲われたり、ガソリンスタンドでウイルスに感染した
少年に襲われたり色々あったけど何とかたどり着く。
軍隊に到着したら思ったより小部隊。
相手は荒くれの兵士。女たちに「やらせろ!」ってことになる。

ジムはそれを否定して女を助けるために兵士と戦うわけだけど、現実的に考えて
セックスの問題は避けられないと思うよ。
小松左京の「復活の日」にもその話は出てくるもん。
女性には失礼な話かも知れないけど、(もちろんこの場合の兵隊のやり方は
賛成しないが)この問題は絶対避けて通れないから、ただ女性を兵士から救えば
いい、っていう話の流れはいまいち納得できん。
今回避けられてもどこかでまた同じ問題にぶつかるだろうし。

映画のラストも書いちゃうけど、なんとか兵士たちから逃げ出して
飛行中の飛行機を発見してでっかい「HELLO」の文字を見せる。
ここで終わり。
ところが「エンドロール後にもう一つのエンディングがあります」とあらかじめ
告知があってそのラストって言うのが主人公は兵士との戦いで死んで
生き残った女性二人で生き抜こうとする、というもの。

どっちにしても「これからも生き抜こうとする」ということでは一緒じゃん。
大して変わらないよ。
DVDの特典ならともかく、公開時から2つとも見せるってのはどうなの?
作者としては自分の中で作品は完成させなければいけないのじゃないか?

ダニーボイル監督は「ザ・ビーチ」の監督。
あれは文明社会から抜け出してユートピアを作ろうとした若者の物語。
今度は文明社会が消滅する話。
現代の文明社会がお嫌いらしいが、だからどうしたいのか、だからどうすべきだと
いうのかが僕には伝わってこず、ただ「文明社会は嫌いだ!」と叫んでるだけのよう
にしか僕には見えなかった。


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ロボコン


日時 2003年9月27日14:30〜
場所 新宿文化シネマ3
監督 古厩智之

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実は私は甲子園がきらいだ。
いや正確に言うと高校野球ばかりをもてはやす世の中がきらいなのだ。
野球やってる奴ばかりが頑張ってる奴、偉い奴、みたいでさあ、
別にそうとは限らないじゃないか。
そう、ここにも頑張ってる奴はいる。

「ロボコン」は「ロボットコンテスト」の略称。
高等専門学校の各校のロボット部が作ったロボットによるゲーム大会だ。
ルールとかはここで書くのは省略するけど、とにかくロボット同士が
ゲームで対決して勝ち進んでいく。
ロボットの性能ももちろんだけど、どう戦うかの頭脳戦も見所。

主人公の里美(長澤まさみ)は先生に居残り授業を免除してもらう
条件として、やる気もないけどとりあえずロボット部に入部。
気の弱い部長、(伊藤淳史)、独り善がりで身勝手な設計者(小栗旬)、
やる気のない幽霊部員(塚本高史)、ばらばらだった彼らは初戦に敗退。
だが里美の引っ張りにより徐々に一つになり、みんなで協力することを
憶え、技術の壁を打ち破り最後の大会に向かっていくというアウトラインは
青春映画の王道パターンそのもの。

そして後半の全国大会はきっちりと見せてくれる。
合計で6試合だったかな?
3分間の勝負なので何試合も見せてくれることが可能なのだ。
このときの対戦相手の実に個性的なこと!
この個性の差は他のスポーツでは真似できない。
スポーツは所詮人間だもん、技の選択肢はおのずと限界が出てくる。

正当派な勝負を挑む奴、卑怯な性能を持った奴、勝負では負けたが性能が
ユニークな物などホント飽きがこない。
これらの個性的なロボットを駆使し、その上、こう来たからこう応戦する、
といった対決は、SFのメカ対決ものも真っ青な面白さなのだ。

主人公4人もすべて好演。彼らの代表作になることは間違いなし!

案外、この映画に影響を受けて日本にロボコンブームが起きるかも!?
小泉首相ではないが、技術立国日本もまだまだ健在。
青春映画の快作!

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十三の眼


日時 2003年9月24日
場所 録画ビデオ
監督 松田定次
製作 1947年

(詳しくはキネ旬データベースで)


警察の強盗団に対する張り込み中、ある刑事が制止を振り切ったトラックに
射殺された。
その刑事は実はかつて「昭和の怪盗紳士」と言われた藤村大造にとって、
大泥棒から真人間になるようにしてくれた恩人だった。
彼はしょぼくれ探偵多羅尾伴内として、恩ある刑事を殺した犯人探しに乗り出す。
警察に事情を聞くと刑事は死の直前、地面に「〜デパート」と書き記したらしい。
東京中のデパートを調査した多羅尾伴内だったが手がかりがつかめない。

そんな感じで今回は依頼人もいないのに話はスタート。
弱りきった多羅尾伴内が刑事の遺影に手をあわせ、「なにかお知恵を貸してください」
と懇願する。
その時、となりの部屋の古新聞の束がどさっと落ちる。
見ると開かれたページに「歓楽のデパート、なんとかミュージックホール」
とキャバレーと雀荘とかがミックスされた大人の総合遊び場の広告が!

強引な展開に思わず、こちらの頬も緩む。
で敵の歓楽のデパートに潜入する。このときの変装は手品好きのキザな紳士。
札びらを切って女給とダンス、酒を飲むが、
「つまらん!実につまらん!もっと刺激のあるものを!」
と支配人を呼びつけ、「それでは」と連れていかれたのが、地下にある違法カジノ。

店はいいカモだ、とばかりにとりあえず勝たせる。ところがあんまり勝ってしまうと
やっぱり「つまらん!実につまらん!札束に十重二十重に囲まれているわしには
つまらん!こんな金くれてやる!」と勝った札束を支配人に突き返す。
そんな感じで建物を物色する。
敵も千恵蔵が去ったあと、「なんでえ、あいつは?」「キ印じゃねえのか?」
ははは、作ってるほうもおかしいと思っていたんだ。

