2011年7月

大鹿村騒動記
赤いハンカチ モスラ(1996) 僕はボデイガード ハイハイ3人娘
悪の紋章 ハリー・ポッターと
死の秘宝PART2 3D版
men's egg Drummer
メンズエッグ・ドラマーズ
任侠外伝 玄界灘
祭りの準備 淫虐令嬢 吸いつく舌 ハイミスOL 艶やかな媚態 特命シスター 
ねっとりエロ仕置き
書を捨てよ町へ出よう 聖母観音大菩薩 嵐を呼ぶ楽団 怪盗X 首のない男
SUPER 8 スーパーエイト スカイライン 征服 田園に死す 原子力戦争 Lost Love

大鹿村騒動記


日時 2011年7月31日16:35〜
場所 シネマスクエア東急
監督 阪本順治

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長野県大鹿村。今やリニアモーターカーが通る通らないでもめているこの村だったが、秋の村祭りの時には村人たちによって演じられる村歌舞伎が300年に渡って続いていた。
鹿料理店を営む善さん(原田芳雄)は毎年主役を演じていたが、そこへ18年前に自分の幼馴染・治(岸部一徳)と駆け落ちした妻・貴子(大楠道代)が治と共に帰ってきた。
治の話では脳の病気で記憶が無くなってきてるから面倒がみれなくなったというのだ。
そんな時、善さんの店にアルバイトで雷音(冨浦智嗣)という少年がやってくる。
この子も何やら秘密を抱えているらしい。
東京に行った恋人を案じ続ける美江(松たか子)、バスの運転手の一平(佐藤浩市)、郵便局員の寛治(瑛太)らも巻き込んで村祭りが間もなく始まろうとしている。
そんな時、台風がこの村を襲う。女形の一平は台風の土砂崩れに巻き込まれ、入院してしまう。さて困った。
記憶を失いかけている貴子だが、不思議と以前やった歌舞伎のセリフは憶えている。
迷った挙句に貴子に演じさせるのだが。


正直、観ようかどうか迷った(というか多分見なかったろう)が、それでも観たのはやはり原田芳雄さんの最後の主演作で遺作になったから。
(それにしても遺作が主演作であったのは結果的には大変良かった)
しかも原田芳雄さん自身の企画であったそうだから、遺作にはふさわしい映画になったとも言えるのではないか。

観るをパスするつもりだった理由はタイトルがなんとも魅力的でなかったから。
「〜騒動記」なんて今どき付けないセンスのないタイトルだという気がしたのだ。
内容は原田芳雄らしい、ちょっと不良なおじさんが逃げられた女房が帰ってくる話。
そこへ村歌舞伎が絡んでくるわけなんだが、月刊「創」8月号の阪本監督のインタビューによると原田さん自身のアイデアだったそうだ。
曰く「この村歌舞伎を題材にして映画を作れ」だったそうで、それは話に困るだろう。
単なる村祭りの準備ではなく、原田芳雄主演なのだからそれなりな話しにせねばならん。
そこで昔親友と駆け落ちした女房が帰ってくる話という展開になったわけです。

でもまあ単にそれだけだからなかなか話が広がりにくく、話は1時間ぐらいで、村歌舞伎のシーンで30分ぐらいある。
原田さんがこれをどうしてもやりたかったというんだから仕方ない。
病気をおして試写会の舞台あいさつに出たのもやはり自分自身のやりたかったことをさせてもらった映画だからだろう。

でも正直、歌舞伎のシーンは退屈した。
私自身が非学なので歌舞伎を楽しめないこともあるのだが、歌舞伎のメイクをしてしまうと役者が誰が誰やら解らない。これは正直映画を見てる側からするとつらい。
あと話がよくわからん。瑛太が解説を加えてくれたが(いやこっちが非学だからなのだが)歌舞伎のシーンは話に乗れなくなった。

それにしても松たか子や佐藤浩市ら主演級の俳優が脇で出ているのはすごい。
佐藤浩市のバス運転手は松たか子にひそかに惚れている役だが、年齢的に無理がある。
設定としては30ぐらいだろうと思うが、佐藤浩市はもう50だからちょっとつらいな。
なぜここで雷音くんという「性同一性障害」の青年が登場するのか?
単なるオカマキャラのコメディリリーフとしての役割しか感じられず、すこし残念。

正直、そんなに面白い映画ではなかったが、原田芳雄さんにとって最後の映画が、ご本人のやりたかった役をやったというのは大変良かったと思う。ご冥福を祈る。



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赤いハンカチ


日時 2011年7月31日
場所 TSUTAYA宅配レンタル
監督 舛田利雄
製作 昭和39年(1964年)

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横浜の刑事、三上(石原裕次郎)と石塚(二谷英明)は麻薬ルートの解明を手掛けていた。
その麻薬の運び人(榎木兵衛)を追跡中に死亡させてしまう。途中にあったおでん屋のおやじが麻薬を預かったに違いない。
おでん屋の親父を警察に参考人として呼んだが、麻薬組織の報復を恐れて口を割らない。
移送しようとした時、警察の中庭で親父は石塚の拳銃を奪って逃走しようとし、射撃の名手でもある三上は親父を撃ち殺してしまう。
おでん屋の親父の娘・玲子(浅丘ルリ子)に「あなたを許せない」と罵倒される三上。
4年後、今は警察を辞めた三上は北海道のダム建設現場で土方として働いていた。
そこへ県警の土屋(金子信雄)がやってくる。「石塚はその後、警察を辞め、今じゃ実業家として大成功している。だがその資金はどこから来たのか?4年前のあの事件には何かある」初めは聞き流した三上だったが、石塚と玲子が結婚していると聞き、どうしても気になって横浜に戻ってくる。

石原裕次郎=舛田利雄コンビの最高傑作とも言われている本作。
学生時代にも観ているがその時はあまりいい印象はなかった。
だが今回、以前よりは面白く見えた。
自分を裏切りだました友人をまだ信じたいと思う気持ち、かつて愛した人が今や人妻となり再会、愛したいと思いつつ「今はまだ早い」というストイックさ。
このあたりの感情の機微は20歳そこそこの私には(言葉としては解っても)実感として解らなかったろう。
だから面白くなかったわけである。

正直、事件解明の謎解き映画としての面白さには欠ける。
学生時代面白くなかった原因は多分その辺にあるのだろう。
桂小金治のすし屋(もとチンピラ)が昔三上に世話になったということで、事件解明に協力する。
しかしその聞き込みの過程は知らせれず、いきなり死体となって発見される。
う〜ん彼が事件に近づいていく様は見たかったなあ。
ちなみに桂小金治の娘は笹森礼子、その恋人のすし職人が川地民夫という豪華な家族である。

にもかかわらず、今回この映画を以前より面白く見たのは、三上と玲子と石塚の三角関係だろう。
三上は玲子をひそかに想っている、玲子も以前の誤解が解けるがそれは夫に対する不信につながる、石塚は玲子を想い自分の能力の野心に燃える。
こういう複雑な思いを理解するには初見の際は子供だったのだ。

浅丘ルリ子がこの複雑な女心を表現している。
玲子の初登場のシーンで一方的にべらべらしゃべるが、それがおしゃべりではなく、快活な娘に写る。三上でなくても好意を寄せるのは当然だろう。
そして4年後、毛皮をまとった玲子登場。まるで別人のようだ。
しかし下町の病院に喧嘩の怪我で入院した三上を見舞ったとき、周りの女性患者が彼女の毛皮のコートを着て歩く様をからかう。
この時から彼女は昔に戻りだす。

そしてラスト、真相を告白した石塚に三上は拳銃を向ける。
そのときに銃声が。撃ったのは三上ではなかった。
すべては石塚の自殺として処理され、真相は公表されない。
しかしそれも納得の鮮やかな幕切れである。

全体的にまったりとしたテンポがやや気になるが、面白かった。



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モスラ(1996)


日時 2011年7月30日16:40〜
場所 銀座シネパトス1
監督 米田興弘
製作 平成8年(1996年)

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北海道の森林伐採現場で、古代の遺跡らしき不思議な石のオブジェが発見された。
現場監督の後藤(梨本謙次郎)は娘の若葉(藤沢麻弥)のためにとそのオブジェについていた金属の紋章らしきものを東京に持って帰る。その後、現場では山が動き出した。
一方、モスラの妖精・フェアリーに乗ったモル(小林恵)、ロラ(山口沙弥加)はデスギドラの封印がとかれたことを察知、それを手に入れ怪獣を自分のものにしようとするベルベラ(羽野晶紀 )に先を越されまいと若葉のもとへ。
ところが一歩遅く、すでに若葉はベルベラに操られ、デスギドラ復活する。
紋章を取り戻そうとする若葉と兄・大樹(二見一樹)、そして母(高橋ひとみ)は先に現場に戻った父を追いかけて北海道へ。
デスギドラを倒すために、モルとロラはモスラを呼び寄せる。


