2006年10月

木更津キャッツアイ
 ワールドシリーズ
16ブロック 父親たちの星条旗
ゆれる ザ・カー ブラック・サンデー 涙そうそう
天軍 フラガール ワールド・トレード・センター 日本以外全部沈没

木更津キャッツアイ ワールドシリーズ


日時 2006年10月29日18:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン3
監督 金子文紀

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ぶっさん(岡田准一)が死んで3年。いまや木更津市役所の職員になったバンビ(櫻井翔)
だったが再開発予定の土地に行ったときにぶっさんらしい声を聞く。
ここに何かを作れば彼が現れるという。
ぶっさんときちんとお別れが出来なかったことが心残りのバンビは昔の仲間、アニ(塚本高史)
マスター(佐藤隆太)うっちー(岡田義範)をもう一度集めるのだが。

ぶっさんが主役でないキャッツアイ。
これで最後の作品となる。
前半はぶっさんが全然登場せず、バンビが東京や大阪にいるアニやマスターを集めてぶっさんを
呼ぼうとする。
この辺が見ていてまるで面白くない。
見ていて「キャッツも最早賞味期限切れかあ?」と思っていた。

しかし後半になってぶっさんが登場して俄然パワーアップした。
思えば「木更津キャッツアイ」はやはり、ぶっさん=岡田准一のドラマだったのだ。
名脇役キャラクターはたくさんいるが、それもぶっさんがいてのことだった。
ぶっさんが切れて「意味わかんねえよ!」「無視すんなよ!」とわめきたてるそばでの
リアクションが面白さのコアだったのかもしれない。
それがぶっさん抜きでやったらそれこそ「寅さんのいない『男はつらいよ』」になって
しまったのかのような、たいやきのアンコのない部分を食べさせられているような気分だった。

今回は映画版前作「日本シリーズ」のような馬鹿騒ぎはなく、クライマックスも野球だ。
前作は後半が南の島にいくわ、マシュマロマンは登場するわ、で仕掛けの大きさに
かえって飽き飽きしたが、今回のほうが「木更津キャッツアイ」らしい規模で私は
見ていて居心地がよかった。

そしてどう結末づけるか。
意外にも(僕には意外にも)アニの「俺らもう25だしさあ。四捨五入したら30だぜ」
のセリフで事実上のキャッツ解散宣言が始まる。
アニ(いやバンビでもそうだったが)の口から「もう30だから」という大人宣言が
出るとは思わなかった。
サザエさんが永久に年をとらない様に、キャッツのメンバーはいつまで経ってもバカを
やっているような気がしていた。

「25過ぎたらバカもやってられない」
実際そうなのだ。
「『いちご白書』をもう一度」の歌詞の中にも就職が決まって髪を切った男の呟きが
出てくる。今回の「キャッツアイ」をみて「『いちご白書』をもう一度」を聞いたときと
同じような気になった。
そういうリアルなことをいうアニを「成長したな」と思う反面、「そういうセリフは
キャッツのメンバーからは聞きたくなかった」という気もする。
この映画の結末のつけ方がよかったか悪かったか、未だに僕自身結論は出ていない。

でも30もとうに越したオジサンから言わせてもらえば、「大人になってもバカは出来るもんだぜ」
ということだ。
そうでなければ1年に150本以上映画見て、見もしないDVD買って、HP作るなんて真似は
出来そうもない。



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16ブロック


日時 2006年10月29日15:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン6
監督 リチャード・ドナー

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いまやアル中気味のNY市警の刑事、ジャック(ブルース・ウイルス)は夜勤明けの
朝にある黒人を裁判所まで護送するように言われる。
距離はほんの16ブロック。
すぐに終わるはずだった。しかしその男は市警の刑事の不正捜査についての
情報を裁判所で証言する予定だったのだ。
ジャックは仲間の刑事から終われる羽目になる。

評判のよさにつられて見に行ったが、私にはそれほどでもなかった。
「セルラー」「インサイドマン」などのアメリカ低予算犯罪映画の一本なのだな。
しかも今回は白人と黒人のバディムービー。
で、お約束どおりこの黒人がよくしゃべる。

今回の映画のミソは16ブロックという短い距離が舞台になるところ。
主人公の刑事の知り合いの女性の家に行くと、トイレで便座が上っていた、
というあたりの小ネタ伏線など、ちょっとは面白いが後半、バスを乗っ取った
あたりからは少し見掛け倒しになってくる。

