2004年12月

吸血蛾 ターミナル 幽霊男
ハロー!フィンガー5 ニワトリはハダシだ レディ・ジョーカー 理由
北京原人の逆襲 スカイキャプテン
ワールド・オブ・トゥモロー
ゴジラ 
FINAL WARS
ひとりだち

吸血蛾


日時 2004年12月31日
場所 録画DVD
監督 中川信夫
製作 昭和31年

(詳しくはキネ旬データベースで)


ファッションデザイナーの浅茅文代の元に妙な歯形のついたりんごが送り届けられる。
それをみた文代は気絶してしまう。どうやらそれを届けた狼のような顔をした男が
関係ありそうだ。
次々と起こる連続殺人。
ファッションモデルたちが全裸で殺されていく。
文代と狼のような男の間に何があったのか?
そして連続殺人の犯人は??

ファッションデザイナーの世界を舞台に起こる怪奇連続殺人事件の謎を
金田一耕助が説く!
要するに「幽霊男」と同じく怪奇エロス映画で、風呂場に浮かんだ乳首を蛾で隠した
モデルの死体が登場したり、踊りのレビューのラインダンスで死体の足だけが操り
糸で踊ったり(このシーンは話の設定上かなり無理があると思うが)する。

金田一耕助もパリッとしたスーツを着こなしたしゃれた男で登場。
演じるは二枚目の池部良。刑事たちが事件の話をしていると「それは違いますね」と
タバコをくゆらせながら登場するシーンなどは二枚目の見せ場だ。

で事件はヨーロッパの狼男伝説が絡んできたり(デザイナーがヨーロッパ留学中に
知り合った男が狼男で、時々狼に変身するので逃げてきたというのだ)なんだか
よくわからなくなり、途中で金田一も犯人に撃たれて池に落ちたりする。

この事件を複雑にしてるのは狼男に変装したのが複数いるところ。
だから連続殺人事件の犯人は一人ではないわけで、そこがミステリーとしてはミソなんだが
その辺はあまり詳しく説明せず、死美人の部分だけが印象に残る。
そして最後はいちばん犯人役に似つかわしくない人が連続殺人の犯人となって終わる。
この犯人役は驚いた、というかあまり唐突で少し唖然とした。

石坂浩二=市川崑以前の金田一ものはこんな感じだったのだなあ。
だからこそ市川版が余計にあの当時は新鮮だったのでしょうね。


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ターミナル


日時 2004年12月30日19:00〜
場所 ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズ
監督 スティーブン・スピルバーグ

(公式HPへ)


東欧の小国クラコジアからニューヨークのJFK空港のやってきたビクター・ナボルスキー
(トム・ハンクス)は入国審査で足止めを食らってしまった。
なんと祖国クラコジアはクーデターで政府が転覆し、彼の祖国はなくなってしまったため
入国ビザは取り消し、彼はアメリカに入国することも帰国することも出来なくなってしまった。
空港責任者に「とりあえず待っていなさい」といわれたビクター。
しかし彼の滞在は何ヶ月にも及ぶこととなる。

スピルバーグのハートフルコメディ。
途中から気になったが、この映画、寅さんではないだろうか?
そういう風に見るとトム・ハンクスのもじゃもじゃ頭や広いおでこが渥美清に見えてくる。
友達の空港ターミナルの職員たちはさしずめ佐藤蛾次郎や関敬六で、ターミナル内の各店は
柴又の表参道の商店街の人々か。
そしてトム・ハンクスは若者の恋愛相談に乗ったり、美人に恋をしてやっぱり振られるのだ。

トム・ハンクスがアメリカにやってきた理由は「ジャズ」だ。
また「フランスにシャンソン、アメリカにジャズ、日本に演歌あり」と言ったのはたしか
北島三郎だが、やはりジャズといえばアメリカを象徴するアイテムだろう。
昨今のイラク戦争などで何かと嫌われることの多くなったアメリカだが、「ジャズを求めて
アメリカにやってきた」というのはそういう風にもう一度海外からも愛されるようになりたい
というスピルバーグ自身の願望のような気がする。

また最近はIT革命のおかげで以前よりもましてスピードばかりが重視される。
そのスピードの速さに人間自身がついていくのにくたびれかけているというのに。
そんな中、トム・ハンクスはじっと待ち続ける。
待つということのすばらしさを説いているかのようだ。

