2007年12月

スマイル
聖夜の奇跡
ナショナルトレジャー
リンカーン暗殺者の日記
椿三十郎(2007) ルート225
椿三十郎 曼陀羅 伽椰子のために フライボーイズ

スマイル 聖夜の奇跡


日時 2007年12月29日18:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン7
監督 陣内孝則

(公式HPへ)


森山未来扮する主人公はタップダンサーになる夢をあきらめ、彼女(加藤ローサ)が
いる北海道に渡る。
彼女と結婚を願ったが、加藤ローサの父親から出された条件は自分がオーナーである
少年アイスホッケーチームを勝たせて欲しい、ということだった。
アイスホッケーなど何の経験もない森山未来だが、彼女との結婚のためにホッケー
チームの監督を引き受ける。
だが引き受けたチームは今まで一勝もしたことのない弱小チームだった。
どうする?

陣内孝則の第2回監督作品。
1作目の「ロッカーズ」は未見だったが、なにやら「がんばれ!ベアーズ」を思わせる
内容だったので、この正月映画では一番の期待作。
期待を裏切らない快作だった。

この映画については脚本(設定)にあらがあるし、それも否定しない。
いわく「ホッケーの経験がない男が児童心理学の知識だけで勝てるか?」
「最初の試合は負けるのが映画の決まりだろ」「白血病の少女とか、車椅子の少女とか
母親が離婚した少年とか、両親を交通事故で失い養父母になじめない少年とか、とに角
不幸が多すぎる」「いくらなんでも北海道一=日本一になるのは勝ちすぎ、せいぜい
地区リーグでの優勝ぐらいがいい」「ギャグのシーンがマンガチックすぎる。テレビの
バラエティ番組のノリでかえって安っぽい」。
すべてそう思う。
でもいいのだなあ。
久々に映画で泣きました。

私が泣いたのは入院している白血病の少女の病院の前で、少年達がスティックを鳴らして
彼女を励ますところ。
いいですねえ。やっぱり「全員は一人のために、一人は全員のために」の精神が私の心に
ぐっときます。人間はこうでなくてはいけません。

でも、もうひとつ指摘するならラストの試合の休憩時間の時に森山未来が歌を歌い、
それが会場全体も歌いだすシーンがあるが、あの歌は前から皆が時々口ずさんでいるなど
伏線が欲しかった。そうすればもっとあの歌のシーンが盛り上がったと思う。
今の形ではちょっと唐突感が否めない。
それともうひとつ言うなら、ホッケーの試合のシーン。
映画の半分はホッケー場のシーンなのだが、試合中の画で俯瞰のカットが少ないために
今ひとつ試合の流れがわかりにくい。
それとアイスホッケーのルールの説明が最初の方にあるともっと試合の展開が観客に
わかり、よかったと思う。
ついでに言うなら、ホッケーのシーンももう少しカメラの位置を下げて、パックと同じくらい
(つまり氷すれすれ)でカメラがパックを追っていったらもっと迫力が出たと思う。

出演者では森山未来がとに角好演。彼の代表作のひとつになったのは間違いない。
少年達では白血病の少女と初恋をする子が実にいい。すばらしい美少年ぶり。
この作品が演技初経験で今後、芸能活動をしていくそうだが、期待したい。
柳楽優弥に匹敵す存在になるかも知れない。
またホッケー少年はすべて子役ではなく、ホッケー経験のある少年達(逆にいうと演技未経験)
を集めたそうだが、みんないい。
あとは塚本高史、飯島直子、寺島進らが顔見世のゲスト出演。
加藤ローサはあのくりっとして垂れた目が可愛い。

いろいろ文句もつけたが好きの裏返しで望みが高くなってしまった。
だが総じて好きな映画だ。
陣内氏の次回作も期待したい。



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ナショナル・トレジャー
 リンカーン暗殺者の日記


日時 2007年12月29日16:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン5
監督 ジョン・タートルトープ


(詳しくはキネ旬データベースで)
(公式HPへ)



