つぐない | |||
靖国・地霊・天皇 | 愛、その旅立ち | 大阪のひと | カミングアウト |
キリマンジャロの雪 | 湖中の女 | 好きっていいなよ。 | エイリアン2 |
エイリアン | 狩人の夜 | 美しき冒険旅行 | 真夜中きみはキバをむく |
MR.ジレンマン 色情狂い |
夢野久作の 少女地獄 |
未知との遭遇 | ロストワールド/ ジュラシックパーク |
ジョーズ | パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間 |
革命の子供たち | 渇き。 |
つぐない日時 2014年7月26日21:20〜 場所 テアトル新宿 監督 いまおかしんじ 霞(速見今日子)は新宿ゴールデン街で「罪ほろぼし」というバーをやっている。ある日、初めての客で東子(工藤翔子)という女がやってくる。酔いつぶれた東子を店の上に寝かすと霞と暮らしている郡司(伊藤猛)が帰ってきた。どうやら郡司と東子は知り合いらしい。 翌朝、東子は店を後にするが途中で昨夜店で一緒になった山科(貴山侑哉)と出くわす。 「飲みに行こうよ」としつこく誘う山科について行ってしまう東子。 実は東子は刑務所から出てきたばかり。数年前、郡司を取り合って相手の女を刺して殺してしまったのだった。 いまおかしんじ監督の復活国映第2弾作品。昨年「1BR」が公開されたときに「まもなく撮影開始」と言っていた映画だ。 感想の方は・・・正直この手の映画は苦手である。 郡司はひもで霞に養ってもらっている。山科は競馬とパチンコでその日暮らしのような男。こういう人間を肯定的に描かれるとどうも私は物語に入れない。 否定はしないけど、気の小さいサラリーマンの私としてはどうにも異人種のように思えて共感とか感情移入が出来ないのだ。 霞の店のもう一人の常連客として丸西(吉岡睦雄)が登場する。 この男が郊外らしいが妙に立派な一軒家に住んでいる。 丸西は霞ママのことが好き。で、東子と郡司の仲を嫉妬した(とい表現でいいのか)霞は丸西の家で一回だけ体の関係をする。 結局東子は故郷に帰り、郡司とは別れる。 そういう話なのだが、約90分もかけて描かれると退屈する。 殺人事件を犯してしまうほどの強い感情、というのは嫌いではない話だが、そこがクライマックスではないし、「ゴールデン街を舞台にした映画」というのが実際にゴールデン街でお店をやってらっしゃる速見今日子さん意図だったようだ。 小さなお店に起こるダメ人間も真面目にこつこつ人間も前科者も一緒くたになって酒を飲み、それをすべて受け入れる街、というのがテーマだろうしそれは解るのだが、ダメ人間が苦手な私にとっては共感の得にくい映画だった。 伊藤猛は前に観た「青二才」と同じようなダメ人間。吉岡睦雄さんは真面目なサラリーマン。二人とも国映作品には縁が深い役者さんで、国映ファンとしてはこの二人の共演は楽しめた。 そういえば速見今日子さんはいまおか監督の「いくつになっても男と女」でスナックのママを演じておられた。 「いくつになっても〜」のキャスティングは実際にママをやってらっしゃることも関係していたか。 (このページのトップへ) 靖国・地霊・天皇日時 2014年7月21日19:00〜 場所 ポレポレ東中野 監督 大浦信行 「天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命」の大浦伸行監督のドキュメンタリー。 正直に言おう。靖国に関する様々な問題は私の中では結論が出ている。 それは「永久に解決されることはない」というのが結論なのである。 だから正直、私の中では「終わった問題」の靖国に関する映画と言われても興味は失いかけていたが、まあ乗りかかった船という訳でこの問題にはつき合うつもりで見た。 正直、数年前に上映中止になったりして大騒動になった「靖国」に比べると全く話題になっていない。ポレポレというか配給もやる気がないのかトークイベント等もいっさいなし。最近ポレポレで映画を観るときは必ずトークイベントがついているので、映画だけ観て帰るというのは不思議な感覚である。 映画の方はこういった靖国裁判でいわゆる右派側に立つ大口昭彦弁護士、そしていわゆる左派側に立つ徳永信一弁護士へのインタビューを中心に進めていく。途中で在特会が靖国を養護する演説を行っているのなどがインサートされる。 いやそれ以上にインサートされるのは金満里(キム・マンリ)という方の身体表現者である。 身体障害者の方なのだが、身体障害者だけの劇団を主宰されてるそうで、本作でも白塗りの顔でなにやら舞踏をするのだが、正直、よく(というか全く)分からない。 不気味なばあさんがクネクネと体を動かしてるだけで理解レベルの低い私にはさっぱり何も伝わらなかった。 映画の方は韓国のKBSテレビで東条英樹の孫娘と韓国のイ・ヒジャさん、台湾の高議員の3人の討論の様子が字幕のみで紹介される。映画的に言えばここは映像で示さなければ意味がなかろう。