2005年8月

妖怪大戦争 ヒトラー
〜最期の12日間
筑豊のこどもたち KingKong vs.Godzilla アイランド 恐怖の時間

妖怪大戦争


日時 2005年8月28日18:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン7
監督 三池崇史

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両親の離婚で母親の実家の鳥取県に引っ越しきたタダシ(神木隆之介)は
友達からいじめられていた。そんな中、村の夏祭りで伝説の麒麟送子に
選ばれた。その頃、魔神・加藤保憲(豊川悦史)は人間によって捨てられた
ものを集めて、怪物を作り出し人間社会を破壊しようとしていた。
それを知った日本の妖怪たちの猩猩(近藤正臣)河童(阿部サダヲ)や川姫
(高橋真唯)は麒麟送子のタダシの力を借りて加藤たちと対決する!


昭和43年製作の大映映画のリメイク。
オリジナルは見ていないが、リメイクといっても「妖怪たちが力を
あわせて別の敵と戦う」というモチーフのみが同じでストーリーは別物。
前作は確か時代劇で西洋のお化けと戦う話だったし。

今回の敵は「帝都物語」に登場した加藤保憲。
映画「帝都物語」では嶋田久作が演じた役どころを豊川悦史が演じる。
それより加藤が今回操るのは要は産業廃棄物、つまりゴミが怪物化したもの。
この辺が実に現代的だなあ。
ラストの扱いなんか完全にゴミ問題がテーマ、というか子供への
メッセージだし。

で対する日本の妖怪。
今回は特殊メイクのおかげで気持ち悪くならない程度にリアル。
そのユニークな活躍にはなかなか楽しませてくれた。
ただし、ラストで日本中から妖怪たちが集まってくるシーンの
CG合成はやりすぎ。多すぎてかえって白ける。
あと欲を言えば、河童や川姫をはじめとする妖怪たちの個性を
生かした戦い方が見たかった。
それぞれの得意技を駆使し、弱点をお互いに補いあうような戦い方が
見たかった気がするが、それは求めすぎなのかも知れない。

主演の少年はいまや天才子役の名をほしいままにしている神木隆之介。
実を言うと私は子供のころは子供が大活躍する子供向け映画やテレビが
嫌いだった。
自分と年がそう変わらない子供が超人的な活躍をすることに対して
友達感覚で感情移入するどころか、(嫉妬も入っていたが)
冷ややかに「ありえない」と白けて観ていた。
だから子供が大活躍する作品の多い大映作品より、大人が活躍する
東宝作品の方が好きだったのだ。
さすがに私ももう子供じゃないし、神木隆之介ぐらいの子供がいても
おかしくない年だからその辺は引っかからなかったが、今の子供には
どう写ったのかね?

結局、私としてはリメイクという企画の貧困さを感じてしまうし、
妖怪って別にそれほど好きじゃないし、嫌いな竹中直人は出てるし、
そんなにおもしろくはなかったけど、評判のよさは理解できる映画でしたね。



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ヒトラー〜最期の12日間


日時 2005年8月28日14:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン7
監督 オリヴァー・ヒルシュビーゲル

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1942年、ヒトラーの秘書に雇われた女性の視点も通してベルリン陥落の
最期の12日間を描く。
日本語タイトルの「ヒトラー〜最期の12日間」は正しくない。
パンフレット中で訳者が言ってるように「陥落」のほうが正しいだろう。

ソ連軍のベルリン侵攻により市街戦に突入した首都の戦場が描かれる。
しかしそこには映画的な反撃のエピソードは挿入されない。
あるのは撤退する惨めなドイツ軍の姿ばかりだ。
地下の司令部ではもはや机上の軍隊でしかない各部隊に突撃命令を下す
ヒトラーの狂気の姿ばかりが描かれる。
そして最期の抗戦を行い敵に損害を与えれば、米英と有利な和平交渉を
薦められると都合よく考えるヒトラー。
将軍たちも冷静に状況を判断し、逃げることを薦める者もあれば
いまだにヒトラーにおべんちゃらを言う者もいる。

市民や若い兵士の被害を考えて欲しいという将軍に対し、ヒトラーは
「俺は国民に何も強制していない。俺は国民に選ばれたのだ」「戦争で
死ぬのは若者の義務だ」と言い切る。