すごい裏技を使ってピンチを脱するかと思えば、バスで強行突破し、停止した
ところで別のビルへ逃げるというそれほどでもないオチ。

で、裁判所の地下で悪徳刑事を相手に延々としゃべる。
そんなことしてたらただでさえ迫っている裁判終了の時間に間に合わんだろう!
と妙にイライラさせられた。
このあたり、今何時かをはっきり表示させてくれればもう少し時間経過が
はっきりしてよかったのだが。

ラストは特別すごい逆転があるわけでなく、「人間は変われるんだ」という
善意あるメッセージで終わる。
そんなこと説教されてもなあ。

「嵐の夜、車に乗っていたら道で親友と病気の婆さんともの自分の好みの
女性がいた。車にはあと一人しか乗れない。どうする?」っていう
心理テストのようなクイズが出てくる。
ラストにその模範解答が示されるが、それほどでないかな。
クイズで言えば「古畑任三郎」に出てきた「赤い洗面器を頭に載せた男」の
方が僕は気になるな。



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父親たちの星条旗


日時 2006年10月29日12:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン8
監督 クリント・イーストウッド

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1945年2月、太平洋戦争下の硫黄島。
日米の激戦の末、米軍が勝利を収める。擂鉢山の頂上に星条旗を掲げようとしている
兵士達の写真が米国本土で大変な話題となる。
そしてそれはそこに写っている兵士やアメリカの運命をも変えていくのだった。

日本の戦記物を読むと日本軍はバカばっか、アメリカ人は物量と情報に長けている
優秀な軍隊だった、という気になる。
しかしこの映画をみると、「やっぱりアメリカの現場の兵士も大変だったのだ」
という気に改めてさせられる。

星条旗の掲揚の実際の状況を再現するシーンがあるが、後の大騒動を考えるとまったくの
喜劇だ。
あの写真だけをみたらその場の状況をどんな風に想像するだろうか?
砲弾の飛び交う中、アメリカの勝利を日本に対し知らしめるために、周りの状況、自分達の
命を顧みず旗を掲げようとする勇ましき兵士たちを想像するのではないだろうか?

しかし、実際はそんな状況ではなかった。
旗を掲げた兵士達は「たまたま」自分達にその役目が回ってきたような人たちばかりだ。
そして旗を掲げた後も戦闘は続き、自分たちが生き残ったことに対し死んでいった者への
罪の意識を持ち続ける兵士。

だがこの写真のおかげで彼らは国へ帰れば「英雄」に祭り上げられてしまう。
スタジアムでの擂鉢山のハリボテなどほとんどギャグだ。
だが旗を立てたときの状況、その後の戦闘で仲間を失ってしまった、彼らを
助けられなかった、罪の意識を持つ彼らにとっては苦痛にしかならない。

そしてこの写真や彼らを広告塔にして戦費国債を売ろうとする政府。
完全にピエロだ。

まして地方の名士やら上院議員やら知事やらが争って握手やサインを求めてくる。
そして戦後、手のひらを返したように冷たくなる「名士」たち。
完全に政府のおもちゃだ。

これでは頭がおかしくなっても不思議はない。
それほどまでに戦争ではヒーローが必要なのか?

戦場のシーンではその残酷さもはっきりと描く。
硫黄島へ行く途中、輸送船から落ちた兵隊を助けない。
「絶対見捨てないってのは嘘だな」とある兵士はつぶやく。
壕に戦友を残し、負傷者の救出に行った衛生兵が元の壕に戻ってみると
残してきた戦友はいない。
後でわかったことだが、そこは日本軍の地下要塞の出入り口で、その戦友は
日本軍につかまって惨殺されていた。

米軍も「沖縄決戦」にも登場した火炎放射器で日本軍のトーチカに火を放つ。
また画面を埋め尽くす米艦隊の映像には圧倒される。
極力カラーを抑えた白黒に近い映像が美しい。

アメリカ人が負けたベトナム戦争を否定的に描いた映画は今までにも多くあった。
太平洋戦争についてもこういった否定的なシニカルな映画が作られるようになった。
アメリカ人が広島、長崎の映画を作る時代もやがて訪れるのだろうか?

