2006年11月

渚にて トゥモロー・ワールド 暗いところで待ち合わせ 獄門島
二十四時間の情事 虹の女神
Rainbow Song
悪魔の手毬唄 ミクロの決死圏
映画監督って何だ! 紙屋悦子の青春 デスノート
 the Last Name
トンマッコルへようこそ

渚にて


日時 2006年11月26日
場所 DVD
監督 スタンリー・クレイマー
製作 1959年(昭和34年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


1964年、人類は核戦争により北半球は死滅していた。アメリカ海軍の原子力潜水艦の一隻は
タワーズ艦長(グレゴリー・ペック)の指揮の元、オーストラリアのメルボルンに入港する。
オーストラリア政府の要請を受け、「寒さで放射能が弱くなっているかも知れない」
という仮説を確かめるためにオーストラリア海軍のピーター(アンソニー・パーキンス)や
科学者のオズボーン(フレッド・アステア)らとともに北極へと出航する。
しかしそれとは別に今は死滅したはずのアメリカのサンディエゴから発信されている謎の
モールス信号の真相を探ることも目的だった。
ひょっとしたら人間が生きているかも知れない・・・・


「核戦争が起こるまでの顛末」を描くのではなく、「核戦争後」を描いた映画。
運命をいかに受け入れていくかを描く映画であり、「生き残りのための大作戦」を
行ったりはしない。(考えて見ればアメリカ映画にしては珍しい)

物語は実に淡々としている。
北極に向けて出航するのは映画が始まってから1時間近く経ってからであり、それまでは
グレゴリー・ペックとエリザベス・テーラー扮するご婦人との出会いとかデートとかを描き、
はっきり言って退屈。

で出航したかと思ったが次のカットであっさり北極に着く。
長旅の途中に何か冒険談があるかと思ったらそれもない。
サンディエゴのモールス信号の謎はここでは触れるのは避けるが、このオチは最後に
持ってきてもよかったのではないか?
せっかくの物語の縦糸なのだから、途中で明かされるとちょっとつらい。

途中サンフランシスコ港に入った際に、潜望鏡からサンフランシスコを眺めるが
そこはまるで無人。火事とかの後もない。
サンフランシスコが故郷という兵士が命令を無視して上陸する。
数日後、彼は放射能で死ぬ運命なのだが、翌日、桟橋でその日の食料のために魚釣りを
しているその兵士のすぐ近くに潜水艦は浮上して別れの挨拶をする。
死の恐怖など一切感じてない兵士に対し、艦のマイクを使って姿を見せぬまま
挨拶をするシーンはその「閉じこもっている人間」と「生への執着から開放された人間」
の対比を見ているようで、ちょっと滑稽だった。

後半、フレッド・アステアは夢だったというカーレースに出場し、優勝する。
ペックたちは鱒つりに出かける。
そういってやりたいことを地味に行っていく人間たちが妙に物悲しい。

やがてアンソニー・パーキンスたちは政府支給の自殺薬で死に、フレッド・アステアは
閉め切った車庫で車のエンジンをかけて死んでいく。
次々と命を絶っていく姿は胸に迫るものがある。

ラスト、タワーズ艦長たちアメリカ人は全員の総意で故郷、アメリカに向けて出航する。
(その直前に最後の艦長として米海軍司令長官に任命されるのはギャグでしかない)

先にも書いたがアメリカ映画にしては珍しく淡々とした映画だった。
そこが欠点ともいえるし、特徴でもある。
(私としてはもう少し「山」がほしいのだが)


話はそれるが、「モールス信号と故郷に向けて帰る船」、この設定は案外、日本の
「世界大戦争」に影響を与えたのかも知れない。



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トゥモロー・ワールド


日時 2006年11月25日19:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン9
監督 アルフォンソ・キュアロン

(公式HPへ)


2027年、世界中の女性が子供を産まなくなって18年経っていた。
原因は不明。このままでは人類は数十年後に消滅する。
主人公のセオはエネルギー省に勤める役人。昔の恋人からある少女を
移送を頼まれる。
その少女はなんと妊娠していた。


「ハリポッターとアズカバンの囚人」のアルフォンソ・キュアロンの新作。
ふれこみでは制作費120億円という破格の大作。
そんな大作なら夏とか正月のメイン作品になりそうだが、11月18日公開という
正月映画公開直前の配給会社が一番やる気を失う時期(というか手が回らない)の公開。
破滅SFは好きなジャンルなのでそこは興味があって見に行った。

でも正直僕にはあんまり面白くなかったな。
まず設定がよくわからない。
イギリス以外の世界各地は国が崩壊して、イギリスに不法入国者が絶えない、という
設定だが、他の国では何が起こったのか。
確かに子供が生まれなくなれば、確かに未来がなくなって国は荒れると思うし政治体制も
崩壊するとは思うが、じゃ何故イギリスだけが助かっているのかね??
まあ、その辺の細かいことは許そう。