前作はラストでは宝が見つからないと思っていた。
見つかったにしても結局は見たのは主人公だけで、宝そのものは日の目を
見ることがなかった、というラストだと思っていたので、あっさり宝を見つけ
主人公が大金持ちになるという展開が納得いかなかった。
多分、そのあたりが前作をあまりほめなかった要因なのだろう。

その点、今回は「どうせラストは宝も見つかるんでしょ」という安心感、というか
ネタ割れの元にみているので、妙な期待がなくていい。
それに前作はそれこそ、新宿、池袋、渋谷、上野、ぐらいの距離感で転々としていた
ので、なんとなく宝捜しのスケールが小さい。
が、今回はパリ、ロンドン、ワシントン、ラシュモア山と話のスケールはアップ。
チマチマ感がなくていい。

そしてロンドンのバッキンガム宮殿侵入の際はハイテク機器を使っての侵入、
ホワイトハウスの大統領執務室も同じことをするのかなと思ったら、一転して
元妻のボーイフレンドを色仕掛け(?)でだまして侵入という形。
同じことをしないのは正解。
しかもロンドンはカーアクション付。

そして宝はやっぱり見つかる。
大洪水があって、悪いやつがちょっといい所をみせたり、まあ色々あって
ニコラス・ケイジの一家は助かり、復縁もある。
ハッピーエンド。


見てる間は楽しいが、1週間経ったらよく覚えていないであろう映画。



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椿三十郎(2007)


日時 2007年12月16日16:05〜
場所 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン1
監督 森田芳光

(公式HPへ)


まあ、誰がリメイクしてもこうなるだろう。
シナリオにほとんど手をつけなかっただけ、そこは判断が正しかったと思う。
妙に違う映画にしようとしたら、もっと叩かれていたに違いない。

それにして今回、このリメイク版を見て思ったのは、脇の3人、小林桂樹、入江たか子、伊藤雄之助
の3人がすごかったということを改めて確認させられた。
今回のキャスティングでいちばんよくないのは織田裕二より、この佐々木蔵ノ介だ。
そのまんま時代劇に登場するような名前のこの男が、実にぶち壊した。
年齢は違うことになるが、笹野高史あたりが演じていれば、もっと違ったかも知れない。

中村玉緒も悪くはないし、今なら彼女しかいないとは思うが前作のあの入江たか子のおでぶちゃんが
なんともいえないのだ。
彼女の大きさがあればこそ、塀を乗り越えるときに三十郎が踏み台になった時に彼女の重さに
顔をしかめるベタなギャグが生きたのだ。

そして藤田まこと。
藤田さんではねえ、二枚目過ぎるんだな。冒頭の若侍の会話によって「城代はつまらない顔を
している」と説明されているので、一体どんなご面相か実に楽しみなところへ、伊藤雄之助が
登場する。そこがなんともいえなかったのだが・・・・・

まあ、そういう風に「そこがよくない、ここが違う」と言い出せばきりがない。
それだけで酒の肴にはなるだろう。

でも最後に一つだけ。
「切り込みの合図の椿は赤か、白か」で奥方と娘がもめるシーン。
黒澤版では三船がふすまの文字の「や」の字をなぞっていたが、今回は碁石の入れ物の
ふたをなぞっている。
そこはがっかりだったが、その後で「赤でも白でもどっちでもいいじゃねえか!」のところで
織田の三十郎は碁石を掴み取る。そこで黒と白の碁石が出てくるのだが、ここは黒澤版で撮影に
使った椿は赤ではなく黒に着色されていた、というのことのオマージュだったのではないだろうか?

