2012年12月

テルマエ・ロマエ ヒルコ 妖怪ハンター 今日、恋をはじめます
カルロス 第3部 カルロス 第2部 カルロス 第1部 ヘルタースケルター
ウーマン・イン・ブラック
亡霊の館
愛のゆくえ(仮 死んでもいいの
百年恋して
マシンガン・プリーチャー

テルマエ・ロマエ


日時 2012年12月31日18:00〜
場所 飯田橋ギンレイホール
監督 武内英樹

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古代ローマ帝国では公衆浴場が盛んでテルマエと呼ばれた。ルシウス(阿部寛)はそんな浴場を作る技師の一人だったが、最近は彼の作る風呂は不評だった。
新しい浴場の設計に行き詰まった時、彼は浴槽の中の流れに飲み込まれてしまう。
出てきた先はなんと2012年の日本!
ルシウスは日本の進んだ風呂文化に感激。なぜかローマに帰ったルシウスは、浴場の富士山の絵やフルーツ牛乳のアイデアを使って風呂を建設。
これが大好評。続いて作ったやはり日本の風呂を参考にした自宅用の風呂も好評。
やがてルシウスはハドリアヌス皇帝(市川正親)に風呂の設計を依頼されるようになる。

公開当時、なんだかバカバカしくて観る気にもなれなかった「テルマエ・ロマエ」。で何で観たかというと年末に再度「桐島、部活やめるっってよ」が観たかったのだが、飯田橋ギンレイホールではこの2本立てだったから。
「桐島」だけ観る選択肢もあったが、根がケチなのでもったいないから観てしまった。

何で観たくなかったかというとテレビの映画紹介で笑えるところ(ルシウスが日本にやってきて風呂文化に驚く一連のシーン)はすでに見せているので、今更感があった。
それに古代ローマ人が日本にタイムスリップするというアイデアがバカバカしすぎて私には笑えない。
それにそのローマ人を阿部寛が演じるというのもどうも。
コメディなんだから堅いこと言わずに楽しめばよいのかもしれないが、これは映画じゃない。
テレビのバラエティ番組なのだよ。
映画はバラエティ番組とは違うと思う。

確かに昔も「俺の故郷は大西部」とかあったけど、なんか違う感じがする。そこをうまく説明できないから私は映画評論家にはなれない。

でもこれが実際に「海猿」「踊る大捜査線」に続くヒットだった。
ヒットした映画というのはやはりそれだけ訴求力があったわけだから、それは誉められてしかるべきなのだ。
例え自分がその映画を気に入らなくても。
こういう軽く笑える映画が今の多くのお客さんにはいいのかなあ。

それにしても金はかかっている。
ローマのシーンはチネチッタで別の作品で使ったオープンセットを借りての撮影だったそうで、逆にこの本格感がかえって私にはだめだったかも。
日本で無理矢理ロケしてれば、それなりにばかばかしさがあったかもなあ。

あと気になったのはルシウスが最初にタイムスリップする日本の銭湯。
壁に「海の若大将」のポスターが貼ってあったり、広告の電話番号の局番がまだ3桁だったりするので、てっきり60年代くらいの風呂かと思ったら、後に出てくる上戸彩もいるので、2012年なのですね。
細かいことだけど、気になった。

自分の映画に求めるものと実際にヒットしている映画の差を感じさせる気分になる映画だった。



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ヒルコ 妖怪ハンター


日時 2012年12月29日14:30〜
場所 ザ・グリソムギャング
監督 塚本晋也
製作 平成3年(1991年)

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稗田礼二郎(沢田研二)は「妖怪は実在する」という学説を発表して学会から追放されていた。
そんなとき、亡くなった妻の兄・八部(竹中直人)から「君の説は本当かも知れない。今から学校にある古墳の調査に行く」という手紙を受け取り、八部の勤める中学校に駆けつける。
しかしその頃八部は女子生徒の月島めぐみと駆け落ちしたなどという噂が流れていた。そんな噂を否定したい八部の息子のまさお(工藤正貴)は友人二人と夏休みの学校に入っていた。
だが、用務員の渡辺(室田日出男)が「帰れ!」と一喝する。
やがて稗田も到着。まさおたちと再会した稗田だが、まさおは友人たちと夜の学校ではぐれてしまう。
自作の妖怪探知機を使う稗田。
確かに妖怪がいる!