で今度は藤村泰造は自分が偽札つくりだとウソをいって敵のグループに
潜入し、潜入したところで警察に逮捕させる。
例の見せ場、悪漢の「誰だ、貴様は?」の問いに「七つの顔の男だぜ。藤村大造だ!」
とだけ言って登場。
「ある時は・・・・」といって徐々に変装をはがすのはやらなかった。
へぇ、シリーズ最初はこれがない時もあったんだ。
で敵との銃撃戦になるんだけど、階段の上と下に別れての撃ち合いで、前作の車で追っかけ
ながらの銃撃戦に比べれば見劣りした。

でも脚本は2日ぐらいの徹夜で無理矢理書き上げた、そんな感じがした。
なんだか荒っぽいもん。


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七つの顔


日時 2003年9月23日
場所 録画ビデオ
監督 松田定次
製作 昭和21年(1946年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


千恵蔵の当たり役、多羅尾伴内シリーズ第1作。最初は大映での製作。

年末興行で人気の劇場の花形人気歌手、清川みどり(轟夕起子)が誘拐された。
すぐに解放されたが、彼女にご熱心な劇場オーナーから「僕の付き合ってくれたら
この宝石を上げる」と言われて舞台に付けて出ていた巨大ダイヤのネックレスが
なくなった。
彼女の元に警察が捜査に訪れ、また劇場オーナーが雇った探偵もやってくる。
そこへあらわれたのが多羅尾伴内(片岡千恵蔵)。
同じ劇場に出演中の手品師(同じく片岡千恵蔵)惚れていたみどりだが
この一見しょぼくれた探偵に一目ぼれ。事件解決を依頼する。
みどりがかくまわれた家をすぐに発見した多羅尾伴内だったが、警察の
家宅捜索で次々と証拠品が発見され、その家の主人の野々宮信吾(月形龍之介)
とその妹・早苗は逮捕される。
二人の無実を信じる多羅尾伴内は妹を逃し、独自の捜査で真犯人を暴き出す。
野々宮信吾の父は政治家で彼はその意思をついで次の知事選に立候補を予定して
その対抗馬にわなにはめられたのだ!

今のドラマなら1時間で解決してしまう内容を1時間半ぐらいかけて行うから
かなりだれる。
でも後半、新聞記者、老警官、せむしの手相見、片目の運転手に次々と
変装して聞き込みをするあたりはなぜか楽しい。

最後に犯人たちを前にして変装をとくのだが、この頃はまだ顔の付け髭やかつらを
とる程度でシリーズの後にみられたスーツを引っ張ると純白のスーツに身を
つつんだ藤村大造が現れる!といったオバカな(しかし面白い)事はやっていない。

その後、車で逃げる犯人を車で追う藤村大造!
バンバンと撃ってくる敵の弾をよけながら(そんなこと出来るかい!)のカーチェイスは
結構な迫力。
いやもちろん今見るとたいしたことないけど、当時としてはなかなかのものだったのでは
ないだろうか?
そしてみどりに何たらかんたらという詩を言い残して去っていく・・・・・

みどりと多羅尾伴内が出会うシーンでは探偵小説談義をして「ルパンは正義の探偵ですわ」
とみどりに言わせる。
藤村大造も戦前は怪盗紳士だったという設定だから、元ネタはアルセーヌ・ルパンだったのだな。


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明治大帝と乃木将軍


日時 2003年9月23日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 小森白
製作 昭和34年(1959年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


新東宝明治天皇シリーズ第3弾。
明治天皇と日露戦争を中心に乃木大将の苦悩を描く。

日露戦争は「明治天皇と日露大戦争」でも描かれたけど、今度は軍神・乃木大将を
主人公に話は進展。
キャストはアラカン=明治天皇、乃木大将=林寛は同じ。
でも林寛はスター俳優ではないので、やっぱり見劣りする、というか華がない。

203高地攻略の戦闘シーンだが、多分「明治天皇と日露大戦争」の使いまわし
ではあるまいか?
ひょっとしたら「天皇・皇后と日清戦争」も入ってるかも知れない。
どっかんどっかんの中に無数の兵隊がワーと突っ込んでいくだけだもん。
さらに明治天皇のシーンも同じシーンがあって使いまわしてるかも知れん。
演出も「天皇・皇后と日清戦争」と同じように随所に和歌だか短歌だかが
流れ、また時折浪速節だか浪曲みたいなのがながれ、今見ると
(いや25年前に見ても同じだったと思うが)相当に時代のずれを感じる。

乃木大将に人気があるのは以下の二つの理由だろう。
1、作戦が失敗続きだったが、諦めず、最後には203高地を攻略した。
2、自分の息子だからといって特別扱いしなかった。

さて「明治天皇〜」の時にも書いたけど、乃木が名将だったかは僕には解らん。
203高地の勝利ももう少しやりようがなかったのか、戦史研究家の意見を
うかがいたいところだ。
映画を見てると特別な名案もなくだた突っ込ませてるだけのようであるが・・・・

でも彼のこの戦争で二人の息子を戦死させている。
第3軍(旅順攻略部隊)の幹部たちが乃木の次男を安全な司令部付に転属させた
にも関わらず、「自分の子供だけ特別扱いさせるわけにはいかん」と最前線に戻す。
この辺は立派だ。
さすが軍神と称えられるだけのことはある。
たとえ内情はどうであれ、(最前線に自ら戻す、というのが後に作られたエピソード
だったにせよ)自分の息子をうまくやれば安全な後方部隊に配属させることが出来る立場
にあったにも関わらず、そうしなかったのは潔い。

約100年後の政治家に「乃木大将を見習って自分の子供をイラクに送れ!」と
いってやりたくなる。
さすがに新聞の論調では乃木大将を引き合いに出す人はいないけど。

でもう一つ書いておきたいのは、日露戦争後。
日露戦争終結で映画は終るかと思ったらまだ続く。
その中である日、乃木大将が人力車に乗っていて、車夫と話しているとその車夫の
息子も旅順で戦死したという。車夫が「世間では乃木大将をちょうちん行列で
もてはやしてるけど、あっしにいわせればバカ将軍でさあ」と息子を殺された事から
ついグチをいう。もちろん車夫は自分が乗せてる人が乃木大将と知らないから言ったのだが、
それを聞いた乃木大将、息子さんに線香を上げさせてくれという。
車夫は自分の家に乃木大将を招き、お参りをしていただく。しかも戦死した息子の娘
がまだ子供で目が悪いと知った乃木大将は20円を渡し、去っていく。
近所の人々は「あれは乃木大将だ」と気づく。
車夫は乃木大将の偉大さにひれ伏すというエピソードが出てくる。