で、もう一つ言うとラストの対決をどうするか楽しみだったが、ああなったんですね。
同じ事やってもダメだ、とは思いますが、あれでは同じことやったほうがよかったんじゃない
でしょうか。
テレビのバラエティ番組じゃあるまし、わざわざ別アングルのスローモーションで示す必要は
ないんじゃないかなあ。

それにしても上映時間が延びたのは解せないな。
それがいちばん納得いかないところです。
織田裕二はまあがんばったほうでしょう。
どうせ誰がやってもダメだったろうし。



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ルート225


日時 2007年12月15日16:00〜
場所 ザ・グリソムギャング
監督 中村義洋
製作 平成17年(2005年)

Yahoo!映画はこちら

14歳の少女、エリコは弟ダイゴを公園に迎えに行った日、弟と自宅まで帰る途中で海岸のある街に
迷い込んだ。驚くエリコとダイゴだが、元の街に帰ることが出来た。
しかし、実はそこは本当の元の世界ではなかった。
数年前に交通事故にあったダイゴの同級生が生きていたり、何より両親がいない。
自分たちが元いた世界を「A」とすると「B」の世界に紛れ込み、「A’」の世界に
来てしまったらしいのだ。
公衆電話から自分のテレカを使って電話をかけるとつながらない。
ところが弟の持っているジャイアンツの高橋良伸のテレカを使って電話をかけると母親のいる世界
「A」の世界につながるのだ。
一体どうなっているのか?

姉弟の二人がパラレルワールドに迷い込む、というSFチックな話だが、SF的な面白さはない。
作者たちも最初からSFを作ろうとしたわけではあるまい。

SF的なものを求めると理屈が合わなくなる。
「A’」の世界ではエリコとダイゴの両親はどこへ行ったのだろう?
その辺がまったくわからないけど、富山のおじさん(崔洋一)やおばさんは登場する。
ましてラストは(書いちゃうけど)、元の世界に帰れるか?とサスペンスを盛りあげて
おきながら帰れない、という不思議なエンディングを迎える。
SFとしてみたら実に困った映画だ。(実際その辺が不満という意見も多かったとトークイベントの
時、佐藤プロデューサーも言っていた)
でもSFを作ることが目的ではないのだからいいのだ(私は)。

いつもはうっとしいと思っている両親がいなくなり、これまたうっとうしいと思っている弟と
二人きりになったという設定がほしかったんだろう。

ここで彼女は「クリームシチューにレシピ以上の牛乳を入れる」という「ありえない」ことを知る
母親もいない、ついてくるのは学校で苛められている(らしい)弟だけ。
この状況で両親や弟との関係を見つめなおす、ということなのだが、こう書くと説教くさい
映画に感じるがそんなことはない。

それはひとえに主役の多部未華子と弟の岩田力くんの二人の力だろう。
普段はちょっとキっとした表情の多部だが、笑うと実に自然な笑顔だ。
今後が期待される女優になろう。

そして元の世界にも帰れず、小樽での新生活に馴染んでいく。
別に彼女に罰が下ったわけでもないんだろうが、意外なエンディングには言葉ではいえない、
不思議なものを感じた。
「徐々に新しい世界に馴染んでいく」というのが、人生にとって、何か新生活が始まったとき、
実生活でも不本意なことがあっても馴染んでいく、行かねばならないというエリコの成長を
感じたような気がした。
例えば彼女はこれから高校を受験したり、就職したり、そのときにはひょっとしたら不本意な
新生活を強いられていくかも知れない。
しかし「まあ馴染んでいくものなのだ」という思春期から大人への成長物語なのだ。
そんな風に解釈したくなる映画でしたね。



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椿三十郎(1962)


日時 2007年12月9日
場所 DVD 
監督 黒澤明
製作 昭和37年(1962年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


町外れの神社の中。いまや若き9人の侍(加山雄三、平田昭彦、田中邦衛、久保明、土屋嘉男、
江原達怡、太刀川寛など)は藩の不正を暴くため、その相談をしていた。
一同のリーダー井坂(加山)は昼間城代家老の叔父に相談に行ったが取り合ってもらえない。
そこで大目付の菊井(清水将夫)の元に相談に行き、自分たちの力になってもらうことを
確約してくれたことをみんなに報告していた。
そのとき、神社の隅から一人の浪人(椿三十郎=三船敏郎)が!
浪人は城代が本物で大目付のほうが怪しいと口を挟む。
そのとき、その神社は大目付の手のものによって取り囲まれていた!
どうする9人プラス三十郎!