「ゴジラVSデストロイア」に終了し、1996年に作られた平成モスラシリーズ第1作。
もちろん公開当時に観ている。
公開時の印象は全くいいものがなく、不満たらたら。
その印象と言うのは「怪獣映画に付きものの大都市の破壊がない」「住民が避難するようなパニックシーンがない」「自衛隊が出てこない」「大人の人間ドラマがない」「フェアリーって一体なんだよ」そんな感じ。
怪獣映画の自分にとっての「御約束事」がない映画だったので、ゴジラシリーズでもあった「怪獣島もの」と同じような「閉じた世界」に終始しているという不満が残ったのだ。

今回観直してみて、印象が変わった(もちろん上記のような不満点は存在するが)。
これはスピルバーグの「ET」の世界観にちかい、異生物と子供が共同して戦う物語だ。
だから「ガメラ・小さき勇者たち」と同等なものだろう。
「ファンタジー」とも言うのだろうか。
だから昭和怪獣映画の「お約束事」を求めてしまう私には所詮は気に入らないもの道理。
製作者たちの目指す方向が違うもの。

それにしても今回特撮の技術的な素晴らしさには驚いた。
そういえば前も「技術的には素晴らしいな」と思ったことを思い出した。
まずは前半の後藤家のリビングで、フェアリーやベルベラたちが空中戦を繰り広げるところ。
合成が立派で全く違和感を感じさせない。
ここが多分に画面としてかわいらしすぎて、「怪獣映画は恐怖がつきもの」と考える私なんかには「立派だけど乗れない」と思ってしまっただろう。

そして弱ったモスラがデスギドラと対決し、敗れる。
幼虫モスラに最後の伝言を託し、海面から沈み、さらにカメラは海中を捕らえ大きくゆっくり回転しながら海底へと沈んでいく姿をゆっくりと情感たっぷりに捕らえるカットは、「大空のサムライ」で地井武男たちの一式陸攻が弧を描きながら飛んでいき墜落するカットを思い出した。
こうした情感たっぷりのカットは川北演出のたまものと言っていいのではないか。

またラストでデスギドラとの戦いに勝った後、焼け野原になった大地が緑に復活していく様は(枯れ木に若葉が生えていくところなど)CGを使った映像が素晴らしい。
というか「ハリーポッター」以前でもこれだけのことを日本でもやっていたのだと感心した。

冒頭で新聞のチラシの多さに「こんなに紙がつかわれている」「だから木が切らなきゃいけないだ」というような人間の環境破壊に対する警鐘も描かれている。ああそういえばこの頃からそういうことが言われ始め(違った、オゾン層破壊の頃だったかな)今の地球温暖化問題につながっていったと思う。

あとどうでもいいが寺尾聡が医者の役で出演していたことも記憶に残る。
寺尾聡のファンなので、怪獣映画出演を喜んだらワンシーンのみの出演だったのでがっかりしたのだ。

まあモスラの孵化シーンが「小さなモスラが集まって大きなモスラになる」とか「今回のモスラの羽根は緑がベース色で今までと違う」とか色々と不満が残った。
しかし「ET」路線的な映画として、見れば映画の完成度は悪くない。

でも「好きか嫌いか」でいうと好きじゃない映画だ。



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僕はボデイガード


日時 2011年7月23日19:10〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 久松静児
製作 昭和39年(1964年)

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北一平(渥美清)は所轄の警察官だったが管内に住む作家(有島一郎)が右翼に狙われているということでその警備に当たる。右翼少年の襲撃を防いだので、その働きが認められて警視庁警備課勤務、つまりボデイガード(BG)になる。
厚生大臣(京塚昌子)や労働大臣(十朱久雄)などのボデイガードを経て、北の郷里選出の大臣、遠山(加東大介)の担当に。
北は警察の先輩(笠智衆)の家に下宿していたが、その娘(団令子)に振られたが、結局は元の管内の小料理屋で働いていた娘(浜美枝)と結婚することに。
だが自宅での結婚式の日、遠山大臣は暴漢(鈴木和夫)に襲われる。

渥美清主演映画。
もっと喜劇かと思ったらどこやか明るさに欠け、そんなに笑えない。
時代的に「風流夢譚事件」や「浅沼稲次郎事件」「ケネディ暗殺事件」もあり、今よりテロが身近に感じられた時代だったのかも知れない。

十朱久雄の大臣を警護中に大臣が女のところに行き、渥美清とその上司が追っ払われる。
「映画でも見て来い」と切符を渡されるのだが、その映画が「昼下がりの情事」。
で、ボデイガードが一人の時に、大臣の女の家の隣が工場で、ストライキなどの大争議中。
デモ隊が大臣を発見し、大臣の車を取り囲んでしまう。
その事態を収拾しようとして、ボデイガードがやっきになっているところで、デモ隊に弾き飛ばされてたまたまやってきたダンプカーに轢かれてしまう。
そして渥美清は悩む。話が暗い。

後半の結婚式の日に遠山大臣が暴漢に襲われるとこだけど、大臣が赤坂の料亭に昼食に行った時に襲われる。暴漢を追いかける渥美清。
このシーン、赤坂の246と外堀通りの交差点の陸橋や首都高速の工事中の場所で行われている。
交差点の角にある赤坂東急ホテルもまだなく、その頃の赤坂の風景が解る貴重な映像。
結局暴漢は工事中の陸橋から落ちて死亡。渥美清はまた悩む。
暗い。

また結婚式に元同僚で今は電器屋(船戸順)がテレビを持ってくる。
「さあ観てみよう」とテレビをつけると(予想がついたが)ケネディ大統領暗殺のニュース。
渥美清は再びテロと戦いに挑むのだった、という訳。
アクションドラマなのか、喜劇にしたいのか企画段階での腰がふらついているように思える。
刑事ドラマとしてならまた元祖「SP」として楽しめたかも知れないが。

あとねえ、個人的感想だが、渥美清とか遠山大臣の地元の漁師(田武謙三)が酔っぱらって絡むシーンがある。最近、そういう酔っ払いを見るといやになるので、(個人的な思いだが)妙に嫌悪感を感じた。
あと渥美の母親を浪花千栄子が演じるのだが、よくある「田舎のかあちゃんが大根持ってやってくる」というようなシーンがあり、なんだか松竹喜劇見たいで都会的な東宝喜劇ではない、違和感を感じた。

そして浜美枝と渥美清のカップルも似合わない。
総じてあんまり楽しめなかったな。



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ハイハイ3人娘


日時 2011年7月23日17:20〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 佐伯幸三
製作 昭和38年(1963年)

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間宮今日子(中尾ミエ)、天野千恵子(伊東ゆかり)、江藤悠子(園まり)の3人は高校2年生の仲良し。
最近、今日子のもとに6時になると「好きです、キスしたいくらい好きです」という電話がかかってくる。
今日子たち3人はその電話の犯人を突き止めようと躍起になる。
同じ音楽部の男子3人(スリーファンキーズ)か、飯田先生(高島忠夫)か、はたまた大塚先生(江原達怡)か?
そして学校は文化祭を迎えるが。

中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりは当時「スパーク3人娘」として売り出していたみたいだ。
その3人を中心にした映画で、3人やスリーファンキーズのみならず、クレイジーキャッツの面々もゲスト出演、水原弘も学園祭で1曲歌うので、渡辺プロ総出演の豪華映画。
中尾ミエはその後とあまり変わらないが、伊東ゆかりはまだほっぺがふっくらとして目も小さく、どこかまだ垢ぬけない。その後、大人になってきれいになっていくから解らんもんだなあ。

中尾ミエは4人兄弟で、いちばん上の姉が北川町子、その夫が植木等、2番目の姉が藤山陽子、中尾ミエの弟が田辺靖雄。
伊東ゆかりの兄が谷啓、3人娘の学校の教頭がハナ肇、先生たちに犬塚弘、安田伸、桜井センリ、石橋エータロー。
しかも先生に若林映子もいる。
豪華な学校だ。
このキャストを観てるだけでも楽しい楽しい。

冒頭で彼女たちに無理やり歌わせるため、伊東ゆかりや園まりが中尾ミエの家に電話をかけ、その場で歌うというむりくりなミュージカルシーンあり。

電話の犯人は飯田先生らしいと勝手に勘ぐり、いよいよ文化祭へ。
ここで先生たちが出し物と言う訳でその助っ人に谷啓と植木等が参加。
楽器を抱えて登場してので、楽器コントをやってくれるかと思ったら、「五万節」を歌だけにとどまり、ちょっとがっかり。
ここで水原弘も一曲歌う。
あとはスリーファンキーズの「ナカナカ見つからない」も歌う。