「ヒューマン・プロジェクト」なる人類再生を計画している世界組織が登場する。
その「ヒューマン・プロジェクト」の船「トゥモロー号」がイギリス沖にやってくるから
そこにその妊娠した女の子を届けよう、という話なのだが、その「ヒューマン・プロジェクト」
って信頼できる組織なの?
ラスト、その「トゥモロー号」がやってきたところで映画は終わるのだが、実はここで
何か「どんでん返し」というか「オチ」というか「ひねり」を期待したのだが、何もなし。
「女の子は(多分)善良な『ヒューマン・プロジェクト』に届けられ、めでたしめでたし」
で終わった。
正直、がっかりした。

かといってこの映画に魅力がないわけではない。
荒廃したロンドンの景色が素晴らしい。
今と変わらないようでいて、バスなどの広告はすべて動画になっている。
またこの荒廃したロンドンはオープンセットだろうからエキストラも含めてものすごい
手間だ。

そして特筆すべきは戦闘シーンの長まわし。
主人公達が乗った車が襲撃されるシーンがあるが、襲撃される前のゆで卵の口でのキャッチボール
のあたりから始まって車が襲撃され、仲間の一人が死亡し、そこから逃れて敵のオートバイが
追ってくる、という10分ぐらいをワンカットで表現。
そしてラスト近く、主人公が銃弾を潜り抜けて、途中バスの中やらを抜けてビルに入り、階段を
上って窓の近くに行くまでをワンカット。

すごいなあ。俳優の演技だけでなく、弾着とかエキストラとかカメラアングルとか照明とか
(外とビルの中では露出が変わって当然なのにも関わらず)そういうものがすべて決まっている。
それこそ100以上の条件がすべてうまくいかなければこういう画はとれまい。
このカット(というかシーンというか)は映画史に残すべきだ。

見終わった直後は今書いたような思いだったのだが、見終わってしばらくしたらこの映画は
僕には理解できていないかも知れない、とも思った。
妊娠した女の子は途中で出産するのだが、戦闘の最中でもその赤ちゃんの泣き声を聞いて
敵も味方も戦闘をする手が止まるというシーンがある。
赤ちゃんの泣き声は何よりも強いというわけだ。
このあたり、自分の子供の泣き声を聞いたときの感動を知っている人と私のような子供を持たない
人間では感じ方が違うかも知れない。
ふとそんな気もします。



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暗いところで待ち合わせ


日時 2006年11月25日15:55〜
場所 シネリーブル池袋
監督 天願大介

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目が不自由なミチル(田中麗奈)は父(岸辺一徳)と二人暮らしをしていた。
しかし、父は急死、ミチルは一人暮らしをはじめる。
彼女のリビングの窓からは駅のホームが見渡せた。そのホームである日男(佐藤浩市)
がホームから突き落とされ、列車に轢かれ死亡した。当初は事故と思われたが
誰かに突き落とされたらしい。
そんな時、ミチルの家に侵入者が入り込む。男の名は大石アキヒロ(チェン・ボーリン)。
彼は被害者と同じ職場に勤めていて、被害者からのいじめのために彼に殺意を抱いていた。

今一番好きな男優の一人のチェン・ボーリン主演作。
初日舞台挨拶にも駆けつけた。チケットを取ったのは14:00ぐらいだったが、まだ1割ぐらい
席に余裕がある状態だった。
日本で映画が公開されると必ずと言っていいほど舞台挨拶に駆けつけるチェン・ボーリンだが
(この日、銀座と池袋で計4回挨拶することもあってか)まだまだ「チケット即完売」と
言うわけにはいかないらしい。
がんばってね。これからも応援してるから。
(ちなみに今この人が出ている、ということだけで見に行く男優は「チェン・ボーリン」
「妻夫木聡」「柳楽優弥」です)

目が見えない主人公の家に侵入する殺人容疑者、となればなんだかヒッチコックの作品の
ようなサスペンスフルな作品を期待しがちだが、あんまりサスペンスに重きは置かれていない。
(盲目の人物と逃亡中の容疑者、という設定はヒッチコックの何の作品だったかを思い出した。
「逃走迷路」だ)
初めてミチルの家に侵入したアキヒロがミチルと接しそうになるのを避けるあたりなかなか
サスペンスフルなのだが、それ以上はあまりサスペンスに向わない。
多分、そういう作品を作ろうとは思っていないのだろう。

ミチルの家にアキヒロが侵入してきた前半など、セリフがなく(二人は会話をしないのだから
当然だ)チェン・ボーリンはこのセリフのない(というかしゃべってはいけない)シーンでの表情が
なかなかよい。
「チェン・ボーリンにセリフのない役をやらせるから日本人の役でも大丈夫なのか」
と思ったが、途中から彼も話し出す。
中国人とのハーフ、という設定で日本語が多少危なくても大丈夫な設定だ。
原作は未読だが、原作では日本人の役らしい。チェン・ボーリンにあわせた設定と思われる。