黒澤明の名作時代劇。

私にとっては黒澤明は好きな監督だが、世間でよくいう「黒澤信仰」とでも言うような絶対視は
していない。嫌いな映画もある。
しかしその中でこの「椿三十郎」は好きな作品だ。ムダというものが一切ない。
黒澤作品の中では「大作」といったほどでもなく、話も小規模だし、時間も1時間37分と短めで
珍しくプログラムピクチュアの類だ。
でも密度は濃いのだ。

まずは三船=三十郎のものすごさ。
三船の中でもやっぱり当たり役だろう。
あの豪放磊落な性格、実は人情味のある男なのだが、つい照れ隠しに口が悪くなって
しまうというありがちなキャラクターなのだが、実によい。

全編に漂うユーモア。
入江たか子の城代の奥方様のなんともいえない、ぽわ〜んとしたしゃべり、「斬りこむ合図の
椿は赤か白か」ということで娘(団令子)と相談するシーンの三十郎の「や」の字をなぞる
あたりは本当におかしい。

また本来はつかまった身でありながら、いつも間にか閉じ込められているはずの押入れから
出てきて、一言しゃべっていきまた戻る小林桂樹のうまさ。
そして最後に顔を出す伊藤雄之助。

ラストの映画史に残る仲代達矢との対決。
初めて見たときは心臓が止まるような緊張感を覚えましたよ。


どこを切っても完璧だ。
言葉に出来ない面白さ。
黒澤娯楽アクションの最高傑作!



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曼陀羅


日時 2007年12月8日20:30〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 実相寺昭雄
製作 昭和46年(1971年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


ある海岸に立つ一件のモーテル。
そこでは信一(清水紘治)と康子(桜井浩子)がセックスをしている。隣の部屋では裕(田村亮)と
由紀子(森秋子)がセックスをしていた。
実はこの二人は恋人交換をしており、その様子をモーテルの支配人・真木(岸田森)は隠しカメラを
使って一部始終を見ていた。
そして先にモーテルを出た信一と由紀子を真木は配下の男たちに襲わせ、その後、死体のようになった
由紀子を海岸で犯した信一はこの上もない快楽を感じる。
真木は単純再生産を理想とするユートピア建設を目指しており、信一たちはそのユートピア建設に
参加して行くのだった。


うわっ、参っちゃうなあ。
70年代らしい作品とも言える。
「単純再生産の世界とは」「原始共産社会」「革命」とかそういう単語が頻発し、70年代安保闘争の
直後の作品なのだと実感させられる。

意味のよく解らない言葉だけの論争が延々と繰り返されたりして作者の独りよがりのようなシーンが
続く。
しかし、この頃は「これがわからんやつはバカだ」とする観客側も受け入れてくれたと思うが、
今は考えられない。
もっとも映画を作るほうも観客を泣かせることしか考えていないから、こういう映画をつくろうとも
しないだろうが。

そんな内容は実はあまり気に入らないのだが、実相寺独特の画面の端に俳優を配置する、魚眼レンズを
用いて遠近感を狂わせたショットの多用など、実相寺ファンとしてはそれを見ているだけでもうれしい。
さらに出演が岸田森に桜井浩子という、円谷作品からの流れの点がうれしい。
しかも岸田森の役名が字は違うが「マキ」というのもうれしい。桜井浩子はヌード、あえぎ声付だ。
また原保美が最後に顔を出すのもうれしい。

映画としては面白くないのだが、円谷時代の実相寺ファンとしては、そこここに共通点が感じられ、
それだけでも楽しめる内容だった。



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伽椰子のために


日時 2007年12月2日14:00〜
場所 ザ・グリソムギャング
監督 小栗康平
製作 昭和59年(1984年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