1991年にまだ20代で新進監督だった塚本晋也作品。
基本的に映画俳優・沢田研二のファンだから公開当時も知っていたが、観なかった。
仕事が忙しくて映画から離れていた時期だったし、なにか低予算っぽいしょぼさを感じたから観なかったのだろう。

実際、低予算っぽい。
深夜の誰もいない学校が舞台なので、出演者の数は少なく、沢田研二というスターが出ているから観れるけどそうでなかったらしょぼさばかりが(私には)目に付いたろうなあ。

ヒルコ(比留子)という妖怪を古代の人が封じ込めて、それを説いてしまった八部がヒルコに襲われて、という展開なのだが、ヒルコのデザインがいかにも「H・R・ギーガー」っぽいデザインでげんなりする。
とにかく「エイリアン」以降、なんでもかんでもギーガー的デザインでいやだなあと思う。
はっきり言ってギーガーのデザインって気持ち悪くて好きじゃないんだよ。気持ち悪いからそういうのが好きな人が作るとなんとなく似てくるんだろうけど。

で、稗田がいろいろ調べていくうちに「古事記」の一節が妖怪を封じ込める呪文になっていることが解る。
この呪文を唱えるのが沢田研二なので、彼の美声で唱えられる呪文はかっこよかったが、そう感じるのは私だけか。

上映後のトークイベントではSFXアドバイザーの浅田英一さんと特撮カメラマンの桜井景一さんが登場。
フィルムで撮影されたり、当時はまだ珍しかったハイビジョンカメラで撮影された部分もあったそうだ。
当時のハイビジョンカメラは中継車が一台カメラの別に必要な位、今では考えられない状況だったそうで。
アナログテレビの時代だし、今と比べれば大したことはなかったかも知れないが、それでも当時としてはきれいだったそうだ。ただし当時では中継車が必要だし、編集するにしても編集室を借りるのに膨大な金額がかかったりして、「ハイビジョンでドラマを作る」ということは予算的に無理で、実験的なものでしかなかったようだ。



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今日、恋をはじめます


日時 2012年12月28日21:30〜
場所 新宿ピカデリー・スクリーン7
監督 古澤健

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日比野つばき(武井咲)は受験の時にあがってしまったためか滑り止めの高校になんとか合格。
だが、今時三つ編みにしたダサダサの女の子。
入学当日、同じクラスで席が隣になった椿京太(松坂桃李)に「こいつを今日から俺の女にする」と宣言され、ファーストキスを奪われてしまう。
いかにも軽そうな京太に反発するつばきだったが、春の文化祭の実行委員を押しつけられてクラスの協力が得られずに困っている時に助けてくれたのは京太だった。
次第に京太を意識するようになるつばきだった。

「僕たちは世界を変えることができない。」でナンパな大学生を演じていた松坂桃李がモテモテ高校生を演じるラブコメ。原作はコミック。
「〜向き」という言い方は果たして正しいのかどうかよく解らないが、何となく「女子中高生向きに作った映画だなあ」というのが第一印象。
もっとも女子中高生が喜んでいるかは解らんけど。
共演は「愛と誠」でもどこかピントのずれたヒロインを演じた武井咲。もはやそういうキャラクターがイメージとしてついてしまったので、たとえば「桐島、部活やめるってよ」のようなシリアスな青春ドラマに出演しても笑いが出そうだ。

モテモテの男がダサい自分を気に入ってくれて似合う服を選んでくれて変身する。ってシンデレラ物語なのだな。
武井咲の方がだんだん松坂桃李を好きになっていくんだが、告白するとかえって松坂は離れていく。
それを事情を知っている松坂の親友が理由を教えてくれるのだが「最愛の女性に昔裏切られたんだ。最愛の女性というのは母親だ!」という。
悪いけど笑った。
最愛の女性っていうとつき合った女性かと思ったら、母親とは!母親って「最愛の女性」とは言わんだろう?
「最愛の女性=母親」って言うあたりがまだ子供っぽくて笑った。

二人が付き合いはじめたあたりで、二人の誕生日とかクリスマスが短く紹介されていくが、バレンタインはなかった。なぜだろう?つき合っちゃうとバレンタインは無しなのかな?