またアキヒロが初めてミチルの部屋に入った晩、ペットボトルの空きボトルに小便をするシーン
がある。天願監督は前作「AIKI」でも加藤春彦のトイレシーンを描いた。
こんなおしっこのシーンはあってもなくても話は困らないのだが、こういうことを描くのが
天願監督はお好きらしい。

ミチルが一人で歩く練習をしようとすると車に轢かれそうになったり、自転車に杖を
折られたりするのをちょっと離れた視点で描く(多分望遠レンズを使用してるために
そういう印象になると思われる)あたりは主人公に肩入れしすぎない監督の視点が感じられる。

後半、アキヒロの存在が解ってもミチルは彼を追い出さない。
いつしか彼の存在を心地よく感じているミチルの恋愛感情に映画は段々重きを置かれるようになる。

最後に犯人がわかり、ミチルが襲われる、というあたりはサスペンスの王道。
個人的な好みになるが、もっとサスペンスを重点に置いたつくりになっていれば
もっとこの映画は好きになったと思う。
しかし、それは作者の意図した映画ではなかったのだろう。

天願監督、前作「AIKI」では車椅子の男を、今回は目の不自由な女性を主人公にした。
こういうハンデある人間を主人公にするのがお好きなのか。それとも偶然か。
それは次回作を楽しみしておこう。



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獄門島


日時 2006年11月25日10:30〜
場所 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・プレミアスクリーン
監督 市川崑
製作 昭和52年(1977年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


昭和21年、金田一耕助(石坂浩二)は友人の雨宮に頼まれて瀬戸内海の獄門島に
やってくる。雨宮は戦後の復員船の中で戦友の鬼頭千万太が「自分が帰らなければ3人の
妹達が殺される」の言葉が気になり、千万太の死を島の人たちに伝え、そして予想される
惨劇を防ぐためにやってきたのだった。
この島は本鬼頭と分鬼頭という二つの網元が対立しており、千万太が本鬼頭の跡取り
だったが、自分が帰らなければ腹違いの妹の誰かが網元を継ぐことになる。
ところがこの妹達は3人ともちょっと頭が弱い。だから従兄弟のひとしに網元を
継がせたい。だから妹達は殺されるという訳だった。
金田一が島に着いた前日、ひとしの戦友だった男がやってきてひとしは間もなく帰ってくる
という伝言を伝えて帰っていった。
やがて心配されたとおり、3人の娘達が殺されていく・・・・


市川崑=石坂浩二=横溝正史のトリオ第3作。
「悪魔の手毬唄」が77年のGW公開だったがこの映画は8月末の公開。
まだまだこういうブームに乗ったすばやい映画製作、をしていた時代の映画だ。
製作期間はたった4ヶ月余しかない。

3作目にして飽きられるのを心配した東宝はこの作品から変化をつけ始める。
まず犯人が原作と違う。
公開前の予告編では横溝さんが登場して「金田一さん、私も今回の犯人は知らないんですよ」
と画面に向って言うところから始まっていた。
(市川崑のからの言葉として「犯人は女です。それも美しい」と一文が広告に出ていた
と記憶する)
実は横溝シリーズでは僕はこの「獄門島」が一番好きだったので、期待も大きく
「新犯人」の登場にいささか戸惑いもあった。

そして金田一への恋愛が絡み始めた。
大原麗子に「金田一さんにこの島から連れ出してほしい」と言わせる。
このあたりの金田一のドキマギ感が金田一のリアクションなどもう少し描く(と言っても
数秒の問題だが)があれば。この金田一の恋愛がらみももう少し印象が違ったかも
知れんが、ここは割とあっさり流される。

そして当時はやりだったオカルト映画風の演出も行われる。
多分製作サイドが「オカルト映画みたいなシーンを」という希望で作られたものだと思うが、
第2の殺人の時、釣鐘の下から被害者が出てきてくるのだが、その釣鐘が倒れて被害者の
首が切れて吹っ飛ぶ!というシーンがある。
明らかに「オーメン」の影響だろう。

また深読みかも知れんが、またまた当時ヒットした「砂の器」も髣髴とさせる。
「雨がやんで翌朝は霧となった」とか「このへんではみんな土葬である」と言ったような
字幕の説明が出る。また司葉子が過去、この島に流れてきた経緯が回想シーンで出てくるが
まるで「砂の器」の加藤嘉と春日和秀のシーンを思わせる。

で、最後に加藤武の警部に事件解決後に「よーし、わかった」といわせる。
辻萬長の刑事が「何がですか?」と聞かれると「みんがわしが間違っとった」と言わせる。
こんなセリフを言わせること自体、案外市川崑はこの「獄門島」でシリーズ終了を
宣言したつもりだったかも知れない。

