2005年11月

イントゥ・ザ・サン カーテンコール ハリー・ポッターと
炎のゴブレット
MISHIMA
A Life in Four Chapters
バッシング 日本鬼子(リーベンクイズ) TAKESHIS'
春の雪 乱歩地獄 ホールドアップダウン ステルス
ALWAYS 
三丁目の夕日
蝉しぐれ 福の神・サザエさん一家 サザエさんと
エプロンおばさん

イントゥ・ザ・サン


日時 2005年11月26日19:10〜
場所 新宿オデオン座
監督 ミンク

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スティーブン・セガールは元CIAのエージェント。
ミャンマーで麻薬栽培組織などを追っていたが、東京で外国人犯罪者の追放を
公約に掲げて立候補中の都知事候補者が殺された事件の調査を請け負う。
CIAやFBIはテロの可能性も捨てきれないとして事件を重視したのだ。
しかし実はそんなテロとは関係なく、中国人マフィアが日本のヤクザと手を結んで、
今後邪魔になりそうな都知事候補を殺害したのだ。
台頭する日本ヤクザ・大沢たかおを疎ましく思う古くからのヤクザ・伊武雅刀もいた。
スティーブン・セガールは日本の財界の大物・寺尾聰の協力を取り付け、無理やり
コンビを組まされたFBIの腰抜け捜査官、伝説の彫り物師らと大沢たかおと対決する!

一言で言えばアメリカ製Vシネマだ。
日本でアメリカ人が活躍する強引な理由付けとして「テロの可能性があるから」という
無茶苦茶な展開。
その上、FBIとCIAが共同で捜査するというのだからわけわからん。

そしてアメリカ映画らしく、ロケ地も歌舞伎町、築地(魚に隠して麻薬を密輸するのだ)
六本木に東京タワーが見える芝の増上寺、桜咲く公園で、セガールは指きりげんまん、
おまけに横浜・中華街。
そして彫り物師や芸者ガールも登場し、ニホンテイスト満載だ。
絵葉書を見てる気分になるが、日本に対する愛情が感じられ、それこそ「WASABI」の
時のような不快感は無い。

これはとっても好ましいことだ。

それにしても今回の悪役の大沢たかお。
2枚目だが狂犬的な新興ヤクザを演じており、迫力満点。
ラストでは高倉健の映画を思わせる殴り込みを彫り物師豊原功補と行う。
それまであまり出番すらなかった豊原がいい役をもらったと思う。
あと寺尾聰。彼の役名は「松田」だが、寺尾聰と「松田」といえば「西部警察」を思いだす。
「松田」はあのドラマでの役名だったが、意識していたのだろうか?

そしてスタッフの遊びをもう一つ。
ヤクザたちが事務所にいるときにテレビがついているのだが、そのテレビに映っていたのが
平成ガメラ第1作「ガメラ大怪獣空中決戦」。
娘の藤谷文子が出演している作品で、娘のアップのカットで、それも藤谷文子の頬に血が滴る
シーンを写してました。
わかる人はわかる遊びでした。


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カーテンコール


日時 2005年11月26日16:20〜
場所 シネマミラノ
監督 佐々部清

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橋本香織は東京の出版社の契約社員だったが、ある事件をきっかけに福岡のタウン誌で
働くことになる。そのタウン誌に一通のはがきがやってきた。下関の「みなと劇場」という
映画館で昔、映画の合間に歌を歌ったりしていた幕間芸人(藤井隆)がいたという話だ。
興味を引かれた橋本は自分の故郷でもあるその下関の芸人の取材をする。
当時を知る「みなと劇場」のもぎりのおばちゃん(藤村志保)から当時のことは
大体わかった。しかしこの劇場をやめてからのことはわからない。
彼は結婚して子供がいて、その子供(鶴田真由)には会うことが出来たが、
母は早く死に、父は自分を捨ててどこかへ行ってしまい、父の現在の消息は彼女も知らなかった。
自分を捨てた父を彼女は憎んでいた。
香織はなんとかこの親子を再会させようとするのだが。

巷で評判のこの映画、評判のよさにつられて見に行ったが、私には全然ダメだった。

前半の昔の映画館の話の部分はまあよい。
私の地元にもああいった映画館はあったし、劇場の内部(ロビーというわけではない)
にも売店があった、ということを思い出させてくれた。
懐かしい子供時代の映画館を思い出させてくれて、昭和30年代生まれは涙腺が緩む。

しかし幕間芸人の話は聞いたことが無い。
ネットで数人の感想そ読んだが、「私の地元にもあんな映画館があった。でもさすがに
幕間芸人はいなかった」と書いている。
「みなと劇場」にしても芸人がやってくるわけではなく、自分ところの従業員が余興で
やっていたのだから、どこの映画館にもいたというわけではあるまい。
(パンフレットに「ビートたけしが浅草フランス座の幕間芸人だった」とあるが
フランス座はストリップ劇場だから同列に考えるのはどうか)
この映画を見ると大抵の映画館にはいたような錯覚を覚えるが、その辺はホントのところ
どうなのだろう?

まあ、それはいい。
そんなことより、幕間芸人安川修平が悲惨な運命をたどったのが、映画の衰退のせいである
かのような描写が気に入らない。
そもそも映画が衰退していったのはテレビのせい、という外的要因だけではあるまい。
もちろんテレビの台頭は大きいが、それに対抗する手段を持たなかった映画界にも
責任がある。
「ラストシーン」のときも思ったが、映画がダメになったことに関して映画界は被害者意識を
もってもらいたくない。

そもそも安川修平が悲惨な運命をたどったのは彼の芸が「つまらなかった」からだ。
娘も言っているが「所詮は素人芸だった」という程度なものだ。
彼が「映画はもうだめだ。別の仕事を探そう」と言ったとき、妻は止めるべきではなかったのだ。
芸人を続けてもらいたかったら、平日は仕事をして、日曜とかだけ「みなと劇場」で芸を
続ければよかったのだ。
映画の斜陽だけの問題ではない。
仮に映画界がそこそこの隆盛を続けていても多分飽きられたろう。