で、後半は松坂の中学時代の彼女がアメリカから帰ってくる。二人はお互い初めての人だった、などという話題がでる。う〜ん中学生で初体験かあ。いいなあ。
12月24日のクリスマスに松坂の別荘の天文台で二人で「流星群を見よう」と約束していて、武井は今は一流の美容師のところでバイトしていて(「うちは一流しか雇わないよ」と言われても強引にバイトに入ってしまう)その一流美容師にその伊豆の別荘まで送ってもらって松坂を待つ。
松坂来るか?盛り上げておいてハッピーエンド。

松坂と武井咲の美男美女カップルの画を観て楽しむ映画だなあ。
そういえば夏のシーンで松坂と武井が水着姿になるが、松坂、「僕せか」に比べると少し全体的に太っていた。
また鍛えてくださいな。



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カルロス 第3部


日時 2012年12月24日17:40〜
場所 川崎アートセンター・アルテリオ映像館
監督 オリヴィエ・アサイヤス

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いよいよ第3部。
今や大物テロリストとなったカルロスだが、自分を受けいてくれる国も少なく、今や活躍の場も少なくなってきていた。
やがてカルロスも睾丸の病気で治療しようとしていたところを拉致され、気がつくと飛行機の中だった。
「ここはどこだ?」と問うカルロスだが、「フランスだ」と答えが返ってくる。
ついにフランス警察に逮捕されたカルロスだった。

5時間半の3部作もついに終了。
13時から上映が始まって19時40分頃終わったから、休憩込みで6時間半。

実を言うと面白いことは面白かったが、内容にさっぱりついていけなかった。
中東情勢とかヨーロッパのことを勉強しようと思って観に行ったが、そこは甘くない。
その辺の予備知識がないと話にさっぱりついていけないのだ。
出てくる国名も地名も多数で、対立関係も地理関係もさっぱり解らないから、話の全体像が実に解らない。

解らないのは私だけだったのかも知れないが、やはり日本人には馴染みの薄い世界の話なのだろう。
自分の勉強不足を大いに恥じいる。

前にも書いたけど主役カルロスを演じたエドガー・ラミレスがすごい。
24歳から45歳までを演じているが、最初は戦士として活躍していたが、3部では太ったリーダーとして何やら実業家風になっている。
この肉体改造のすごさを見よ!

カルロスが最初にこの世界に入った動機は語られず、戦うことが目的だったような男に見えた。
しかし第3部になるとぶくぶくと太って女遊びも多く、堕落したなあという気もするが、そもそも彼には理想はなく、傭兵として生きていく生き方を選択したに過ぎないのかも知れない。
だからこそOPEC事件の時も高額な身代金の提案には乗った。

そういう男だったのかなあ。
しかしこの映画を理解するには私の国際情勢に関する知識は乏しすぎた。
自分の浅学を深く恥じる。

今回の上映はブルーレイ上映。
ブルーレイだと大きなスクリーンでも特別に遜色なかった。
もちろんプレーヤーやプロジェクターの違いもあるだろうけど、日本の低予算映画のプロジェクター上映に比べれば十分満足出来るレベルだった。



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カルロス 第2部


日時 2012年12月24日15:25〜
場所 川崎アートセンター・アルテリオ映像館
監督 オリヴィエ・アサイヤス

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カルロスとその仲間は、イラクから原油価格のつり上げに関して意見がぶつかるサウジの石油相の襲撃を命じられる。
場所はウィーンのOPEC会議場。
石油輸出国の各国代表が集まる中、カルロスたちは襲撃。人質の一部を解放しながら、サウジの代表をはじめとして用意させたDC9で出国。
しかし各国で受け入れ拒否にあい、結局サウジより身代金の2千万ドルの提案を受け、カルロスは受け入れる。

OPEC襲撃事件が1時間ぐらいにわたって描かれ、3部作中、もっとも詳しく描かれる。
カルロスたちの起こした事件で最大規模なのだろう。
このエピソードの部分がアクション映画としても面白かった。



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カルロス 第1部


日時 2012年12月24日13:00〜
場所 川崎アートセンター・アルテリオ映像館
監督 オリヴィエ・アサイヤス

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1973年、後にカルロスというコードネームで世界から注目を浴びる男(エドガー・ラミレス)がパレスチナ人民解放戦線(PFLP)のメンバーになった。
腕試しにロンドンの有名企業の会長を襲撃するよう指令され、彼は実行する。
その事件をはじめにカルロスは国際的テロリストとしての活動を開始する。