結局高島忠夫先生が時々電話をかけていた相手は若林映子先生。
では本当の電話の犯人は・・・となるがこれが意外でもない、というか考えてみれば主要人物の中に犯人はいる訳で、それは長沢純。
彼は最後には転校するので、お別れになってしまうんだけどね。

という感じで話の方は特に面白くもなんともない恋愛話なのだが、根底に明るさがあり、豪華スターの顔見せ共演があり観ていてホント楽しい気分にさせる映画だった。
楽しかった。



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悪の紋章


日時 2011年7月23日14:40〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 堀川弘通
製作 昭和39年(1964年)

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刑事の稲村(山崎努)はある殺人事件の捜査中に暴力団の麻薬運びの手伝いをしたとして逮捕される。捜査中の殺人事件の確信に触れそうになったことが原因らしい。
2年後、出所する稲村。警察時代の先輩(大坂志郎)のつてで興信所に勤めることに。
ただし、昔の事件に首を突っ込まないことをくれぐれも言われる。
ある日、山手線でスリ(谷晃)が若い女性のかばんから何かをスリ盗るのを目撃。
スリから取り上げたが、それは定期券だったのでそのまま、稲村は自分のポケットに。
数日後、定期券の女性が千葉の海岸で自殺未遂をしたことを知る。
稲村はその定期を持ち主に返したが、お礼にその女性・節子(新珠三千代)が訪ねてくる。
それがきっかけで交際が始まる二人。
ある日、高沢財閥の夫人・光江(岸田今日子)の尾行を仕事で命じられる。
依頼者は不明だったが、光江が時々地方に行くのでそれを調べるのが中心だ。
さっそく尾行を始めたが、光江は夫・重治(佐田啓二)が出張に行った先ばかりに行っており、どうやら夫の行動を探っているらしい。
その中で重治はある男と会っていた。その男はなんと2年前の事件の重要容疑者柴田(戸浦六宏)だった!


橋本忍が朝日新聞に連載していた新聞小説の映画化。
従って原作ものではなく、橋本忍のオリジナルだ。
橋本忍らしい強引な展開でしかも金沢の山中温泉に行ったり秋吉台の秋芳洞に行ったりと日本を旅する展開は「砂の器」に通じる。そうか橋本ミステリーの原型はここにもあったのか。

強引な展開と言うのは偶然がすぎるのだ。
まず自分の興信所が請け負った調査をしていると昔の事件と関わってくるという点。
これ別に光江の調査の依頼をしたのが、稲村の興信所でなくてもいいわけだから、ここが強引。
さらに強引なのは、節子が実は事件に関わってくるわけだけど、稲村が山手線で節子と乗り合わせなければ出会うこともなかった訳で、ここも強引だ。
あと、柴田や重治の行動を追っていくうちに柴田が秋吉台で行方を絶っているいるので、死体が秋芳洞のどこかにあるとにらみ、しらみつぶしにあたっていくというのもすごいなあ。
これも「砂の器」の森田健作が中央線で白い布切れを探すのに近いものがある。

実は重治は高沢財閥の先代の実子ではなく、養子なので自分が高沢財閥を継ぐために財閥の先代を柴田と共謀して殺した。その現場を間接的に見られた女性が、冒頭死体が発見された女性。
節子は重治の愛人で、柴田殺しの実行犯だったという訳。
節子は自分の身の安全のために重治の先代殺しの現場写真(これは柴田が部下の佐藤慶に撮らせた)を持っていて、それを定期券に入れていたため、無くなった定期券を返してくれた稲村に近づいていた、というのが事の真相。

稲村は節子を自殺に追い込み、重治を執拗に脅迫。もとより金で解決するつもりのない稲村は重治が1億円(だったかな。それぐらい)出そうというのを無視。ついに重治も自殺。
重治から依頼を受けて稲村に無実の刑に追い込んだ政治家(柳永二郎)を脅かして事件は終了。
「買っていただきたいものがある」と重治を執拗に脅すシーンが3回ほど繰り返され、そのシーンの執拗さが印象に残る。
あとは珍しく佐田啓二が東宝(宝塚映画だけど)に出演。
事件に一枚かんでいた安部徹のヤクザを電気で拷問するところが怖かった。

橋本忍流な強引ミステリー。
傑作とは思わないけど主演の山崎努の迫力が見どころですね。



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ハリー・ポッターと死の秘宝PART2 3D版


日時 2011年7月18日18:40〜
場所 新宿ピカデリー・スクリーン1
監督 デヴィッド・イエーツ

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死の秘宝を次々と手に入れるウォルデモード。ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人との対決は熾烈さを増していく。


「ハリー・ポッター」シリーズ最終作。
前も書いたかと思うけど、シリーズを終わらせたくない映画会社の意向によって(?)「PART1」「PART2」の2部作に。
毎回のことだけど前のストーリーは完全に忘れているので、細かいことはさっぱり解らない。
でも上に書いた1行分の話の筋の理解でまあついていける。

今回はシリーズ初の3D。
PART1の時は公開1か月前で「3Dの公開は中止」となったが、今回は3D。
でもはっきり言って効果は全くなし。
立体感がまるでないのだよ。たしかこの映画、2Dで撮影されたものを後でポスプロの段階で3Dにしたはず。
やっぱり最初から3Dで撮った映画じゃなきゃ3Dにはならないよ。
話題性とか、3Dを映画館に導入させてしまったので、無理にでも3D映画を提供しなければならない大人の事情も解るが、それにしてもそれで効果が上がるならいいけど、単に入場料を高くするだけの手段なら勘弁してほしい。
しかも今回はメガネのせいで映像が暗くなるから見にくいことおびただしい。
(ちなみに新宿ピカデリーはXパンD)

と3Dへの愚痴はこれぐらいにして、今回はスネイブ先生の過去が登場。
前に校長を殺してしまって悪の手先だと思われたスネイブ先生。でもやっぱりそれには事情があったんだ。
しかもハリーの母親との思い出が語られ、なんかスネイブ先生がいっぺんに好きになりました。
この結末を知って1作目から観直すとまた違った趣があると思う。
(もし今まででスネイブ先生の過去が語られていたとしたら私がアホなんだけど、でも忘れていたならそれはそれで今回楽しんだのだからいいのだけれど)

そして思わぬラストシーン。
そうかあ、最後のシーンはああなったんだ。
実は最終巻が発売される時に「ハリーは最後は死ぬのではないか?」と言われていた。
理由は「続編を書け」と言われるから。
もっともな話だと思ったけど、こういうラストにしておけばなかなかそれもやりづらかろう。

それにしても10年間、主要キャストが何のトラブルもなく、出演出来たのは良かった。
途中で麻薬パーティに出たとかスキャンダルがあったら大変じゃないですか。
もっともあったけどもみ消したのかも知れないが。

10年間、ありがとうございました。
シリーズも途中からはストーリーも忘れ、雰囲気だけを楽しんでいる映画でしたが、それでも楽しんだことには変わりません。
CGのすごさを感じたのも大きな思い出です。
壁の絵の中の人物が動くなんて驚いたもん。

スタッフ、キャストに心より「お疲れ様!」と言いたい気分です。



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men's egg Drummer メンズエッグ・ドラマーズ


日時 2011年7月17日20:40〜
場所 ヒューマントラストシネマ渋谷
監督 山口雄大

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啓太(古川雄輝)は東京のはずれにある神社の跡取り息子。母親を数年前に亡くし、今はしっかりものの妹が家事を仕切っていた。来月9月には恒例の祭りがある。しかし啓太の父親(板尾創路)が病気で倒れ、その祭りを仕切ることに。
しかし同じ町のお寺の住職(永島敏行)がこの祭りを乗っ取ろうとしていた。
祭りのクライマックスは和太鼓演奏。今年もいつもの叩き手に頼もうと思ったが、断われる。実は住職が裏から手を回していたのだ。
困り果てた啓太と妹は町に太鼓のメンバー募集をかけるがやってきたのは老人やら浮浪者やらでどれも使えない。
あきらめかけたときに一人のギャル男がルイがやってくる。
ルイは啓太と小学校の同級生。啓太はその頃にルイに「便所の神様」とからかわれた記憶があり、いやな思い出がよみがえる。とりあえず太鼓をたたかせてみたが悪くない。
ルイは今は雑誌men's eggのカリスマモデルで活躍中。彼にあこがれる渋谷のギャル男(田中大地、佐藤歩ら)が集まり、練習を開始したが、どうも息が合わない。

ファッション雑誌「men's egg」のメンバー出演の、ギャル男が和太鼓に挑戦する話。
異文化、というか見た目で誤解していてやがては打ち解けて協力して一つのこと成功させるというのはよくある話。
今の時代でもこんなベタな話が通用するのかなと思う。
その上、ラストはルイに自分のブランドを持たないかと誘いがかかる。
どうやらこの話も住職が裏で糸を引いていて、話を持ちかけるという住職はどこまでも悪い奴。
そして本番に間に合うかという展開は若大将の頃からある王道の展開。
そう話が王道すぎるのだな。