そして「この映画」で、在日の問題を出す必要があるのか??
もちろん在日の人々に対する差別はよくないことだし、それはそれで映画として
重要なテーマだ。
実は安川修平は在日朝鮮人だった、という話が出てきてから話はおかしくなるのだ。
在日に対する差別があったから、(確かに「みなと劇場」で正社員にはしてもらえなかったが)
彼や娘が悲惨になったわけではあるまい。
面白くもない芸を商売にしようとしたから食えなかったのだ。
朝鮮人だからキャバレーで客が笑ってくれなかったはあるまい。

そして後半親子の再会の話になる。
香織がしてることって正直おせっかいだと思う。
娘が会いたくないと言っているのだから無理にあわせようとする必要は無いのでないか?
しかし娘は結局心変わりして済州島にまで行く。
そんなことなら「みなと劇場」に来たときに会えば交通費もかからず済んだのではないか?
そして済州島に行って安川修平は引越して見つからない。
なんで引っ越したのかよくわからない。
しかもすぐに(偶然に)見つかってしまうのだから、脚本が適当だ。

何回も言うけど安川修平と娘が別々に暮らさなければならなかったのは「映画の斜陽」
のせいではなく「在日だから」でもなく、単に「彼の芸がつまらなかったから」だ。
つまり自分の問題。
そういう自分の問題を人のせいにするのは止めて欲しい。

でも見る価値のある箇所もある。
まずは藤井隆の好演。さすがに吉本新喜劇で鍛えられているだけはあってなかなかのもの。
特に歌が思っていたよりうまかった。
そして年老いた安川修平を演じた井上堯之も好演。
ラスト、再び「みなと劇場」の舞台に立った井上堯之が「いつでも夢を」歌うシーンには
うるっとした。

あとは藤村志保。
晩年の田中絹代を思わせる素晴らしさが出てきた。
彼女の役名は「宮部絹代」だが、監督の頭にも田中絹代が頭にあったのだろう。


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ハリー・ポッターと炎のゴブレット


日時 2005年11月26日11:30〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン3
監督 マイク・ニューウェル

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ハリー・ポッターシリーズ第4作。
このシリーズは大好きで(でも原作を読む気にはならない)ゴジラが無くなった今、
あと数年は「初日に見に行きたくなる映画」の地位は続きそうだ。

今回は三大魔法学校対抗戦が行われ、試合にかこつけて悪い奴らがハリーを倒そうとする!
というのが流れ。
対抗試合っていうから何かの競技で各学校が対決していくのかと思ったら
そうじゃなくて課題が与えられ、それをクリアしていくというものだったのですね。
対決バトルだと話がえぐくなる、(闘争心がむき出しになってしまう)ので
「ほのぼの、ハラハラ、ドキドキ」が軸となるハリー・ポッターではこの方が
いいのでしょうね。

でも事前に「最初の課題はドラゴンだ」とか情報が流れて、教えてもらったハリーも
「そういうカンニングみたいなことは卑怯だ」などと硬いことは言わずにさっさと情報を
仕入れて準備している、という展開がフェアな精神にかけている気がして映画が進んでいく途中は
ちょっと気になった。
(もっともこの事前情報はラストへの伏線になるのだが)

だが実はストーリーは僕にとっては大して重要ではないのだ。
前3作もストーリーはまったくと言っていいほど憶えていない。
つまり私はストーリーにはそれほど興味はないのだ。
映画「ハリーポッター」の世界観、ダニエル・ラドクリフの美少年さ、イギリスの田舎という
どこかほっとさせる風景、魔法というアナログ感、そしてブリティッシュトラッドの制服に
寄宿舎生活というちょっと妖しげな(?)現実離れした世界。
こういう雰囲気を楽しんでいるのだ。

映像がとにかく美しい。
暖色系のあったかみのある映像で、あるときはやや暗めの陰影の付いた画。
美しい写真集を見てるかのような映像が続いていき、飽きが来ない。

今回は新キャラクターとして「ハリーの初恋」の東洋系の美少女が登場。
しかし、前半の舞踏会のシーンで少し出てきただけで、今回は大した活躍が無い。
5作目以降、活躍するんだろうか?
また対抗戦に出場した他校の生徒も印象が薄い。
きっと「原作ファン」からは不評なんだろうなあ。
私は原作は今のところ興味がないので、どうでもいいんだが。

ロンとハーマイオニー、この二人が意識し始めているというのは最早、シリーズではお約束
ごとのようだ。
そして今後、ハリーの恋人は誰になるのか?という興味も出てきましたね。
今後の彼らの恋愛事情に注目。

ところでロン、少し太りだしてきてるから気をつけろよ。
なんか毎回同じような感想を書いてるけど、いつもほぼ一定のレベルで楽しめる娯楽作品だ。



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MISHIMA : A Life in Four Chapters


日時 2005年11月23日
場所 輸入版DVD
監督 ポール・シュレイダー
製作 1985年

(詳しくはインターナショナルムービーデータベースで)


今年、2005年は三島由紀夫没後35年。
だが、書店やマスコミが追悼特集を行う、ということはしていない。
「春の雪」が映画化されたが、別に35年目を狙っての公開ではないようだ。
しかし、僕にとっては昭和45年11月25日の三島の自決事件は「子供の頃にあった大事件」
の一つとして記憶されている。
当時はよく理解できなかったが、とにかく大事件だということはわかっていた。

その三島事件が1985年にアメリカ映画として映画化された。
製作発表があったときは、映画マスコミでは大ニュースだった。
何しろ、製作はフランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカスで監督はポール・シュレイダーだ。
3人とも当時は「地獄の黙示録」「スターウォーズ」「タクシードライバー」などで
ハリウッドの新リーダーとして非常に注目されていた時期だったし、キャストも豪華。

85年当時、もっとも旬だったスター達が集められ、日本映画でもなかなか無いような豪華
キャストだったのだ。
主役の三島由紀夫には緒形拳、共演は沢田研二、佐藤浩市、坂東八十助、永島敏行、
三上博史、織本順吉、大谷直子、加藤治子、萬田久子、北詰友樹、李麗仙、烏丸せつ子、
倉田保昭、平田満、勝野洋、誠直也、根上淳、池部良、細川俊夫、新井康弘、左幸子、
そして作家の小林久三などなど。また本編ではカットされたが笠智衆も出演した。
(ちなみに、三島の私設軍隊「盾の会」のメンバーとして無名だった頃の徳井優〜当時の
芸名は立原繁人〜も出演している)

