2006年2月

県庁の星
PROMISE 無極 ジャーヘッド ミュンヘン 博士の愛した数式
ホテル ルワンダ 太平洋作戦 フライトプラン 単騎、千里を走る。

県庁の星


日時 2006年2月26日16:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン8
監督 西谷弘

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海沿いにある某県。ここでは総工費200億円の老人介護施設の計画が持ち上がっていた。
しかし「箱モノ行政」との市民団体からの批判もあり、批判をかわすために「民間の
ノウハウを勉強する」という名目で県庁の若きエリート職員7名が民間企業へと
研修に行く。
野村聡(織田裕二)もそんな一人。しかし彼のいった先は三流スーパー満天堂。
しかも研修担当者はパートの女性(柴咲コウ)。野村は県庁の時と同じく
何でもかんでも規則、決まり事、マニュアルで押し切ろうとするのだが。

織田裕二、なんと3年ぶりの映画新作。
原作はそこそこ売れてるそうで、本屋でも平積みだ。
何しろ今世間では改革が大流行だ。
「改革」と叫べばなんでも正しくて金になる。しかも世の中の人は公務員が嫌い、
憎たらしい、諸悪の根源、いつかギャフンと言わせたい、と考えている。
こういう時流に乗っ取ったタイムリーな映画。

しかしフジテレビ製作の映画だから、(なのかどうかは知らないが)説明過多のお子様向け的
映画に仕上がった。山本薩夫のような辛口を期待してはいけない。
わざとらしい、「ここで盛り上げれ!」と指示されているような音楽、わかりやすいお笑い、
ラストのスーパーの査察がうまくいった後のみんなで親指を立てて祝うところのわかり易い
演出。説明過多だ。

テレビと違ってチャンネルを替えられる心配はないのだから、そんなにびくびくしながら
演出しなくてもいいと思うよ。ラストのスーパーのシーンだが、あんな風に親指立てたり
しないよ、普通は。
目配せだけで充分だと思う。
その辺のさりげない演出、というものを勉強して欲しいと思う。

そんな感じで一事が万事、説明過多、わかりやすすぎ、オーバーアクトの連続だ。
前半の野村がスーパーに来て戸惑うところなど、もう少し抑えたトーンでもよかったのではないか?
他にも出世コースから外れた野村が雨の中で泣くとか、見ていて照れるのだよ。
言葉は悪いが演出が「子供向け」に思えてくる。

でもってラストに織田裕二が「改革とは組織を変えることではなく、そこにいる人の意識を
変えることなのです」と丹波哲郎もびっくりの大演説をする。
そして織田の改革案は知事が検討してくれることになり・・・・
となる。
しかし、最初のスーパーでのドタバタから雨の中で織田裕二が泣くシーン、そして織田の演説
まで予告編で見てるので、この映画は八割方予告編で見せてしまっていた。

さすがにすべて「めでたしめでたし」に収まる結末でなくて少しほっとした。
あのまま全部「めでたしめでたし」になっていたら、私は怒ったかも知れない。
現実はそんなに甘くないのだから。

県庁のラウンジで無料だったエスプレッソが1杯100円になり、改革は少しづつだが、
始まっているという希望で終わる。
まったく希望のないラストでもよかった気がしますけどね。
世の中、そんなに甘くはないのだから。



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PROMISE 無極


日時 2006年2月26日12:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン6
監督 チャン・カイコー

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こういうタイトルって困るよなあ。このHP上でもインデックスに入れる際に
英文字の「P」にするか、小文字の「プ」にするか迷うから。
気にしない人にはいいのだろうけど。

もうこういうどうでもいいような愚痴から話を始めなければならないのは
ひとえにこの映画とは合わなかったから。
チャン・ドンゴン、真田広之という日韓のスターが香港映画に出演で、しかも
中国語で演じるという話題に引かれて見に行った。
私の関心はそれだけだから、真田とチャン・ドンゴンの中国語が聞ければ
もう満足してしまう。
二人の中国語は日本人の私には違和感がなかった。
中国人が聞いたら違ったかも知れないが。(まさか吹き替えじゃないよね??)