しかも和太鼓とギャル男というおよそ対極にあるような組み合わせ。
ギャル男が和太鼓を必死やり遂げるというのが、どうにも「おじさん」の発想でしかないような気がする。
はたしてギャル男(観客も含めて)和太鼓に興味を持ったでしょうか?
その辺がずっと引っかかった。いや実は私自身がギャル男に偏見を持っていて、彼らが根性を持って何かをやり遂げるなどあり得ないと思ってるだけかも知れませんから。
またさらに気になるのが啓太の父親が「俺もかつては竹の子族だった」という話。いまさら竹の子族でもないでしょう。
そのあたりの発想が完璧におじさんの発想に思えてならない。

しかし佐藤歩らの本物のメンズエッグのモデルメンバーは実によくやっていた。
顔見せ程度の出演かと思ったらそうじゃない。もちろんメインの芝居はルイ役の前田公輝がやってくれるが、他のメンバたちも「へたくそ」というレベルではない。
普通の新人俳優ぐらいのレベルではある。
しかも和太鼓のシーンは全員(メンエグのモデルたちも含めて)実に見事。
もちろん実際の演奏を聴いたわけじゃなく、当てた音楽を聴いているわけだが、それにしても手の動きは音とあっているし、「よく見ると手と音がバラバラ」ということもなく、素人の観客には違和感なく見えた。

ベタすぎる展開がはたして渋谷のギャル、ギャル男に受け入れられたかが気になる。
観に来た観客に聞けばよかったか。



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任侠外伝 玄界灘


日時 2011年7月16日19:40〜
場所 シネマヴェーラ渋谷
監督 唐十郎
製作 昭和51年(1976年)

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下関で一匹狼のヤクザ稼業している近藤(安藤昇)はある日、血液を売ってふらふらになっていた田口(根津甚八)を助ける。安藤は昔からのダチのヤクザの沢木(宍戸錠)から韓国人の女を密航させる仕事を手伝っていた。沖へ出て韓国からやってきた女たちを上陸させる役目だった。
近藤と沢木は学生時代、朝鮮戦争の死体処理のアルバイトをしていたが、それがきっかけでアメリカの軍属として韓国に渡り、死んだ韓国人兵士の認識票を遺族に届ける仕事をしていたが、渡すと同時にその家の娘を犯すのもよくやっていた。ある日、釜山で訪ねた家で、誤って女を殺してしまった沢木、そしてその女を犯した近藤だった。
ある日、沢木の指示で今夜も韓国人の密航者を受け取る近藤。しかし密航者は9人と聞いていたのに、金田(小松方正)という男と李孝順(李礼仙)という女が混ざっていた。
この孝順という女は自分がかつて釜山で犯した女に似ている。やがて何かと力になってくれる田口の好意を寄せる孝順。
また密航の手引きをする近藤だったが、韓国の沿岸警備隊に撃たれ失敗する近藤。撃たれた弾を体に残して帰ってきた近藤だったが、その弾を金田が取り出してやるという。
それをしながら話始める金田。実は孝順はかつて日本人に犯された女が生き返り生んだ娘。つまりは孝順は近藤の娘だというのだ。金田は孝順の父で、復讐のために日本にやってきたのだという。

ATG特集の1本。この映画もタイトルは聞いたことがあったが、興味はなかった。「祭りの準備」が目当てで行ったが、同時上映なのでついでに見ることに。
1976年製作だから、任侠映画、ヤクザ映画も廃れ始めたとは言え、まだあった時代。
そんな中、ATGで「任侠外伝」のタイトルの映画が作られたとは任侠映画の広がりぶりを感じさせる。

しかも主演は安藤昇と宍戸錠。東映の本場任侠映画で十分主演がはれる布陣だ。
唐十郎の芝居なんて見たこともないし、状況劇場もアングラ劇団の一つという認識しかない。でも寺山修司もATGで映画を撮ったし、その辺の影響もあったかも知れない。

正直、面白くない。
安藤昇、宍戸錠だが任侠、ヤクザ映画らしいアクションとか駆け引きもなく、むしろ朝鮮戦争を韓国と日本の関係を主題に起き、見ていて退屈。
小松方正とかが日本に来たにも関わらず、それを安藤はかつての記憶と全く結ばれずに話はもたつくばかり。
この辺は唐十郎と私の間で彼の作りたいもの、私の見たいもののずれがあるとしか言いようがない。

また最後で小松方正が安藤昇の体から弾を取り出そうとする。ここが痛々しくてねえ。画面が正視できなかった。
その中でまだ新人だった根津甚八が好演。記憶に残る。



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祭りの準備


日時 2011年7月16日17:30〜
場所 シネマヴァーラ渋谷
監督 黒木和雄
製作 昭和50年(1975年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


昭和33年頃、高知県の田舎町で楯男(江藤潤)は信用金庫の外回りをしながらシナリオライターになる夢を持っていた。
彼は母親と祖父(浜村純)との3人暮らし。父は他の女と暮らしていたが、その前の女と今の女が喧嘩していることが村のみんなに筒抜けの世界。楯男には涼子(竹下景子)という恋人がいたが、彼女は青年団でなにやら共産党的な活動をしており、今ひとつ馴染めないでいた。
前の家の貞一(石山雄大)と弟の利広(原田芳雄)は窃盗などを繰り返す警官(森本レオ)からも目を付けられている札付きだった。今夜も電器屋の商品窃盗で貞一は逮捕される。
ある日、利広の妹タマミが痴呆のようになって帰ってくる。連れてきた男の話では大阪でキャバレーに勤めていたが、ヤクザと関係を持ちシャブ中にされて客を取らされていてついに頭がおかしくなったそうだ。持て余したので故郷に連れて帰ったというわけ。
夜、浜に行くとタマミがどんな男でもやらせてくれるという噂になり、楯男も出かけるが途中で邪魔される。
邪魔したのは祖父だった。

この映画もタイトルだけはよく聞いたことがあって未見だった映画。黒木和雄の代表作というとよくこの映画が持ち出される。今回のヴェーラでのATG特集では「タイトルはよく聞いたことがあったけど未見の映画」が多く、3週連続で通っている。
当然初見な訳だが、この映画、てっきり村の青年団が村祭りをする映画だと思っていた。
村の伝統的な祭りがあって、青年団が仕切ることになって村のじいさんたちとの対立とか、青年団の中での恋とか、お金がだまされたりとかいろいろあって祭りが行われる話かと。
全然ちがった。

舞台が昭和30年代前半だが、裕次郎の「錆びたナイフ」を見てるからそれとわかる。でも建物とか周りの風景は映画が作られた頃の現代にしか見えない。
まあ今と違ってCGもないし、その辺のことに金をかけられる予算もまた意識もなかったんでしょうね。

でもはっきり言って人間関係が無茶苦茶だ。
隣の家は泥棒兄弟で、しかも妹は大阪でシャブ中になって帰ってくる。そして誰にでもややらせる。自分の父親は別の女と暮らしてそれも女はしょっちゅう変えているらしい。人間の多い都会ならともかく、田舎で村の噂になる。
祖父はいい歳をして(いや人間いくつになってもやりたいとは思うけど)、そのシャブ中の女を囲いだし、子供まで作ってしまう。子供が産まれたと思ったら女は正気に返ってしまい、祖父は捨てられる。このあたり浜村純が惨めさを誘う。
あこがれの涼子は社会運動に目覚め、都会からやってきたらしいインテリに惚れてしまい、結局は体の関係を持つという狭い世界で男女関係が入り乱れる。

これじゃ楯男くんが東京にいきたくなるのももっともだ。
俺も離れたくなるよ、こんな土地。
その辺りの青年の苦悩を江藤潤が好演。代表作と言われるのも納得だ。

母親に反対され、内緒で東京に出る楯男。駅で強盗殺人で逃亡中の利広と出会う。
楯男に金をせがむ利広。金を渡した後、楯男が東京に行くと知るとその金を返す利広。「お前が東京に出るために貯めた金だ。貰う訳にはいかん」と返す。
利広もこの狭い村がいやなんだなあと納得させる原田芳雄が秀逸。
ラスト、バンザイを叫びながらホームで列車を見送る原田芳雄が印象的だった。



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淫虐令嬢 吸いつく舌


日時 2011年7月16日13:43〜
場所 上野オークラ劇場
監督 池島ゆたか
製作 平成23年(2011年)

(詳しくはPGデータベースで)