そして僕にとって驚きだったのはベルリン地下要塞で酒盛りをしてドンチャン
騒ぎをするドイツ兵の姿だった。
外は砲爆撃でさらされているだけにそのギャップは激しい。
また少ないとも日本映画では日本軍のそんな姿は見たことがない。
考えてみれば、やけくそになって酒盛りを始める心理も理解できるのだが。

映画は秘書になった女性がソ連軍から逃げおおせるあたりでドラマ部分は終わる。
そして登場した将軍達が戦後どのようになったかが字幕で記され、
例の秘書だった女性の現在の姿のインタビューシーンが登場する。
女性は言う。
「アウシュビッツの話などは戦後知りました。でも自分には責任はないと
考えました。しかし自分と同じ年生まれの女性が自分がヒトラーに秘書に
なった年に殺された事実を知ったとき、若かったからと言うのは言い訳に
過ぎないと思いました。目を見開いていればわかったはずです」と
ヒトラーを生み出した自分達の責任を認めて終わる。

正直、最期に女性のインタビューシーンを持ってくることは映画の手法としては
どうかと思えるのだが、それよりも映画の主張が「ドイツが狂気に陥ったのは
ヒトラー一人のせいではなく、ヒトラーを選んだ国民にも責任がある」としている点だ。
当時のドイツの選挙制度がどんなものか、つまり投票権がどの程度まで与えられていたか
私は知らないので詳しくは語る資格はないのだが、それにしても「国民一人ひとりの
責任」と言うものを認めるドイツと言うのはすごいと思う。

日本と比較してしまうのだが、日本の戦争に対して日本人は「軍部が暴走したもの。
天皇や一般市民に罪はなく、特に一般市民は被害者だ」とする考え方が日本では
根強いと思われる。
日本の戦争映画のほとんどは「日本人は被害者だ」という視点で描かれる。
米軍にこんなひどい攻撃をされた、また軍では上官にこんなひどいことをされた、
戦争はこんなに一般市民を苦しめる、だから止めようという論調だ。
そこには自分達が加害者でもあったという側面はない。

もちろん「日本人は被害者だ」という主張も間違っているとは思えない。
しかし、アジア諸国の国民感情を考えると加害者であった側面ももう考える
時代に来ているのではないか。
731部隊をはじめとする日本人の加害者としての側面から戦争を捉えて
反省しなければいつまで経っても日本は変わらないような気がする。

予断だが29日にTBSで放送された「涙そうそう」で日本人の朝鮮人差別を
描き、日本人の誤った側面を描いたことはいいことだと思う。
ただしちょっと追求が甘く、表面をなぞっただけに終わった感が否めないが。



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筑豊のこどもたち


日時 2005年8月25日18:40〜
場所 シネマアートン下北沢
監督 内川清一郎
製作 昭和35年(1960年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


昭和35年、戦前戦中戦後と日本のエネルギーを支える産業と言われた
石炭産業もいまや不況にあえいでいて、その失業者は数万人、さらに
十数万人の子供達が貧困にあえいでいた。
この映画の主人公、武の家もそんなひとつだ。
武の父(加東大介)も生活保護を受け、酒を飲んでボロ畳で昼寝を
するしかない毎日だ。
子供たちは学校へも行かず、ザリガニ獲りをする毎日。ザリガニも
貴重な食料だからだ。
そんな中で教師の小林(小泉博)はなんとか子供達に学校へ来させようと
していた。
ある日、炭鉱が再開されるがそれは実は炭鉱主が転売を有利にさせるための
見せ掛けでしかなかった。
そんな中、小学校の修学旅行が決定する。教師の小林は子供達に外の世界を
経験させてやりたいと黒い羽根募金(石炭不況にあえぐ人々を救う募金)を
使ってなんとか全員を修学旅行に連れていく。
外の世界を経験して子供達に向上心が芽生えてくれることを期待した
小林だったが・・・・