案外そんな日も近いかも知れない。



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ゆれる


日時 2006年10月21日18:55〜
場所 新宿武蔵野館2
監督 西川美和

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カメラマンとして成功している猛(オダギリ・ジョー)は母の一周忌に山梨県の故郷に帰る。
猛の兄・稔(香川照之)は家業のガソリンスタンドを継ぎ、地道な日々を送っていた。
稔と猛は翌日、二人の幼馴染で今は稔のガソリンスタンドで働く智恵子を誘って渓谷に出かける。
そこにあったつり橋を渡ろうとした稔と智恵子、しかし智恵子はつり橋から転落してしまう。
一旦は事故で片付いたが、稔は自分が智恵子を橋から突き落としたと言い出す。
始まる裁判。
真実は誰も見ていない。

この夏、大好評だったこの映画、公開した頃は混雑のため入場が難しかったそうだ。
タイトルからしてなにやら観念的だし、混雑してると聞いては秋まで避けてきた。
評判がのよさは実感できた。

まず主演のオダギリ・ジョー、香川照之の二人がいい。
今度の賞レースではこの二人が男優賞を独占するのではないか?
微妙な表情がなんとも言えない。
この二人だからこそ、成り立つ映画ではないか。

「俺なんか詰まんない人生だよぅ」と投げやりにいう兄の香川照之。
普段は自分を抑えて生きてきた男が魂を解放させ、抑制を失った姿が実にいい。

私も猛と一緒で家業を兄に任せ東京に出てきたクチだ。
稔と猛は私の兄弟にもダブって見える。

また裁判は徐々に進行し、検察官の執拗な追及に対し、二人の叔父である早川修(蟹江敬三)
との対決がサスペンスフルで見ていてぐいぐい引き込まれる。
死んだ智恵子の体内から精液が発見される。
前夜誰かとセックスをした証拠だ。
もちろん猛なのだが、おそらく稔は相手が猛だと知っている。
前夜、酒の飲めない智恵子のことを「しつこかったろう」とカマをかけてみたり。
しかし本当にカマをかけたのだろうか。
「(セックスが)しつこかったろう」と言ってみたものの、猛に「何が?」と聞かれて
思わず「いや、酒がさ」と答えただけだったのかも知れない。

真実は明かされない。
猛は結局「稔が突き落とすのを見た」と証言する。

でまあ猛の証言のシーンまでは実に裁判劇としてサスペンスフルで面白かったが、
最後のほうでなんだかよくわからない状態でラストを迎えてしまったなあという思いが残される。

兄が出所する直前に母親が残した8mmフィルムに残っていた自分が幼かった頃の家族の風景を
見て涙する猛。
猛が昔のフィルムを見て涙するあたりは、それまでの毒々しい人間の心理描写に比べ
ありきたりな描写に感じてしまい、白けてしまったのだろう。

ラスト、刑期を終えた兄を迎えに行く猛。
稔は笑顔を猛に対して見せたが、彼らが一緒に帰ったかは解らない。
稔の前をバスが停まったカットで終わる。

私は稔と猛は和解すると解釈した。
だからこそ今までの毒々しい描写と違ってハッピーエンドが気に入らなかったのだろう。
しかしあのラストは稔は単に笑顔を見せただけでバスに乗ることも考えられるという。
うーんそうか。
私もまだまだ解釈が浅いな。

もう一度見たらまた違った面白さがあるかも知れないが、多分見ないだろうな。



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ザ・カー


日時 2006年10月15日
場所 DVD
監督 エリオット・シルヴァースタイン
製作 1977年(昭和52年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


アメリカの田舎町。謎の大型乗用車にヒッチハイカーやサイクリングを楽しむ人々が
ひき殺される事件が続く。
町の保安官達は近隣の町に手配をする。そんな時、事故を目撃した老婆の証言では
実はその車には運転手が乗っていなかったというのだ!

公開当時、ものすごく期待して見に行ってがっくりした覚えがある。
多分、当時「ウルトラQ」の製作秘話を読んでいて、「ウルトラQ」がまだ「アンバランス」
というタイトルで製作準備がされていたころ「幽霊自動車」という誰も乗っていない
車が深夜に次々と事故を起こしていく、というシノプシスだけを聞いていて
「おお、その企画がアメリカでよみがえったかのようだ!」と勝手に自分の中で
面白さが大きくなってしまったのだろう。

ところが見た当時の感想は「期待はずれ」
なんかがっくりした覚えがあるのだなあ。
特別怖くないし、ジェームズ・ブローリン主演でたった一人の保安官である彼が
孤軍奮闘する、というのを想像していたのだろう。
田舎町、と言っても保安官は20人ぐらいるし、大の男が20人もかかって
一台の車と対決する、というのがなんだかしょぼく感じた覚えがある。
(ジェームズ・ブローリンって他に何があったんだろう??
調べてみたけど、見た作品は「カプリコン1」ぐらいかな)