しかし翌年の2月に「女王蜂」が公開されるのだ。



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二十四時間の情事


日時 2006年11月20日
場所 録画DVD
監督 アラン・レネ
製作 1959年(昭和34年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


夜明けのベッドで男と女が愛し合っている。女(エマニュエル・リヴァ)はフランス人で
広島に反戦映画のロケにやってきた女優、男(岡田英次)は日本人の建築家。
彼女は「広島ですべてを見た」という。男は「君は何も見ていない」という。
朝になり、彼女は明日フランスへ帰ると告げる。
男はもう一度会いたいといって彼女を探しだす。
二人は再会する。そして彼女は戦争中に自分の故郷ヌベールでドイツ兵に恋をしたことを
語りだすのだった。

学生時代に同じアラン・レネの「去年マリエンバードで」と2本立てでリバイバルされた時に
見て以来だから約20年ぶりの再見。
はっきり言ってみるのはしんどい映画だ。
前日の19日に途中まで見て、寝た。
今日は最初から見直して、やっぱり途中で一度寝て続きを見た。家で見るタイプの映画ではない。
映画館で集中してみなければつらい映画だ。


映画の始まりは広島の原爆の惨状を映す。
資料館の解けた鉄くず、原爆ドーム、病院での患者のケロイド、体内被爆児の姿、
再現(?)さらた8月6日の姿(このカットは今村昌平『黒い雨』を思い出させる)。
日本人には比較的見慣れた映像だが、リバイバルされたときに読んだパンフレットには
「この映画に出てきた原爆の映像が欧米の人々が初めてみた『広島』の映像ではないか」
と書いてあったのを思い出す。
しかし今「日本人には比較的見慣れた映像」と書いたが久々に見たような気がした。
最近、日本でも原爆の映像が出ることが少なくなったのではないか?
(だから「日本も原爆を持つべきかの議論をしてもいいんじゃないか」という猿並みの
知恵しかないような発言が出てくるのだ)

しかし映画はその後はストーリーもなく、ただ岡田英次とエマニュエル・リヴァの二人の
抽象的な会話とイメージ的なフラッシュカットが続き、見ていてしんどい。
故郷ヌベールでのドイツ人との恋については具体的なことは語られず、大雑把な話だけで
「彼女の記憶の断面」を中心として語られる。

とにかく映画全体はドラマ的な進行はなく、その後も二人で広島の街を夜通し歩くシーンが続く。
「あなたの名前はヒロシマ」「君の名はヌベール」という抽象的なセリフでこの映画は終わる。
なんだかよくわからない映画だな、という印象はぬぐえないのだが、かといって魅力が
ないわけではない。

妙に心に残るのだ。
「フランス娘とドイツ兵の恋」と「ヒロシマの惨劇」を並列させることによって(ちょっと
大きさが違う気がするのだが)「第2次世界大戦を終わらせた平和への象徴」というヒロシマ感
(どうも一般的な欧米人はそういう認識があるような言い方をちらりとする)アンチテーゼと
いうか・・・・どうにもうまく文章にはならないのだが、この映画は記憶に残るのだ。
好きな映画かと言われるとそれほどでもないのだが、心に残る映画だということは確かな
映画なのだ。


ちなみにこの邦題、よくないなあと思う。原題は「ヒロシマ・私の恋人」。今だったら
「ヒロシマ・モン・アムール」とカタカナ表記になったとは思いますが。
そしてこの作品は元は舞台劇だったそうで、今年(2006年)再演され、岡田英次の役を
渡部篤郎がフランス語で上演したそうです。(11月18日朝日新聞朝刊)



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虹の女神 Rainbow Song


日時 2006年11月18日15:30〜
場所 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン3
監督 熊沢尚人

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智也(市原隼人)は弱小の映像製作会社の新人AD。いつも先輩達から怒鳴られている
毎日だったが、ある日、大学時代の同級生だったあおい(上野樹里)がアメリカの飛行機
事故で亡くなったと知る。
彼らは大学時代に8mmフィルムで映画を一緒に製作した仲だった。
二人の出会いから回想が始まる。

「リリィシュシュのすべて」があまりにも自分にとって「カス」の映画だったから
岩井俊二の映画はこれからも見ないつもりだったが、「大学の映画研究部の自主映画を
素材にしている」「『親指さがし』の熊沢監督作品」ということが理由で禁を解いてみた。

結論から言うと面白かった。
特に市原隼人がいい。実に自然体でいかにもいそうな大学生だった。

実を言うと私も昔大学生の頃は8mmフィルムで映画を撮っていた。
主人公達の使っていたZC1000も知っている。先輩が持っていたから使ったこともある。
コマ撮りの逆転撮影が可能だったので、夕日をコマ撮りして朝日がずんずん昇っていくように
見える映像を撮ったこともある。
自分自身は録音機能がついたZ850を使っていた。
映画中、ZC1000を使いながら「コダックが好き」などと言っているので、「おいおいZC
1000でコダックのフィルムは使えんだろう。何考えているんだ!」と気になって仕方なかったが
この疑問は映画の最後になって明かされる。
なんだ、そうならそうと早く言って欲しい。いらいらしっぱなしだった。