大学病院の内科医・裕子(冨田じゅん)は大学生の息子・省吾がいる。そして同じ病院の外科医・今井とやがては結婚するつもりでつき合っていた。
ある日、離ればなれに暮らしていた裕子の妹の娘・美巳子(夏海碧)がやってくることになった。裕子の妹は昔駆け落ちして沖縄に行き、向こうの海で自給自足のような生活をしていたらしい。しかし両親も死に、沖縄の民生委員に叔母である裕子に面倒をみてもらうよう言われてきたのだ。
美巳子を見ていてなんだか妙に興奮してしまう省吾。昼寝をしていてどっぷりと夢精してしまう。
裕子は今井も誘惑し、二人は関係を結ぶ。しかし今井は精気を吸い取られたようにやつれていく。生卵しか食べない美巳子に不信をいだく裕子。
実は美巳子は沖縄の蛇の神様と人間の間に生まれた子供で、蛇女なのだった。

池島ゆたか監督の新作。
絡みのシーンは裕子と今井、省吾と恋人、今井と美巳子、省吾と美巳子との4回ぐらいか。
美巳子が男性のモノをしゃぶる姿の唇や目つきが卑猥でいい。今日見た3本の中では一番いい女優だったと思う。
今井はいいとしても省吾役どうにもしょぼい奴で映画のテンションを下げる。もうちょっと増しなイケメン風(イケメンに越したことはないけど、ここは「風」でも許す)はいなかったのか。

蛇の娘らしいというのは大体わかるのだが、夏海碧の魅力も相まって映画自体は面白く見れた。
「絡みがなくても面白いか」がピンク映画の評価の境目だと思うが、その点では絡みがなくても彼女の妖艶な目つき、唇だけでも十分楽しめたと思う。

トークイベントの時、主演の夏海碧、冨田じゅん、池島ゆたか監督、出てないけど日高ゆりあが登場。
この映画の撮影2日目に3月11日の地震を迎えたそうだ。そして初日は台本にして4行の美巳子が「蛇口って何で蛇口っていうか知ってる?昔蛇は水の神様って言われたからその名残なんだよ」みたいなことを言うのだが、せりふを覚えてきたにも関わらず、言えずに4時間もかかった話しを披露。普通なら考えられないレベルだが、そういうのが笑い話として通用してしまうのが、ピンク映画らしさというものか。

たしかに池島作品はプログラムピクチャアとしても十分通用する面白さがある。ファンがついているのもわかるような気がした。



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ハイミスOL 艶やかな媚態


日時 2011年7月16日12:50〜
場所 上野オークラ劇場
監督 深町章
製作 平成3年(1991年)

(詳しくは日本映画データベースで)


倫子(橋本杏子)は入社8年目で28歳のOL。上司の野沢(池島ゆたか)と不倫関係にあるが、特に結婚は望んでいない。したいときにセックスする関係に満足していた。
今夜も二人でセックス後、今度の日曜日が自分の誕生日なので、会って欲しいと頼む倫子。しかし野沢は「ゴルフに行くかも知れないし、妻との家庭サービスもしなくちゃいけないし」と歯切れが悪い。
倫子には電話をかければすぐに車で迎えに来てくれる後輩がいる。今夜も携帯電話で電話をし送ってもらう倫子だった。
倫子には大学生の妹がいて、今日もデート代を借りに来た。相手の彼も紹介してもらい、後日、街で再会したときに早速ホテルへ。
誕生日は野沢は妻と過ごすという。だが当日、「1時間だけでも会って欲しい」とねだってしまう倫子。
そんな自分がいやになり、今日も送ってくれた後輩に「あたしが欲しいなら力ずくでやって来なさい」としかりつける。「愛されるのも悪くない」と後輩とのセックスを楽しむのだった。

チラシには公開年が書いてなかったが(公開年を書いちゃうといかにも古い映画ってのがばればれなので、その辺はぼかすのがこの世界の習慣なのだろう)、ファッションとかから推察すると1990年頃だろうと思ってネットで調べてみたらやっぱり1991年だった。
ファッションはまずメガネ。大きめのセルフレームのメガネ、そして若者の髪型はフロントにボリュームを持たせてサイドを刈り上げにするやり方(ちょうど光GENJIの諸星くんがこんな感じだった)ですね。
極めつけは携帯電話。厚さ5cmぐらいでそれはそれはでかい。でも当時としてはそれまでショルダーバック式のバッテリー部分がなくなった分、小さくなったと思っていた。それに池島ゆたかも若いしね。

そういう時代風俗を見る分には楽しかったが、映画の方は正直、いわゆるピンク映画らしいピンク映画。
ピンク映画が、映画としておもしろいかどうかの境目は、仮にこの映画から絡みのシーンを削除しても映画として楽しめるかにあると改めて思った。
絡みのシーンをなくしてしまえばOLが出会った人すべてと絡んでいくだけの話しなので、脚本の面白さもへったくれもなく、ストーリーは絡みのシーンをつなぐだけのものでしかない。
これで金がもらえるのかと思う。こういう言い方は基本的にしないのだが、俺でも書けるシナリオのような気がした。

むしろ「アッシー君」(この言葉も最早懐かしい)に撤している青年がストーカー的に先輩に絡みついたり、風俗に行って先輩の名前を呼んでしまうとか、彼も主要人物で話が進んで行けば(僕にとっては)もっと面白かった気がする。



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特命シスター ねっとりエロ仕置き


日時 2011年7月16日11:50〜
場所 上野オークラ劇場
監督 渡邊元嗣
製作 平成19年(2007年)

(詳しくはPGデータベースで)


SMクラブで女王様として働くアリサ(らいむ)。女王様にも関わらず男に貢いで今や借金まみれ。今日も取り立て屋がやってきて「金がないなら体で払え!」と言われ、とりあえず取立屋とSMプレイ。
結局聖オーピー教会に逃げ込むアリサ。そこの神父ドク・ダミアン田中(吉岡睦雄)にその才能を見抜かれ、懺悔に来た迷える子羊を救うことに。
まずはじめにやってきたのは主婦。夫はエリートサラリーマンだが、今やセックスレス。その欲求不満を改装するために行ったホストクラブのホストに犯され、しかも写真を撮られてしまい、脅迫されているという。
そのホストに近づくアリサだったが、その主婦の夫というのは例の取立屋だった。

ピンク映画の聖地、上野オークラで鑑賞。
いまおか監督の影響で最近はピンク映画も見るのだが、一度行ってみたいと思っていた上野オークラ。シネマヴェーラで上野オークラのチラシを見かけ(知らなかったがB5二つ折りの月間の番組表を作っていたのだ)それに16日3時から池島監督のトークイベントがあると書いてあったので、いい機会なので行ってみることに。
舞台挨拶前に3本見ておこうと思い、早くから見る。

チラシとかに名前が出てなかったので知らなかったが、吉岡睦雄さん登場。
私は吉岡さんファンなので、彼が出てくるだけでも楽しくなる。設定ではローマ法王から特命を受けて日本にやってきているのでドグダミアンなる怪しげな名前。
金髪のかつらをかぶってサングラスをかけ、「アナタハ、トクメイシスターニ、ナルノデス!」という怪しい日本語を操る姿はまさに怪演、珍演。

話はホストに近づき主婦の写真を消去させ、ホストにそれを依頼したのは誰かを探り出す。夫の取立屋は若い女と浮気をしていて、妻と離婚を望んでいる。慰謝料なしで離婚できるのでアリサは夫が仕組んだのではないかと思い、夫に近づくが夫ではないらしい。結局は妻が夫を振り向かせるために自作自演していたというオチ。

吉岡さんの怪演のみが記憶に残る映画。



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書を捨てよ町へ出よう


日時 2011年7月9日19:20〜
場所 シネマヴェーラ渋谷
監督 寺山修司
製作 昭和46年(1971年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


寺山修司の商業用劇場公開作の第1作。
明解なストーリーはなく、寺山修司のイメージで構成される。
この映画は学生時代に一度見ている。
「訳わからん映画だなあ」と思った。冒頭、主役の佐々木英明が何やら「映画は暗闇の中で繰り広げられるだけでスクリーンには何もない」とかのたまう。
続いてたばこをくわえて「そっちは禁煙だけどこっちは何やってもいいんだよ」と言う。
この台詞はよく覚えていて、今回見に行ったのもこのセリフを確認するためのようなもの。
映画の自由さを感じて面白いことをいうなあと学生時代に思ったものだ。

でも今回見直したが、やっぱりこの映画は面白くない。
たぶん基本的に寺山修司の世界観が好きか嫌いかで分かれるのではないか?
私は好きになれないので面白く感じない。

まず青森県出身下北半島の暗いイメージがつきまとう。
下北半島のイメージまで悪くなるよ。
そして親からの自立である。
本作では自分が自立するための父親に自立してもらおうとラーメン屋台を買ってくる。
で、初体験。
この女性との性の問題だが、いわゆる「いい女」は登場しない。
寺山の映画に登場する女性は生活感にあふれた、というかおよそ裸にしても映画として売り物にならないような女性ばかりが裸になる。
中年女の垂れたおっぱいとか、でかい尻に貧弱なおっぱいとか、終いにはばあさんも登場しておよそ「女性の美」とはかけ離れている。
そしてやたら同性愛的なネタが多い。
主人公の佐々木英明の「私」が先輩につれて行かれて遊郭の名残のようなところで初体験をするのだが、ここが新宿二丁目で撮影されている。
そして先輩がサッカー部にいて「私」はその部に出入りしているのだが、サッカー部員たちのシャワーシーンが結構長くあって、「男の尻」が登場する。
寺山修司の美的感覚、というかセックスに関しての感覚は(いけないとは言わないが)かなり倒錯している感じがする。なんか「薔薇族」とか「風俗奇譚」とか好きそうな気がする。