映画全編を貫いているのは「人間が生きていくには大切なのは法律や規則ではなく
人情なのだ」という精神。
すべてにおいて貫かれるのは「人々の心のふれあい、助け合いの大切さ」だ。

月並みな言い方になるが、それこそ現代社会でいちばんなくなったもの、それを
取り戻そうという視点は、アメリカも日本も変わらないようだ。
僕みたいな意地悪な人間には、ちょっと甘すぎる気もするが、総じていい映画なんじゃないか。

PS
「トワイライトゾーン」の話を空港責任者がするシーンがあるがその中に出てきた
「3万フィートの恐怖」ってウイリアム・シャートナーが出演した飛行機の外で怪物が
飛行機を壊そうとする話じゃなかったっけ?
空港責任者も子供の頃から飛行機好きで、それが今の仕事につくきっかけになったという
裏設定があるのかも知れない。
そしてプロポーズを受け入れるところ。
トレッキーとチラッと説明されたが、手をかざして中指と薬指をあける形に手を開くのは
(私の記憶に間違いがなければ)スポックのバルカン人の挨拶ではなかったろうか?
そういったスピルバーグらしい小ネタが個人的には面白かった。


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幽霊男


日時 2004年12月26日
場所 録画DVD
監督 小田基義
製作 昭和29年(1954年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


ある精神病院から気狂い画家といわれた男が脱走した。
翌日、銀座のヌードモデルクラブに「幽霊男」と名乗る奇妙な男の依頼で
モデルを派遣した。しかしそのモデルは遅くなっても帰ってこない。
心配した仲間はその派遣先のうちに行ってみると風呂場で死体となって発見された!

横溝正史原作の金田一耕助ものだが、見慣れた着物姿での登場ではなく、河津清三郎
演じるダブルのスーツを着こなしたダンディな姿だ。
よく知られていることだが、金田一耕助がよれよれの着物姿で登場したのは
昭和56年の「犬神家の一族」の石坂浩二から。

この頃の金田一耕助は明智小五郎と大差ない感じ。
映画のお話のほうはこの後、伊豆のホテルでのヌード撮影会でモデルが裸で殺され
水槽に浮かんでいたり、レビューの劇場で死体がナイフで刺された姿で舞台につるされたりと
猟奇的。
登場人物もヌードモデルだから死体写真なのでは胸があらわになり、全体としてエログロ
新東宝っぽいのり。

もうそういう扱いだったんででしょうねえ。
考えてみれば横溝正史の他の作品も「獄門島」にしろ「犬神家の一族」にしろ、死体を
飾る、という猟奇的な感じがするのだが、市川崑のおかげで美しさの域に達していた。
現在の横溝正史ものの基本は市川崑が作ったと考えても間違いではなかろうから、
いかに市川作品が優れていたかうかがい知れる。

で犯人のほうはなんだかよくわからないまま解決。それほど意外な人物ではないことは
わかった。

それにしても映画とは直接離れるが、この映画、同時期作られた「透明人間」に欲にている。
顔中に包帯を巻いた男とか、銀座の前での群集シーンとか、ラストがビルの屋上での対決とか
主演は河津清三郎だし、監督も同じ小田基義だ。
案外、同時に並行して撮影していたんじゃないだろうか?
なんかそんな気になった。




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ハロー!フィンガー5


日時 2004年12月25日
場所 録画DVD
監督 福原進
製作 昭和49年(1974年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


映画といっても20分の短編。昭和49年3月21日の公開だからたぶん「東宝チャンピョン祭り」
の中の1本としての公開だろう。
フィンガー5についての解説はいまさら必要ないだろうが、昭和48年に「恋のダイヤル6700」
でデビューした沖縄出身の兄弟グループ。

映画は今は「楽天地ビル」として建て変わっている「江東劇場」(たぶん)でのリサイタル
(ライブではなくこの当時はこの言葉のほうがしっくり来る)での「個人授業」を歌うシーン
からスタート。
その後沖縄に彼らが帰る飛行機の中で機内食を食べてるところでインタビュー(といっても
「好きな食べ物は?」とか「好きな科目は?」みたいなたわいもないもの)シーンがあって
「学園天国」をバックに沖縄に帰っての砂浜で遊んだり、カメラに向かっておどけた顔を
してみせたりするカットあり。

で沖縄でのリサイタルシーンでは「恋のダイヤル6700」を歌う。
でまた砂浜を走る彼らのシーンで終わる。

内容としてはたいしたことはないんだけど、人気絶頂期のフィンガー5の活躍を見るには
貴重な映画だ。
テレビの「あの人は今?」的な番組で時折紹介される彼らだが、ほんの数分しか当時の映像は
流されないから、20分も見ることが出来るのはまれなのだ。