そんな中、市原隼人の智也は別に映画ファンでもなかったのだが、あおいと知り合ったことを
きっかけに映画製作に携わっていく。
あおいに無理やり「映画の主役、君にやってもらうから」と決められ「勝手に決めんなよ」と
言いながら実はそれほど反対はしていない。
この苦笑しながら「勝手に決めんなよ」というときの表情が実にいい。
全体的にどこにでもいそうな、美少年過ぎずよく見ると「イケメン」で「ぼよよ〜〜ん」
と何も考えていなさそうな青年を実に好演。
こんないい役者だとは思わなかった。

どこがよかったか、といわれると実に困るのだが、全体的な存在感がよいのですよ。
本当にいそうな青年を演じ、演技っぽくなくていい。
「親指さがし」の三宅健といい、この市原隼人といいどことなくひ弱さを備えた20代の
青年の魅力を引き出すのを熊沢監督は得意なのかも知れない。

ラストのあおいの代筆した手紙の裏に智也への想いが記されていた、というあたりはやや
パターンではないか?
ちょっと気になった。

また映像的には露出を開けすぎたせいか、窓の外がハレーションを起こしていたり、街灯がやけに
明るすぎたりするのが個人的には嫌いなのだが、ドキュメンタリーっぽい映像を狙ったのだろうか?
それともただの低予算のせい?
このあたりは映像の美しさを堪能した「悪魔の手毬唄」を見たあとだけに余計に気になった。



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悪魔の手毬唄


日時 2006年11月18日10:30〜
場所 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・プレミアスクリーン
監督 市川崑
製作 昭和52年(1977年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


岡山県の鬼首(おにこべ)村に金田一耕助(石坂浩二)は旧知の仲の磯川警部
(若山富三郎)に呼び出される。
この村では20年前に亀の湯旅館のおかみ青池リカ(岸恵子)の旦那が当時村に
やってきていた恩田という詐欺師に殺される事件があった。事件は迷宮入りしたが
磯川警部はこの事件の解決を金田一に依頼したのだった。
しかし、村の勢力者の娘、由良泰子(高橋洋子)が殺されたのをきっかけに
次々と若い娘達が殺される殺人事件が起こる!
しかも彼女達は村に伝わる手毬唄の歌詞の通りに死体は飾られているのだった。


封切り時に見て以来の2回目の鑑賞。
前年の秋に角川映画第1作「犬神家の一族」が大ヒットし、横溝正史ブームに乗っかって
今度は東宝独自で同じ「横溝=市川=石坂」のシリーズ化を決定し、この「悪魔の手毬唄」
は金田一シリーズ第2作。4月の公開だから、前年の「犬神家」から半年も経っていない。
(ちなみに3作目の「獄門島」は8月末の公開だから、4ヶ月ぐらいしか製作期間が
なかったことになる。最近の製作ペースでは考えられない)
僕はどちらかというと「犬神家の一族」のほうが印象が強く、この「悪魔の手毬歌」
は巷では「シリーズ最高傑作」との評判もよかったのだが、それほどでもない印象があった。
しかし見直してみて、それは間違いだと気づいた。
なかなかの傑作だ。
(今書いたように製作期間がそれほどなかったのに、これだけのレベルの作品が出来ることが
すごい)

誰が犯人かぐらいは覚えていたので犯人当ての楽しみはなかったが、それでも見ていて飽きない。
会話の間、カットの切り替わりの間が実にリズミカル。
金田一が最初に自転車で転がるところとか、磯川警部が歌名雄(北公次)たちと温泉に落ちる
ところとか、青池リカが磯川警部の夕飯を忘れるとか、爆笑、というわけではない「くすぐり」
程度の笑いのブレンドが実にいい。

またサイレントからトーキーに映画の時代が移ったために、弁士が失職したことも事件の
背景として語られる。(このシーンで「モロッコ」が使われるなど、映画マニアにはうれしい)

いつもの役名こそ違うが同じキャラクターの加藤武、同じく役は違うが、大滝秀治、小林昭二、
三木のり平、草笛光子などの芸達者が前作から引き続き登場。
こういった脇役の魅力が映画をさらに引き立てる。

そして磯川警部のほのかに青池リカに寄せる想い。
夫だった源次郎のことを「ひどい男だった。でも好きだった」という複雑な男女の愛憎など
見た当時中学生だった私にはわかるはずもなかったのだ。
ラスト、金田一の「あなたはリカさんを愛していたんですね」の問いに「そうじゃ(総社)」
駅名がまるで磯川警部の吹き出しのようになるアングル(配置)は実に絶妙。