1970年代、日本では「連合赤軍事件」によって左翼革命の時代は終わっていたが、世界的にはまだまだその活動は終わっていない。
その渦中にあったテロリスト「カルロス」を通じて描く3部作5時間26分の大作。

第一部はカルロスが本格的に活動をはじめ、OPEC会議襲撃事件に至るまでを描く。

当然「日本赤軍」も登場し、オランダのフランス大使館占拠事件も描かれる。日本赤軍メンバーの一人「フルヤ」と名乗る男がフランス入国時に逮捕され、その奪還を目指しての立てこもり事件だ。
パンフレットによると「フルヤ」名義のパスポートを使っていたのは山田義明。
日本赤軍を演じていた俳優は私には馴染みのない顔だったが、当時の日本赤軍っぽい雰囲気を持っていてよかったと思う。

全体の感想は3部を観終わってから書くけど、主役のエドガー・ラミレスがすごい。
始まったころは敏捷さが感じられたが、後半でなにもしていないときに「太ったな」と言われるシーンがあるが、その前にベッドで裸で寝ているシーンもあり、実際に太っている。
相当な肉体改造の上に挑んでいる。
またその前にカルロスの全裸シーンがあり、しっかり男性器も写っている。
作品の価値とは関係ないが、エドガー・ラミレスの役者としての本気度が感じられる。

そして第2部のOPEC事件へ。



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ヘルタースケルター


日時 2012年12月23日15:00〜
場所 早稲田松竹
監督 蜷川実花

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りりこ(沢尻エリカ)は今や「女の子があこがれる女の子ナンバーワン」として人気絶頂のモデル。彼女が表紙になった雑誌は売れ行き抜群。
そんな彼女には秘密があった。彼女は全身整形をしていて残ってるのは耳と目と女性器ぐらい。
バラエティ、ドラマと仕事が切れない彼女だが、その忙しさもあって常にいらいらしている。
楽屋ではマネージャーの羽田(寺島しのぶ)に当たり散らしている。事務所の女社長(桃井かおり)は味方だと行ってくれるが内心は単なる金儲けの道具としか考えていないかも?
一方で検事の麻田(大森南朋)はりりこが通う美容整形外科の疑惑について追求していた。患者の中には自殺者もいて、その上臓器移植の疑いもある。
そんな頃、りりこの恋人の政治家の息子・貴男(窪塚洋介)が別の女性との結婚を発表。さらに事務所に後輩のこずえ(水原希子)が入ってきてりりこの人気を脅かしていく。

沢尻エリカの何年ぶりの復帰作で、全身整形のモデル役とあって映画以前になにやら話題。
そしてエロティックなシーンもあって、「沢尻エリカもおっぱいが出るらしい」ということでさらに話題。
この夏、「苦役列車」と同じ日に封切られたが、こちらの方がヒット。
いまどき女優が脱いだくらいでヒットするかと思うが、沢尻エリカはその存在が悪役キャラクターなので、やっぱり話題なのだろう。

話はこの後、マネージャーの羽田と肉体関係をりりこが結んだり、羽田の若い彼と3人で共謀して自分の恋人が結婚した女に塩酸をかけさせたりする。
そしてさらにりりこはドラッグに溺れ、こずえの襲撃を羽田に命じるが、自身がテレビのバラエティの収録中に錯乱状態になって、堕ちていく・・・・という内容。

で2時間以上ある映画。
窪塚の婚約者を襲ったあとにさらにこずえを襲うのでは同じような話が2回つづき、くどい。というか意味がない。
この辺をうまくまとめて90分ぐらいなら、よかったのだがなあ。

しかしこの映画は元々話で魅せる映画ではないのかも知れない。
りりこの真っ赤な部屋をはじめとする独特の色彩やデザインのセットが欲望にまみれた幻想的な空間を作り上げ、そこを楽しむべきなのだろう。
特に大森南朋とりりこが会う水族館のシーンは、今まで赤を基調としたセットが多かっただけに、その美しさが際だった。

蜷川実花らしい映画だと思う。



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ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館