車夫のように乃木大将を批判する人もやっぱりいたのでしょうね。
でもそんな人も乃木大将は許します。
出来すぎた話という気もするが、このシーンは泣けてきた。
乃木大将ってとっても立派なお方に見えてきました。
だからこそ、太平洋戦争でも「軍神・乃木大将」と祭り上げられたんでしょうね。

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天皇・皇后と日清戦争


日時 2003年9月21日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 並木鏡太郎
製作 昭和33年(1958年)新東宝

(詳しくはキネ旬データベースで)


「明治天皇と日露大戦争」のヒットに続き新東宝の明治天皇シリーズ第2弾。
アラカンが前作に引き続き貫禄をもって明治天皇を演じる。
今回は天皇だけでなく、皇后も登場。
演じるは高倉みゆき。
東宝、東映と渡り歩くが売れてなかったのを大蔵貢が大抜擢した。
大蔵貢と高倉みゆきは愛人関係にあったらしく、後にスキャンダルになったが、
「女優を2号にした」と雑誌に書かれたのに対し、大蔵は「2号を女優にしたんだ」
と反論したらしい。(日本映画俳優全集・女優篇 参照)

高倉みゆき当時24歳。
確かにきれいな人でもうおじいちゃんのアラカンと並ぶと年齢的に随分不釣合いな
感じがする。

で肝心の映画だが、「日露大戦争」と同じくまったりとした、ゆっくりとしたテンポで
進む。
当時の人々はこのテンポのゆっくりさに退屈しなかったんだろうか?
で途中途中に天皇の和歌だが短歌だがが朗読され、思わず眠くなる。
また戦場の場面でも「雪の進軍」とかほか数曲の軍歌がフルコーラスで流れるシーンが
あり、アナクロムード満載。

戦闘シーンでは画面は兵隊で埋め尽くされるがこれまたなんだかワーワーやってるだけで
盛り上がらない。
父母を赤ん坊の頃になくして、祖母に育てられた高島忠夫の出征シーンが割と時間を
かけて語られるので後に物語の重要なポジションを占めるのかと思ったらそうでもない。
死んだ戦友の墓を作ってやるシーンぐらいかな。
その高島忠夫も最後には死ぬ。
出征のシーンで泣きながら見送ったばあさんと高島の遺骨が涙の再会!という
泣かせどころがあるかと思ったらなかった。

で天皇は外にでて乗馬をしてる時に、片腕が不自由な息子をもった百姓の親子に遭遇。
気の毒に思った明治天皇は「薬代の足しに」とお金を渡す心の広さ。
また皇后も戦地で怪我をした兵士のために自ら包帯を折る慈悲深いお方。
そして自らも広島の病院に見舞いにいき、その包帯を兵士に分け与える。
日本軍の兵士だけでなく、捕虜の中国軍兵士にも言葉をかけるおやさしいお方。

明治天皇・皇后とも民を思う気持ちでいっぱいの優しいお方として描かれる。
再三言うけどこれが事実であったかどうかは私には解らない。
但し新東宝映画では天皇は常に「いい人」で描かれた。

で映画の最後で清と講和条約が結ばれ戦争は終結する。
しかし清国との条約にあった遼東半島を日本の領土にする話は
仏独露の三国干渉によって諦めざるを得なくなる。
当時の欧州は今以上アジアに対して態度がでかかったのですね。
この辺が後の日露戦争につながっていくのでしょう。

出演は他にいつもの江川宇礼雄が海軍大臣、天知茂が右翼の青年など。

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軍神山本元帥と連合艦隊


日時 2003年9月21日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 志村敏夫
製作 昭和31年(1956年)新東宝

(詳しくはキネ旬データベースで)

連合艦隊司令長官・山本五十六のロンドン軍縮会議出席からブーゲンビル付近
での戦死までを描く。
山本五十六は佐分利信が演じる。
いやはや貫禄たっぷりで後の三船敏郎、藤田進、小林桂樹らに全く引けを取らず、
ベストかも知れない。

従来の戦争映画のように「山本=戦争に反対だった悲劇の将官」として描かれる。
この考えの元になっているのはいろんな映画に登場する、山本の開戦前夜の
心境をつづった手紙「個人としての考えとは全く別の道を進み、現在の心境は
誠に変なものなり。これも命というものか」はやっぱり登場する。
多分山本を描く映画にはお決まりのように登場するのだろう。

戦闘シーンは東宝作品と違って特撮は余りなく、ニュースフィルム、実写フィルムとの
カットバックが多い。
と書くと安っぽそうだが、これが映画自体が白黒でまた映画のプリントも
状態が悪いので記録フィルムと役者が演じているドラマ部分の差が少なくて
違和感がなく、溶け込んでいるのだ。
そうなると「爆撃を受けて燃え上がる戦艦」なんてのは何しろ本物が燃えているから
ものすごく迫力がある。

また出てくる戦闘も、真珠湾攻撃、マレー海戦、ミッドウエイ戦、ラバウル戦と
多いので結構飽きない。

出演は他に藤田進、田崎潤、高嶋忠夫、宇津井健、細川俊夫、江川宇礼雄、若山富三郎
らが海軍軍人、丹波哲郎、天知茂が右翼団体などの豪華キャスト。
(但し南雲中将→八雲中将、草鹿参謀→草刈参謀、宇垣参謀長→宇田参謀長など
何故か名前が変わっていた)

でも最後に死の直前、山本は「アメリカの海軍と陸軍は連携がうまくいっていない。
ここをつく作戦を立てればきっと勝てる」というような随分含みのあることを
宇津井健の若き参謀に言う。
そっそれ、随分気になるなあ。
山本はどんな作戦を考えていたのだろうか?

もちろん結果的には日本は負けるんだろうけど、その作戦とやらを折角だから
実行させてやりたかったな。
と、こう思わせるところが、「山本閣下が生きていれば日本は勝てたかも知れない」
という気分にさせて「大東亜戦争は聖戦だった」と思っている人たちの溜飲を
下げることになるなのかも知れない。


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ゲロッパ!