しかし結局、完成後三島の遺族の了解が得られず、未だに日本では正式上映されてない。
だが、80年代後半から輸入版ビデオが気の利いたレンタル店に置かれ、現在では
輸入版のDVDも発売されており、鑑賞は困難ではあるが、不可能ではない。

内容は三島が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決するまでの一日、彼の生い立ち(このパートは白黒)、
代表作「金閣寺」「鏡子の家」「奔馬」の3つを映画化したものが、交錯しながら
映画は進んでいく。

三島は幼少の頃は病弱で、祖母(加藤治子)の溺愛のもとで育ち、自分のひ弱さにコンプレックス
を抱いていた。
「金閣寺」の主人公(坂東八十助)はどもりで自分にコンプレックスを抱いており、
やがて美しすぎる金閣寺に嫉妬からくる憎悪をいだくようになり、火を放つ。
そして三島(緒形拳)は作家となり、若くして数々の賞を受賞し、海外でも出版、作家として
最大級の成功を収めるようになる。
「鏡子の家」では自分の顔の美しさだけでは満足できず、肉体もトレーニングによって美しく
していく役者(沢田研二)が登場。やがて彼は母(左幸子)の借金のかたに自分の肉体を高利貸し
(李麗仙)に売り渡す。そして美しい肉体を逆に破壊したい衝動に駆られるようになる。
三島は自分の肉体もトレーニングによって改造をはじめ、そして私設軍隊「盾の会」を結成、
この日本自体の改造(クーデター)を考えるようになる。
「奔馬」は戦前が舞台。主人公(永島敏行)は学生で剣道の達人だったが、やがて財閥に
よる腐敗を見過ごすことが出来ず、自分に理解を示してくれる軍人(勝野洋)の協力を
得て、政府要人(根上淳)の暗殺を企てるが失敗に終わる。彼は朝日の見える海岸の崖で切腹をする。
三島はいよいよ彼自身の考えるクーデターを実行。
市ヶ谷の自衛隊に総監を訪ね、総監を人質に篭城を決行。
自衛隊員に「武士の精神に戻って今こそ決起」を促すが、自衛隊員は誰も賛同するものは無く
三島はあきらめ、切腹するのだった。


正直言ってよくわからないというのが実感だ。
何しろ実在の人物。しかもアメリカ人が映画化したのだから、日本人の評価とは別の視点で
捉えられている可能性がある。
この映画では三島は「病弱だったコンプレックスからたくましさに憧れ、コンプレックスを
克服するために肉体を改造、同時に美しいものへの破壊願望を持ち、純粋な精神に憧れ
それがクーデターにつながり失敗したとなると潔く切腹した男」という視点で描かれる。
純粋な、常に死と隣り合わせであったかのようだが、時折ジョークもいう明るい一面も
ある男だ。
(彼の映画との関わりとして「憂国」の撮影風景も再現されるのも映画ファンとしては実にうれしい)

男性の肉体美に憧れ、しかもそれが破壊されるのを望む性癖が子供の頃からあったことを紹介する
エピソードとして中学生の頃、半裸のキリストに矢が刺さった宗教画を見てオナニーをした、
いうシーンがある。(「オナニー」とはストレートには言わないがそれを連想させる表現は
している)この気持ちはなんとなくわかる。
半裸のキリストに矢が刺さった絵は妙にSMチックなエロティシズムを感じさせるものだ。

しかしこの映画で描かれた三島観が適切なのか、的外れなのかよくわからない。
私は三島の著作は映画化作品でしか触れておらず、彼の本を読んだことは一度もない。
また同時代に生きていないので、当時の評価というものも実際に見ていない。
だから今回は「ポール・シュレイダーの持つ三島観」と割り切って鑑賞した。

僕自身の三島観は実際に本を何冊か読んでから決めなければならないようだ。
そのときに改めてこの映画は見てみたい。



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バッシング


日時 2005年11月20日16:00〜
場所 朝日ホール
監督 小林政弘

「東京フィルメックス映画祭」にて上映
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2005年のカンヌ国際映画祭出品作品。ただし日本公開は未だに決まっていない。
この映画は2004年3月のイラク日本人人質事件の被害者が帰国してから様々なバッシング
にあったことを題材にした映画。

実を言うと僕はあの事件の被害者たちがバッシングを受けても仕方のない人なのか、
あるいはバッシングはまったくの筋違いなのか未だに判断が付かない。
その答えを(意見)を聞けるかも知れないと思って見に行った。

ところが映画はその辺の話はスポッと抜け落ち、客観的な背景の説明もない。
いきなり主人公有子がホテルのベッドメイキングの仕事を雇い主(香川照之)から
解雇されるところから始まる。
雇い主も「あんな事件があったから」と「あんな事件」としか言ってくれない。
これでは予備知識なしで見た人にはさっぱりわからない。
数年後に偶然この映画を見た人には話についていけないだろうなあ。
根本的に不親切。

そして彼女の父親は、彼の会社に娘を非難するメールや電話が来るおかげで
日常業務に支障をきたしているという理由で退職を迫られる。
30年務めた会社を解雇されてショックな父だが妻(後妻)は「時間が解決する」
と慰めるが、父は自殺する。

残酷なようだが、父はちょっと弱い。
別に借金を背負ったわけではないし、退職金も規定どうり払われたのだし、
失業保険もあるわけだから、なんとかなったのではないか?
田舎で仕事がない、ということもあるかも知れないが、リストラされたり会社が
倒産したわけではないのだから、自殺までする説得力がない。
もっとも現実の被害者の家族がバッシングにより自殺したのなら、今の発言は
死者に鞭打つことになり、慎むべきなのだが、上映終了後の監督との質疑応答では
「バッシングを受けたこと以外は全部フィクションです」と言っていたから、私の意見も
許されるだろう。
要は映画として説得力がないということなのだ。