とは言っても妙に気になっていた映画だったので、今回、1500円の低価格で
このたび「ユニバーサル・カルトコレクション」として再発売されたので見直してみた。

期待がなかった分、はずれでもなかった。
この車は一体どこから来たのか?何故こんな車が登場したのか?という説明は一切なし。
「墓場を嫌がったから悪霊なのだろう」ということで最早説明を放棄していた。
それがよかったのか、悪かったのか。
(ちなみに車のデザインはオリジナルだろう。ありそうでないアメ車らしい大型の
面構えをしている)

無人の車が次々と人を襲う、という点だけで持たせようとしているが、ちょっと1時間半を
持たすには見せ場がないなあ。
谷間に追い込んで、崖崩れを起こして埋めておわり、だもんな。
車を倒すのにあの手この手を使ったり、相手との心理戦、見たいなのがもう少しあれば
よかったと思うが、所詮は1時間半持たせるのは無理な企画だったかな。

まあなんとなくは楽しみましたけどね。



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ブラック・サンデー


日時 2006年10月14日
場所 DVD
監督 ジョン・フランケンハイマー
製作 1977年(昭和52年)


イスラエルの特殊部隊のカバコフ少佐(ロバート・ショー)たちはテロリストグループ
「黒い九月」のベイルートで行われた会合を襲撃。しかし、カバコフ少佐はシャワーを
浴びていた女性ダーリア・イアッド(マルト・ケラー)を見逃した。
しかし、彼女は数ヵ月後にアメリカで大規模なテロ攻撃を計画していた。
会合の場所でのテープなどの押収品の中からカバコフ少佐はテロ攻撃を察知。
アメリカFBIと連携しながら彼女を追うカバコフ少佐。
果たして彼らの計画とは?

77年に公開が予定されていながら、公開直前になって公開中止になった問題作。
公開中止の理由は映画にも登場するエルサレムのイスラエルによる支配を不服と
する勢力が、イスラエルを正統的に描きパレスチナ側を悪役にしている点を
問題にし、配給会社等に劇場爆破等の脅迫状が送りつけられ、公開直前に
なって中止になったと記憶する。
(確かそんなような理由だった)

僕自身、この映画の公開は楽しみしていたので残念だったなあ。
その後テレビ放送とか、ビデオ、LD発売もあったので、見る機会は何度かあったはずだが
なんとなく見逃していた。
で今回のDVD発売で初めて見た。

いやそれほどの映画でもなかったなあ。
僕にとっては「幻の映画」と化していたので、期待が非常に高くなりすぎた点もあるのだが
まあまあの出来の映画でしかなかった。
点数でいうと70点ぐらい。

というのはラストのフットボール会場に「GOOD YEAR」の飛行船で突っ込み、
そこから数万発の矢を噴出す手製の爆弾を爆発させ、会場の観客を皆殺しにする計画だが
そのラストの飛行船の出発が始まるまでがイマイチ面白みがない。

テロ計画の計画者を追い詰め、寸前のところで取り逃がす、といった盛り上がりが
あればともかく、あんまりその辺がサスペンスフルでないのだな。
計画がイスラエル=アメリカ側にばれていると察知した「黒い九月」のリーダーが
ダーリアに計画中止を命令にフロリダに行く。しかし、中止命令を拒絶するダーリア。
翌日「黒い九月」のリーダーがあっさりカバコフ側に発見され、フロリダで銃撃戦となる。
このシーンは見ごたえがあるが、リーダーが発見されるのが「偶然発見される」という描き方で
ちょっとひねりがない。
しかもこのリーダーの部屋にスーパーボウルのチラシが置いてあったことから
「狙いはスーパーボウル」と決め付けるにはちょっとご都合主義ではないか?