日時 2003年9月20日18:30〜
場所 シネマ・ミラノ
監督 井筒和幸

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西田敏行のヤクザはあと数日で収監される身。
思い残すは25年前に別れた娘との再会と大好きなジェームズ・ブラウンの
名古屋公演にいけないこと。
西田敏行の弟分の岸辺一徳は兄貴にジェームズ・ブラウンの誘拐をたくらむ。


この映画はジェームズ・ブラウンへの思いの大小によって大いに左右されるのでは
ないだろうか?
無知を笑われるのを承知で告白すると私、ジェームズ・ブラウンって全く知らないんです。
名前も聞いたことがある程度。曲にいたっては全く解らん。

だから西田敏行や岸辺一徳が楽しそうに歌い踊ってもこっちには何も伝わってこない。
もうこの辺で映画に乗り損ねてるわけで。

バラバラに登場した常盤貴子のものまね芸人のマネージャーや首相秘書官(ラサール石井)
などがどう話しに関わってくるかのシナリオは(まあ)面白かったが、こっちはもう最初から
乗り遅れているのでさっぱり盛り上がらない。

またアート引越しセンターとかTSUTAYAカードとかラグーナ蒲郡とかタイアップ広告
連発で、(60年代の映画っぽいとも言えるが)「金がなくて苦労してるなあ」という
感じがしてなんだか哀しくなった。

少なくとも私には面白くなかった。

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座頭市千両首


日時 2003年9月17日
場所 録画ビデオ(衛星劇場)
監督 池広一夫
製作 昭和39年(1964年)

(詳しくはキネ旬データベースで)

シリーズ第6作。
3年前のヤクザの喧嘩で斬ってしまった男の墓参りにやってきた座頭市。
ところが百姓が年貢に貯めた千両がうばわれる現場に居合わせてしまう。
座頭市や国定忠治が犯人だと百姓たちは決め付けるが、市は身の潔白を証明し、
あわせて千両箱を取り戻すため、山にこもっている忠治に会いに行く。

4作目にもチラッと顔を出した国定忠治だが、今度は島田正吾が
貫禄たっぷりに演じる。
で、忠治の身の潔白を信じる市は忠治を逃す。
そして若山富三郎の剣客を雇っているヤクザが千両箱強奪の犯人と確信した
市はそのヤクザの仕切る賭場に乗り込む。

ここで若山富三郎とサイコロ対決になるのだが、若山富三郎が投げた一文銭をスパッと切る。
市も同じことをやることになり、一文銭を投げてその後に火箸を投げる。
一文銭の穴に火箸がとおって天井に刺さり、そしてチャリチャリと音を立てながら
その一文銭が落ちる。そこをスパッと市がぶった切る。
真っ二つに落ちる一文銭。

たのしいなあ、こういった見せ場。

ラストは若山富三郎との対決だが、若山は今回、西部劇のカウボーイのような投げ縄の名手。
馬の上から市に投げ縄をなげ、巻きつかれた市を引きづりながら馬が走る!
この辺のアクションは勝自身か?すごい。
なんとか縄をぶった切った市と若山の対決!

ラストの投げ縄のアクションが見所でした。


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砂の器

日時 2003年9月15日19:20〜
場所 早稲田松竹
監督 野村芳太郎
製作 昭和49年(1974年)

「砂の器」については名画座に記載しました。


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幸福の黄色いハンカチ


日時 2003年9月15日17:20〜
場所 早稲田松竹
監督 山田洋次
製作 昭和52年(1977年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


花田欣也(武田鉄矢)は女に振られて会社も退職し、その退職金で車を買って北海道に
旅に出た。そこでちょっと暗いがとりあえず女の子(桃井かおり)をナンパ、
一緒に旅をする。途中でちょっと訳ありげな男・島勇作(高倉健)も加わるが
この男、網走刑務所から出所したばかりで夕張のうちへ帰ろうか迷ってるという。


この映画は封切り以来だから26年ぶりに見たとこになる。
封切り時はちっとも面白くなかったが、大人になった今なら高倉健と倍賞千恵子
の大人の愛情に涙するかと思って見直してみた。
でもやっぱりダメだった。

前半は武田鉄矢を軸とした山田洋次らしい松竹的コメディ。
労働者階級(それも印刷工、ブルーカラーと言い換えてもいい)の武田鉄矢が
思いっきりボケまくる喜劇。
この頃の武田鉄矢は「金八先生」前でまだ俳優としては完全に新人だった。
この作品の好演で俳優としての第一歩を踏み出し、後の当たり役「金八先生」
へつながっていく。

後半は高倉健と倍賞千恵子のラブストーリー。
いわゆる「不器用な」愛情表現で満ち溢れる。
でも高倉健が刑務所に入った理由が気に入らない。
倍賞千恵子が流産してしまい、そのことでやけ酒を飲んでる時に喧嘩した
弾みで人を殺してしまうのだ。
それって単なる乱暴者じゃん。
これが「流産して倍賞千恵子のことを悪く言う町の悪い奴を叩きのめした」という
ことならともかく、(高倉健がやるからいいようなものの)島勇作の殺人に正当性がない。

また封切り時には、武田鉄矢のお笑い部分が松竹的な古臭さから一歩も抜け出しておらず、
映画全体が泥臭い垢抜けない喜劇で「これだから松竹はダメなんだ」と思った覚えがある。

その感想は今回も変わらなかった。
これが77年の映画かと疑わざるを得ない。
まるで60年代の映画のようでとにかく古臭い。
倍賞千恵子の待つ女の愛も、ラストのハンカチがはためいているシーンでは
それなりに感動はしたが、全体的に薄幸そうなビンボー臭くていやだった。

やっぱり好きになれなかったな、この映画。

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「されどわれらが日々−−」より 別れの詩


日時 2003年9月13日
場所 中野武蔵野ホール
監督 森谷司郎
製作 1971年

(詳しくはキネ旬データベースで)