で親からの自立の問題。
これも後の「田園に死す」でも出てきたけど、それは寺山修司個人の問題でみている私には何の共感もない。
たぶんに寺山個人が親との関わりが断ち切れなくて自問自答しているだろうけど、そういうのは自分の中でやってほしい。金取って人に見せるものじゃない。

それから根本的に寺山修司って作品が暗くて陰湿なんだ。
だいヒットした歌「時には母のない子のように」なんて暗い歌詞だし、歌も暗い。
曲ならほんの数分だから多少の暗さはまあ楽しめるけどこの映画は2時間18分もある。
見ていてつらい。
最後にはこの映画のスタッフかキャストが並んでその顔のアップをパンしていくというのが2、3分繰り返される。
ほとんど(というか全く)知らない顔ばかりで不景気そうな貧乏そうな顔を延々見せられてもこっちは迷惑するばかりだ。

「田園に死す」は高野浩幸とか八千草薫とか原田芳雄とかのスターが時々顔を見せていたのでまだ鑑賞出来る部分もあったが、この映画は(私には)だめ。
まったく性に合わなかった。


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聖母観音大菩薩


日時 2011年7月9日17:40〜
場所 シネマヴェーラ渋谷
監督 若松孝二
製作 昭和52年(1977年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


不老不死の体となった八百比丘尼(松田英子)は若狭彦神社で掃除などの奉仕の仕事を送る日々だった。
彼女は今、体に大きなかさぶたを背負った乞食同様の老人(殿山泰司)と暮らしていた。
やがてその老人も死に今度は民族迫害を受けた青年(蟹江敬三)がやってくる。
今度は過激派となって今は町を追われる若者(石橋蓮司)が村の人々に追われて死ぬ。
異常性欲の町の有力者の中年男(北上弥太郎)に責められる狐付きの女(鹿沼えり)を助ける比丘尼。
比丘尼によって強姦する快感を覚えた中年男は神社で巫女のアルバイト(浅野温子)をする中学生の少女を犯したらしい。そのことを「忘れさせて」彼女をせがむ彼女を抱く少年(佐久田修)。
自分の秘密を知っている比丘尼を中年男は海で殺そうとする。

若松孝二作品だけど、その前に製作された「愛のコリーダ」のおまけというか、その余力で作られた感じのする映画。
主演が松田英子で殿山泰司も出ているというだけなのだけど、松田英子というとどうしても「愛のコリーダ」を思い出してしまう。

若松孝二は好きな監督だけど、時々抽象的な映画で見てるこっちを惑わせる。この映画は僕には抽象的な方。
殿山泰司とかいろんな男や女たちが永遠の生命を持つ彼女の上を通り過ぎていく。

若狭ロケなので原発が向こうに見える。2011年の今見るとその異様さが一段と目立つ。
中でも過激派となった石橋蓮司が村人に追われ、親からも「もう死んでくれ」とせがまれる。ダイナマイトを持っているこの革命運動の過激派は最後に自らダイナマイトで自爆する。
連合赤軍事件から数年後の左翼の敗退の時代を感じさせ、このパートが一番印象に残った。

あとチラシに書いてあったから下世話な興味だけど当時15歳の浅野温子がヌードになるというのでちょっとそこも期待してみた。
変態男に強姦された浅野温子が(その襲われるシーンはない)それを忘れるために友人の少年に抱かれるシーンだけど、そんなに激しくなく、ソフトな感じ。
でも15歳のヌードなんて今じゃ「なんとかんとか条例」で児童ポルノ扱いされるだろうな。
今公開すること自体は問題ないんだろうか?
実際上映しているので、たぶん問題はないんだろうけど。

映画自体が若松孝二の抽象的映画路線で好きになれないけど、浅野温子のヌードに関しては話のネタにはなりました。



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嵐を呼ぶ楽団


日時 2011年7月9日13:00〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 井上梅次
製作 昭和35年(1960年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


宝田明の父はかつて日本ジャズ界で名を馳せたバンド、ブルースターのバンドマスターだった。
父のようなバンドを作りたいと願っていたが、今は小さなバンドでピアノを演奏している。今日も人気女性歌手(雪村いづみ)の演奏をアルバイトでやったが、彼の才能が即興で演奏させてしまい、雪村いづみから「そういうことはバンマスになって偉くなってからにしてちょうだい」と怒られる。この言葉に奮起する宝田明。
仲間のトランペットの高島忠夫と地方巡業に行ったとき、あまりの不入りにギャラが払えなくなったマネージャーはとんずらしてしまう。
しかしその土地で流しのギター(水原弘)、ジャズ狂いでベースの旅館の若旦那(神戸一郎)、その旅館の番頭でドラム(柳沢真一)と知り合い、そこへサックスの汽車の車掌(江原達怡)も加わりバンドは結成された。あるキャバレーのオーディションに行った先で知り合った歌手、浅丘雪路も加わって大成功となるのだが・・・・

井上梅次監督が東宝の宝塚映画で撮ったミュージカル映画。日本ミュージカル映画の代表的な立派な映画だと思うが、「君も出世ができる」のようにソフト化されないのはなぜだろう?

神戸一郎、柳沢真一は全く知らなくて「だれこの人?」状態だったが、今ネットで検索してみると神戸一郎は昭和32年にデビュー、紅白歌合戦4回出場、東映、大映、東宝、松竹で映画出演もしている。柳沢真一はジャズ歌手であり、俳優として映画150本以上出演しているという。
どうりで柳沢真一の方は見たことがある顔だと思った。
バンドメンバーの中で音楽経験がないのは江原達怡。
この日のラピュタでの上映後に江原氏のトークイベントがあったが、音楽経験のないことを理由に出演を渋った江原氏にプロデューサーが「水原弘とか歌手では人気急上昇中だけど演技は素人だからベテランの達ちゃんが締めてよ」とか言われたそうで。

バックステージものだけど、ジャズの演奏あり、雪村いづみ、朝丘雪路の歌ありの豪華な映画。
映画は後半、大成功するブルースターだが、フルバンドにしたりやたらと大きくしたがり、雪村いづみに対抗することばかり考える宝田との間にメンバー間の亀裂が生じ始める。雪村いづみを自分のバンドで歌わせて「勝った」と思う宝田だけど、宝田に恋する朝丘、その朝丘を好きな高島と恋も絡んでバンドは分裂。
分裂して急ごしらえのメンバーで東京進出をはかるが見事に失敗。
この時東京に向かう列車のカットが入るのだが、その夜空に雷が起こるカットを入れるのが井上流ケレン味だ。
続く東京での失敗が報じられる新聞記事のあと、彼らの公演の大看板がいかにも寒そうな風にあおられているカットなど、たったワンカットのためにセットを作ったのだから豪華だなあと思う。

分裂したメンバーはそれぞれジャズ歌手や流行歌で成功。でももう一度やろうという。但しプライドの高い宝田が頭を下げて「やろう」という訳がない。周りが説得に走って、今夜宝田の家に高島がやってくるはず。
でもやってこない。
12時をすぎたときにペットの音が!
それは売れない時代に作った「午前0時のジャズマン」という曲だった。
バンドメンバーが勢ぞろいで歌って演奏してのエンディング。
豪華なミュージカル映画だった。



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怪盗X 首のない男


日時 2011年7月9日10:30〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 小杉勇
製作 昭和40年(1965年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


ネパール美術展でブラックジョウ(宍戸錠)と名乗る怪盗に仏像が盗まれた!犯人はインド人に化けていて会場内に煙幕を出す装置を仕掛け、騒ぎに乗って盗み出したのだ。
その装置を仕掛けるのを目撃した青年(川地民夫)と女性カメラマン(山本陽子)。
スクープほしさに女性カメラマンは自分の家にあるガラクタの仏像を価値ある品と週刊誌で宣伝し、ブラックジョウをおびき出そうとする。
ブラックジョウは父親が資産家で戦争中に国家に奪われた宝を取り戻そうとしているのだ。
そして日本でアラブの宝物展が開催される。その中の一つを奪おうとする。
警視庁の刑事(宍戸錠)たちがこれを対抗する。
ブラックジョウはまずは山本陽子を誘拐し、山本陽子の家にある仏像と引き替えようとするのだが。