当時私は小学生だったが、クラスの女子のほとんどがファンで、初恋の女の子も夢中になっていて
一番人気のボーカルの晃に嫉妬した覚えがある。
フィンガー5についてはそんな個人的な記憶ともに他の70年代アイドルとは違った格別な
思い出がある。

しかし今見ると(別にフィンガー5に限ったことではないが、当時のアイドルは)実に芸がない。
カメラに向かって変な顔をするのが精一杯だ。
常々思うが今のジャニーズJrのほうが、当時のアイドルよりタレントとしてのレベルは
はるかに高い。

そんなフィンガー5だが、人気絶頂だったのは正味1年ぐらいだったと思う。
ヒット曲も「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」そして(この映画には登場しないが)
「恋のアメリカンフットボール」の4曲だ。
しかし今でも「ウォーターボーイズ」(映画版)にも「学園天国」が使用され、(ずいぶん以前だが)
小泉今日子もカバーした。
もはやカルト的人気といえるフィンガー5。
その現役時代の活躍は短かったが、その楽曲は(おそらくは同時代のどのアイドルよりも)長く
生き続けているのだ。



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ニワトリはハダシだ


日時 2004年12月23日16:00〜
場所 イメージフォーラム1
監督 森崎東

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舞台は真鶴。この土地は軍港として、そして戦後は引き揚げ船の港として栄え、
今はロシアの貨物船も出入りする。
そんな中、知的障害者の通称サムは父(原田芳雄)と暮らしていた。
ある日記憶力は秀でているサムは中古自動車の中あったあるベンツを記憶した。
ベンツの中にあったノートの中身も記憶した。
ところがそのベンツは盗難車両でしかもやくざから検察庁の検事(岸辺一徳)に
贈られたもので、ノートとは検察庁の裏金の帳簿だったのだ!
サムたちは事件を隠蔽しようとする警察ややくざに追われる羽目になる。

森崎東監督らしい庶民的痛快人情喜劇。
舞鶴のごちゃごちゃしたたたずまい、昭和30年代とあまり変わっていないような
風景、ちょっと下ネタ(船からウンコをするところなど)があるところなど
森崎ワールドだなあと思う。
実は森崎監督作品は4本ぐらいしか見てないのでそんなこといえる資格はないのだが。

知的障害者、在日朝鮮人、ロシアの貨物船などのどろどろしたアイテムが盛り込まれている中
映画は快調に進んでいく。
そして検察庁の裏金つくりという大汚職事件を軸に話は展開する。
ロシア人も朝鮮人もたくましく生きる。
権力などに負けずに自らの生きるエネルギー満点で生きていく。
そのパワーはすがすがしい。

ラスト、やくざは知的障害者たちの建物をブルドーザーで壊そうとするわ、パトカーは
何台もやってくるわ、海に沈めたベンツをクレーン車で引き上げるわで、なかなか
大仕掛け。
しかしこのくらいは昔の日本映画ならそれほどのことではなかったはずだ。
松竹作品なら驚きもしないが、東京で一館だけでしか公開されないようなミニシアター
映画でこれだけのことをするのは驚いた。
スタッフの努力がうかがわれる。

出演は主役のサムの浜上竜也、養護学校教師の肘井美佳の両新人が好演。
しかし岸辺一徳、このところ見た「理由」「レディジョーカー」と3本続けて出演している。
もちろんいい役者で使いたくなるのはわかるが、製作者ももう少し役者を探してほしいなと
思う。同じ役者ばっかり使ってないでさ。






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レディ・ジョーカー


日時 2004年12月18日16:00〜
場所 丸の内TOEI
監督 平山秀幸

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日本有数のビールメーカー日の出ビールの社長、城山が誘拐された。
数日後、城山は解放され、犯人たち(渡哲也、大杉蓮、加藤晴彦、吹越満、吉川晃司)
は5億円を要求する。払わなければビールに毒物を混入するという。
しかし実は犯人たちは20億円を要求していた。裏取引に応じる日の出ビール。
警戒した警察は刑事の合田を社長の護衛兼見張りとして張り付かせる。