で、話のほうだが、神々と人間達が一緒に住んでいたという太古の話。
でも「正義のために戦う」という話ではないから、「ナルニア」「ロード・オブ・
ザ・リング」みたいな話ではなく、女の取り合いが基本だから「トロイ」みたいかな。
「トロイ」と「ロード〜」をミックスして中国を舞台にしたような話だ。

巷の評判では「おバカ映画」と言われていたが、見たら納得。
チャン・ドンゴンが走る、走る。
冒頭、敵の放った牛の大群に襲われて奴隷達がそのいけにえになるのだが、
奴隷の一人のチャン・ドンゴンが四つんばいになって、主人を背中に背負って
牛の大群を追い抜いていく。
「カンフーハッスル」並みの無茶苦茶さだ。
私はこのシーンで「ブハハ」と笑ったが、多くの観客は笑わない。
まじめなチャン・ドンゴンファンが多かったのだろうか?
その後も「カンフーハッスル」的「あり得ねー」なアクションが延々と続く。

似たようなアクションの連続だし、もともと時代劇とか史劇とかにはテンションが
上らない人だから、見てるうちに飽きてくる。
終いには、ぼーっと見てたから映画のことは実はあまり記憶には残っていない。
くどいくらいに多いワイヤーアクションには飽きが来るし、パンやクレーンで
動かしまくる映像で頭がクラクラしてくる。
カメラを動かすとどうしても画が流れるから観づらくなるのだよ。
こういうことは他の映画でも何度も行ったけど、こう感じる俺が年を取ったのか?

出演ではニコラス・ツェーの氷のような美青年が印象的。と言っても1週間たったら
忘れそうだけど。
それにしても真田広之、国際的なスターになったなあ。



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ジャーヘッド


日時 2006年2月26日10:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン7
監督 サム・メンデス

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父が海兵隊員だった主人公のスオフォードは恋人を残したまま海兵隊に入隊。
そこでは鬼教官による人間のプライドを捨てさせることが目的のような過酷な
訓練があった。実際、訓練中に仲間の一人が死ぬ。
やがて湾岸戦争が始まり、イラクへと向う。
しかし半年間は何もない待機の生活。故郷の恋人からの手紙では新しい彼が
出来たらしい。休暇に電話すると「ただの友達よ」と流される。
何もないが緊張だけの生活だったが、やがて実戦へ。

「俺たち、何やってたんだろ」という主人公たちのため息が聞こえてきそうな映画だ。
厳しい訓練があっていざイラクへ行ったが、待機だけ。
行軍中にはアメリカ軍から誤爆されるし、焼け焦げになった人々の死体を見ていやな
気分になる。マスコミの興味本位の取材に付き合わされる。
挙句の果てにやっと出動命令が下り、敵を狙撃しようとテンションが上りきったところで、
作戦中止命令、そして終戦。

別に人を殺したかったわけじゃない。でも何もなかったならともかく、油の雨には
降られるわ、死体の山は見させられるわで散々だ。
これが敵と一戦交え、たとえ小規模でも戦闘があれば、「自分も国や仲間のために
働いた」という意義が感じられたかも知れない。
しかしそんなものはなく、あるのは疲労感ばかりだ。
帰ってきたら彼女には新しい彼がいた。
まったくやってられない。

第2次大戦やベトナム戦争の頃とは戦争のスピードが違う。
もはや俺達みたいな兵隊が必要とされる時代は終わったのだ。

そんな兵士達のため息が聞こえてきそうな、「第2次大戦」とも「ベトナム戦争」とも違う
現代の戦争。
これが実態。



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ミュンヘン


日時 2006年2月19日16:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン4
監督 スティーヴン・スピルバーグ

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1972年、ミュンヘン・オリンピック。イスラエル選手団の宿舎はパレスチナゲリラ
「黒い九月」によって占拠され、彼らはイスラエルに逮捕されている自分達の同志の釈放を
要求した。
ドイツ警察は空港での彼らの鎮圧作戦に失敗し、選手達9人は全員死亡した。
「黒い九月」のメンバーは11人。イスラエルは彼らに報復することを決め、この世界に顔を
知られていないということで今まで工作員経験のない、アヴナー(エリック・バナ)をリーダー
にした報復部隊を結成する。
今まで目立つ仕事をしたことのないアヴナーにとってはこの仕事は大任だった。
彼の妻は妊娠中で、まもなく子供が生まれる予定だった。
一人また一人と殺していくアヴナーたち。しかしやがては彼らも狙われるようになる。