日本映画新社という主にニュース映画の制作会社と東宝の提携作品。
映画が始まると何十という教育委員会などからの推薦を受けたタイトルが出る。
おそらく当時の学校の講堂などでよく上映されたのだろう。
三池炭鉱争議の時代の話で、主人公達が暮らしている家は本当にボロボロだし
子供も穴のあいたセーターなどを着ていて、いくら不況とはいえ、平成不況の
今とは隔世の感があり、一瞬「これが日本か?」と思ってしまう。

そんな中でこの映画は主人公達を「石炭不況という時代の流れに翻弄される
不運な人々」という観点では捕らえない。
武の父も武も貯めた貯金では修学旅行に行けそうにないと知ると競輪に
行って完全にすってしまうという典型的なだらしのなさだ。
決して世の中がだけ悪いとは言い切っていない。

子供達は修学旅行に行っても黒い羽根募金をしているところを大阪の駅前で目撃し
その写真に自分達が写っているのを見てさらし者にされた思いがしてますます
卑屈になってしまう。
しかしそうかと思えば山がついに閉鎖されても子供達は明るく遊んでいる。
映画は(教師の小林は)それは同じ境遇に苦しむもの同士が傷をなめあって
生きているに過ぎないと断ずる。
そして小林は武を自分の大阪の友人(三橋達也)の紹介で住み込みで働かせてくる
理髪店に送り出す。

「人間どんなときでも環境のせいばかりにするのではなく、向上心をもって自分から
道を切り開いていくことが大切だ」と説く。
説教くさい映画だと感じるかも知れないが、僕もやっぱり人間は向上心を持たなくなったら
お終いだと思う。
そういう風に感じるには私も年をとったのか。
若いときだったら「けっ、うるせいよ」と思ったかも知れない。

映画は武が大阪行きの列車に乗るところで終わる。
武はこのあとどうなったのか?
武の父が心配したように途中でつらくなって帰ってくるだけになるのだろうか?
それとも一人前になるのだろうか?
ある意味、見てる私にその答えが託されているようにも見える。

出演では小泉博が苦しみながら子供たちに一生懸命な教師を好演。
炭鉱主に殿山泰司、その買い手に西村晃などなど。


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KingKong vs.Godzilla


(「キングコング対ゴジラ」アメリカ公開版)
日時 2005年8月24日
場所 輸入ビデオ
監督 トーマス・モントゴメリー


ゴジラ映画のアメリカ公開版というと第1作にレイモンド・バーのシーンを加えた
「怪獣王ゴジラ」が有名。
日本でも公開されたし、日本映画専門チャンネルでも放送されたことがあったから
見てる人も多いはずだ。

日本では逆輸入公開されてないからほとんど知られてないが、「キングコング対ゴジラ」
にもアメリカ再編集版が存在する。
ネットでDVDの「キングコング対ゴジラ」のアメリカ発売版を探していたときに
キャスト、スタッフ欄に外国人の名前があるのでその存在を知ったのだ。
DVDはもう中古版しかなく、結構高かったりしたので比較的安いビデオ版を個人輸入で
入手することが出来た。

あ〜んなるほど、こういう風になっていたのか。

「怪獣王ゴジラ」の時の様にアメリカ人俳優を無理やり挿入して主人公たちと会話を
すると言うような荒業はやっていない。
全編「国連ニュース」というような感じでトム・ハンクス似のキャスターが登場し
事件を進行させる。
(全編英語で日本語字幕なしで見てるので私の英語力ではこの辺の解釈はやや自信がない。
しかし国連の建物が映ってその後に国連旗をバックにしてニュースキャスター風に
トム・ハンクス似の男が進行を進めるのでたぶん間違いなかろう)

「それではサンジェゴからのレポートです」とトム・ハンクス似が言ってなぜか
サンジェゴのキャスターが何事かをレポートする。
(ここが私の英語力では何をレポートしてるかよくわからない)
以下日本からの中継も交えて進行するのだが、中継のシーンのつなぎには
「地球防衛軍」の宇宙ステーションのカットが挿入される。
で、次に「ノーベル賞学者の牧丘博士が南方で赤い実を採取したそうです」と
トムハンクスがニュースキャスター風にカメラに向かってしゃべった後、オリジナル版
の牧丘博士が有島一郎や高嶋忠夫に「巨大なる魔神伝説」を話すシーンに。