90年代末のベストセラー小説の映画化。
そして製作日活、配給東映、石原プロ全面協力の製作だ。
原作発表当時、私は読んだが実をいうと全体としてあまりいい印象を持たなかった。
「グリコ森永事件」をベースにしたことは誰の目にも明らかだったが、
脅迫事件としての面白さは最初だけで、しまいに話が収拾つかなくなった感想が
あるのだ。

原作の上巻の3分の一は犯人たちが犯行にいたる経緯、心情がつぶさに描かれ、
こちらの気分が最高潮に達したところで、物語の視点は脅迫される城山社長側になってしまい、
犯人たちは脇役になってしまう。
以後、岡田経友会なる総会屋とかが絡んできて、「社会の底辺にいる人間」が「巨大企業に
戦いを挑む」という話はどっかへいってしまい、読み進むに連れて話がどんどん別のほうへ
行った覚えがあるのだ。

膨大な原作を2時間の映画にしたものだから、もうかなり話ははしょらざるを得ない。
でも案外それでよかったかも気がする。
先に述べたように原作からして話が広がりすぎてまとまりが悪くなってるから
映画ではそれをダイジェストにしてそれなりに楽しめる作品にはなったと思う。
しかし欲を言えば「社会の底辺の人間VS巨大企業」の構図に絞りきって
5人の犯人たちのキャラクターをもっと明確にした映画を見たかった気がする。
(もっともそれでは原作者には不満をもたれるだろうが)

キャストでは合田役の徳重聡。評判があまりよくない気がするが、そんなにひどくは
ないと思う。ただし周りが芸達者なバイプレーヤーに囲まれているだけに
やはり並んだときの「格下感」は否めない。
男らしい精悍な顔つきだが、今後に期待しよう。
ただし今の日本映画界で彼のキャラクターが生かされる映画が製作されるかが心配だ。
あまり大切にしすぎて賞味期限が切れてしまわないことを切に祈る。

あと渡哲也。
原作のイメージではいかりや長介のような枯れた感じだったので、ちょっとエネルギッシュすぎる
気がする。
犯人グループ(大杉蓮、加藤晴彦、吹越満、吉川晃司)はいずれもよく、特に吉川晃司の警察内部
にいて警察の動きを嘲笑を浮かべる姿は実にさまになっていた。



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理由


日時 2004年12月18日9:30〜 
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン4
監督 大林宣彦

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1996年6月。荒川区のある高層マンションで殺人事件が起きた。
20階の部屋で3人が殺されているのが発見され、その部屋から一人の
若い男が転落した。
しかし被害者は住民台帳に載っていた一家ではなかった。
しかも死んだ4人は家族でさえなかった。
一体何があったのか?

ご存知宮部みゆきのベストセラー小説の映画化。
結論から言おう。ベストセラーの映画化は大抵原作のファンのは不満足に
終わるものだが、これは別。
あの「理由」の独特の世界を見事に映画化した。

原作はるルポルタージュ形式で「主人公によるドラマ」はない。
この事件に直接、間接にかかわった人々の証言を並べていくという斬新な手法だった。
原作を読んだ時には「映画化の際には独自のドラマを構築するしかあるまい」と
タカをくくっていた。しかもそのやり方で映画化したら失敗するなと思っていた。

ところが大林宣彦は真正面からこの作品の映画化に取り組んだ。
多くの証言者たちがカメラに向かって「その時」を再現したりしながら自分の
知っている事実を語っていく。
岸辺一徳をはじめとするバイプレーヤーたちの共演が飽きさせない。

そして徐々に明らかになる真実。
それは80年代〜90年代のあのバブル景気といわれた土地神話によて生み出された
ひずみが事件のベースになっていく。

誰もが「ワンランク上」の生活を望み、「他人より上にいること」が目標とされた
時代だった。
子供を私立の中学に入れたい、そしていいマンションに住みたい。
小糸信治(山田辰夫)があのマンションを購入したのもつまりは「見栄」から
きたものだった。
そして石田直澄(勝野洋)がマンションを購入したのも自分を退職させた会社
を見返してやりたいという理由だった。

いくつもの家族が抱える「理由」が複雑に絡み合って事件は起きていく。
この国にあるいくつかの家族像がクロスオーバーして「殺人事件」となっていく
壮大なドラマだ。

時折デジタル画像が挿入され画質が荒くなるのが気になるが総じて上質の作品だ。
大林宣彦というと「初恋の思い出」がどうしたこうしたというようなナンパな映画が
多いイメージがしてあんまり買っていなかったが、この作品で見直した。
さすがベテラン監督だ。