スタンダードサイズのきっちりした画面にFIXで捉えた陰影のしっかりした画は、今の
映画と比べると重厚な「本物感」がある。
さすがは巨匠市川崑の作品だけのことはある。



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ミクロの決死圏


日時 2006年11月12日
場所 DVD 
監督 リチャード・フライシャー
製作 1966年(昭和41年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


アメリカでは物質をミクロに縮小する技術を軍が研究していた。しかし、まだまだ
弱点があり、それはミクロでいられるのが1時間でしかないということだった。
この時間を伸ばす技術を完成した博士がアメリカに亡命したが、敵側に襲われ
脳に重症を負ってしまう。
助ける方法は唯一つ、人間をミクロ化して潜水艇で博士の体内に入り、脳内の血の塊を
除去することだった。
早速チームが編成されたが、この中にはスパイがいるかも知れない。
果たして成功するのか?

この映画は子供の頃に近所の映画館で見て、非常に面白かった覚えがある。
多分1972、3年のことだと思う。実は同時上映だった他の映画が目的で行ったのだが
「ミクロの決死圏」ばかりが記憶に残っている。目的だった他の映画が何だったか
まるで憶えていない。
当時の小学生だった私でも充分に理解できるSFだった。

潜水艇がミクロ化していく過程が丁寧。
潜水艇は原子力で動くのだが、その核燃料を積み込むシーンが面白い。
人間の目には見えないほどの大きさの核燃料が充填される。
「こんな小さくて大丈夫なのか?」という主人公の質問に対する答えはこうだ。
「核はミクロ化できないから、最初から小さな量にしておくんだ。船がミクロ化
するからこれで充分な量になる」
はじめに見たときは「ふーん、そういうものか」と思ったが、今から考えると
疑ってしまう。

ラストに人体から脱出の際に涙腺を伝って涙に入って脱出する。
それを本部のスタッフが察知して、目をルーペで見る、すると涙の中で泳いでいる
医療チームが見える!というのがクライマックス。
最初見たときは盛り上がったのだが、でも今考えると縮尺が合わないような気が・・・・・

そんな突っ込みどころは別にしてもこの映画はやはり魅力的だ。

人間の体内という、実は誰も見たことのない世界。
美術が素晴らしく、この幻想的な世界を見事に描き出す。
船は動脈の流れに乗ってすぐに脳内に到達する予定だったが、血管の小さな傷により、
静脈に入ってしまう。

そこから心臓に突入し、その後も肺、リンパ節、内耳を通っていく。
しかし、人為的な故障などの妨害工作が起こる。

この冒険譚は絵だけを見ていると、宇宙空間を進む宇宙船や、深海を探検する潜水艦の
話のようにも思える。
しかし人間の体内だ。
赤、青に彩られた幻想的な空間も興味津々だ。
科学的な興味も手伝ってこの冒険譚、まったく飽きが来ない。

ところがこのビジュアルのすごさのせいか、登場人物がまるで印象に残らない。
俳優達がドナルド・プリーゼンス以外はイマイチ馴染みの薄い役者のせいもあるだろうが、
キャラクターがちょっと弱い。
チームの中に女性が一人加わっていて、これがラクウェル・ウェルチが演じているが
(アップが少ないせいか)あんまり印象に残らない。
キャラクターの描きこみ不足か。

しかし、見終わって一日たって気づいたが、これは美術面に重きを置いた画作りをした
結果かも知れない。
主人公達が乗り込む潜水艇だが、窓がやたらと大きい。
前面などほとんどがガラス張りで、操縦席は上部にあり、その部分はドーム状のガラスの
形になっている。
水圧のことを考えたら、潜水艇はガラス張りでないほうが得だ。
しかしあえてガラス張りのデザインをしたのは、常に船から外の光景が見えるように
するためだろう。
登場人物の個性を描くことより、常に体内の状況が画面に映るようにした美術に
演出が重きを置いたのではないか。

しかしその演出は成功であったと思う。このワンアンドオンリーのアイデア作品はSF映画の名作として
記憶されるに至ったのだから。



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映画監督って何だ!


日時 2006年11月11日21:00〜
場所 ユーロスペース2
監督 伊藤俊也

(公式HPへ)


うわさに聞いていた「日本映画監督協会」製作映画だ。
現在、映画監督には著作権はない。製作会社に著作権はある。
「映画監督を著作権者として認めよ!」という主張のプロパガンダ映画だ。

こういうことになってしまったのは金を出す製作会社が、金を出すの者の
考え方として、「映画に関しての最終的な権利は製作者側のものだ!」と
主張して、それが法律化してしまったためだ。
確かに小説や音楽と違って映画の場合、非常に多くの人間の労力とお金の積み上げ
の元に完成している。
その中で一番の責任者は誰か?ということになったときに「製作者だ!」と
されてしまったのだろう。
この論理もなんとなくわからんでもない。