「私はその頃、古本屋へよく立ち寄った」の書き出しで始まる柴田翔の原作
「されどわれらが日々」は個人的な思い出と共に忘れられない作品だ。

初めて読んだのは高校生の頃だが、学生時代の夢(革命)と挫折、
就職により自分の夢を捨て既存社会と折り合っていくが、かつての夢から
抜けきれていない登場人物たち。
あるものは自殺し、あるものは社会に溶け込み、あるものはもう一度やり直す、
僕にとって「されどわれらが日々」はそういった「青春の夢と挫折」について
書かれた切ない小説だった。

映画は小説とはかなりかけ離れたものになってるらしいとは聞いていた。
タイトルからして「別れの詩」だもん。
(資料とか見ると「『されどわれらが日々−−』より」ってついてるけど
映画のなかのタイトルは「別れの詩」だけ)


それが単純に「この結婚はこれでいいのか?」とマリッジブルーに悩む
OLの物語に成り下がっていた。
本来主人公は山口崇演じた小川知子の婚約者だったはずだが。
しかも原作では英文学講師だった山口崇だが、大蔵省の役人になってるし
小川知子の友人の不倫相手は単なる企業の課長(北村和夫)になっている。
(原作では大学教授)

ストーリー的には似てるけど、視点がまるっきり違う。
もうこの映画については語りたくない。
ひどいよ、原作のファンにとっては。

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座頭市喧嘩旅


日時 2003年9月13日
場所 録画ビデオ(衛星劇場)
監督 安田公義
製作 昭和38年(1963年)

(詳しくはキネ旬データベースで)

市(勝新太郎)は旅の途中、倒れている老人から「おみつを頼む・・・・」
と言い残される。老人は息絶えたが、そのそばにおみつ(藤村志保)がいた。
話を聞くと日本橋蛎殻町の大問屋の娘でどっかの若殿に手篭めにされそうになった
所を逃げてきたのだ。しかしその若殿の家来が追ってきてるという。
市は彼女を連れて江戸に向かうが、市を喧嘩の助っ人にしようとする堂山の親分、
その敵下妻の一家、市に仲間を殺された女、おみつを狙う籠やの荒くれ者を
巻き込んで三つ巴、四つ巴の争いが始まる!

1作目から4作目までは登場人物につながりが多少あったが、この5作目は
もう前のつながりはなし。
冒頭、賭場のシーンから始まるが、「おい、サイコロ変えたな」と見抜く
所はたけしもリメークした名シーンだ。
(勝新は大暴れせずに、ろうそくをスパッと縦に斬る)

今までの座頭市はは勧善懲悪のヒーローというより、「ヤクザのしがらみから止む無く
人を切ってしまう渡世人」というヤクザ映画の色合いが強かったが、この作品では
勧善懲悪のヒーロー。

前半はおみつを救ってある宿場に来たは言いが、市に仲間を殺された女がおみつを
さらい、しかし江戸まで籠を頼もうと思ったが、今度はおみつが金になると知った
籠やにおみつを奪われて・・・・と二転三転。

そこから救う市のハッタリの面白さ。(キセルの中の火がついたタバコの珠をふっと
吹いて相手の懐に入れたり、お茶を渡す振りをして刀を奪おうとするのだが、
市がすーっと刀を横へずらす、など小技がきいいている)

派手な大殺陣もいいが、こういった小技も効かせてくれて面白い。
また途中、刺客に狙われた時、トンボの動きで敵の気配を知るという神業にも
こちらの頬は緩んでしまう。

ラストは堂山の一家と下妻の一家の決戦となるのだが、市は喧嘩で両方とも
つぶしてしまおうと自らその争いに入っていく。
ところが下妻一家がおみつを誘拐してこの争いに巻き込んで・・・とまたまた逆転。

まあもちろん最後は座頭市が勝つんだけど、今回はストーリーの展開もよく、
テンポもあって勧善懲悪もので面白かった。

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座頭市兇状旅


日時 2003年9月13日
場所 録画ビデオ(衛星劇場)
監督 田中徳三
製作 昭和38年(1963年)

(詳しくはキネ旬データベースで)

旅は流れて市(勝新太郎)は上州下仁田にやってくる。
そこで2作目で倒した飯岡助五郎の弟分、矢切の東九郎(安部徹)の子分に狙われる。
刺客を倒した市は下仁田の町は2代目の若い親分・佐吉が仕切っていて、東九郎ら近隣の
親分たちがその縄張りを狙っている事を知る。翌日、佐吉が仕切るはじめての花会が
開かれる。東九郎は腕の立つ浪人・蛾十郎(北城寿太郎)に花会を荒らさせるように
仕向けるがそこへ市が現れる。

で、蛾十郎の登場で険悪なムードになったところを市が救う。
「刀で勝負だ」という蛾十郎が畳の上にあるお銚子をスパッと真っ二つに斬る。
そしたら市は安部徹が握っていたお銚子を縦にスパッと斬る。
この辺のハッタリが楽しくて爆笑。
こういうヒーローものではこういうハッタリがなくちゃあ。

さらに今回は登場人物に彩りあがり、2作めで明かされた市のかつての恋人、
おたねさん登場。
なんと蛾十郎の連れ合いになっていたのだ。
「今のあたしなんか見られたくない」というおたねに「あっしの知ってるおたねさんは今でも
美しいまんまでさあ」と答える市。
いいねえ、男にとってはやっぱり好きだった人はいつまでも美しいままでいて欲しい。

でついに安部徹は佐吉に「自分の縄張りで起こった争いは自分で始末をつけなきゃあ」と
市を切るように仕向ける。
佐吉は市に「蛾十郎がおたねを人質に市を呼び出している」とウソをつき
川べりの廃屋に連れ出す。しかも市には佐吉が300両の賞金を掛けたのだ。
しかし、その廃屋は安部徹一家らに囲まれてしまった。
そんな中、「市を斬るな」とたしなめるおたねを蛾十郎は切ってしまう。
という訳でそこからは市の大殺陣。

今回は川の中に入ってまでの激闘。
やっぱり川の中の戦いだと水しぶきが上がったり、川に飛び込んだりアクションが派手に
なって迫力が増す。
でみんななぎ倒したところで、蛾十郎との対決。
最後には市の刀が蛾十郎の刀で切られてしまい、「あわや!」となるが市の勝ち。
(どうして勝てたかはここでは伏せる)