主人公、有子はやっぱり再びイラクに向かうという。
彼女の義母に自分がなぜイラクに行きたいかの心情を吐露する。
それは子供の頃からいじめられたし、大学受験も失敗し、就職もうまくいかなかった、
自分は誰からも必要とされていないと思っていた、しかしイラクに行ったら、現地の子供たち
からものすごく感謝されて今まで味わったことのない充実感があった。
だからもう一度イラクに行ってボランティアがしたいと。

ボランティアって案外そういうものかも知れないと最近は思う。
この映画の中で「ボランティアなんてすごいよね。私たち自分のことで精一杯で
他人に何かしてあげようなんて思えない。えらいよね〜〜〜」と心にもないお世辞を
旧友から言われるシーンがある。
多くの人が「ボランティア」に対してそういうイメージがあるだろうが、実際
ボランティアをしてる人たちは「他人のため」というより案外「自分のため」に
してるのではないだろうか?
自分の中に喜びがあるからこういったことが出来るのではないか?
「あんにょん・サヨナラ」を見たとき、靖国参拝反対運動をしてる人が「今は充実してます」
とチラッと言う箇所があった。

楽しいんだろうな。
ボランティアも人に感謝されたり、難しい仕事を成し遂げたりするときの充実感が
たまらないんだろうな。
そうでなきゃ続けられないわなあ。
金にはならん仕事をするのだから。

この映画の有子の場合、結局彼女の行為は単なる彼女のわがまま、または自分勝手、または
自己満足でしかなく、日本にとっては彼女がイラクに行くことによって人質事件が起こったのは
はた迷惑な行為でしかない。
やはり(家族や父親の仕事場へ嫌がらせは行きすぎだが)バッシングされるには彼女にも
非があったことにも見えかねない。

監督自身が今回「バッシング」ということをテーマにしたいのなら、この題材は不適切では
なかったか?
「バッシング」をテーマにするなら、身内が殺人事件を起こし、家族や親戚にまで誹謗中傷
が行われる、というような話の流れにすべきではなかったか?
監督は主人公有子が「いわれなきバッシング」と受けている、という観点から話を
スタートしてみたが、結局は彼女の行為を観客に理解させるにいたらなかった。
少なくとも僕は理解できなかった。
やはり彼女は再びイラクに向かうべきではないと思う。
監督の意図とは別な思いを抱いてしまったのかも知れないが。



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日本鬼子(リーベンクイズ)


日時 2005年11月19日16:25〜
場所 明治大学リバティタワー2階1022教室
監督 松井稔
(「さらば戦争!映画祭」にて上映)

(詳しくはキネ旬データベースで)


ドキュメンタリー映画。
2001年に公開され、そのときに見逃して以来、見る機会を探していた映画。
今回、「さらば戦争!映画祭」での上映だったが、この映画祭、いわゆる映画祭とは
ちょっと趣が違っていわゆる反戦イベントの一つとして映画を上映する、と言った
感じなので、映画だけ見に行くとちょっと雰囲気に呑まれる。
別にその雰囲気を否定的に言っているわけではない。
ただ通常の映画祭とは違う、という話だ。誤解のないように願いたい。

映画は2時間40分とかなり長尺。
元日本軍兵士の自身が中国で行った残虐な行為を語っていく。
そこで語られる内容は憲兵による「反日分子」への拷問、(その反日分子かどうかも
かなりいい加減な基準で逮捕したものだが)731部隊での生体実験、農民への
略奪、暴行、強姦、処刑。
果ては食料難から中国人の人肉食いまで行ったという証言が次から次へと
繰り出される。

「最初はこんなことをしたくはなかった。初めて中国人を殺した時は罪悪感が
あり、恨むんなら隊長を恨め!と心の中で思った。中国人を殺せないような奴は
日本兵じゃないという空気があった。しかし、何度も繰り返すうちなんとも思わなくなり
殺した中国人の数を競い合うようになった時期もあった」
と語られる。

僕はかねがねどうして普通の市民だった人が戦争に行って残虐な行為に及ぶのか、それが
ちょっとわかりにくかったのだが、この映画をみてなんとなくわかった。
いわゆる「人間は大抵のことには慣れるてしまう」という奴なのだろう。
人間というのはかように環境に左右されてしまうのだ。

今は年老いた老人となった証言者だが、当時を証言する姿はそれほど悲痛な感じはしない。
かなりいろんなところで話したせいだろうか?時折、笑いながら(声を上げて笑っているの
ではなく、頬を緩めながら)話すのだが、それは過去の自分への自嘲か、苦笑か?

ここから書くことはちょっと誤解されると困るのだが、この映画、映画としては魅力に
乏しい。
何しろ証言者の老人が語っていくインタビューと当時の戦況を伝える新聞ぐらいしか
画面には映らない。
これって映画的にはちょっとしんどい。
証言者の話はちょっと聞き取りづらく、その話を聞き、頭の中で光景を浮かべなければ
ならないので、それを2時間40分もやられるとかなり疲れる。

映像的に何かインパクトのあるシーンがないのだよ。
もちろんテーマとしていること、表現しようとしてることの内容、つまり「日本人はかの戦争に
おいて被害者でもあったが、同時に加害者でもあった」という点には大いに共感するし
だからこそ今日見に行った。
でも映画としての魅力には欠ける。

終戦後、この映画に登場した人たちは戦犯として捕らえられるが、中国側は彼らを敵視することなく
一人も死刑にせずに有期刑の判決を出す。
そして収容所での生活も人道的に扱われ、中では運動会も行われていたような映像が挿入される。
このシーンにはやや胡散臭さが感じられ、すべてのBC級戦犯がそうであったかどうかは
わからない。
ただ彼らは帰国後、「中国に洗脳された人間」として扱われ就職などで差別を受けたそうだ。
中国側に「親中派」を作ろうという意図があったのかも知れない。
それはこの映画を見ただけではわからない。
この映画をみてわかるのは日本軍の中国での残虐な行為の数々だ。

但し映画的インパクトにはかけるのだが。


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TAKESHIS'


日時 2005年11月13日18:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン1
監督 北野武

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ストーリーは書かない。
この映画ではストーリーは重要でないと思うからだ。
ストーリーなんかあってないみたいなもので、テレビスターのビートたけしと
コンビ二店員の北野武が出会ってそして彼らの夢と幻想の世界をちりばめていくからだ。