しかし一般的に作品について話題にするときにはその映画の作者、ということでは
やはり「監督」を上げることが多い。
もちろん、監督よりプロデューサーのほうが名前が大きく扱われることはある。
最近では「虹の女神」は監督の名前より、プロデューサーたる岩井俊二の名前のほうが
大きい。
しかしこれは例外的なことであり、普通は「深作欣二監督作品」「黒澤明監督作品」
「岡本喜八監督作品」だ。
映画というものは多くの人の知恵と力の結晶ではあるが、よくも悪くもその責任者は
やはり監督であることは明白だろう。
だから「映画の著作権は監督だ!」と主張する監督協会の言い分はもっともだと思う。

ここで主張する権利は単なる2次使用時に対する対価の問題ではなく、「作品を改変する
(されない)権利」のことだ。
年中製作者ともめてるわけではないが、やはり「作品を改変する(されない)権利」は
自分達の手にしたいと思うのは当然だろう。
そうでなければ「知恵を絞って作った映画」が製作者によって自由に改変されていいことに
なってしまうからだ。

著作権についての話はこれぐらいにして、肝心の映画の話だ。
時代劇、再現劇、リメイクシーン、インタビューなどを取り混ぜた、にぎやかな映画だ。
何しろ出演しているのは基本的に監督だ。
本業は映画監督の諸氏が俳優を演じているのだ。
昔、作家が舞台劇を演じる文士劇、というのはあったが、監督劇、というのは聞いたことがない。

一番の珍シーンは時代劇で、あの男くさい映画を撮り続ける阪本順二が花魁を演じる。
見ているこっちは思わず苦笑してしまう。
監督協会でのお披露目試写会では爆笑がなかったのだろうか?

しかし、珍シーンはこれぐらいで、その後、政府の委員会、審議会の再現シーンになると
これがまったく違和感がない。
政治家や役人に扮した監督諸氏は実に堂々たる演じっぷりを見せる。
下手な俳優よりずっと迫力があってうまい。
やはり普段からの「貫禄」というものの賜物か。
(となると黒澤明が「トラトラトラ!」で素人の企業の社長に海軍の上層部を演じさせようと
したのはもっともだったかも知れない)

この再現シーンの中で、「著作権は製作者のもの」としたのはどうも永田雅一らしいとチラッと
出てくる。
彼は政治献金などで政界とのパイプも強かったろうからありがちなことだ。


低予算のビデオ撮りで画もお世辞にもきれいといえないし、内容的にも娯楽映画になりづらい
映画だが、「監督協会70周年記念事業」としては充分な仕事だと思う。
映画の著作権について考えるにはいいテキストだ。



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紙屋悦子の青春


日時 2006年11月5日17:30〜
場所 岩波ホール
監督 黒木和雄

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昭和20年3月、鹿児島県の田舎で暮らす紙屋悦子(原田知世)は同居している兄の高校の後輩で
海軍少尉の明石少尉(松岡俊介)の紹介で永与少尉(永瀬正敏)と見合いをする。
しかし悦子は密かに明石に想いを寄せていた。
お見合いの数日後、明石少尉は沖縄作戦のために出撃することが決まったと知らされる。

うわっ!
すごい映画を見ちまったなあ。
いい映画だとは思うよ。良心的な映画だ。それは間違いない。
しかしねえ、私個人的には好きになれなかった。

事件らしい事件は起きない。
悦子と見合いをしても永与少尉は内気のため想いをうまく伝えられない。
で明石少尉は出征する。自分の愛する女性を親友に彼女を幸せにさせることを託すことが
彼の愛の方法だった、というような極めて良心的な反戦映画だ。

声高に言わない、静かな映画でも大丈夫だ。
しかしこの映画の場合、会話のテンポがまったりしすぎている。

オープニング、今は年老いた原田知世と永瀬正敏が病院の屋上で「寒いくないか」「大丈夫です」
「この病院は大きいなあ」というような取り止めのない会話がFIXの画面で語られる。
この全体的にこの映画、カットが少ない。
1時間50分ぐらいの映画だが、100カットぐらいしかないのではないか?
それぐらいに画面の変化がないのだなあ。

事件は起きない、会話は取り止めのない会話(「この芋すっぱくないか?」「大丈夫です」「そうか?」
「そうです」)しかもまったりしたテンポではかなり見ていてつらい。
ビデオで見ていたら絶対に早送りしちゃうな。
今の若手の監督だったら、この倍ぐらいのテンポで会話をして、1時間で映画が終わってしまうだろう。
そのスピードなら僕も好きになったかも知れない。

そうは言っても何とか見せてしまうのは、役者がいいからだろう。
主演の原田知世も兄の小林薫も永瀬正敏もみんないい。
このまったりしたテンポを実に演じきる。
また美術も素晴らしい。
紙屋家のワンセットだが、これがなかなかしっかりしていて重厚感があるつくりなのだ。
そして照明も陰影があり、高級な質感を漂うわせる。