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北京原人の逆襲


日時 2004年12月12日
場所 DVD
監督 ホー・メン・ファ
製作 1977年(日本公開1978年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


香港の興行師ルーはかつてインドの山奥で現れた強大な北京原人を捕獲して
大興行を打とうと企画する。その捕獲探検隊の隊長に選ばれたのが
弟に恋人を寝取られたチェン。
ルーやチェンたちの一行は途中で象の大群に襲われたり、いろいろあって
途中でチェンを除く全員が探検隊を抜け出した。
ただ一人残ったチェン。
そこへ北京原人が現れた。そして女ターザンとも言うべき野生の金髪美女アウェイも
登場する。
この後この巨大生物とチェンとアウエイの運命は??


この映画は封切りのときも見ている。
しかもカンフー映画ブームにのっとったその日本版「カラテ大戦争」なる怪しげな
映画との2本立てだった。
当時リメイクされたキングコングの完全なパクリ企画。
(そういえば香港は英語表記だと「HONGKONG」だからこの映画も「ホングコング」と
言っていた人もいたような気がする)
当時、ゴジラも休んでいるときで日本映画では「怪獣映画」、というジャンルが消えていた時代
だったからその代わりとして見に行った記憶がある。

だから今回、実に26年ぶりに見たわけだが、「こんな映画だったっけ?」という気持ちに
なったのだ。
大体のストーリーは覚えていたのだが、こんな女の取り合いみたいなのが絡んだ映画だったとは
意外だった。
まず主人公からしてテレビプロデューサーの弟に歌手だった恋人は寝取られるし、北京原人を
捕まえてからはその元の彼女がよりを戻そうとか行って来るし、なにより強烈なのが
金髪美女のアウェイだ。

金髪美女が半裸で登場し、胸と腰を覆うのはわずかな皮のみで胸なんか乳首が見えそうな
ぎりぎりのラインまで下げている。
「今乳首見えなかった?」と思わず巻き戻してしまうほど映画を見てる最中やたら気になった。
ジャングルの動物や北京原人に育てられた彼女だが、初めて見る男の主人公と仲良くなり、
すぐ肉体関係になってしまう。(このときに乳首がチラッと見えたような気がした)
この主人公も女に関しては節度がない。

まあそれだけじゃなくて前半の北京原人登場までは探検隊は象の大群に襲われたり
絶壁の崖をよじ登ったり、いろいろ冒険映画の要素は詰め込んでありサービス精神は
旺盛だ。
金髪のアウェイもそのサービス精神の賜物だったと思えば作者の意欲は評価すべきかも。

で、肝心の北京原人。
オープニングのインドの山奥の村を襲うところから登場。
映画が始まってひと暴れしてくれる。
このシーンなど逃げ惑う人々のバックで北京原人が暴れるところとかの合成カットがよい。
あとは後半の香港の街を襲う北京原人シーン。
東宝特撮の腕が冴え渡る。(特撮シーンは有川貞昌をはじめとする東宝特撮チームが
香港に行って撮影した)

でラストはお決まりでビルによじ登った北京原人を攻撃するため、ビルの貯水タンクの
中をガソリンにして火を放つという荒業にうってでる。
高層ビルの貯水タンクといってピンとくればあなたも70年代映画フリークで
言わずとしれた当時大ヒットした火災パニック映画「タワーリング・インフェルノ」の
パクリ、というか「いただき」。

映画の全体の出来は決して高くないものの、娯楽映画の要素(半裸の美女も含めて)を
出来るだけ詰め込もうとした香港スタッフの意欲は買うべきでしょう。



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スカイキャプテン・ワールド・オブ・トゥモロー


日時 2004年12月11日22:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン7
監督 ケリー・コンラン

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1938年のニューヨーク。飛行船ヒンデンブルグ三世がエンパイヤステートビルに
やってくるそんな時代。
女性新聞記者ホリー・パーキンスは科学者たちが次々と失踪する事件を追っていた。
そんなときニューヨークの街に巨大ロボットが出現。街を破壊し始める。
出動するスカイキャプテン!
果たしてこのロボットたちの正体は?