難解な映画だ、といわれるがそんな難解な映画ではないと思う。
もちろんこの映画を100%理解したなどと思わない。
シーンシーンに細かく意味づけを楽しんでもよいだろうし、その不可解な会話や
展開をなんとなく楽しむのもよい。

たけしの過去の映画のリメイク的シーンがあったりするが、そんな細かいことより
やはり役者を目指しながらオーディションを受けつづけるコンビ二店員は誰でもが
彼がまだ浅草で売れない漫才師だった頃を重ね合わせるに違いない。

もし自分が売れないままだったらどうなっていたか?
売れるようになったが、自分に付きまとってくる奴(ファンという意味ではない。
売れている彼に近づいてなんとかおこぼれをもらおうとする奴など)、陰口を
叩くやつ、この映画に漂うのは「いらいら」感だ。

わけのわからんラーメン屋だったり、コンビニやってきたわがままな客だったり、
隣のアパートのヤクザだったり、自分が強盗して稼いだ金を持っていこうとする奴
だったり、ありとあらゆる人間が彼をイライラさせる。

そして手に入れた拳銃で破壊衝動にでる。
北野バイオレンス炸裂で、撃って撃って撃ちまくる。
(関係ないが北野映画での拳銃の使い方でいいのはオートマチック拳銃が
ちゃんと排莢してること。もっと重要なのは薬莢が落ちる音がチャリンと
聞こえること。この音がいい)

彼の内面のイライラ感の正体などわからない。
しかしテレビ界のトップに立ってすでに20年以上、そして映画監督としても
世界的な評価をうけ、傍から見れば彼ほど成功を収めた人間も少ない。
しかしフライデー事件や、バイクの事故、彼には彼なりの不満や苛立ちも
あったろう。
彼に近い人ほど、シーンシーンが意味しているものがわかるのかも知れない。

北野武自身の苛立ちと孤独と破壊衝動の映画。
もちろん誰もが楽しめるわかりやすい映画ではないが、それほど難しい映画ではない。
たけしの苛立ちと破壊衝動を感じればよいではないだろうか?
そんな北野武自身な「極私的」な映画ではなかろうか?
でも見てる間は私は退屈しませんでしたね。



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春の雪


日時 2005年11月13日14:45〜
場所 ユナイテッドシネマスクリーン7
監督 行定勲

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この映画が公開されている2005年11月は三島由紀夫が自決してから35周年。
それと連動させたキャンペーンを書店とタイアップするのかなと思ったが、
そういうわけではないらしく、映画のキャッチコピーにも「三島由紀夫没後35周年記念」
という言葉はない。
別にそれを狙ったわけではないらしい。

この「春の雪」というのは読んだことはないが、タイトルは知っていた。
あの1970年11月に三島由紀夫が市ヶ谷で自決したとき、学校から帰った私は
テレビでその様子を報じるニュースを見た。
その時、テレビの近くの机には三島由紀夫の「春の雪」が置いてあり、その奇妙なタイトルに
引かれたものだが、母がその本のことを、「あなたはまだ知らないだろうけど、三島由紀夫って
いう有名な作家が自殺したの。それでちょっと三島由紀夫の本を出してみて少し読んでいたんけど」
と教えてくれた。
その後も母の口から三島由紀夫の話が出たことはない。母が三島のファンであったかどうかは
わからない。
たまたま家にあった三島の本を適当に引っ張り出して読んでいただけかも知れないのだが。
今度、会ったときに三島のファンだったのかちょっと聞いてみよう。

そんなエピソードとともに「春の雪」というタイトルは知っていた。
そして今回の映画化。
主演は今日本で一番売れている若手、韓国でも大人気と証明された妻夫木聡。
相手役は竹内結子。

映画は暖色系の美しい映像で(時折、露出があってないようなハレッたカットがあったが)
大正時代の悲恋を描く。
妻夫木演じる松枝は客観的に見ればわがままな奴だ。
幼馴染の竹内結子を最初は関心がないふうを装い、自分が遊郭につれて行かれそうになったとか
女中に誘惑されたとか、嘘か誠かそういう話を竹内に手紙で伝えようとしたりする。

彼の最初の竹内に対するそっけない態度は自尊心からきたのか。
女に告白するなど男のすることじゃないと言ったような。
しかし自分より強大な地位の皇族に嫁ぐとなった時、自分のプライドが逆に彼を燃え上がらせて
しまったのか。
そんなわがままで自分勝手な男だが、不思議といやな感じはしなかった。
つまり、妻夫木がうまく演じていて、説得力があるのだ。
そのあたりの実に見ていていやみがないのだ。

また竹内と情交を重ねる妻夫木のなんとセクシーなことよ!
ふんどし姿でには新鮮なセックスアピールを感じてしまう。

その点、相手役の竹内結子はかすみっぱなしだった。
この映画については釜山での様子も含めて映画の宣伝には常に妻夫木一人で出演し、芸能ニュース
では竹内はまったく見なかったので、本来ならW主演のはずだが、見る前の刷り込みからして
妻夫木一人しか見えてこないのだよ。
そういう外的要因も含めて妻夫木の魅力のみが記憶に残る。

この映画における妻夫木の破滅に向かう姿は実に美しい。
「ローレライ」とは違った面を見せてくれ、新たな代表作といえるかも知れない。



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乱歩地獄


日時 2005年11月12日18:50〜
場所 テアトル新宿
監督 竹内スグル(「火星の運河」)
    実相寺昭雄(「鏡地獄」)
    佐藤寿保(「芋虫」)
    カネコアツシ(「蟲」)

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江戸川乱歩の4つの短編(「火星の運河」「鏡地獄」「芋虫」「蟲」)を映画化。
「盲獣VS一寸法師」のところでも書いたけど、乱歩が人をひきつけてやまない
「変態性欲」の世界だ。

「醜いものがきれいに見える」「痛みが快感に変わる」「死体に欲情する」そんな
異常な性欲の世界のオンパレード。
「鏡地獄」の主人公の鏡師はゆき過ぎた自己愛(ナルシズム)が鏡に対する異常な
執着を生み、「芋虫」では戦争で手足がなくなったまるで芋虫のようになってしまった
夫に欲情し、「蟲」ではあこがれの女性が死体になっても尚愛し続ける異常な男だ。

全体的に美しい映像で語られ、乱歩独特の異常なものを美しく感じる世界を
映像化する。
演じる役者も浅野忠信、成宮寛貴、松田龍平、という今日本で妖しい魅力を放つ
男優ばかりを集め、乱歩世界の異常な美しさにぴったりだ。
特に成宮寛貴が年上の女性を相手にSMシーンを演じるあたりは本当に美しい。
成宮がS役を演じ、女性を縛り上げ、卑猥な言葉を吐きながらろうそくをたらす。
このシーンを見るだけでもこの映画を見る価値はあるというものだ。
成宮ファンの中学生にはショックだろうなあ。
一応Rー15だけど、内緒で見ちゃった子はトラウマになるんじゃないか?