蛾十郎が死に際に市に打ち明ける。
「市よ、おたねの本当の姿を教えてやろう。お前に賞金がかかったと知って
おめえを連れ出そうと言ったのはおたねなんだ」「ウソだ。おたねはそんな女じゃない!」
「おんなってのはよう、いつまでも小娘じゃないんだ」
はたして蛾十郎の言った事は本当だったか、死に際の負け惜しみだったか。
男と女は本当にわからない。

出演では黒沢の「八月のラプソディ」の村瀬幸子が佐吉の乳母であり、冒頭で市が切った
チンピラの母として登場。
贅沢を言えば蛾十郎がスター級の役者じゃないのがちょっと惜しい。

今回はアクションも派手で、男と女の思い出裏切りなども織り込まれ面白かった。


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新・座頭市物語


日時 2003年9月10日
場所 衛星劇場
監督 田中徳三
製作 昭和38年(1963年)

(詳しくはキネ旬データベースで)

シリーズ3作目。この作品からカラー。

旅を続けた市(勝新太郎)だったが故郷に帰ってきた。
しかし2作めで斬った勘兵衛の弟と実兄の弟分だった男(中村豊)に
仇と狙われる。
そこへ登場したのは市の剣の師匠、弥十郎(河津清三郎)だった。

2作めでは実兄、3作目では剣の師匠と市の過去が徐々に説明される。
この後、市は弥十郎の妹・弥生(坪内ミキ子)に「夫婦になって欲しい」と
頼まれる。市はもちろん承知するが河津清三郎は「メクラの分際で俺の妹を
嫁に欲しいとは思い上がるのも程々にしろ!」と一蹴。

だが市はカタギになる決意をする。
しかしなかなか足を洗えないのがヤクザの世界。
勘兵衛の弟に狙われるが市は「殴るなり蹴るなり好きな様にしてくれ」と
土下座して頼み込む。

この勘兵衛の弟、なかなか男気のある奴で市がそこまで言うならサイコロで勝負
しようという。
市、サイを振る。
勘兵衛の弟は「半」、ところが出た目は「三、六の半」。当然市の負けだが
勘兵衛の弟、サイコロをくるっとまわして「四、六の丁」にしてしまう。
「俺の負けだぜ。カタギになって幸せにやりな」というようなセリフを残して
去っていく。
ここ、カッコいいよ。

で弥十郎なんだけど、水戸の天狗党なる素は改革の士、だったが今は盗賊に
成り下がった一団と手を組み、自分の弟子を天狗党に誘拐させる手引きを
するという極悪人。その上宿屋のカミさんと不倫している。
でつまらぬ言い争いから弥十郎は勘兵衛の弟を斬ってしまう。

市は誘拐された弟子を助けるため、弥十郎と対決。
図らずも師匠を切った後、すべてを見ていた弥生に「市は所詮はこんな人間でさあ」
と言い、去っていく。

1作目から3作目、全部「斬ってはならない人を切ってしまった」という渡世人の
しがらみからその人を斬らざるを得なくなるヤクザの世界がベース。
勧善懲悪の世界よりこの市の苦悩が重点に描かれている。
だから勧善懲悪のヒーローもの、って言うよりジャンル的にはヤクザ映画の延長
なのですね、「座頭市」の最初のうちは。


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続・座頭市物語


日時 2003年9月9日
場所 衛星劇場
監督 森一生
製作 昭和37年

(詳しくはキネ旬データベースで)

シリーズ第2作。

座頭市は平手造酒の墓参りに行こうと下総を目指していた。
途中立ち寄った宿場町である殿様の按摩をする。
ところがこの殿様は少し気が触れており、そのことを世間に知られまいとする
家臣に命を狙われる事になる。
また同時に片腕の剣客で強盗の凶状もちの渚の与四郎(城健三朗=若山富三郎)
と出会う。
与四郎と市はかつておたねという女性を奪い合った仲だった。

なるほどねえ、市にはそういう過去があったんだ。

今回の見どころは何と言っても勝と実兄・若山富三郎の共演。
物語の仲でも最後に与四郎は市の実兄であり、かつて市が本気で惚れた女・おたねを
奪い、そのことで怒り狂った市が兄の腕を斬ったと説明される。
ラストの兄弟対決、刀を奪われた市が兄の脇差を使って相手を倒すあたりが
一番の迫力。

それにしても市、女にもてるなあ。
今回も立ち寄った宿場町で女に惚れられ、一夜を過ごし、翌朝「まるで夫婦みたいだねえ」
と言われるのだ。

また冒頭のシーンで渡り船に乗っていた市をヤクザが「おい降りろ!」と言われて
船から落とされる時に、相手の刀を抜いて顔を切りつける所がよい。
でもこの「市がメクラだと思ってなめてかかった相手に一杯食わせる」というシーン、
(別に殺陣でなくてもよいのだが)ここぐらいしかなく、(1作目のサイコロのシーンとか、
ろうそくのシーン)笑いの混じったシーンが少ないので私としては不満。


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座頭市物語


日時 2003年9月8日
場所 衛星劇場
監督 三隅研次
製作 昭和37年

(詳しくはキネ旬データベースで)

北野武の「座頭市」が良かったのでその原点の「勝新=座頭市」も見てみようという気になった。
シリーズ第1作。

座頭市(勝新太郎)は以前日光の旅先で知り合ったヤクザの親分、飯岡助五郎(柳永二郎)を
訪ねる。しばらく世話になることを決めた座頭市だったが、その時飯岡は同じ町の
笹川と対立していた。座頭市は翌日釣りに行った先で平手造酒(天知茂)という肺を患った
剣の達人と知り合う。彼は笹川の用心棒として雇われていた。
やがて座頭市と平手の対決の時が来る!