実は私にはちょっと見てみたい、というか作ってみたい映画の企画があって
それはどんな映画かというと一言で言えば「連合艦隊対火星兵団」だ。
昭和15年ぐらいを舞台にして日本にやってきた火星人と空母赤城をはじめとする
機動部隊が対決するというストーリー。

アメリカにも同じことを考える奴はやっぱりいたのかと思って見に行ったのが
この映画。
予告編などで巨大ロボットがニューヨークの町を破壊するシーンを見て「おお怪獣映画っぽい」
と思って期待したが、結果は少しはずされた。
ニューヨークの町を破壊するのはオープニングだけで、話は途中から巨大ロボットを操る
電波がチベットから発信されているらしいということで舞台はチベットへ。
ここで秘密基地に潜入しインディ・ジョーンズばりの活躍をする。

だから自分が期待した怪獣映画のようなテイストはどんどん薄れていった。

ほかにも気に入らない点(というか残念な点)はいくつかあって、まず「スカイキャプテン」とは
何者なのか????
「スーパーマン」とか「バットマン」のようなお決まりのヒーローとして登場するが、これが
初登場なのだから設定はきっちりと説明してほしい。
いきなり登場されてもねえ。
なんだかNY沖に基地があってそこに天才科学者がいたりするが、設定がきっちりしてくれないと
疑問符が頭の中に生じたまま話が展開してしまう。

また空中空母という魅力的なスーパーウェポンが登場するが、いまいち活躍がない。
あと空水両用戦闘機とか(水中時に羽の抵抗が大きすぎて不効率な兵器だと思うが)博士が
発明したレーザーガンとかもっと見たかったが、その辺のメカの活躍を見せるのは
作者の希望ではなかったようだ。

そしてキャラクターもアイパッチをした女艦長とか天才科学者とか新聞の編集長とか敵の謎の女とか
面白そうなキャラクターはたくさんいたが、これも活躍がなく、足を引っ張る馬鹿な女新聞記者と
スカイキャプテン二人ばかりが活躍する。
その辺もちょっと残念でしたね。
(でも新聞記者のカメラのフィルムが2枚しか残っていないシーンで「今撮るかどうするか」を
迷う笑いの要素は面白かった)

画面は昔の映画風のソフトフォーカスな感じをカラー着色した感じ。
嫌いではないが、全編この映像ではやや飽きと疲れを感じた。

つまらなくはなかったが、期待した出来ではなかった。



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ゴジラ FINAL WARS


日時 2004年12月4日13:40〜
場所 日劇PLEX1
監督 北村龍平

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舞台は20XX年。度重なる怪獣の攻撃に地球防衛軍が組織されていた。
そこへ突然各地で怪獣出現。そんなときX星人がやってきて怪獣を倒してくれる。
X星人が言うにはまもなくゴラスという彗星が地球に衝突するという。

ストーリーの紹介はこのぐらいに。
正直言ってこの映画の話題はもうしたくないのだよ。
思い出すだけで腹がたつ。気分が悪くなる。
こんなに気分が悪くなった映画は「リリィシュシュのすべて」以来だ。

監督が北村龍平と聞いたときからいやな予感はしていたが、その予感は的中した。
要するに主人公をミュータントという設定にしてまた「マトリックス」を作っているのだ。
全編「マトリックス・ゴジラリローデッド」という感じ。

肝心のゴジラはあまり登場せず、松岡昌弘とケイン・コスギのワイヤーアクションが
延々と続けられる。
最初の訓練シーンに始まってしばらくたって高速道路でのバイクアクションシーン。
このバイクアクションシーンはもう完全に「マトリックス・リローデッド」の高速道路シーンの
安っぽい焼き直し。見ていてどうしてこんなことをやるのか理解に苦しむ。

パクルとか影響を受ける、というのを否定はしないが、やるならもう少しうまくやってほしい。
同様にケインコスギが後半X星人の宇宙船に突っ込むシーンがあるが、これなんかは
「スター・ウォーズ(第1作)」(77年製作のやつね)のラストのデススター突入の
焼き直し。

そしてまた延々と続けられる北村一輝とのワイヤーアクション。
ゴジラの活躍なんか出てこないのだよ。
そして篠原なんとかとか大槻教授とか角田何とかとかどういうわけだか木村大作とか
わけのわからんゲスト出演者たち。
「ゴジラ(84)」の武田鉄矢以来のうるささだった。

とにかくもう話したくないよ。
映画掲示板でも今度の「ゴジラ」は評判悪いし、特撮関係の友人でもみんな文句たらたらだった。
要するにゴジラファンには受けが悪いことは確かなようだ。
北村龍平ファン(一部にはいるらしい)にはどうだったのだろう?