権利などの問題もあるだろうからそれは難しいことは理解するが、それにしても文章だけというのは「映画としては」残念である。 「永久に解決されることはない」と書いたけど、そもそも心の持ちようの問題なのだ。 ヒジャさんは父が靖国に合祀されていて、それはイヤだという。東条の孫は「戦争に行ったときは日本人だったんだから日本人として同じように奉るのは当然」とし議論はかみ合わない。 「靖国神社に奉られている」ことを名誉や喜びに感じる人もいるだろう。しかし逆に不快に思う人もいる。 どちらかの考えを押しつけることはすべきではない。 鈴木邦男さんが言っていたように合祀するしないは遺族が決めればいいことだと思う。 「靖国に奉られていることを取り下げるのはお父さんの意志を無視することになりませんか」 お父さんはもう死んでいる。死んでいる人に意志も考えもなかろう。仮に魂があって父の意志というものがどこかにあっても、それは我々には解らない。 「お父さんはこう思ってるはずだ」などという主張は根拠のない推測に過ぎない。 「生者は死者を利用する」と言ったのは高橋哲哉だったか。 総理大臣や議員が参拝に行って大騒ぎになる。 「戦死者に礼を尽くし、平和への誓いをして参りました」的なことをよく言う。 しかし靖国神社に参拝する暇があったら、戦争のない社会にするために具体的な努力をしてもらいたい。 神殿に手を併せて賽銭入れれば済む話ではないだろう。 この問題は心の問題なので結論は出まい。 原発問題とか集団的自衛権の問題以上に抽象的で観念的である。 どちらかが考えを変えるまで永遠に続くだろう。 静かに終わってくれる日が来ることをただ願うのみだ。 (このページのトップへ) 愛、その旅立ち日時 2014年7月21日15:35〜 場所 光音座1 監督 山崎邦紀 製作 トシオとケンは仲がよく、去年奥多摩の河原で一緒に遊んだ。それをビデオに撮っておくトシオ。 女の死体。誰かに殺されたらしい。 死体の発見をニュースで見る男。それはケンだ。 8月15日、ビデオ日記をしながらトシオは自転車で奥多摩へと向かう。 途中、会社をリストラされた中年男(池島ゆたか)に声をかけられる。「時間があるならちょっとつき合ってもらえませんか?」河原の草むらで中年男はカップ酒を飲み、トシオは男からもらった弁当を食べながら男は身の上話を話し出す。結婚して子供が出来てから自分はやっぱり男が好きだと気づいたという。 そこへ不良どもにおやじ狩りにあってしまう二人。 冒頭で「製作 旦々舎」と出たので一瞬いやな予感がしたが、それがやがて「やっぱり」に変わった。 最初のうちはトシオのシーン、死体のシーン、ニュースを聞く男のシーン、若い男二人が旅館のようなところで絡むシーンなどがカットバックでつながれ話がさっぱり見えてこない。 死体は実はトシオの姉でケンとの仲が同性愛として許されなかったので、トシオは姉を殺してしまって、トシオとの思い出の地、奥多摩に向かってるというわけ。 旅館の若い男はケンとトシオだ。これが顔の知ってる俳優ならすぐに解るが、顔になじみのない役者だからどうしても「えっあの二人誰?」になってしまって話が分かりづらくなるのだ。 ニュースを見ていたのはケンで、トシオが奥多摩に向かっていると思い、彼も奥多摩に向かう。 山崎邦紀は以前訳の分からないゲイピンクを見させられたいやな思い出があるので、「旦々舎」と聞いて浜野作品ならともかく山崎作品なら「ちょっとなあ」と思っていたのだ。 案の定、面白くない。 池島ゆたかと襲われたが、彼とホテルに泊まって介抱。池島ゆたかはトシオの体を求めていく。 翌日バイクに乗った男に声をかけられトシオは一緒に乗っていく。で、木陰で一回する。 その後、河原でなかみつせいじなどのゲイの中年男と知り合って・・・という展開。 もうどうなったか忘れた。 翌日にでもケンがトシオを迎えにきてくれたと思う。 トシオの姉殺しの件はどうなったか。 山崎氏のゲイピンクはどうにもあわない。 普通のピンク映画ならこんな出来ではなく、一定のレベルではあるのだが。 たぶん作ってるほうが何を作っていいのか解らない状態なのだろう。 クレジット後に池島ゆたかの中年男がチェーンソーを持っておやじ狩りの不良を追いかけ回すオチつき。 ここはよかった。 (このページのトップへ) 大阪のひと日時 2014年7月21日14:35〜 場所 光音座1 監督 石川均 製作 ENK 昭和60年(1985年) しのぶ(西城しのぶ)は大阪の夜の街でチャーリーズハウスというゲイバーを経営していた。ある夜、傷ついた青年が強盗に入ってきた。しかし金を取る前に倒れ込んでしまう。青年の名前は京介(ジミー・小林)といった。しのぶは何か事情のありそうな京介を自分の店で働かせることに。 京介は酒屋の倉庫でもバイトを始めたが、それはかつての男のカズに誘われたからだった。カズとはちょっと体の関係があったが、やっぱりまた分かれた。 そこへアキラという京介の昔の男がやってきた。 しのぶに対し、自分とまたつき合うから別れろと言ってきた。 石川均のENK作品。