そうは言ってもラストの飛行船とヘリコプターによる追撃戦は充分に迫力あり。
このシーンはなかなかで満足した。

余談だが、このスーパーボウルには大統領も観戦に来る。この大統領がチラッと映るが
当時のカーター大統領をモデルにした感じだった。
またベトナム帰りの飛行船のパイロット(ブルース・ダーン)が手製で矢の発射装置を
作るのだが、これに必要な数百キロのプラスティック爆弾を運ぶのがリビア国籍の日本船
「スマ丸」。日本語字幕では日本船という単語は出てこなかったが、船長の名前は
「小川」という日本人。演じている人をどっかで見た覚えがあるな、と思ったら
「ミッドウエイ」に参謀役で出演していたクライド草津だった。



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涙そうそう


日時 2006年10月8日18:45〜
場所 TOHOシネマズ六本木ヒルズスクリーン2
監督 土井裕泰

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新垣洋太郎(妻夫木聡)と新垣カオル(長澤まさみ)は血のつながっていない兄妹。
小さい頃に洋太郎の母(小泉今日子)が再婚し、カオルはその連れ子だった。やがて
ジャズのトランペッターだったカオルの父は失踪、洋太郎の母も死んだ。
二人は沖縄の島に住むおばあの元で育てられ、洋太郎は高校入学を気に沖縄本島へ。
高校は中退して今は市場で配達のバイトや居酒屋で働していたが、カオルが本島の
高校に入学することになり、久しぶりに一緒に暮らすことに。
洋太郎には自分の店を出すという夢があった。居酒屋の常連客(船越栄一郎)の助けも
あって店を出したのだが、実は詐欺で、洋太郎は借金を背負うことに。

こんなような感じで話は大きな山もなく、兄妹の交流を中心に話は進んでいく。
その後、洋太郎は借金の返済のため朝から晩まで働き、付き合っていた医大生の
彼女とも親の反対もあってわかれ、妹は見かねて自分も大学には行かず働くと言い出す。
カオルは高校3年の夏休みにホテルでバイトを始めるが、兄は妹を大学に行かせたい。
で大喧嘩して、妹は失踪していた父が沖縄に戻っていることを偶然知り、会う。
で結局妹は大学には合格するのだが、兄とは分かれて暮らすことになる。
そして12月のある夜に台風がやってきて・・・

映画を見る動機に「笑いたい」とか「ハラハラしたい」と言うのと同様、「感動したい」
「泣きたい」というのがあるらしい。
僕なんか感動とかは「いい映画だったから『結果として』感動した」というわけで
最初から「感動しよう」と思って映画を見に行くことはない。(多分今まではなかったと思う)
同時に世間では「泣きたい」という気持ちで見に行く映画もあるらしいし、作り手も「泣かせよう」と
思って作ることもあるようだ。

そういう意味ではこの映画はその役目は充分果たしているようだ。
私が見終わった時には周りですすり泣く声が聞こえ、場内が明るくなってからどんな奴が
泣いているのかと見渡してみると、女性客ばかりでなく、若い男性まで泣いていた。
へ〜〜。こういう映画で泣くのか。

私なんか後半、台風がやってきてからは、カオルのアパートの窓に倒れた木が突っ込んできて
突風が入り込んできてからは「なんだかパニック映画になったぞ?!」と思い、何の前触れもなく
(伏線もなく)この台風騒ぎで忙しいときに洋太郎は発熱し、病院に担ぎ込まれる。
そして、唐突に、「死ぬ」!!

思わず「え〜〜〜?!」だ。
確かにこういう展開しかないだろうなあ。

兄妹の愛情物語なのだが、もともと血はつながっていないし大人になって女として魅力が出てきた
カオルに洋太郎が妙に別の感情を抱き始めているかのような描写がある。
寝ているカオルの頬をなでようと手を伸ばしてしまったりと、どうも見てるこちらがドキドキ
してしまう描写が多々あった。
まさか近親相姦になってしまうわけないしなあ、と心配していたので、やはり洋太郎が死ぬしか
終わりはつけられなかったかな。

主演の妻夫木は今回はよく笑う役で彼の明るい笑顔が全編にはじける。
彼の今までの出演作で笑顔がこれほどはじけていた映画も今までなかったのではないか。
長澤まさみも前作「ラフ」に比べ、明るいはじけるような笑顔が魅力的。
「ラフ」は興行的にはコケたそうだが、今回は大ヒットとなったようだ。
ひとえに物語の大部分が明るい二人の笑顔に満ちているので、その分後半の洋太郎の「死」という
展開が泣かせるのだろう。