そして(ここからがポイントなのだが)実相寺作品の「鏡地獄」、これまるっきり
「怪奇大作戦〜呪いの壷」だった。
異常な死に方をする連続殺人事件が発生、彼女たちの死んだところには常に和鏡が
あった。
明智小五郎(浅野忠信)はこれを不審に思い、この鏡を作った鏡師(成宮寛貴)を訪ねる。
鏡師は鏡に見せられた美しい青年だった。
そして鏡にはマイクロ波が発生する仕掛けがあり、そのマイクロ波で次々と殺害していたのだ。
警察に捕まった鏡師は鏡に突っ込むという破壊衝動に出るのだった。

こんな感じの話。
なんだかよくわからない装置で殺人を犯す、というあたり、動機が異常な心理に基ずく、
というあたりがもうまるっきり「怪奇大作戦」。そしてプロットは「呪いの壷」だ。
実相寺ファンは思わず爆笑してしまうだろう。
またこの「鏡地獄」は常に鏡がおいてある場所が登場し、鏡が異常に登場する妖しい世界
が繰り広げられる。

実相寺ファン、満足の一編。



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ホールドアップダウン


日時 2005年11月12日12:30〜
場所 東京グローブ座
監督 SABU

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V6結成10周年記念映画。

クリスマスイブの日、サンタ姿の二人組(井ノ原快彦、三宅健)は銀行強盗をしたのだが
逃走用に用意しておいた車が、駐車違反でレッカー移動させられてしまう。
しかしサンタ姿なので逃げるのもままならない。
しかもサンタ服の下には服を着ていないので脱ぐことも出来ず、とりあえず地下鉄の駅の
コインロッカーに金の入ったかばんを隠すことに。
だが今度は小銭がないのでコインロッカーが利用できない。仕方なく近くで歌っていた
ストリートミュージシャン(岡田准一)の小銭を奪う。
追いかけるストリートミュージシャン。逃げる健とイノ。
ところがそのストリートミュージシャンは刑事二人組(坂本昌行、長野博)の車に
はねられてしまう。
死体を捨てることに決めた刑事たちは岡田の体を車に押し込むのだが・・・・・

という感じでハイスピードに話は進んでいく。
でもこの段階では森田剛はまだ出てこない。

SABU監督のジョークや笑いのセンスにやや趣味の悪いところがあって(例えば森田剛が
牧師時代に教会を燃やすとか、森本レオが誤って撃ち殺されるとか。宗教や人の生死を
笑いのネタにしてはいかんよ)もう一歩手前で止めてほしいところはある。
例えば先の例で言えば、森本レオのところは拳銃の弾が天井に当たって照明が落ちてくるとか。

総じてスピード感があふれるコメディとして(前半は)よく出来ているのだが、森田剛が
凍った岡田准一を連れて古い温泉ホテルに行ったあたりからホラーになり、わけがわからなくなる。
「10周年記念映画」ということでいろいろ詰め込みたかったのはわかるし、90分スピード感の
ある笑いで続けるのはしんどいと思う。
しかしホラームードの後に5人がホラーの雰囲気に飲まれてカンフー映画になってお互いが
戦いだすあたりは展開がむちゃくちゃすぎ。
スタントやCG合成を使って頑張っている画にはなっているが、こちらは話についていけなくなる。

そして最後は5人が伸びてしまうだけで、肝心のロッカーの鍵は意外でも何でもない人が手に入れて
終わり。
要は話の前半で広げた風呂敷を後半にまとめられなくなっている感じがする
なんだかこう話のアイデアをどんどん転がしていったはいいが、最初とどうつなげるかを考えて
いない。
言い換えれば伏線がないのだ。
前半に張ってあった伏線が最後になってふと絡んでくる(例えば冒頭の交通事故がラストで
かかわってくるとか)という展開ならもっと面白かったのだがなあ。

そのあたり、シナリオにもう一ひねり欲しかった。
残念。



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ステルス


日時 2005年11月5日21:30〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン1
監督 ロブ・コーエン

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うわっ、変な映画見ちまったなあ、というのが正直な感想。
「スカだ、スカだ」とうわさには聞いていたがこれほどスカとは!
今年のワースト1決定だ。

何せアメリカの平和のためならどこでも攻め込む!という内容の映画だ。
まずはミャンマー。
ここのあるビルにテロリストが集合して会合を開く、という情報が入った
だけで即攻撃!だ。
おいおい、他国だよ!
領空侵犯でしかも宣戦布告もなしの攻撃だ。こんな国際法上、まずいだろう。
もうまるっきり「チーム☆アメリカ」の実写版だ。しかもアイロニーなしの。

今までの映画なら、「攻撃したいところだがそういうわけにもいかん」と
なってスパイ部隊が潜入するのが常套手段。
しかしそんなまどろっこしい事はしないで即空爆!だ。
ガラガラと攻撃されたビルが崩れ去っていく姿は911のワールドトレード
センタービルを思い出した。
つまりこういう風にやられたんだから、同じようにやり返していいということなのか??