巷では評判のいい本作、実際に見て、期待にたがわぬ名作だった。
スピルバーグにとっても代表作に数えられると思う。

まず主人公のアヴナーが実戦経験がまったくない男というのが特徴的。
アクション映画として娯楽作品を作りたかったら007のようなスーパーマン的な
工作員にすればよかったろう。多分それでもそこそこ面白い映画は出来たような気がする。
しかし、アヴナーは普通の市民の視点に立った行動をし、人を撃つときにためらう。
最初のターゲットを殺すときなど、ターゲットから「落ち着いて」といわれて、銃を
下ろしそうになるくらいだ。

そして殺しの一つ一つを丁寧に、サスペンスフルにスピルバーグは描き出す。
2番目のターゲットを電話に仕掛けた爆弾で殺すとき、前にトラックが止まったり、誤って
娘が電話を取ってしまったあたりのハラハラ感は映画の王道的な面白さだ。

しかしKGBとのパイプ役だった男を殺し、殺す指示を与えられていないその後任の男を
独断で殺すという最初の任務から逸脱するあたりから行動の基準があいまいになる。
アヴナー自身も「最初はためらったが、今では大して迷わない」と変貌してくる。
そんな中、パリで情報提供者と会うときに待ち合わせに使うキッチンのモデルルームの前で
「早くこんなキッチンで食事を作るような暮らしをしたい」と願う。

そして仲間を殺した女を殺し、常に自分も殺される恐怖感におびえ、任務を邪魔した
アメリカ人の酔っ払いがCIAの手先なのか、単なる偶然なのかわからなくなり
やがては祖国が裏切って口封じに殺されるのではと疑うようになる。
もうわけがわからない袋小路に陥ってくる。

しかしこれこそ、報復の連鎖なのだ。
もちろんこの映画はミュンヘン事件を題材にしながら今も続くアメリカの対テロ戦争批判
であることは明らかだ。
3時間近い上映時間はやや長い気もするが、テロの当事者であるアメリカ人を説得するには
これぐらいの時間が必要なのかも知れない。

映画が終わるとき、アヴナーの任務が終わるわけではない。
それは対テロ戦争が終結していない今のアメリカの姿だ。

ラストシーン、アヴナーがフレームアウトした後に画面の中心にあるものは何か。
それは2001年9月11日に崩壊したワールドトレードセンターだ。
(この映像は当然、CGなどによる合成だろうが、このことにはパンフレットでは
触れられていないようだ)
アップになったりしてこれ見よがしに写さないが、ワールドトレードセンターが画面
中央にあることはわかる人にはわかるだろう。
この映画の舞台から約三十年後、このビルは崩壊し、アメリカは終わりのない対テロ戦争
へと突入していくのだ。

出演は「ブラックホーク・ダウン」のエリック・バナ。着実にいい仕事をしている。
また車、衣装などなど70年代の雰囲気を再現した美術は実に見事。
画質のやや荒めの映像が70年代の空気を描き出す。(フジフィルムの力に負うところが
多いに違いない)

DVDで何度も見たくなるような映画ではないが、今年のベスト映画になる可能性のある名作だ。



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博士の愛した数式


日時 2006年2月12日19:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン6
監督 小泉尭史

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シングルマザーの家政婦・杏子(深津絵里)は新しい派遣先を紹介される。
世話をするのは10年前に交通事故にあって以来、記憶が80分しか持たない
記憶障害になった博士(寺尾聰)だった。
最初は戸惑った杏子だったが、やがて杏子も杏子の10歳の息子も博士の純粋な
人柄に惹かれていくのだった。

うわあ、参ったなあ。
実を言うとこの映画、はじめは見るつもりがなかった。
記憶障害の話なんてなんだか「私の頭の中の消しゴム」みたいだし、「その二番煎じか??」
思っていたのだ。
ところがやたら評判がいい。
大好きな寺尾聰主演だし、見に行ってみたのだがやっぱり肌合いが合わなかった。