出演は他には洋太郎の親友役で塚本高史。見せ場は祭りのシーンで踊っているところぐらいで
出番が少ないのがさびしい。

「泣ける映画を見たい」と言う方には充分満足の一本だろう。
妻夫木と長澤まさみのはじける笑顔が堪能したい方にもお勧め。



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天軍


日時 2006年10月8日16:20〜 
場所 シネマート六本木・スクリーン1
監督 ミン・ジュンギ

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北朝鮮と韓国は歴史的な南北首脳会談の際に密約が結ばれ、密かに共同で
核開発とミサイル開発を行っていた。このミサイルシステムの特殊装置を
使えばアメリカでさえ、朝鮮半島に手が出せなくなる。
しかし、世界各国の知るところとなり、核兵器は引き渡すことになる。
それを不服としたこの研究チームに付属していた北朝鮮軍のカン少佐は
2名の兵士とともに核兵器を持ち出した。
それを韓国軍のパク少佐たちが追う。
川をボートで下るカン少佐たちだったが、その時彗星が現れてカン少佐たちと
パク少佐たちは433年前にタイムスリップしてしまう。
そこで彼らが出会ったのは若き日の李舜臣だった!

韓国版「戦国自衛隊」。
「戦国自衛隊」の話は世界各国で作れる話だから、日本には輸入されていないだけで
まだまだどこかの国で映画化されているかも知れない。
今回、過去へ行く北朝鮮、韓国両軍は3名づつ、しかも機関銃と拳銃、手榴弾程度を
軽装備なので、戦車やへリが過去に行って大活躍する、といった展開はない。

で、話のキーパーソンは何と言っても李舜臣だ。
日本人には「どこかで聞いたことがあるなあ」という程度だが、何しろ豊臣秀吉による
「朝鮮出兵」の際に、圧倒的な数の日本軍を地の利を生かした戦法で打ち破った
韓国では英雄と称えられる将軍だ。
この映画のなかでも紹介されるが100ウォン硬貨に描かれている。

お話の方はまだ軍人になる前の若き日の李舜臣に出会った韓国軍兵士が
コソ泥を働く李舜臣の姿に戸惑いながらも、今彼らがいる村が、明の蛮族に襲われようとして
おり、現代に戻るチャンスに迷いながらも結局は李舜臣を守りながら、村人とともに
村を蛮族の攻撃から守るという展開。

ラスト、現代に戻るチャンスを捨てて、李舜臣らとともに村を守るために戦う姿は
こういうアクションドラマの定番ともいえる「一旦は参加しないが、やっぱり戦いに参加する」
というセオリーどおりの展開でアクションファンとしては楽しい。
北朝鮮兵士、韓国軍兵士の両方が階級と姓名を名乗りながら「李舜臣将軍の下で戦えることを
誇りに思います」というシーンは「お決まりながら」満足。

そんなことより、多分作者は特別に意図しなかったのかも知れないが、韓国人の歴史認識が
垣間見れたような気がする。
そもそも話の発端に登場する核兵器はアメリカでさえも朝鮮半島に手を出せなくするため抑止力、
そして彼らが行った過去では明(中国)から侵略を受けている。守る人物は日本軍を打ち負かした
若き日の李舜臣将軍。
日本、中国、アメリカとまあ世界各国から侵略を受けた、受けそうになっているという
「朝鮮半島の歴史=侵略された歴史」という歴史観に基づいて物語が構成されている。

これが韓国人全体の認識なのか、この映画の作者たち特有の認識なのか、それはこの映画を
見ただけでは解りかねるが、彼らにはそういう認識を持っているんだということがよくわかって
その点、大いに勉強になった。
韓国人の反日意識にはこの間の戦争だけではなく、根本的に(それこそ任那日本府の時代から)
「日本を初め近隣の国からは侵略されまくった」と意識があるらしい。
靖国問題だって靖国神社に行った行かないの問題だけではなく、実は根が深いんだろうな。

そういう映画そのものというより(この映画の作者たちだけの考えかも知れないが)韓国人の
歴史認識の一つを知ることが出来、僕にとっては非常に興味深い映画だった。



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フラガール


日時 2006年10月7日21:30〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン2
監督 李相日

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昭和40年、いまや福島県の常磐炭鉱にはかつての勢いはなく、閉鎖に追い込まれている。
町としては新しい産業を起こそうと温泉を利用してハワイ風のリゾート施設「常磐ハワイアン
センター」の設立を進めていた。
そんな中、早苗(徳永えり)はフラダンサー募集の広告をみて応募することを決め、
幼馴染の紀美子(蒼井優)を無理やり誘いこむ。
炭鉱の人々が全員ハワイアンセンター建設に賛成しているわけではない。
今まで石炭は国の基幹事業として国を支えてきたという誇りと意地があった。
そんな町にハワイでフラを習いSKDで踊っていたという平山まどか先生(松雪泰子)
がやってくる。まどかはあまりの田舎にやる気がなくなるが、早苗達のやる気に押されて
次第に本気になる。