日時 2012年12月23日9:10〜
場所 新宿ピカデリー・スクリーン4
監督 ジェームズ・ワトキンス

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19世紀末、コナン・ドイルがいた頃のロンドン。
若き弁護士アーサー・キップス(ダニエル・ラドクリフ)は上司から田舎町にあるイルマーシュの館の相続のための遺言状の捜索を命じられる。
アーサーは妻が出産の時、息子は助かったものの、妻は死亡、それ以来失意の日々を送っていた。
館のある町の弁護士は全くやる気がなく、むしろ迷惑がっていた。予約してあったホテルも満室だと言われるし、弁護士だけでなく、町の人々はアーサーに冷たい。
彼に親切にしてくれるのは列車の中で偶然一緒になったサム・デイリー(キアラン・ハインズ)だけだ。
いよいよアーサーは問題の館に入る。
そこで窓から黒い女を見かける。誰も住んでいないはずなのに?
町へ帰って交番でそのことを話すとそこへ「洗剤を飲んでしまった」という女の子が連れられてきた。女の子は死んでしまう。
この町では黒い女が現れると子供が死ぬと言われているのだ!

「ハリー・ポッター」シリーズのダニエル・ラドクリフのポッター以降の最初の作品。2011年7月シリーズ最終作公開以来だから1年5ヶ月ぶりか。
若き弁護士役とは聞いていたが、4歳の子供がいる設定には少し驚く。

で、アーサーは例の屋敷に一人で出向くのだが、陰から急に鳥が飛び出すとか、そのたびに効果音的な音楽が大きく流れるとか、脅かし的演出満載。
映画を観てるっていうより、お化け屋敷に入ったような気分になった。
「USJ」とかのアトラクションにぴったりだろう。(実際は映画会社が違うからそれはないだろうけど)

アーサーは村での唯一の協力者のサムの助けによって、黒い女の正体を調べ始める。
精神を病んだ女性が子供を姉に預けたが、子供の乗った馬車が沼に沈んだ際に、子供を助けられなかったことを「子供を見殺しにした」と恨んで死んでいったらしい。
次々と子供が死んでいくのは自分の子供が死んでいったことの復讐のようだ。
アーサーはサムの自動車を使って沼に沈んだ馬車を引き上げ、子供の遺体を探し出す。
おいおいそんな簡単に見つかるなら、事故があった当時でも出来たんじゃないのか?という突っ込みをしたくなったが、それは野暮。

子供を死んだ女性の墓に入れたので、もう大丈夫だと思ったら、そうは問屋がおろさず、黒い女はアーサーの子供が村にやってきた時に再び黒い女は現れ、アーサーとその子供は列車に引かれてしまう。
悲しいラストかと思ったら、そうでもなくあの世でアーサーと子供はアーサーの妻と再会、ある意味めでたし、めでたしというエンド。

ストーリーじゃなくてシーンのショックで見せるお化け屋敷映画。



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愛のゆくえ(仮)


日時 2012年12月18日21:00〜
場所 ポレポレ東中野
監督 木村文洋

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浩司(寺十互)は同居する陽子(前川麻子)が今日はカレーを作るための買い物をしてきた。
陽子が外で働き、浩司はずっと家にいる。カレーを作りながら、あるいはカレーを食べながら、彼らは徳島に住んでいたとき浩司はラーメンを食べ、陽子は弁当を食べた話、先日の月食を別々に観た話をする。
特段、特別な夫婦のようには見えない。
翌日、荻窪のアパートを出て、浩司は新宿警察署に向かう。
途中、中央線を降りた新宿駅で吐き気がし、トイレに駆け込む浩司。
陽子は一人アパートに残された。

「へばの」の木村文洋監督作品。
2011年12月31日、警視庁に自首したオウム真理教事件の幹部、平田信を題材にして男女の愛と別れを描く。
非常にタイムリーというか面白そうな企画に聞こえるが、「へばの」で時間の流れの生理があわなかった木村監督だから、初めて映画のチラシを観たときから「観たい」とは思ったが、期待はしなかった。

しかもツイッターの評判などを観るとアパートの一室だけの話で、元は演劇らしい。
ますます私にはあわない予感がする。

そしてその予感は裏切られなかった。
まず驚いたのはモノクロだったこと。
いや予備知識がなかったから途中でカラーになるのかと思ったら、そのまま。でもデジタルのモノクロってどこか黒がグレーなのだな。だからフィルムのモノクロとは色合いが違う。フィルムのモノクロだと締まった感じがするのだが、デジタルのモノクロはどこか緊張感がない。