で次に「北極海の光る氷山のレポートです」と今度は米潜水艦とのゴジラ登場シーンに
つながる。
万事そんな感じ。
重沢博士(平田昭彦)が登場するときは「重沢博士の意見を聞いてみましょう」、
「南方で東京テレビのスタッフが巨大なる魔神と遭遇したようです」と高嶋忠夫たちの
シーンにつながる。

で一番笑ったのがゴジラが日本上陸をした後、東京のキャスター(遠藤周作似)がスタジオ
からレポートするのだが、そのときに新聞を見せる。
それが日本語新聞に何か文字切り張りしたらしく「パンシロン」の文字が大きく写る。
映画に登場するのが製薬会社だから「パンシロン」ってのには笑った。
そしてトムハンクスのシーンになるとアメリカ人の博士が登場し、「ゴジラというのは
ですね・・・」と恐竜図鑑を見せながら「ティラノサウルスがどうした」と解説を
加えてくれる。

さすがにキングコングが東京に現れてから浜美枝が捕まるってそれを助けるシーン
以降はほとんど残っているので(若干のカットはある)ラストに至るテンポある展開が
乱されてはいない。

で、ラスト。
キングコングが熱海の海に落っこちてから振動でゆれるシーンがオリジナル版にもあるのだが
このアメリカ版はこのゆれるシーンがもっと大げさになっていて、他の映画(たぶん
「地球防衛軍」?)に登場した地割れが起こって神社などが埋没するカットが挿入される。
最後はオリジナル版は重沢博士の「人間は動物たちの適応性についてもっと学ぶべきだ」
というセリフはなく、例のトム・ハンクスが何事かをいって締めくくる。

全体的にドラマ部分をカットし(だから有島一郎と高嶋忠夫、藤木悠のコミカルなシーンは
まったくと言っていいほどなし。もっとも英語吹き替えではその面白さは伝わらないだろうが)
つないだもの。
何しろ私の怪しい英語力で見たのだから本当は見たとはいえないのだが、
でも全体の上映時間は1時間半だからそれほどオリジナルをずたずたにしたわけではない。
しかしこの映画のコアだった有島一郎と高嶋忠夫、藤木悠のコミカルなシーンは完全に
なくなっているので映画全体としてはかなり印象が違ったろう。

そうそう書き忘れたけど伊福部昭の音楽はファラ島の住民がキングコングの前で
踊るテーマ曲以外はすべて削除。クレジット部分からして違う音楽に差し替えられている。
そのため余計に60年代SFっぽい色合いになってましたね。



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アイランド


日時 2005年8月20日20:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン6
監督 マイケル・ベイ

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日々の食事も体調もすべて管理された未来社会。
ここは汚染され人間が住めなくなった外の世界とは途絶された人工的な社会だった。
労働は単純軽作業のみ。楽しみも大してないが、暮らしていくのには不便はない。
生きている人々の楽しみは、1日に2回ほど行われる「アイランド」と呼ばれる
楽園にいける抽選会だけだった。
そんな中、主人公のリンカーン・6・エコー(ユアン・マクレガー)はこの社会に
疑問を持ち始める。
そして「アイランド」へ行ったはずの人々が医療センターで手術されて殺されるのを
目撃してしまう。
彼は同じ社会の住人ジョーダン・2・デルタ(スカーレット・ヨハンソン)と
共にこの社会から逃亡をはじめる。
この社会の外側は汚染され人間が住めない社会のはずだった。
しかし実は外は広大な砂漠だった。

マイケル・ベイ監督だ。
何だかよく知らないがこの監督はやたらと非難される。
「パール・ハーバー」といい、「アルマゲドン」といい、この人が監督と言うだけで
非難されていたかのような印象がある。
まあ大味とか言われてもしょうがないかと思うのだが、それにしてもそれほど
非難されるべき監督ではないと思う。
要するに彼はプロデューサーから与えられた仕事をこなす職人監督なのだろう。
言われたことを忠実にこなすタイプなのだ。
だから自分の作家性などは出さない。
それが批判の対象になるらしいのだが、そんな監督ほかにもいるんじゃないか?