巷で大評判、そして今年の米国アカデミー外国語映画賞の日本からのノミネート作品にも
選ばれ、本年度ベストワンの呼び声も高い本作品。
女性が主人公の映画は「乗れない」クチなのでパスするつもりでいたのだが、あまりの
評判のよさについ見てみた。

なるほど、映画としてのツボを押さえた「ウエルメイド」な一本だ。
田舎の女の子達が音楽をする、という点は近年評判のよかった「スウィング・ガールズ」でもあるし、
だめだめ生徒と先生の物語、というのでは日本で「AIKI」や「ウォーター・ボーイズ」、
「がんばれ!ベアーズ」やら「ベストキッド」にも通じる映画の定番の物語だ。
また昭和時代を舞台にし、「ALWAYS三丁目の夕日」に続く「昭和ヒューマンドラマ」(筆者命名)
としても映画の魅力充分だ。

やる気のなかった先生がやる気を出したり、バラバラだった生徒達の心が一つになったり、
また先生が町の人々に責められて町を離れることになり、それを生徒達が引き止めたりと
セオリーどおりの展開だ。
私はこれを責めているのではなく、セオリーに従って映画を撮る、ということも重要だと思う。
しかし、時には私もそれを「また同じパターンを繰り返している」と非難することもある。
(例:「出口のない海」)
自分でもその違いがうまく説明できないのだが、カタルシス(映画的快感)につながる部分で
あれば何回パターンであっても許してしまうのだろう。

その中でもうまいな、と思ったのはまどか先生が東京に帰ろうとする駅で紀美子たちが引き止めるシーンだ。
「フラは手話のように動作に意味がある」と伏線を出しておいて、このシーンでホームの向こう側にいる
まどか先生に向って、生徒全員がその踊りの手の動きをすることによって、彼女達の先生への愛情を
信頼を示すシーンは、「セリフでなく動作で表現する」という映画としての表現に乗っ取っていた。

またラストに音楽シーンを持ってきたことで、映画はまた盛り上がる。
ラストで一人でフラを踊る紀美子にはその踊りの立派さにまさにこちらが拍手しそうになった。
いやもちろん「しそうになった」だけで実際にはしていないが、心の中では私は彼女に対して拍手喝采だった。

そして何よりも私にとってこの映画の魅力は蒼井優だった。
彼女のフィルモグラフィを見ていると「タイガー&ドラゴン」やら「リリィシュシュのすべて」やら
見ている作品も多いのに、昔はなんとも思わなかった。
「男たちの大和YAMOTO」で意識し始め、夏の「ハチミツとクローバー」で彼女のファンになった。
「ハチミツとクローバー」でも書いたが、笑顔が実にいい。
最近の女優にありがちなメイクと髪型で作った可愛らしさではない。
今回も田舎娘なのだが、その笑顔が実に魅力的だ。

特に親友だった早苗が父親とともに夕張炭鉱に行ってしまい、気の抜けた彼女だったが、宣伝のため
キャラバンのバスにやってきてまどか先生に見せる無理やりの笑顔などなんだかこっちの心が温まる。
それだけではない、さっきも書いたがラストのソロダンス。吹き替え無しで踊りきり、それは充分
プロとして通用するレベルだった。
そりゃ本物のプロからすれば、まだまだなのだろうけど、素人目にはラストのアップテンポの曲の
ダンスなど、本当に素晴らしかった。

蒼井優、ますます見逃せなくなった。
これからは彼女が出てるから見に行く映画も出てくるかも知れない。
そんな気にさせた。



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ワールド・トレード・センター


日時 2006年10月7日18:30〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン8
監督 オリヴァー・ストーン

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2001年9月11日、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに
ハイジャックされた飛行機が激突した。
現場に人命救助に向う警官たち(ニコラス・ケイジ)。
彼らがビルに入る後、ビルは倒壊を初め、彼らは瓦礫に埋もれ、かろうじて助かった
ものの身動きできなくなってしまう。

「ユナイテッド93」に続く「911」もの。
予告編で見たときにビルに映った飛行機の影のカットが素晴らしく、またニコラス・ケイジの
班長が「今からビルに入る。ついて来る者は?」と言ったときに戸惑う警官たちの姿が
あって、若い警官が「私が行きます」というシーンなどがかっこよかったので
期待したのだが、予告篇でいいところは全部紹介されてしまっていた。