いや、いい映画だとは思うよ。
数学のように邪心のない博士とシングルマザーとその息子の心の交流なんて、いい話じゃないですか。
お互いを思いやる気持ちにあふれていて、それこそ涙が出てくるんでしょうね。
でもねえ、私のような邪心にあふれた人間からすると何だか照れてしまうのだなあ。
でまた数学という妥協を許さない、大雑把では済まされない正確さをもってする学問をアイテムに
加えると人間のあいまいな欲望など吹っ飛んで理路整然としたわかりやすい人間関係が描かれる。

寺尾聰も深津絵里も好演。
年初からこんなことを言うのもなんだが、二人とも各映画賞の主演賞候補になりそうな感じさえする。

でも実は数学好きな私にとっては「友愛数」とか「完全数」などの数字の話は面白かった。
πというのは不思議なものだなあと思う。
数字で表せないのだ。
円の円周の長さは直径×πだ。
直径1mの円があったとすればその直径は1πだ。
その円周を延ばして直線(この映画によれば線分)にすることはできるはず。
その長さを「3.何メートル」と言えないというのだから不思議だと思う。
円周を定規で計ることは可能なはずだ。
その数値が定規のmm単位目盛りでは計れないのであれば、一目盛りの単位がもっと細かい目盛りの
物を使ったらどうか?
そうすればいつかはこの円の円周の長さは言い表すことが出来るのではないか?
でも数学ではπという無限に続く数字になる。
よくわからない。
この疑問にどなたか答えてください。

映画とは関係ない数学の話になってしまった。
でも寺尾聰、最近は「いい人」役が板についてしまったが、「ルビーの指輪」を歌っていた頃の
「不良な大人」役もまた見たい。
フィリップ・マーロー風の私立探偵役をやってほしいと実は心ひそかに願っています。



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ホテル ルワンダ


日時 2006年2月12日15:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン4
監督 テリー・ジョージ

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アフリカのルワンダではい以前からフツ族とツチ族が対立していた。
ベルギー資本の高級ホテルの支配人、ポールはフツ族だったが、妻はツチ族だ。
フツ族とツチ族には休戦協定が結ばれ、対立は収まるかに見えたが、それは見せかけに
過ぎず、すぐにフツ族の民兵によりツチ族の大量虐殺が始まった。
ポールは自分の家族を助けようとするが、彼を頼ってきた隣人達を見捨てるわけには
いかず、彼らをホテルにかくまうようになる。
やがて自分のホテルで赤十字の友人から頼まれた子供達も引き取ってかくまう。

おそらく多くの日本人はそうだと思うのだが、この映画に描かれた虐殺について
知らなかったのではないだろうか?
(虐殺の様子を示すエピソードで、ポールの乗った車が途中で急にでこぼこ道になり
道を間違えたと勘違いするシーンがある。ところがそれは道に捨てられた虐殺された
人々の無数の遺体があるためだった、というシーンがある。ここは映像的に
忘れられない迫力を残す)

少なくとも私は知らなかった。
それどころか、この映画を見終わってパンフレットを見るまでルワンダがアフリカの
どこにあるのかさえ知らなかった。

この映画にもルワンダの虐殺を取材するジャーナリストが登場する。
彼らがルワンダでのこの虐殺をテレビで放送するというとポールは「これで世界は
助けてくれる」と期待する。
だがジャーナリストは言う。「いや人々は『怖いね〜』と一言言ってディナーを
続けるだけだ」
これが正直な世界の人々の残酷さだ。

中東と違って石油もない、少なくとも経済的には何の関係もない国だ。
ヨーロッパの人々にすればアフリカの過去の植民地支配の歴史、また地理的な近さから
まだ関心があるかも知れないが、遠い日本にとってはますます関心が薄い。
ルワンダと日本との関係といえば、支配人が乗っていたワゴン車がトヨタ製であるという
ことぐらいだろうか?