松原千恵子特集の一本で上映。
この映画を松原千恵子特集にいれるのもどうかと思うが、いかがわしさプンプンの映画なので見てみることに。
松本千恵子はブラックジョウの妹で仲間の一人を演じる。

要は宍戸錠のルパン三世で、ついでに銭形警部まで演じるというお遊びの多い企画。
但しねえ、監督の気質なのかはじけ方が足らなかったり、テンポがとろかったりして全体として今一つ盛り上がりにかけるのだよ。
いろいろあって松原千恵子を捕まえた川地民夫が彼女と宝物を横浜ドリームランドの観覧車のゴンドラの中で交換しようとするが、ブラックジョウはヘリコプターで逃げるという(お決まりの)展開が途中ある。ここがテンポがいまいちとろくて盛り上がりにかける。

話は元に戻るけど映画ではますは山本陽子が誘拐され、仏像と引き替えに返してやると言われ、川地民夫が新横浜駅に取引に向かう。
これが開業したての新幹線の新横浜駅付近。
今と違ってなにもない。
刑事たちは松原千恵子に振り回されて熱海へ。
そうやってるうちに東京のアラブ連合展で肝心のお宝が盗まれる。
で、いろいろあって(もう忘れた)今度は川地民夫がジョウの妹を誘拐し、それと引き替えに横浜ドリームランドで取引を使用というわけ。

面白いと思ったアイデアは山本陽子は自分ちにあったガラクタの仏像を「お宝」という件で、実はその仏像の中に高価な切手が入っているという展開。何か秘密があると思ったジョウがあけてみたらすでにアルセーヌ・ルパンが盗んでいたというオチ。

錠さんが変装をするんだけど、ブラックジョウ自身で3回ぐらい顔が変わる。ツメの甘い、はじけ方も足らない中途半端な映画という印象。
うまくやればカルト映画になったかも知れないが。



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SUPER 8 スーパーエイト


日時 2011年7月3日13:55〜
場所 新宿ミラノ1
監督 JJ・エイブラムス

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)
(公式HPへ)

アメリカの田舎町。子供たちは今日から夏休みに入った。
ジョー(ジョエル・コートニー)は親友のチャールズ(ライリー・グリフィス)たちと8mm映画作りに夢中だった。今もゾンビ映画を仲間と製作中。監督のチャールズは主人公の妻役でクラスメイトの美少女アリス(エル・ファニング)に出演を依頼、なんとかこぎ着ける。
今夜も仲間を集めて深夜で無人となっった駅で撮影をしていた。貨物列車が通過する。その時、ジョーは1台の車が列車に突っ込んで行くのを目撃。列車は転覆、大事故となった。なんとか事故に巻き込まれずに助かったジョーたちだが、突っ込んだ車を運転していたのが学校の理科の先生だったのだ。先生はジョーたちに「今夜の事は誰にも話してはいけない。殺されるぞ」と言った。
急いでその場から逃れるジョーたち。
翌日から町に異変が起こった。電気は不安定になり、あちこちで車のエンジンだけとか電子レンジだけとか奇妙な盗難事件が起こり出す。
空軍も何か隠しているようだ。事件の真相は?

「スタートレック」の始まりを描いた映画が好評だったJJ・エイブラムス。彼がスピルバーグの製作のもとで作ったのがこの映画。
基本、エイブラムスは映画ファン、特撮オタクなのだろう。つまり僕の中ではアメリカの樋口真嗣である。
本作も8mm映画を作っていた自分の子供の頃と「ET」を組み合わせたような話。あと「未知との遭遇」とか「インデペンデス・デイ」も入ってるか。

ネットでは非常に評判がよかったが、私はそれほどではなかった。もちろんつまらん映画だとは思わないが、そんなにいいかあ?
基本、「ET」が好きじゃないせいかも知れない。
あと毎度思うのだが、子供たちが大活躍する話、そういうの見ると「あんな子供はおらん。所詮は大人が頭の中でつくったキャラクター」とマイナスの気分で見てしまのだ。

町で数々の不思議な事件が起こり、空軍がかつて宇宙人を捕獲していた、的なストーリーは決して嫌いではないのだが、先が見える展開で「子供が宇宙人を助けてやって宇宙人は故郷に帰るのだろうな」と思ったら大体そんな感じだった。
あと主人公たちが惚れるアリスという女の子がそれほど可愛くない。その辺もマイナスポイント。(ジョー役のジョエル・コートニーが可愛かったけど)

あと無駄に派手な爆発シーンとか、宇宙人が私の好きでない「エイリアン」タイプとか。
決して悪い映画だとは言わないけど、昔の映画へのオマージュとかそういうのが多すぎて、ちょっと乗り切れなかったというのが本音です、ハイ。



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スカイライン 征服


日時 2011年7月2日22:20〜
場所 新宿バルト9・シアター4
監督 グレッグ・ストラウス、コリン・ストラウス兄弟

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)
(公式HPへ)


今や映画スターとなったかつての親友テリー(ドナルド・フェイソン)を訪ねてきたジャロッド(エリック・バルフォー)とその恋人ほエレイン(スコッティ・トンプソン)。
テリーの高級マンションでの彼の誕生日パーティに参加したジャロッドたちはそのまま彼のマンションに泊まる。
翌朝、窓の外からの強い光で目が覚める彼ら。
そこには空を覆い尽くす宇宙船があり、人々を攻撃していた!

ありがちな侵略SFでもっと宣伝しても良さそうなのに、なんだか宣伝も少なく、松竹配給にも関わらず、新宿ピカデリーでは上映されず新宿ではバルト9でしか上映されていない不思議な映画。
要はあんまり面白くないのだが、パンフレットを読んで驚いた。製作費が100万ドル程度だと書かれている。
(朝日新聞の6月17日の夕刊にグレッグ監督のインタビューが掲載されているがそこには製作費1000万ドルと書いてある。多分朝日の誤り)
それを聞いて脚本の問題も納得した。

この映画、VFX(特撮という方がしっくりくるが)のすばらしさに比べ、どうにもドラマがしょぼいのだ。
(驚いたことにパンフレットにも「VFXのすばらしさに比べ脚本が面白くないのがこの映画の致命的な欠点」とある。いいのか?パンフレットにそんな事書いて)
でもVFXの方もエイリアンが明らかに今はやりの「エイリアン」タイプで私はあまり好きなデザインではないのだが。

どう面白くないかを書いてみると、まず話が高級マンションから出ないのだよ。
大統領も軍の首脳も出ない侵略SFというとスピルバーグの「宇宙戦争」を思い出すけど、あれは家族が車で避難していくうちに色んな人々や事件に遭遇するまだロードムービー的なおもしろさがあった。
ところがこの映画では「近くにテリーのクルーザーがあるからそれで逃げよう」となって車で移動しようと駐車場を出たとたんにテリーは襲撃されて死ぬ。
思わず「えっ」ってなったよ。ちょっとヘタレなジャロッドじゃなくてテリーの方がアメリカンヒーロー的だと思っていたので。

そして今度はマンションの管理人のオリバー(デヴィッド・ザヤス)が物語を引っ張っていく(でもリーダーが交代するのは脚本的にまずいやな)。
逃げ出せないなら今度は屋上に行って助けを呼ぼうとするという流れだけど、さっき屋上には行ったろう?
つまりマンションの部屋、屋上、駐車場、マンションの部屋、屋上と同じ所を行ったりきたりしているのだな。
同じ所で話が進むという点では「ミスト」と同じだが、向こうはまだ人数がいたから色んな人を登場させることでドラマを作ることが出来た。そういえばこの手のアメリカ映画では子供がよく登場するが、この映画では子供が出てこない。
場所が一カ所、人数が少ない、ということで思い出されるのは「マタンゴ」。だから「マタンゴ」を参考にすればよかったんだよ。映画スターのテリーとジャロッドが実は親友に見えて本音が出てしまうとか、テリーがエレインを好きで口説くとか、マンションの管理人が実はわがままなセレブを憎んでいたとかいろいろ話は展開出来そうなのに。

マンションの一室で話が展開するというのは「ロケする場所を監督の家にしたから」だそうだ。
こんな高級マンションに住んでるんだ。すげーなあ。
この映画のVFXをしたのは「ハイドラックス」というVFX専門の会社。
監督はその会社の社長らしい。つまりは特撮専門会社が下請けではなく、自主制作した映画。
だから特撮はすばらしいのだ。
いい脚本を得て次回はいいドラマのSF映画を作ってもらいたい、是非。



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田園に死す


日時 2011年7月2日16:40〜
場所 シネマヴェーラ渋谷
監督 寺山修司
製作 昭和49年(1974年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