で、この映画と言えば私自身は楽しめなかった。
中盤、主人公たちがロスへ向かったあたりから気に入らないのだ。
もう必要以上のカーチェイスはするわ、ビルから落っこちそうになってもネットに
引っかかって助かるわ、もうアメコミなみのアクションシーンが炸裂する。
このあたりで私のテンションはさがりっぱなし。

もうこういうアクションは飽きたのだよ。
「ターミネーター3」のときも必要以上に長いアクションシーンにうんざりしたのだが
今回はそれ以上に辟易した。

と言うのももともとこの映画、主人公達が実はクローン人間で、大金をはらったオリジナルの
人間への臓器提供などのために「飼育されている」と言うのが話の確信。
「クローン人間の問題」というのは実に多くの問題をはらんでいて、「生命の神秘」と
呼ばれる生命誕生の偶然性を人間が勝手に操作していいのかという問題もはらんでいる。
しかし一方で臓器移植の問題など医療的価値は絶大だ。
今までの価値観、宗教観では収まりきらない問題に人類は直面しつつある。

ではどこまでが人間がたちいっていい領域でどこからが立ちあるべきでない問題のかは
まだまだ答えがでていない。
そういうデリケートな、言い換えれば扱いようによっては実にハードな内容になるべき
題材なのに、単なる大アクション映画のネタ、という矮小化された扱いをされたことに
なんだか無性に腹がたった。

この映画に限らないことだが、最近のアメリカアクション映画というのは万事やりすぎ
な感じがする。
「スターウォーズ」だってやりすぎなんだよ。
脚本が雑だなあって感じがするのだよ。
アメリカ大作映画を見ていて「脚本がよく出来てるなあ」と最近思ったことがない。
CGがどうとかいう問題じゃなくてもうちょっと知恵を使った映画をアメリカ映画にも
作って欲しいと思う。
こっちが年取ったせいか、ばかばか車が壊れるだけのシーンはもう見飽きたよ。



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恐怖の時間


日時 2005年8月10日
場所 録画DVD(日本映画専門チャンネル)
監督 岩内克己
製作 昭和39年(1964年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


冬の夕暮れのある警察署。刑事の山本(志村喬)はその日の仕事を終えて
刑事部屋を出ようとしていた。その時、若い男(山崎努)が「山本刑事かい?」
と訪ねてきた。そうだと答えると突然拳銃を突きつけられる。
自分の恋人を射殺した山本刑事に復讐しに来たというのだ。
しかし彼の目当ての刑事は山本和夫刑事(加山雄三)で、同姓の別人。
それに気づくと他の刑事部屋の刑事達(土屋嘉男、佐田豊、黒部進)を人質に
して山本和夫刑事の帰りを待つという。
しかもその暴漢はニトログリセリンまで持ってきているのだ!
刑事たちのほうが人数が多くても手出しが出来ない・・・・


面白い。
山崎努が篭城を始めても、署内の警察官が刑事部屋の異変にまったく気づかない
というのが少し気になるのだが、その辺を目をつぶれば実に面白い。
なんといっても出演者が豪華。
犯人が山崎努、人質になる刑事に志村喬、土屋嘉男、黒部進、佐田豊だ。
この5人がひとつの部屋にこもっているだけで画になるのだ。
(刑事部屋の外のネオンサインはすべてセット。中には走る電車も作られており
美術費のすべてをつぎ込んだ一点豪華主義だ)

刑事同士が目で合図しあって暴漢に立ち向かうタイミングを計ろうとしたりの
やり取りが見ていて楽しい。
逆に言うとそれだけなのだが、演じる刑事達が芸達者だから見ていて飽きないのだなあ。

この映画、場面の8割以上がこの刑事部屋で、彼らは外へと出ないのだがこの濃密な
空間が見ているこっちを引き込んでいく。
あとの2割はなかなか帰ってこない加山刑事を行動を描く。
彼が自分が正当防衛で射殺した若い女について自分の行動は行き過ぎではなかったかと
悩むあたりはちょっと感傷的なきらいはあるものの、なかなか刑事部屋に帰らない
彼の行動がサスペンスを盛り上げる。

原作はエド・マクベインの87分署シリーズ「殺意の楔」。
映画全体としては小品。
かといって侮れない一品だ。



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