で、内容の方も女がカレーの材料を買ってきて、男が野菜を切って、昔話をしてちょっと喧嘩みたいになってとどうでもいいような会話が延々続く。
ミニシアターのアングラ演劇でよくあるのだよ、こういう日常的な会話を延々とするのが。
オウム事件を総括するとかのオウムに関する内容の会話は一切なし(だと思う。実は後半少し寝た。あんまり延々と日常的な会話が続くのだから、疲れもあって落ちた)

だからチラシとかで「オウムの平田信を題材にしている」というのを知っていないと、何がなんだかよくわからない。
でも監督の意図は「17年逃亡生活をしていた男女」を描くことなんだろうな。それも例えば「復讐するは我にあり」のように再現ドラマ的にやってくれれば、(僕にとって)面白さもあったが、アパートの一室で日常的な会話をしてるだけだからなあ。

ラストシーンでアパートを出ていくカットで終わるような映画かと思ったら、上映時間60分ぐらいで、男は外に出て、荻窪駅で切符を買って改札通ってホームに行って中央線に乗り込んで(ここまでワンカット、6、7分ある)、その後新宿駅で降りて吐き気を催してトイレに行っても個室が空いてなくて、手洗い場でゲーゲーする。そして歌舞伎町の方を歩いてコマ劇場の跡地を見て新宿警察へ。
そんなに詳しく描く必要があるかなあ?
この一連で20分ぐらいは使ってると思う。
長い。

そしてタイトル。
まだコピー紙みたいなチラシだった時から見てたけど、(仮)のついたタイトルに違和感があった。
速報チラシだからそのうちタイトルが決まるのかな?と思っていたら、最後まで(仮)が付いていた。
はっきり言うけど私はいやだ。
なんか思い切りのなさを感じる。「ホントはもっといいタイトルがあると思うんですが、どうにも思いつかなくて、仮みたいなものなんですが」という作者の言い訳めいたものを感じてしまう。
もっといいのが思いつかないなら、仕方ないじゃん。
決断しようよ。
またはインディーズにありがちな「奇抜な名前をつけてコストをかけずに人目につく」的なものも感じる。
とにかくイヤである。

でもその辺は監督の考えもあるだろうし、それなりに考えたものを感じるので、なんも考えてない映画よりはましだ。

上映後、ロビーに監督がいらっしゃったので少し立ち話。
白黒については「それがこの映画にあってると思ったから」という答え。
あとテンポとかカットが長いとか私の生理にあわないという話をした。
(仮)についても言ってみた。
でも映画作りに対する姿勢はすごくまじめなので、また映画を作られたら見に行こうとは思う。
そういう監督です。



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死んでもいいの 百年恋して


日時 2012年12月13日21:00〜
場所 池袋シネマロサ
監督 榎本敏郎
脚本 いまおかしんじ

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祐加(森下くるみ)は若く見えるが実は58歳。28歳から歳を取らなくなってしまったのだ。
娘・綾香(範田紗々)は今年30歳で、結婚したい人がいると彼を家につれてくるような歳だ。
祐加はある日、仕事帰りに夜の商店街で酔いつぶれている女性・恵美(岸田茜)を介抱する。彼女は「いいことがあるようにおまじないしてあげる」とキスをしてきた。
翌日、祐加は不思議な町に迷い込む。
そこで死んだはずの彼女の夫(飛坂光輝)と再会する。
戻ってから祐加は再び恵美に会う。彼女は不思議な力を持っているらしい。祐加は恵美にもう一度夫に会わせてくれることをお願いする。
そんな祐加を30年来の友人、次郎(下条アトム)は見守っていた。

「ラブ&エロス」シリーズWinterの3本のうちの第1弾。
いまおかしんじ脚本ということで観た。
監督は吉岡睦雄さんが好演した「ほくろ(ニコミホッピー)」の榎本敏郎。

内容については何の予備知識もなく観たのだが、まず思ったのは「いまおかさん、また同じネタやってる」だった。
「生と死で別れる人たち」というモチーフはもう「島田陽子に逢いたい」や「おんなの河童」でやっている。
「死」がよっぽど気になるテーマなのだな。