とにかく北村龍平の映画はもう見ない。
私は職業映画評論家ではないので、見なくたって構やしないのだ。
北村氏はハリウッドで仕事がしたいらしいので早くとっとと行ったらいいのだ。
そして皿洗いでもやるのがお似合いだろう。

でもこれだけ不評なのにこれだけの大作のオファーがきて、そして制作費を出させてしまうのは
すごい。
たぶん彼の才能は映画監督としての才能より、自分の作りたい映画を作る環境を作る才能が
長けているだろう。
それを「ハッタリ」とか「口がうまい」とかいう表現もできる。
しかし自分のやりたい仕事をする環境を整える才能というのはやはり重要だ。
ただし私はもう見ないけど。

かといってまったく見所がないわけではない。
最初の「TOHO SCOPE」マークと次にくる「円谷英二・本多猪四郎・田中友幸氏に捧ぐ」
のタイトルとか、宝田明が「私も昔は『100発100中』と言われたもんだ」(尚パンフレット
に『岡本喜八監督作品』とあるがあやまり。岡本喜八は脚本)と言ってみたり
登場人物の名前が過去の映画の人物の名前だったりと細かい遊びは随所にあってそれは楽しい。
しかしメインの映画が駄目だからなんか楽しみきれないんだよね。

特撮シーンは上海のアンギラス、ニューヨークのラドンなどはかっこよく、実によかった。
もう少し長い時間見せてほしかったなあ。

まあこんなところかな。
とにかくこの映画についてはこれ以上語りたくないです。
北村龍平にはハリウッドで皿洗いをやってほしいなと思う。
切に思う。



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ひとりだち


日時 2004年12月1日
場所 アップリンクファクトリー
監督 越坂康史

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私が応援している俳優・塩田貞治くんの主演映画。
映画といってもビデオ作品で上映時間は48分という中篇。

美容師の矢澤梨花(三輪ひとみ)は無職の青年福田稔(塩田貞治)と同棲中だった。
ある夜、梨花は道でうずくまっている女性・芙美子(大工晶子)を助ける。
家に連れて帰って休ませていたが、彼女は偶然にも稔の美大時代の後輩だった。
今は絵を描くのをやめていた稔だったが、芙美子は彼に自分の絵を描いてほしいという。
はじめは渋った稔だったが、彼女が病気でもう長くないと聞かされ、彼女の絵を描く
気になる。
梨花に内緒で芙美子と会いながら絵を描く稔。だが梨花は芙美子の見舞いに行きたいと
言い出し、稔は観念して芙美子の絵を描いていることを白状してしまう。
梨花に申し訳ないと思う芙美子は死ぬというのはうそだと打ち明ける。
一旦は気が抜けた稔だったが、だがそれは梨花に心配をかけたくないという芙美子の
心遣いから出た言葉だった。
芙美子が入院するにいたり、やはり彼女の命が短いことを知る。
本気になりデッサンのやり方から練習しなおす稔。
絵が完成した時、芙美子は息を引き取った。
彼女によって自分にとっての絵を描くことの意義を再発見した稔はそれまでの
生活を改め、絵画教室の先生として絵を描き続ける決意をする。
梨花はそんな稔を受け入れ、二人は別々の生活を始めるのだった。


ソフト化される確率はかなり低いのでストーリーは全部書いた。
これが出来としてどうだったかというと、一言で言って学生映画を見てる気分になった。
なんか映画研究部の学生が友達集めて作った映画と同じレベルのなのだ。

何しろ僕は塩田くんを応援している立場のでこの映画も誉めたいのだが、それはちょっと
つらい。
以下どのあたりがよくないか検証したい。

まず技術的な問題。
ビデオ撮りの安っぽさは許すとして、音が最悪。
余計な音まで拾っているのだ。
コーヒーカップがカチャカチャいう音とか、人が歩くときの靴音とか道路を走る車の
音とか必要以上に拾っている。
はっきり言ってホームムービーで同録したようなレベルなのだ。
また画像にいたってはブロックノイズが発生してるカットがあった。
もうプロの仕事ではない。

次にシナリオ。
塩田くんの主演映画なので合計3回見たのでいろいろと気がつくのだ。
もちろん普段映画を見てるときでも「その展開はないだろう」と思う時はあるのだが
それにしてもひねりがない。

まず最初。
主人公の梨花はおばあちゃん(あ子)の経営する美容室で働いているのだが
そこへ稔がパチンコ代5000円を借りに来る。
ここへおばあちゃんのナレーションが入るのだが、「矢澤家の女性は男では苦労する
星に支配されているようで・・・」とそんなグータラな稔との交際を認めている。
普通肉親だったら働きもしないヒモのような男との交際は反対するのではないだろうか??
梨花がそんな男と付き合うのはまあ有り得るとして、おばあちゃんは交際に反対する立場に
いたほうが「おばあちゃんに見つからないように付き合う」という形でひねりが出せたのでは?