この映画を見た日本人はルワンダの悲惨な現実を知って、何かをするだろうか?
知らないよりは知ったほうがいいのかも知れないが、大したことはしないという
点において「ディナーを食べ続ける人々」と五十歩百歩のような気がする。
私も多分何もしない。
私という人間はかように薄情な人間だ。
自分の力不足がいやになる気がする。

「あんにょんサヨナラ」のような日韓問題になると関心も違うし、行動も違ってくる。
でもやはり「遠い国」のことは薄情になってしまう。

ポールにしても難民を全員助けたかったに違いない。
しかし助けられなかった人のほうが圧倒的に多い。
その線引きをしなければならないときが一番つらい。
人間の力の限界を感じてしまう、いやな映画でもある。



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太平洋作戦(太平洋航空作戦)


日時 2006年2月5日
場所 DVD 
監督 ニコラス・レイ
製作 1951年

(詳しくはキネ旬データベースで)


1942年、ハワイにいたある海軍航空隊は新隊長(ジョン・ウエイン)を迎えていた。
隊のメンバーは誰もが副長が昇格すると考えていたので意外な人事だったが、やがて
彼らはガダルカナル島へ転属を命じられる。
ガダルカナルの基地は日本軍の基地を摂取したものだったが、日本軍の反撃も侮れず、
アメリカの戦闘機や輸送機も空襲で炎上してしまう。
隊長は部下には非常に厳しく接し、部下を思う副長は反発を覚える。
しかし隊長の考える低空飛行による地上軍を援護する戦法は、一定の戦果を収めたものの、
隊長の厳しさからアメリカ軍にも犠牲が強いられた。
副長や隊員達との溝は深まる隊長。一旦は部隊は帰国したが、隊は再び戦場へ。

最近よく見かけるコスミック出版の500円DVD。

500円という低価格でなにやら古い洋画をDVD化しているが「著作権とかクリアしてるのか?」
「画質はどんなもの?」という疑問を常々持っていたので試しに買ってみた。
著作権についてはわからないが、画質は想像していたよりずっとよかったので驚いた。
(ちなみに今回の作品、DVDでは「太平洋航空作戦」となっているが、キネ旬データベース
では「太平洋作戦」だった。なぜ改題されたのだろう??)

それにしてもこの映画に登場する日本軍は強い。
いや結局負けるのだから強くないかも知れないが、少なくとも米軍を苦しめるくらいには強い。
ガダルカナル島の戦いなんて日本の戦争映画では「ガ島」が「餓島」と呼ばれたくらい
飢餓や病気で苦しめられた激戦地だった、と伝えられる。
このあたりは米軍が謙虚にしているとか、米軍にとっても激戦だった、という理由だけでは
なさそうだ。

「ミッドウエイ」もそうだったが、アメリカの戦争映画に登場する米軍は必ずしも無敵ではない。
これはやっぱり映画にするには最初は苦戦しなければ「映画として」盛り上がらないせいではないか?
「スターウォーズ第1作」でも最初はルークたちは負けている。
主人公が危機になるくらい敵が強くないと「そういう強い敵をやっつけた」とならないから映画として
面白みがない。ルークたちが最初から強くてダースベーダーが弱かったら面白くない。
だから「ミッドウエイ」やこの「太平洋作戦」の米軍は最初は弱いのだ。
「最初は劣勢だったのに米軍は盛り返して打ち破った!」となるほうが面白いに決まっている。
別に日本軍に対して敬意を表しているわけではないのだろう。

最後は米軍が勝ち、ジョン・ウエインの鬼隊長も自分の判断が常に正しかったか悩んでいた、
という結論がついて終わる。
その辺は当たり前で面白くないのだが、登場するキャラクターとして資材係がコメディリリーフ
で登場。
各部隊からこっそり物品を調達して(盗んで)航空隊に役立てるのだが、なんだか「大脱走」の
ジェームズ・ガーナーの役どころ見たいで、面白かった。

戦闘シーンの多くは記録映像。
本物を撃っていると思うと迫力を感じてしまう。
しかもこれはカラー映像。戦争の記録映像にもカラーを使っているのだから、当時のアメリカ映画の
技術力はやっぱり素晴らしかったのだ。
何せ昭和14年に「風と共に去りぬ」を作っていたぐらいだからなあ。