ビルに入って救助活動があってビルが倒壊するのではなく、これから活躍しよう
という段階でビルは倒壊してしまい、主人公達は生き埋めになってしまう。
いや、もちろん「タワーリング・インフェルノ」のような活躍を期待したわけではないのだが
主人公達が生き埋めになってあとはそれを心配する家族シーンだけでは、正直映画的に見ていて
つらい。

動きとか映画的な何かがない。
もちろん娯楽映画を期待わけではないのだが、あまりにも画的な展開がなさ過ぎる。
それに主人公達が助かることは解りきっているわけだし。

彼らは助かったからよかったが、同じような状況に陥って助からなかった何千と言う人が
いたわけだから、それを思うと心が痛くなる。
しかし、こういう状況下になって火事場泥棒を働くような不届きな奴はいなく、見知らぬ人
同士が励ましあっていく様は、人間の良心を見た思いがした。

こういう映画を批判すると人格が疑われそうだが、やっぱり映画としてはもう少し何かが欲しい。
「映画」という手段をつかっているのだから、「映画」の特徴を使った描き方をして欲しかった。



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日本以外全部沈没


日時 2006年10月6日21:20
場所 シネセゾン渋谷
監督 河崎 実

(公式HPへ)


ある日突然アメリカ大陸が海中に沈没した。そして中国も、ユーラシア大陸も
アフリカ大陸もオーストラリア大陸も海中に没した。
残っているのは日本列島だけ。
世界の有名人、各国首脳は日本にやってきた。彼らは日本に住んで行かなければならない。
威張りだす日本人。しかし日本人に従うしか彼らの生きていく道はない。


小松左京の「日本沈没」のパロディ小説として筒井康隆が「日本以外全部沈没」を書いた。
原作は高校生の頃に読んでいた。
短編小説であるバーが舞台で、そのバーで飲んでいるサラリーマンの会話だけと言う小説だった
ように思う。

そもそも映画になるような話ではない。
バーの生演奏をビートルズがしていたり、ディーン・マーチンは酔っ払ってバーに乱入してきたり
ハリウッドの有名女優が街娼をしていたのを見かけた、と言うような他愛のない会話だけの話だった。
だから映画にしても30分持たないようなもので、短編小説としてちょっとしたパロディとして
楽しむべきものだった。

それを90分を超える映画にしたらどんどん悪趣味にならざるを得ない。
日本にやってきたオスカー男優とその妻のスター女優が落ちぶれていく様を描いていくと
笑いと言うより可哀相になってしまう。
加えて新聞記者の主人公(小橋賢児)が外国人妻に今書いている記事を説明する。
それは「外国人が老人ホームに行って戦争ごっこをして老人達に腐ったトマトや卵をぶつけてもらい
『広島や長崎の仇が討てた』と満足してもらって金を貰う」と言うもの。
この辺になるとブラックジョークを超えて悪趣味だ。

こういう風に考える私がまじめすぎるのかも知れんが、なんだか洒落にならないシーンが続く。
中韓の首脳が日本の首相・安泉純一郎(村野武範)に対して媚を売りまくりドジョウすくいを
したりする。不良外国人を取り締まる特殊チームを石山防衛庁長官(藤岡弘、)は設立したりする。
日本人の外国コンプレックスが裏返しなってここぞとばかりに威張りだす日本人は、醜く、いやになる。

途中、ウクライナの「森の手袋」という童話が紹介される。
この童話は森に手袋が落ちていて、まずリスが住み、カエルが住み、やがていろんな動物が
一つの手袋に住みだすが、手袋は壊れない、と言うもの。

「何故日本人は外国人とうまくやっていけないのか」「どうしたら日本人は外国人との付き合いが
うまくなるか」といった高尚なテーマにたどり着ける要素もあったのだが、原作はただのパロディ
小説でそこまでの域に達していなかったように記憶するし、当然映画のほうもそんなところまで
到達していない。
ウクライナ童話が紹介されたりしたのだが、それはただ紹介に終わってしまい、映画のその後の
展開とは関わらない。この辺を突っ込めばもう少し興味深い映画になったかも知れないが。

結局日本も沈んでしまい物語は終わるのだが、それにしてもただの洒落にならない、醜い日本人の
姿の連発で見ていて正直げんなりしたよ。



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