その後も核兵器を持ったらしいという情報が入っただけで、中央アジアのある国を
攻撃する。
しかも近くの村に被害が及ぶ恐れありということで攻撃を止めようかなという
良心をチラッと見せるが結局攻撃。マスコミ対策を心配する艦長に
「そんなもの嘘のうまい奴に考えさせろ!」だと。

で、ステルス(無人戦闘機EDI)の人工知能が暴走。
今までもコンピューターの暴走というのは映画では定番ネタだが、今回暴走してるのは
あのナントカ大佐(サム・シェパード)だ。
それでヒロインの乗る飛行機が北朝鮮に墜落する。

このあたりの悪しき偶然の設定を考えるととにかく映画を作った連中は戦争をしたくて
たまらないらしい。
そしてロシア空軍とも空中戦をしてロシアとも戦う。
もう冷戦はとっくに終わったんだよ。
で北朝鮮にも侵入し、ドンパチ行う。
この映画に登場する北朝鮮は領空侵犯されたただの被害者でしかないのに攻撃する。
しかもステルスはなぜか特攻する。
ある意味自爆テロするのだ。
映画を作った連中は実は自爆テロする連中のことを賞賛してるんではないだろうか?

アホらしくて途中で帰ろうと思ったよ。
誰かこの映画の暴走を止められる奴はいなかったのか?
こういう言い方はしたくないのだが、昔のアメリカ映画はよかったのだがなあ。
見てて悲しくなった。

単なるアクション映画として考えれば、ヒロインの墜落シーンで上から飛行機の
破片がバラバラ落ちてくるシーンは迫力あったけど。



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ALWAYS 三丁目の夕日


日時 2005年11月5日19:00〜
場所 ユナイテッドシネマスクリーン9
監督 山崎貴

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ここ数年、昭和がブームだ。
特に昭和30年代が好まれている。かつてレトロブームというのがあったが
それと同様に昭和30年代の町の風景やアイテムが「いまはなくなってしまった良き物」
的な扱いで、再現されている。
お菓子のおもちゃにかの時代を再現したフィギュアが付くほどだ。

私もこの時代は嫌いではないのだが、昨今の大流行には手放しでは喜べない。
こういう「昔は良かった」式の話は今を否定するものだが、今という時代は大抵は昔に
「将来こんなことが出来たらいいなあ」とどこかで誰かが願ったことの集大成だ。
だから思いもよらぬ副作用があったからと言って昔を懐かしむのは都合が良すぎる。
「クレヨンしんちゃん モーレツ大人帝国の逆襲」を見て以来、私は無条件に昔を
懐かしむのはやめた。

そうは言っても最初に書いたように嫌いではないし、予告編でみた建設中の東京タワーが
なんとも画的に魅力的だったので見る。

話の方は建設中の東京タワーに象徴されるように発展しつつある東京が舞台。
集団就職で青森からやってきた女の子(堀北真希)が夕日町三丁目の鈴木オート(堤真一)
に就職し、飲み屋の美人おかみ(小雪)に言いくるめられて売れない作家(吉岡秀隆)が
小学生の子供を引き受けるところから始まる。

で、鈴木オートにテレビが来たり、旧式の氷を入れる冷蔵庫から電気冷蔵庫に変わったり、
街にはダイハツミゼットが走る。
平和な反面、戦争で家族を失った医師(三浦友和)も登場し、戦争の傷跡もあった時代だと描く。
そして小学生の子供の本当の母親が高円寺にいるらしいと聞き、行ってみるという冒険をして、
心配をかけたと大人たちに怒られたり、サンタがやってくるクリスマスの夜も描かれる。
そんなエピソードが繰り返され、「男はつらいよ」にも似た人々の人情が描かれる。
そしてなんとなく漂ってくるのが「あの頃はよかったなあ」という感傷。

しかしさっきも書いたように(この映画にも登場するが)電気冷蔵庫に氷屋が仕事を
奪われてしまうように必ずしもよいことばかりではなかったと思うのだが。
まあそれだけ日本人が懐古的になるのも21世紀の現在が魅力がないのだろうな。
現在、というより未来に希望がないのだろう。
あの頃夢見た21世紀は輝かしかったからなあ。
今、30年後のことを想像しても暗いしな。
これから世界はどんどん悪い方向に向かっている、というのが今の風潮だし。

でもこれから50年経ったら21世紀初頭を懐かしむ映画が出てくるのだろうか?
建設中の六本木ヒルズが出てきたりして。
いや、たぶん出てこないだろうな。


でこの映画のもう一つ(というかこっちが魅力という人もいるだろうけど)ともいえるのは
CGやセットによる昭和33年当時の風景。
かなりよく出来ているとは認めるがちょっと作りこみすぎのような気がする。
あんなにごちゃごちゃしてなかったような気がするのだが。
33年当時の映画はよく見るが、町の風景はもっとさっぱりしてると思う。
当時の看板などのアイテムを集めたのはいいが、集めたことがうれしくて
1枚だけ張っておけばいいところに2枚も3枚も張っているようなくどさを感じるのだ。
またクレーンによるカメラの上下移動もちょっと多すぎではないか。
立派なセットを作ったことに感動してやたらセットを写そうとしてカメラを動かして
いるような気がする。
さらに意地悪に言えば、上野駅や銀座、都電のシーンの多数の人が映るシーン、
よく見ると隅っこにいる人間を見るとやっぱりCGらしいぎこちない動きをしている。
いや、そんな重箱の隅をつつくような見方をする私がいけないのだろうが。

追記
吉岡秀隆の貧乏作家はああ見えてモンブランの万年筆を使っていた。
「元は資産家の息子」という設定が語られるが、その辺に乗っ取った小道具なのだろう。
スタッフのここまで工夫する心意気が感じられた。



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蝉しぐれ


日時 2005年11月5日15:30〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン6
監督 黒土三男

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東北の小藩。
主人公とヒロインは同じ長屋に住む幼馴染だった。
父(緒形拳)は金には縁遠いが周りからは尊敬される人物だった。
しかし父は藩のお家騒動に巻き込まれ、罪なくして死罪に。
幼馴染は藩主に気に入られ側室となった。
主人公は家老に許され元の碌に付いたのだが、幼馴染が藩主の子供を生んだため
家老から狙われる身となった。
家老は主人公を使って幼馴染を誘拐させようとたくらむのだが・・・・・

藤沢周平原作映画第3弾。
でも今回は松竹ではなく、東宝の作品。
「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」同様、大人の恋愛&アクション映画だ。
物語のテンポは遅く、派手な盛り上がりもない。
最近アメリカ映画のドッカンバッカンには飽きているのでこういう渋いのもたまにはいい。