私にとっては初の小栗康平作品。
名作といわれる「泥の河」も見ていなし、あまり食指がそそられるタイプの監督ではないのだが、
今回のグリソムの上映プロデューサーのKさんの小栗康平に対する熱意に打たれて鑑賞。

うわっ、苦手のタイプの映画だった。
在日朝鮮人の恋愛ドラマなのだが、話がわかりづらい。
何故解りづらいかというと、場所と時間の経過がわかりづらいのだな。

冒頭、主人公が夜汽車に乗っていると隣の席の男(殿山泰司)から「東京かね?」と訪ねられる。
てっきり私は「(主人公も)東京へ行くのか?」と聞かれたものだと思っていた。
しかしどうもそうではなく、この主人公は北海道へ行こうとしていたのだ。
かように場所については説明がない。
で、映画が進むにつれ出てくる場所が、「東京の郊外」なのか「北海道」なのか混乱してくる。
そして人間関係もよくわからない。
また時間も現在なのか、過去なのか、空想、回想なのかなんともわかりづらい。

特にラストなど、主人公が浜村純を訪ねるのだが、冒頭のシーンもそんなシーンから始まるので
映画全体が主人公の空想だったのかと一瞬勘違いさせる。

恐らく説明的なセリフ、映像を省いているせいだろう。
映画上映の後、小栗監督のトークがあったのだが、そのときも「この映画の公開当時の批判に
話がわかりづらいと言われた」とおっしゃっていたが、それも納得できた。

セリフもまったりとしていて、なんだかかなり緊張させられた。

批判的なことばかり書いたが、魅力がないわけではない。
カラー、スタンダードサイズという、公開当時でも主流ではなかった画面サイズで描かれた
世界は実に美しい。
構図もきっかりと決まっていて、コントラストを少し押さえたカラーも美しかった。

でもあまり好きな作品ではないな。



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フライボーイズ


日時 2007年12月1日18:45〜
場所 シアターN渋谷・シアター2
監督 トニー・ビル

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第1次大戦中、ドイツに進撃されるフランスを守るため、アメリカの青年が志願兵として
フランスに渡った。ローリングス(ジェームズ・フランコ)もその一人だった。
彼らはその頃導入された「飛行機」という新兵器でドイツ軍と戦っていく。

制作費70億円という宣伝文句で大作風の触れ込みだが、その割には都内で2館のみ
(あとはユナイテッドシネマ豊洲)というさびしい公開。
しかも正月映画前の一番宣伝が手抜きされる時期。
しかし見た人からは好評を聞くので、映画の日(1000円の日)ということもあって
見に行く。

うーん、確かに悪い映画ではないし、つまらなくもない。腹が立つこともない。
でも何か違う映画だった。
戦争映画にしてはさわやか過ぎるのだ。

戦友が次々と亡くなっていったり、戦友の一人はやむなく左手首を切り落とさなければ
ならなくなる。
話だけ聞くと悲惨さがあるのだが、悲惨は感じられない。
さわやかな青春映画なのだな。
そして地元の美しいフランス娘との恋もあったりする。
(この時も主人公がフランス語を覚えたりせず、あくまで彼女が英語を覚える。アメリカ映画
らしい、自己中心的だ)

そして戦闘シーン。
こちらも迫力があってすばらしい出来。
しかし恐怖をあんまり感じない。
「スター・ウォーズ」の第一次大戦版というか「ロード・オブ・ザ・リング」的なファンタジー
映画みたいなすごさで一種きれい過ぎる感じすらする。
飛行船に立ち向かう飛行機郡はまるでデススターに向うXウイング戦闘機みたいだし、
宿敵のドイツ軍の黒い飛行機はダースベーダーを想起させる。
(しかし映像がきれいになったらなったで「きれい過ぎる」と言ってしまうのだから映画ファンは
実に贅沢だ)

ラストにその後の彼らがどうなったかを字幕で示すのはこの手の映画の王道。
「フライボーイズ」のタイトルの通り、青春映画的でありすぎた。
何かその辺がもう一つ気に入らなかった理由なのだろう。
決して悪い映画ではないのだけれど。



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