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フライトプラン


日時 2006年2月4日22:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン3
監督 ロベルト・シュヴェンゲ

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夫を突然の事故で亡くした旅客機のエンジンの設計士カイル(ジョディ・フォスター)。
夫の棺と共に娘を連れてNYに帰ろうと自分が設計に関わった飛行機に乗り込む。
しかし、機中で娘と離れて仮眠を取った隙に娘はいなくなってしまう。
乗客や乗務員は誰も娘を見ていないという。
それどころか、地上に問い合わせた乗務員から娘は死んでいると告げられる。
一体、真相は??

密室の飛行機の中での失踪、という有り得ないシチュエーション、しかも乗客も
乗務員も誰も娘を見ていないという展開、観客のつかみどころは実にいい。
主人公も自分の精神がおかしいのかと思い出したときに、娘が乗っていたという
証拠を見つける。
それは窓に息を吹きかけそこに指で書いた文字。
ここまではヒッチコックの「バルカン超特急」だ。
窓に書いた指文字、というあたりは完全にパクリ。
最近の人は見てないから知らないんだろうな。ここまでで1時間ぐらい。

実はここまでの展開は予告編で見せてしまっている。
予告は何回もみたので「その後どうなるのか?」にばかり関心がいっているので
正直イライラした。
「それは予告で知っているから、その先を教えてくれ!」というわけだ。
ポスターなんかには「その時、最新鋭の旅客機は史上最悪の<戦場>に変わる」などという
キャッチコピーが付いてるから「その後」への期待は膨らむ。

しかし実際はジョディ・フォスターが機械室に潜入し、酸素マスクを出して機内を混乱させる
程度で大したことはしない。
で事件の真相も期待ほどではなく、ハイジャックを装った脅迫事件になるのだが、計画に
無理ありすぎ。
犯人の協力者は乗務員一人だけでは無理だろう。
他の乗務員や乗客が子供のことを覚えていたらアウトじゃん。
それに地上からの報告はどうやって偽装したのか?
地上から来たということにした偽のファックスでも用意してあったのだろうか?
それにしたって機長が直接地上に問い合わせればすぐにわかることじゃないか?

期待したんだけど、やっぱりミステリーとしても出来が悪いな。
また撮り方もセットの中でアングルが固定されるのを避けてやたら真上からのショットが
移動するのが気になった。(なんだか見にくいのだよ)

そして最後に飛行機を爆破したのはちょっとやりすぎの感じがした。
もう一つ、嫌疑をかけられたアラブ人には一言ぐらい謝罪してもいいんじゃないだろうか?
でも最初の方でアパートで見かけたのは事実だし、どういう関係だったんだろうね?
このあたりもシナリオの詰めが甘い。

昔から正月第2弾の1月公開映画ははずれが多いというのが僕の定説なんだけど
この作品もそんな説を証明する映画だった。



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単騎、千里を走る。


日時 2006年2月4日20:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン6
監督 チャン・イーモウ

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北国で漁師をしている高田(高倉健)はあることがきっかけで疎遠になっている
息子が癌で長くないことを知る。
息子は中国の仮面劇を研究をしていて息子の嫁(寺島しのぶ)からその研究のビデオを
見せてもらう。
高田は息子が中国の芸人に来年「単騎、千里を走る。」という芝居を見せてもらう約束を
していたのを知ると、息子のためにその芝居を中国に行って撮影しに行こうと決意し、
中国に向う。

高倉健主演映画。
もう誰が何と言っても高倉健の映画だ。
実を言うとストーリー的にはかなり無理があるような気がする。
しかしそれを押し切って見せてしまうのはやっぱり高倉健だからだ。

多分企画の段階では「高倉健がさ、絶縁している息子が入院してると知って、その息子が
見たがっている『単騎、千里を走る』という芝居をビデオにとりに行くわけさ。
その過程で中国人と日本人に国境を越えた友情が生まれ、親と子の絆を見つめなおすわけ。
その父親を健さんが演じるわけよ、いい映画だろう。
タイトルもそのまんま『単騎、千里を走る。』だ」
「いいねいいね。そして中国の大自然に高倉健がたたずんだらいい画が撮れるだろうなあ」
きっとこんな会話からスタートしたに違いない。