藩の上層部のお家騒動に巻き込まれる市井の人々を
どちらが正しいなどという上からの視点でなく、あくまでも善悪など関係なく、
争いに巻き込まれていく庶民のつらさ、悔しさを根底に描く。
現在の政権争いなどには関係なく自分の暮らしが第一に考える現代人にも
通じるものがある。

藤沢周平原作ものが映画化されるのはやはり時代劇を通じて現代にも
通じる庶民の心を描いているからだろう。
そして現代劇でやると荒唐無稽になってしまう、主人公の一瞬の反撃には
カタルシスを感じる。
「隠し剣」では最後の緒形拳を一刺しするシーン、今回では加藤武を脅かすシーンなどだ。

また今回は主人公の二人、幼馴染の頃から秘めていた想いが成就せず、「あなた様と一緒に
なりたかった」と悔いる展開がよい。
「隠し剣・・」がいまいちだったのは、最後に主人公二人が幸せになってしまうところなのだね。
要するにハッピーエンド過ぎるのだよ。

二番煎じと批判することも可能だが、「ドッカンバッカン映画」に飽きた私にとっては
年に1本ぐらいはこういうのがあっていい。

出演では主人公が大人になってからの市川染五郎より少年時代の石田卓也がいい。
今後の彼に注目したい。



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福の神・サザエさん一家


日時 2005年11月3日16:00〜
場所 川崎市民ミュージアム
監督 青柳信雄
製作 昭和36年

(詳しくはキネ旬データベースで)


サザエさん映画シリーズ10作目。
メインタイトルでも江利チエミが出てきて「シリーズ10作目、ありがとうございます」
とスクリーンからお礼を述べる。
シリーズもので10作というのは多いほうに入るだろう。
(と言っても映画版の「サザエさん」はこれで終わりになるのだが)

サザエさんの夫、マスオさん(小泉博)が今度課長に出世するといううわさがあって
サザエさんは気が気でない。専務夫人の自宅に招かれ「東京婦人会(東婦会)」の
メンバーになってくれと頼まれる。
それは女性の地位向上や子供の福祉のためのボランティア団体だ。
サザエさんも夫の出世のためにと張り切りだす。

とまあそんな感じで張り切りだし、万事ドタバタに。
専務の子供が親の前では落としいクセにサザエさんと二人になると途端に態度が
でかくなるとかそういうベタなギャグから始まる。
そしてサザエさんは前作のラストで上京してきたエプロンおばさん(三益愛子)が
東京ではじめた貸し本屋をよせばいいのに子供専門図書館みたいにしてしまったり、
紙芝居屋(沢村いき雄)のお菓子に苦言を言ってしまう。
そして仲人をしなければ一人前じゃないとばかりにエプロンおばさんの息子一郎
(太刀川寛)と山中さん(柳家金語楼)の孫娘を無理やりお見合いさせて・・・・

という感じ。
で結局マスオさんの昇進は・・・となるわけだが、ここは書かないでおこう。
サザエさんというより、(脚本家が同じせいもあるが)後のクレージー映画のサラリーマン
出世映画のパターンを踏襲しており、確かに長谷川先生からするとちょっとお気に召さな
かったかも?

江利チエミ自身も毎度おなじみの「ビビディバビデブ」の歌や「テネシーワルツ」を披露する。
見ている間は江利チエミの明るい憎めないキャラクターにこっちまで心が明るくなる。
今回見逃したあと4本もどこかで見てみたくなるんだよね。

出演は他にはマスオさんの同僚で脱線トリオ(由利徹、南利明、八波むと志)、エプロン
おばさんの家の下宿人で高島忠夫、その妻に浜美枝などなど。



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サザエさんとエプロンおばさん


日時 2005年11月3日13:30〜
場所 川崎市民ミュージアム
監督 青柳信雄
製作 昭和36年

(詳しくはキネ旬データベースで)


江利チエミの「サザエさん」シリーズ第9作。
10月22日からの毎土日にこの川崎市民ミュージアムで1作目から上映があったのだが、
未見の作品を見る。(但し、5、6、7、8は都合で見送り、ラストの2本だけの鑑賞)

サザエさんとマスオさん(小泉博)はすでにめでたく結婚しており、今回はマスオは
仕事で関西に出張中で、大阪の親戚の家(花菱アチャコ、浪花千栄子)に泊まっている。
その仕事とは会社の京都支店設立のための土地買収なのだが、一軒だけむかしからの
下宿屋のおかみ・エプロンおばさん(三益愛子)が立ち退きをしないのでいつまで経っても
仕事が終わらない。
マスオさんに会えない寂しさから関西に行ったサザエさん、事情を知ると「私が交渉する!」
とその下宿屋に住み込みの女中として潜入してしまう。
サザエさんはエプロンおばさんを説得するというがマスオさんは気が気でない。
そこへ新たなる下宿人(高島忠夫)もやってきて・・・・

今回ちょっとがっかりだったのは江利チエミの歌が少なかったこと。
「ビビデバビデブ」の歌と高島忠夫とデュエットぐらいしかなかったのだな。
でいつも通り失敗の連続のサザエさん。
最後は東京の大学を卒業予定で就職活動中のエプロンおばさんの息子、一郎(太刀川寛)
が波平の会社を志望していると知ると、その世話を波平に頼んで無事就職させ
エプロンおばさんの信頼を得て無事立ち退くことに同意する。

細かいギャグとか憶えていないのだが、見てる間は楽しかった。
ベタなギャグが多いのだが、それでも江利チエミの明るいキャラクターに引き込まれて
ついつい見入ってしまう。
これってやっぱりすごいことだ。

でも関係ないが、今回のこの映画では主人公が立ち退きを迫る側であるということ。
バブル以降、地上げ屋、立ち退き屋とダーティーなイメージがあり、大抵は主人公が
立ち退きを断念させる立場になることが最近は多い。
この頃は日本も成長期で、「立て直すのはいいことだ!」「どんどん古いものは捨て
新しいものを作ろう!」という気運だったのだろうか?
そんなところにも時代感覚が見える気がした。



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