たけしの「座頭市」観た後なのでこちらのテンポの遅さが余計に気になった。
最初に刀を抜くまで30分もかかっているのだ。
もっともこれがオリジナルのテンポなのだろうが。

それにしてもすべての設定の原点がここにあった。(当たり前だが)
博打の壺振りをやって、さいころをわざと壺からこぼし、一度みんなを勝たせておいて・・・・
というあたりは痛快だ。

そして市が何故、剣の達人になったか、は具体的な経緯はまだ示されないにしろ、
「たかがメクラとか、メクラごときにとか、メクラのくせに、と目明きのおめーたちに
バカにされるのが悔しいかった。なんとか見返してやろうと剣を選んだ」と言っている。
「バカにされる悔しさ」から、というのが実に共感できる。
男なら(女でもか)誰でも持っているであろう、「てめーら、いつまでも俺をバカに
してんじゃねーぞ!」という世の中に対する対抗心を実に巧妙にくすぐるのだ。
思わず座頭市を応援したくなってしまう。

またこの映画での座頭市はおでんやの娘に「あたしは市さんみたいな人が好きなんだよ」と
まで言わせるかっこいい男。

そして映画では終盤、平手造酒はついに病気で倒れる。
それを知った飯岡はこの隙にと殴りこみをかける。
鉄砲で座頭市を倒すという笹川に「鉄砲だけは止めてくれ。俺が倒す!」と布団から
起き上がる。
そして対決!

この天知茂が迫力たっぷりで勝新と渡り合っても貫禄負けがない。
「チンピラに殺されるくらいなら、市に殺して欲しかった」と言って絶命するあたりは
敵役の魅力充分だ。

そして市は殺生に嫌気がさして刀をおく。
丸腰で旅立つ市に飯岡のチンピラ(市にほれた女の兄なのだが)が後ろから襲いかかる。
しかし肘鉄一撃でチンピラは川に落ち、消えていく。
「どうせロクな者じゃねえだろう」と一言言い残し、待っている女を置いて旅に出る。

孤高のヒーロー物語の始まりだ。


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太平洋戦争と姫ゆり部隊


日時 2003年9月7日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 小森白
製作 昭和37年(1962年)

(詳しくはキネ旬データベースで)

新東宝を追い出された大蔵貢が作った大蔵映画の旗揚げとして
作った戦争大作。
なんと70mm作品だそうだ。

「明治天皇と日露大戦争」の時に「勝った戦争だから何とでも言える」と
書いたけど、負けた戦争でも都合よく描く。
見てる間、「これは昭和18年製作のいわゆる戦意高揚映画ですか?」
と言いたくなった。
岡本喜八の「沖縄決戦」を見てるし沖縄戦史本も少し読んだから、沖縄の戦況には
全く無知って訳ではないのだが、確かに事実を踏まえている。
でも描写の仕方にはかなり問題ありなのではないか?

沖縄の人々はこぞって日本軍に協力、沖縄戦に参加する。
姫ゆり部隊の少女たちも陸軍病院に派遣が決まった時大喜びする。
まるで遠足に行くのが決まった子供のような無邪気な喜び様だ。
現地の人々で結成された部隊も率先して先祖の墓(亀甲墓)をトーチカに改造し、
「どんな大砲でも大丈夫ですよ、ガハハハハハ」と部隊の一員の上田吉二郎が笑う。
そして「私たちにも鉄砲を持たしてください!」と日本軍に懇願する。
で米軍上陸が始まって当然ながら日本軍は敗退。
でも陣地撤退の時、現地召集兵は「負傷兵は病院へ」と言われると「私らを邪魔者扱い
しないでください」と泣いて頼む。

地元沖縄県民だけでなく日本軍も実に勇ましい。
米軍バックナー司令官戦死の報に、牛島軍司令官(嵐勘寿郎)は
「敵とはいえ、司令官だ。勝敗を見ずじての戦死はさぞ無念だったろう。
謹んで冥福を祈ろう」とこれまた潔い。
そういう風に「日本軍は気高く勇ましく勇敢で卑怯なまねはしない立派な軍隊」
として延々と描かれる。

俺も現場にはいなかったよ。
だからこの辺のことが事実だったのか、事実を美化してるのか証明することは出来ない。
でもはっきり言うけど「沖縄決戦」の沖縄戦の方が真実に見えてくる。

戦闘シーンだが、これがものすごい物量。
迫力はないのだが、戦車は常に5、6台は走ってるし、画面は日本軍も米軍も兵隊で
埋め尽くされてるね。
米軍のエキストラなど体つきもいいし、日本人には見えない。
仮にヘルメットをかぶった日本人だったにしても体格をいい人を集めたような感じ。
大砲はバッカンバッカン撃ちまくるし、広大な敷地で行われる戦闘はなんだか沖縄戦
のイメージとは違うのだが、それにしても金はかかってる感じはする。

でもカメラアングルが根本的に間違っている。
意識して見るからそう見えるのかも知れないけど、確かにおかしい。
例えば日本軍は画面の左に向かって銃を撃つ。
次に米軍が手前から奥に向かって進軍する。
そしたら今度は日本軍が右に向かって撃ってるカットになるのだ。
一瞬日本軍が同士討ちをしてるかのような錯覚に陥る。
これはまずいわな。
また戦闘に参加している兵士の一瞬を描くようなエピソードもなく、
ただドンパチやってるだけ。
まるでニュースフィルムを見ているような冷めた視点になってしまっている。

まあ結論をいうと大蔵貢は「明治天皇と日露大戦争」が大ヒットしたので、勇猛果敢な日本軍を
描けば映画はあたると思ったんだろうな。
でも日露戦争は過去の戦争だし、勝った戦争だから勇猛果敢な日本軍も許されるのだろうけど、
沖縄戦はこの間のことだし、「あの戦争のためにえらい目にあった」と日本軍に
恨みを抱いてる人も多いだろう。

その戦争をここまで美化しちゃいかんよ。
その辺のことを理解しておらず、「偶然あたったヒット作を自分の力だと過信しちゃった
哀れな経営者」に見えてしまうんだな、大蔵貢という人が。


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座頭市

 
日時 2003年9月6日20:50〜
場所 新宿ピカデリー2
監督 北野武

(公式HPへ)

勝新の「座頭市」をたけしに出来るのか?という不安も多かった本作だが、
そんな不安をあざ笑うかのような快作!