ここだけ聞くといい映画が出来そうなのだが、いざシナリオを起こしてみたらうまく
いかなかったんじゃないだろうか??
最初に目的があって、それを阻むものがあるから話として面白くなる。
ところが「阻むもの」がないわけよ。
それを無理やりに作っていった感じがする。

中国に行ってガイドをつけて事情を説明すれば多分演じてくれる。これでは映画が
すぐに終わってしまう。
そこで無理やり、演じる李加民を犯罪者にして受刑中にしてしまう。
でも「単騎、千里を走る。」は仮面劇だから普通の芝居ほど役者が固定されなければ
ならない話でもなさそうだ。
他の芝居にしてもよさそうだが、タイトルを借りちゃったからそうも行かない。
ここで仕方なく、「息子は李加民さんのが見たいと言ったんだ」と駄々をこねさせるしか
仕方ない。
で、刑務所に行くわけだが、許可は割りと簡単に降りる。
ここでごねさせると画的に面白くないし、第一「前例がないから」などとお役所的な
展開で話の山を作ったら、中国という国自体が悪者になる。これは国際的なイメージとして
避けたい。
で、しょうがないから李加民が息子が気になって泣いてしまう、という展開を作る。
でもねえ、これって役者として失格だと思うよ。
昔は「芸人は親が死んでも舞台に立つ」といわれたもんだから、泣くのは非常に役者として
レベルが低い。
(そういえばこの李加民は息子のビデオの中でも「今日は風邪で声が出ない」などと言い訳を
している。)

そして高倉健は李加民の息子に会いに行く。
村長は反対する振りをしながらあっさり許してくれる。
ところが息子を連れての旅の途中で子供が逃げ出し、それを追った高倉健と息子は道に
迷い、一晩を過ごす。
(ここの景観は中国らしい大自然で圧巻)
ここも高倉健が息子を追いかけるときにあらかじめ、同行の通訳に声をかけてから行けば
あんな大騒ぎにならなかったわけで、ここも無理があるなあ。
(行きかけたところで声をかけるが遠くて気づかない、というシーンがあるが離れる段階で
声をかけるべきだ)

結局、息子は父親に会いたがってないというわけで、あれほど大騒ぎしたにも関わらず
李加民の息子は連れて行かず、その上、自分の息子は死んだという連絡が届く。
そして高田は自分の息子の葬式にも行かずに、李加民に再び会いに行って息子の写真を見せる。

なんだか話がおかしいなあ。
そんな中でも映画を見てしまうのは高倉健の無口な男のかっこよさだ。
この映画の魅力はそれだけなのだが、それで2時間引っ張ってしまうのだからやっぱり
凄いスターだ。

それにしても映画の冒頭ではビデオデッキすら持っていなかった高倉健が、中国に行ってから
携帯電話やデジカメ、デジタルビデオを難なく使いこなしているのはなんだか不思議な
感じがした。
「人と人との心のつながり」のような極めてアナログ的なものを題材にしてるにも関わらず、
それをつなぐ媒介として国際携帯電話(中国と日本で普通に携帯で話をする)やらデジカメ
が出てきたが、それが21世紀といえばそれまでだが、デジカメではなく「写ルンです」みたいな
フィルムカメラ、国際携帯電話ではなく電報や固定電話、携帯電話を使った通訳ではなく漢字を
使った筆談、そんなものを使ったほうがこの映画には似合っていた気がする。
(漢字を使った場面は先の刑務所の係官への陳情のシーンであるのだが、やっぱり言葉を
使わない心の交流というのはラストのクライマックスに欲しい。その点「about love」の
第1話のラストでチェン・ボーリンが伊東美咲にイラストを差し出すのをラストに持ってきたのは
正解だ)


高倉健以外がこの映画の主人公を演じていたら見るに耐えなかったろう。
大自然(冬の日本海や中国の山々)にたたずむ健さんは実にかっこいい。
ある意味、それだけを見てれば満足できるからこの映画も見る価値はあったのだが。



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