祐加は28歳で歳を取らなくなった設定だが、28歳の時に交通事故で夫を亡くしている。だから「時が止まっている」という話。

で祐加は三途の川らしきところをわたっていくのだが、これが街に流れる小川のような所。このチープさがなんとも言えない。青春Hとかこのラブ&エロスならでは。

そしてもう一つのいまおかさんらしさは「いつまで経っても好き」。
今回では次郎がその役目。
祐加と次郎と死んだ夫は高校時代からの同級生。
次郎も祐加のことを好きだったが、祐加は次郎とは結婚しなかった。しかし次郎は祐加のことがあきらめきれずにつかず離れずいまでも交流がある。
次郎は医者になったので、日に日に弱っていく祐加が心配でならず、ついに祐加が何をしているか恵美から聞き出し、自分も「あの世」に向かう。
そして祐加の夫に祐加にもう逢わないと約束させる。

ラストで祐加は次郎と再婚する。
「いくつになっても男と女」では果たせなかったハッピーエンドだった。

この次郎を演じてるのが下条アトム。
昔は映画やドラマにバイプレーヤーとしてひっぱりだこだったが、最近は見かけなかった。
久しぶりに下条さんを観たわけだが、やっぱり味のあるバイプレーヤーだった。
また下条さんの活躍を観たい。



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マシンガン・プリーチャー


日時 2012年12月1日14:30〜
場所 ザ・グリソムギャング
監督 マーク・フォースター

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サム・チルダース(ジェラルド・バトラー)は刑務所か出所した。
家に帰ってみるとストリッパーをして稼ぎのよかった妻・リンは今は工員をしているという。しかも彼女は洗礼を受けキリスト教徒になっていた。
そんなリンに反発したサムだったが、友人のドニーと強盗をした後にヒッチハイクで乗せた男が逆に襲ってきてそれに反撃、その男を半殺しにしてしまう。
その事件を悔いたサムも洗礼を受け、キリスト教徒になり建設業を始め、成功してきた。
数年後、教会でアフリカの牧師の話に関心を持ったサムはスーダンにボランティアに行く。
そこでスーダンの難民キャンプで武装ゲリラ(LRA)に子供たちが拉致され、殺される現実があった。
サムは帰国後、教会を作り、さらにスーダンに孤児院を作ろうと決意する。
自分の教会で強くスーダンへの援助を訴えるサム。
スーダンでの活動も単なる孤児院建設では終わらず、その敵となるLRAとの戦いも過激さを増していく。

「僕たちは世界を変えることができない。」のアメリカ版ともいえる同じように先進国の人間が途上国の子供のために活動する話。
現実に内戦が進行中の国と内戦が終わって一応は安定しているカンボジアの違いはあるとはいえ、同じボランティアの話でも偉く違ってくる。

まずはキリスト教の問題。
信仰のあるなしや寄付とかの感覚が非常に関わってくる。
これはほとんど無宗教ともいえる日本人には解らない感覚だなあ。

そして何よりサムがだんだん攻撃的になっていく点だ。
同じように医療ボランティアに来ている女性が出てくるが、「あなたもLRAも同じ。結局は暴力で解決しようとしている」という主旨の避難を受ける。
ラストのエンドクレジットでサムの本人が登場する。
で「もしあなたの家族や恋人が強盗に襲われたらどうするか。戦うだろ。それと同じだ。必要なんだ」と訴える。
結局は「暴力に対しては暴力で対抗するしかない」というサムのメッセージが伝えられ、それが映画を作った人たちのメッセージにも受け取れる。
ひいてはアメリカの戦争を肯定するようなメッセージにも解釈できる。結局この国は「戦争でしか戦争を終わらすことができない」と考えているだろうし、銃の所持が認められている国なのだなあ、と思う。

映画はLRAに誘拐されそうになった子供たちを救ったが自分たちの乗っているトラックには全員は乗せられず、残す子供にサムもついて残るシーンで終わる。
(このシーンはその前に同じように子供を救出したが、トラックには全部乗せきれず、半分を残して帰ってきたらその子たちはみんな殺されていた、というシーンについになっている)
まだまだサムたちの戦いは終わっていない。

アクション映画としてかなり味付けはされていると思うが、日本人とアメリカ人の考え方の違いを見せられて興味深かった。



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