しかし、このまったりテンポにはついていけなった。
また何十年も生きればこのテンポが好きになるかも知れないが、そう感じるには僕には
まだ早いような気がする。



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デスノート the Last Name


日時 2006年11月4日21:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン8
監督 金子修介

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大ヒットの前作を受けての満を持した後編の公開。
前作は恋人を殺された(実は殺した)ライト(藤原竜也)が捜査本部に入るところで終わったが、
今回はエル(松山ケンイチ)との直接対決。
世論動向はあんまり関係なくなってひたすらエルとの対決になってくる。
そして第2のデスノートも登場し、第2、第3のキラも登場。
話はどんどん複雑化してくる。

正直、後半ノートの所有権は変わらないが、今ノートを持っているのは別の人、という設定が登場し、
少しややこしくなる。
それでも映画を引っ張ってくるのは僕にとっては「エル」だった。
やせ細ったからだが妙に不気味だ。

彼の前では正直、藤原竜也もかすんで見える。
「男たちのYAMATO」「親指さがし」と複数の出演作をこの1年で見たわけだが、どれも違う役者に
見えてしまう。今後、若手演技派として注目株。
僕にとっては今年の助演男優賞は彼だ。

正直言うと死神の好物のりんごとかワタリ(藤村俊介)が何の伏線でなかったのがややはずされて
がっかりだったが、それは僕の深読みしすぎたせいだろう。
(りんごが食べれないことが何か弱点になるとか、ワタリが実は大物だったとかそんなことを
想像したのですよ)
後編で大きな役になったアイドル歌手が捜査本部に監禁されて、目隠しされ椅子に縛られている
あたりの描写は妙にセクシーでサービス満点でしたね。

それにしてもあのシニカルな人の生死に何の関心も寄せなかったようなエルがラストでああいった
行動に出るのはうれしい驚き。

久々に面白い娯楽日本映画を見た思い。
何しろ話が面白いよ。
今の日本の才能ある人は映画の世界ではなく、コミックの世界に行くのでしょうかねえ。
映画って金がかかるからあれこれ口出す人が増える分、組織が硬直化して
柔軟な作品が出来ない世界なんだろう。



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トンマッコルへようこそ


日時 2006年11月4日17:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン2
監督 

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朝鮮戦争下の朝鮮半島。南北国境付近の小さな集落「トンマッコル」の近くに連合軍(アメリカ軍)の
飛行機が墜落し、パイロットは村人に助け出される。
そして壊滅状態の北朝鮮軍兵士や訳あって脱走してきた韓国軍兵士もトンマッコルに偶然たどり着く。
はじめは敵対する彼らだったが、争うこと知らないトンマッコルの人々を前に彼らは
やがて打ち解けていく。

2005年10月、釜山国際映画祭に行ったときに映画館でみた大きなポスター、それがこの映画だった。
沢口靖子みたいな女の子がおどけた顔をしてその周りに制服の違う兵士がいる。
このポスター写真を見ただけで、「ある田舎に迷い込んでしまった南北両軍の友情の物語だな」と思った。
実際そんな話だ。
あのポスター写真は実に映画世界を見事に表現していた。

村の中央で夜を徹してにらみ合った南北両軍もその手榴弾が村の食料庫を破壊してしまう。
そのときにとうもろこしがポップコーンになって降り注ぐとは、なんともファンタジックなシーンだ。
続いて村の畑を襲うイノシシを倒す兵士達。
このあたりから韓国軍も北朝鮮軍もアメリカ軍も心は一つになっていく。

実をいうと韓国、北朝鮮軍両軍が力をあわせて戦う、という話はつい先日
「天軍」で見てしまったため、「トンマッコル」を後に見た私としてはやや新鮮味に欠けてしまった。
(実は「天軍」が「トンマッコル」の影響下にあったのかも知れないのだが)

あと映画中にはもう少し笑いの要素があるかも知れないと思っていたのだが、思ったより
すくなかったのが残念。

それにしても映画の根底にあるのは「反米」だ。
そもそも朝鮮戦争なんて米ソの代理戦争だったのだから、「アメリカが南北問題の原因だ」と
思っているのかも知れない。

しかし反米感情は「アメリカ」という国であって、アメリカ人やアメリカ文化ではない。
この映画でもアメリカ軍のスミスは受け入れられているし、スミスはアメリカンフットボールを
村人に教え、みんなで楽しんでいる。

南北分断問題をテーマにした韓国映画は非常に多い。
一つのテーマでこれだけ何本もの映画が作られるようなテーマは日本にはない。
それだけ韓国の人々にとっては日本人が考える以上に大きな問題なのだろう。

そして我々日本人は彼らのために何が出来るかを考えたいと思う。
そもそも北と南に分かれた大きな要因は日本にあるのだから。



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