そして梨花と芙美子の出会い。
倒れているところを偶然通りかかる、という偶然性は許すとしてその後家に連れて行くのは
おかしいと思う。
物騒な昨今、見ず知らずの他人を家に上げるのは無用心だ。
ここは彼女を家に連れて行かざるをえないシチュエーションが必要なのでは?

稔との再会。
再会したときに稔は彼女のことをほとんど覚えていなかったことになっている。
しかしこの後の展開を考えると(それはそれであざとい気もするが)かつて二人は
付き合っていた、という設定のほうが盛り上げやすいのではないだろうか?
でなかったらまったくの初対面だ。

また稔と芙美子が再会するシーンだが、稔がパチンコに大勝して帰ってくる。
その時に稔は景品がいっぱい詰まった大きな紙袋を抱えて、すしも持って帰ってくる。
パチンコで大勝したことを示すのに「景品がいっぱい詰まった大きな紙袋」を抱える、
というのも時代が古くないか?
いまどきのパチンコは勝ったら両替してしまうから、「景品がいっぱい詰まった大きな紙袋」
というのは「4コマ漫画のサザエさん」の世界の話ではないか?
同じ理由ですしを買ってくるというセンスも古い。
ここはブランドのハンドバックでも持ってきたほうが今風だ。

そして芙美子が不治の病だという話。
いまどき不治の病というのは話としていささか陳腐ではないだろうか?
「愛と死を見つめて」か大映ドラマの世界だ。
いったい何年づれているのだ。

また稔が絵をやめた理由もなんとなく辞めた、ではなく、もっと理由づけを
はっきりさせるべき。
そのほうが絵を再開したときに彼の葛藤があってもっと面白くなったのでは??

梨花と稔が二人で芙美子を訪ね、先に帰った梨花を芙美子の母が追いかけて二人で
公園で話すシーンがある。せりふはなく、オフの画面なのだが、おそらくは芙美子の
母が梨花に芙美子は命が短いと告げていることは想像できる。
でも初対面の芙美子の母がなぜ梨花にそのことを告げねばならないのか?

そして絵を描いてる途中に気分が悪くなった芙美子をベッドに連れて行き、そこで
二人がベッドに倒れこむシーンがある。
予告でこのシーンを見ると、二人の関係が肉体関係になるそうなどきりとさせるものがあるが
実は純な二人はハッとして体を離してしまう。
そして確かこの後、稔は酔っ払って深夜に帰宅するのだが、なぜ彼は酔っ払うのか?
その辺がよくわからない。

そして芙美子が入院するにいたり、稔は彼女の体がやはり悪いことを知る。
それで慟哭の叫びを上げて絵に顔をこすりつけ、顔中に絵の具がつく。
その後、絵の具だらけの顔で渋谷でデッサンをする。
何でここでデッサンをするのかがよくわからないが、たぶん基礎からやり直そうと思うぐらいに
真剣になったということなのだろう。
でも絵の具の感じもさっきと違うし、再び塗ったということなのだろうか?
稔が寝食も忘れ、顔に絵の具がついていることに気がつかないぐらい絵に没頭していることを
表現するなら、顔についた絵の具は撮影のたびに同じにしなければならない。
それが毎回のように変わっていては、稔がわざと絵の具を顔に塗っていることになり、
その動機がまったくわからなくなる。

そして芙美子の死のシーン。
死んだ連絡が梨花に入る直前、彼女はハサミで指を切ってしまう。
これもあざといよなあ。
そして芙美子の死に居合わせた稔だが、絵を描き終わって彼女に背を向けて
画材をしまっているときに手に持っていたりんごがポロリと落ちる。
悪いけどあまりにステレオタイプで笑った。

このようにいろいろ言いたくなる映画なのだ。
それも初歩的なレベルで。
なんだか学生映画なのだなあ。
この文章を監督も読むかも知れないからあんまり批判的なことは書きたくないのだが、
もう少し完成度を高めてほしかった。

塩田くん、これからもがんばってね!
応援してます。



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