座頭市(ビートたけし)はある宿場町にやってくる。だが同じ日に
旅芸人の姉妹、病気の妻を連れた剣の達人の浪人(浅野忠信)がやってくる。
しかもその宿場町は強欲な親分(岸辺一徳)に支配されていた。
どうする、どうなる、座頭市!

北野アクション映画の絶対的な魅力は相手に構える隙を与えない一瞬に
相手を倒すすばやさ、たけしの全身からみなぎる殺気だ。
ボソッと一言言った後でいきなり相手に襲い掛かる迫力は彼独特。
本作でもその魅力は十二分に発揮!

「さいころの音が変わったな」の後の大殺陣、浅野忠信との出会いのシーンで
構えあった後、「こんな狭いところでそんな構え方しちゃだめだよ」の一言、
北野アクションの快感が炸裂する。かっこい〜〜い。

「座頭市」の魅力はメクラだと思ってみんながかる〜〜く扱うところへそれをズバッと
見破り、相手を驚かすところ。
別に暴力だけでなく、「姉さん、三味線の弦外してなにやってんだい?」とか
「メクラの方に薪割ってくれって言ってもねえ」と言われたら次のシーンで薪を
割っている。
我々も普段、人から「かるーく見られてるな」という被害妄想かも知れない劣等感に
襲われることがある。「実はそうじゃない」というのを示してやりたいという
我々の願望をスパッとやりのけてしまうのが、「座頭市」。

でもストーリーや人物設定など話のベースにしているのはむしろ黒沢の「用心棒」ではないか?
浅野忠信が昔なら仲代達矢がやってそうな役柄だ。
もっとも僕は肝心の勝新の「座頭市」は「座頭市と用心棒」という異色作しか見てないので
的外れなのかも知れないけど、三十郎の話を座頭市に演じさせたような気が・・・
ラストの浅野忠信との対決なんて絶対「椿三十郎」だと思うよ。

でその浅野忠信なのだが、はっきり言って迫力不足。たけしほどの殺気がない。
もっとも今の俳優でああいう殺気のある人はいないので誰がやっても不満が残ったかも
知れないけど。
ガダルカナル・タカがコメディリリーフとしての起用は大成功。
北野映画でこういう笑いのシーンがあるのは実はめずらしいのではないか?

まや公開前は不安視されていたタップダンス。意外にも違和感はなかった。
もともと和太鼓はリズムがあって思わず体が動いてしまうよな快感がある。
太鼓の皮を叩くだけでなく、その合間合間にカツンカツン太鼓のふちを叩いて音のアクセントを
つけるところなど実に心地よい。
そうなればタップダンスのような打楽器的なリズムと結びつくのは当たり前だったかも。

惜しいのは浅野忠信、旅芸人姉妹の回想シーンに時間を掛けすぎてるところ。
いっそカットするかして欲しかった。どうもこの回想シーンのおかげで
中だるみがしてしまう。
彼らがどのような経緯があったのかは説明しなくても、観客に想像させるほうが
良かったのではないか。

最後に登場する岸辺一徳、石倉三郎の黒幕親分、途中途中、声が登場するので
バレバレでオチになってないよ、と思っていたら、さらに上の親分がいたのですね。
おみそれいたしました。

やっぱり北野武は今の日本映画になくてはならない存在。
そして勝新の座頭市も見たくなってきた。
少し見てみましょうか、勝新=座頭市。


追記
祝・ベネチア映画祭監督賞受賞!

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天使の牙 B.T.A


日時 2003年9月6日16:20〜
場所 シネマミラノ
監督 西村 了

(公式HPへ)


女刑事・河野明日香は同僚と共に麻薬密売組織のボス君国(萩原健一)を
追っていた。君国の愛人、神崎はつみ(佐田真由美)が警察に保護を
申し出てきた。はつみと接触した警察だったが、明日香とはつみは銃撃されてしまう。
明日香の脳をはつみに移植する手術が行われ、成功する。
はつみの体をもった明日香は「アスカ」として生まれ変わり、君国の組織に
潜入する。
警察の裏切り者は誰か?明日香の恋人・古芳刑事(大沢たかお)が裏切り者なのか?


騙された。2つの点で。
この映画のポスターの絵柄を貼り付けるけど、私が見に行く気になったのは
このポスターの人物をカッコいい!と思ったからだ。
濡れた髪の上半身裸のセクシー美青年!と思ったから。
だが実はこれは男性ではなく、アスカ役の佐田真由美だった。

そして麻薬組織の潜入捜査もの、を期待したが、どちらかというとラブストーリーに
重点をおいた映画だった。
ほら、死んじゃったけど、魂だけが他人の体に乗り移ってどうしたこうしたというような
ラブストーリーの一つのパターンがあるでしょ。あのパターンなわけですよ。
しかも脳移植とか出てきてSFラブストーリーだ。

大沢たかおの刑事がアスカに向かって恋人だった明日香の思い出を切々と語ったり、
またアスカの方も体ははつみでも心は明日香だから、「その恋人も解ってたと思うよ」
告白するあたりは安易なラブストーリーそのもの。

大沢たかおが「裏切り者か?」と思われるんだけど、「逆転逆転、敵か味方か?」というような
話にテンポがないので、ちっとも盛り上がらない。

あと警察内部の裏切り者ね、こういうの、誰が裏切り者でも全く驚かなくなってしまった。
また西村雅彦が警察官僚役なのだが、似合わない似合わない。
見ていてコントを見てるような気分になった。

映像面では初監督の西村了、この人テレビドラマのオープニングタイトルを作ったり
CG方面で活躍されていた人だそうだが、CG作家にありがちなとろい映像が多い。
拳銃の銃弾がスローモーションで頭にあたるところとかさ。
(もともと「マトリックス」なのだろうが)
あと最近の監督が好きなワンカットの中でスピードが変わったり、強調のために
フラッシュが光ったような白くなる映像処理、そういうの、止めた方がいいよ。

ああいうのはCMとかオープニングタイトルとかの数十秒、あるいは2、3分で
完結する映像ならカッコいいんだけど、映画は2時間のリズム、文法があるわけで。
だから何回も言うけど、文法が全然違うんだから、その辺を気づかない内は
ダメですね。
何でわかんないんだろう。


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