このHPに載せる映画の感想は自分の備忘録としての意味合いが強いから最近は映画の内容も書くようにしている。
でもねえ、この映画の場合、書きにくいのだよ。

まずはストーリーらしいストーリーがない。
舞台は青森県下北半島の恐山。
少年(高野浩幸)は母の干渉をいやがり、家出を考えていた。そこへ隣の家に美しい嫁(八千草薫)が嫁いできた。姑はその嫁を嫌って折り合いが悪い。嫁は少年を誘って駆け落ちしようと誘う。
しかし嫁は男(原田芳雄)と共に旅にでると言い出す。
少年は一人で旅に出るのか迷う。
というあたりでカラー画面からセピア色のモノクロ画面へ。
少年は映画監督になっており、今この映画を製作中だった。「タイムマシンに乗って百年前に行き、自分の祖母を殺したら今の自分はどうなるだろうか」と自問自答を始める。
そして恐山で自ら過去の自分と会うのだが。

この映画は初めてではなく、学生時代に一度見ている。文芸地下だったかな?あるいは東映パレス2(勾配がむちゃくちゃ急だったところ。どうやらかつては新宿東映の2階席だったところを映画館にしたらしかった)で寺山修司特集をみた覚えがあるからその時だったかも知れない。
その時も「わけわからん映画だなあ」と思った覚えがあるが、今回も同様の感想を持った。

まずね、高野浩幸をはじめ恐山の人々がほとんどみんな白塗りのメイクなのだよ。白塗りのメイクって顔の表情がなくなるから私は好きじゃないのだよ。ここでまずこの映画に対する拒否反応。
「時計をサーカスの全員がもってどの時計が正しいかで喧嘩にならないだろうか」とか母に自分も腕時計がほしいというと「家にたくさんの時間はいらない」とかで拒否される。この訳わからん会話も私はだめなのです。

そして犬神サーカスとか言うのがでてきて、春川ますみの「空気を入れてもらうと喜ぶ女」という「空気女」が登場する。これがなんか妙に陰美なのだな。
あとは父無し子を生んだ女が登場して村の人々に「痣がある」とか何とかいびられて、終いにはその赤ん坊を川に流して殺してしまうというエピソードもある。
まあ始めの方で高野浩幸が「俺、皮かむりの手術を受けようと思うんだけど」と言ったりする。

要するに母親からの自立と性への目覚めの寺山修司の思い出を自分なりにデフォルメして映像化するという基本寺山修司のファンでなければ面白くもない映画。
僕はもう寺山修司は好きではないので、この映画はだめでした。

最後、大人になった「私」は少年の「私」に母殺しを命じる。鎌を用意しに行く途中で、その子供を殺した女に再会する。そこで「私」は犯されてしまう。高野少年、全裸になっての熱演である。
そして驚異のラスト。これを初見の時はぶっ飛んだ。
母親を訪ねる大人になった私。
「結局私は母を殺せない」とか何とか言って、「生年月日何とかかんとか、本籍 東京都新宿区新宿恐山」と言って母親と食事をしている部屋の壁が向こう側に倒れ、新宿東口の風景が広がっている。
スタジオアルタができる前の新宿。
アルタ部分以外はみんな見たことのある、知っている新宿。このシーンを初めて見たときはそれまでうつらうつらしていたのがいっぺんに目が覚めた記憶がある。
それだけインパクトは強かった。
だから私がこの「田園に死す」というとこのラストシーンの新宿の風景なのです。

あとプリントの状態がよく、赤が映える美しい画が多かった。今から考えるとATGは「1千万円映画」といえどもそれなりに豪華だったりします。



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原子力戦争 Lost Love


日時 2011年7月2日14:45〜
場所 シネマヴェーラ渋谷
監督 黒木和雄
製作 昭和53年(1978年)

(詳しくはムービーウォーカー・データベースで)


海岸に打ち上げられる男女の心中死体。その海岸の先には原子力発電所が見える。
ヒモの坂田(原田芳雄)は自分の女が東京からの東北の故郷に帰って2週間、3日で帰ると言ったのに帰ってこないので心配になって会いに来たのだ。
実家は突き止めたが女は「東京に帰った」と父親も兄もつれない。しかし妹のつばさ(風吹ジュン)は好意的だった。そんなとき新聞記者の野上(佐藤慶)は田舎の通信所から東京の本社への逆転の機会を狙っていた。
実は心中死体の女が坂田の女、男は原発技師の山崎だった。それを坂田に告げる野上。
腑に落ちないものを感じていた野上は坂田に「山崎の奥さんにあって見ろ。何かわかるかも知れん」と焚きつける。
彼自身も「原発に事故があってその隠蔽で山崎は殺されたのでは?」と疑っているのだ。

原子力発電所の事故隠しをテーマにした社会派ミステリー。
普通なら心中に疑問を持った刑事とかが心中事件を追いかけ始める展開だと思うが、この映画の面白い所は探偵役をヒモというおよそ社会問題とは無縁の立場にある男を持ってきたところ。そして原田芳雄が好演する。女の実家にあった彼女の日傘をもって歩く姿のミスマッチがたまらない。

正直、ミステリーとしてはそれほどの逆転があるわけではなく、面白味は少ない。
原田芳雄、佐藤慶の「反原発」という単純なイデオロギーだけではない、もっと人間くさい(原田は「俺の女を殺した奴を許せない」、佐藤慶は「本社に帰るスクープが欲しい」)動機が始まり。
その辺が帰って親近感がわく。「反原発」というだけのキャラクターはどうも人間味がない。

坂田は山崎の妻を訪ねて見ればいい女でついベッドを共にしてしまう。そこで警察に強姦罪で拘留。釈放されてものの、その後も山崎に最後に会ったらしい男を訪ねてみると袋叩き。やくざがやってきて金を持たせて東京に帰そうとする。
山崎に最後に会った男も首吊り死体で発見。
再び会った山崎の妻から原発事故の証拠を受け取り、坂田は野上に渡す。
野上はそれを証拠に動こうとするが、上司の支局長(戸浦六宏)に取材中止を言われる。

このシーンで「安保闘争のさなかに新聞社に入った俺たちがこんなことになるとは思わなかった」というあたり、佐藤慶と戸浦六宏が並んでいると「日本の夜と霧」を思い出してしまった。
また途中、ゲリラ撮影で、坂田というか原田芳雄が原発を訪ねるシーンがある。入り口で守衛に「撮影は中止してください」「ここに入ると不法侵入ですよ」と言われる。
このシーンのみドキュメンタリー的だが、映画のテーマとしてはぴったりだ。

ラスト、野上は原子力の専門家の教授(岡田英次)に「事故はあったのか?これが証拠ではないのか」と詰め寄る。
「チャイナトラブルなど起きない。たとえ炉心に問題が起こっても溶融しないように何重もの安全装置がある。たとえば家が一軒火事になっても東京中が燃えますか?そうならないのと同じことです」
でも2011年7月の今見ると「炉心溶融」は起きている。
「でもその可能性はあったのでしょう?」
「その可能性があると言うならば、今あなたの頭の上に隕石が落ちてくる可能性があると言わねばなりません」
このせりふは好きで(この映画はすでに2回は見ているんで)普段でもよく使わせてもらった。
仕事などで「その可能性はあるでしょう?」と詰め寄られたとき「その可能性があるというなら5分後に関東大震災が起きる可能性もあるよ」と言い返した。

また「原子力発電所はたしかにまだ問題も多い。しかし日本のエネルギーを石油にばかり頼っているわけにはいかない。アラビア湾が封鎖されたら数ヶ月で日本のエネルギーはなくなる。そしてその可能性は高い」
そうだった、そうだった。
日本が原発を推進した背景にはこの数年前に起こった「石油ショック」がバックにあったのだ。
「今こそ脱石油を計らねばならない」というそれなりに純粋な動機もあったのだ。
そして「今は使用済み核燃料の処理方法は決まってないけど、30年たったらなんか方法が出来てるだろう」と思ったのだ。ちょうどそれは70年代のコンピュータを西暦下二桁で日付を処理してしまって、2000年問題が起こったように。
人間2、3年後のことは想定して物事は進めるけど、30年先のことは考えない(考えられない)ものだ。
岡田英次がせりふがあるのはこのワンシーン。でも強烈な印象を残す。

そして野上が死んだ女の兄(石山雄大)〜いずれは市会議員に立候補しようとしている〜を訪ねたとき、「あなたはこの町にきて日が浅いからわからないでしょうが、この町はこの10年で変わってしまった。かつては税収2億円程度だった、それが今や12億円、その9割が原発の交付金なんです。漁師をやめて原発で働く者も多い。今やこの町は原発なしには考えられないんです」と論破される。
また父親(浜村純)とは「親父が土地の値段をつり上げようと原発反対運動なんかするからだ」と原発のおかげですべてが変わってしまった人々が描かれる。

ラストシーン、予想通り坂田の死体が海岸にあがる。
そのショットと原発のショットがカットバックされる。
テレビの報道番組で見るイメージより原発はずっと大きい。
その巨大さが原発という怪物を象徴しているかのようである。



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