ポスターに薔薇族映画と書いてあるし、映画中に出てきたメモの日付に「昭和60年」とあったからゲイピンクとしても初期の作品だろう。 もう話の内容は昭和演歌の世界そのまま。 しのぶはかつてつき合っていたチャーリーという男がいてそのチャーリーはやくざものらしく、今は京都にいるらしい。京都の刑務所にいるのだろうか? でなにやら訳ありの美青年を自分のアパートに住まわせ、やくざ(というかまあ顔役みたいな奴)のいやな客からは迫られる。 で、「自分はいいから」と若い男の幸せを願って(京介はダンサーを目指していたという設定があるが、別にうまくない)彼を劇団のオーディションに申し込んだりする。 結局本人にはその気はあんまりないのだが。 でアキラの方も最初は「何しにきたん?あんたのことは忘れてるよ」といいつつ、京介はアキラと再会し体の関係。 京介はアキラと出ていくんだわと悟ったしのぶは例のやくざものと寝てあげて(たぶんそうやって)金を作って(封筒の厚みから100万円ぐらい)を渡す。 タクシーでアキラと京介が駅に向かうが、それを見送るしのぶ。 このシーンが吹雪のような雪が降っていて、偶然撮れたのだと思うけど、このタクシーを見送るしのぶのカットが1分ぐらい続く。 「いいのいいの私はいいの。どうせ幸せになんかなれやしない」という演歌の世界そのまんま。 観てて逆にあきれた。 今観ると(というか当時でもそうだったと思うが)時代遅れの一言になる。もっともどの時代だったらあり得たかというと、そんな時代はなかったような気もするが。 (このページのトップへ) カミングアウト日時 2014年7月20日16:25〜 場所 スパイラルホール 監督 犬童一利 大学生の陽(高橋直人)はゲイで、同級生で同じサークルの昇に片想いしている。春、サークルは新入生を迎え、昇はその中のアスカに気があるらしい。 陽は自分がゲイでいることを周りには隠していて、彼女がいることになっている。しかしそんな自分を偽ることがいやで、周りにカミングアウトしようか迷っている。 行きつけの2丁目のバーのスタッフ、ツヨシは実家に暮らす母親にカミングアウトしようと思った直前に母は事故で急死してしまう。母親に打ち明けられなかったことを後悔するツヨシ。 「今はまだ早い」「じゃあ、いつならいいんだ?」自問自答する陽。 まずは姉に告白することにした陽だが。 第23回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて上映。 ツイッター情報で知ったのだが、スチルで見た主演の高橋直人がイケメンすぎず普通の大学生っぽくてよかったので見てみた。 直球勝負の映画だと思う。 普通の大学生が自分がゲイであること打ち明ける悩みを思いっきり描く。 まるで「教育映画みたい」という感想をツイッターで見かけたが、確かにそれは言える。 陽が一人たたずみ、そこに自分や周りの声が聞こえてきて悩んでしまって「わー」と大声を上げるところなど、分かり易すぎてやりすぎに見えた。 あと女子大生が授業で(何の授業なのだろう?)で「LGBTってみなさん知ってます?」というストレートな授業を受ける。「世界がもし100人の村だったら、の例えでは11人が同性愛者、統計学的にも2%から10%位は同性愛と言われています」と説明的なシーンもある。 (2%〜10%ってかなり幅が広いが、同性愛的傾向を持つ人、完全に同性愛の人など定義が定めにくいから広くなってしまうのだろうか) 「でも皆さんの周りにそういうLGBTの人っています?知らないですよね。本人が隠してると思われます」 思い切り説明だが、はっきり説明しないと知識が共有できまい。 後輩の女子大生からミホからちょっと好意を持たれる陽。 二人きりの帰り道「実は俺ゲイなんだ」と打ち明けるが「あっ、冗談冗談」とごまかしてしまう。 この感覚、ストレートの人には解ってもらえるだろうか? そしてついにカミングアウトを決意する陽。 まずは姉から。二人で外に飲みに行き、告白する。 この告白しようと思った瞬間に電話がかかってきてタイミングを逃す。再び緊張。 この後、親友の昇、そしてついに両親に打ち明ける。 母親が「ゲイってテレビに出てるような人?」 まあ一般的なゲイのイメージってああなるのだろう。 だから正直、彼らに罪はないがドラッグクイーンのイメージで出ているゲイ芸人は嫌いである。というか彼らより「ゲイ=色物」としか扱わないテレビが嫌いである。 「これからが始まりだ」と主人公は言う。 そう、カミングアウトしてすべてが解決したわけではない。 周り、特に親などはそんな陽とこれからどう接していけばいいかと悩むだろう。 だから「カミングアウトなんて自分はいいけど告白された相手を困らせるだけ」と否定的に言う人もいる。 それも正しい。 ただカミングアウトしやすい環境を作って行くことは21世紀の課題でもある。 (このページのトップへ) キリマンジャロの雪日時 2014年7月20日12:55〜 場所 シネマヴェーラ渋谷 監督 ヘンリー・キング 製作 1952年(昭和27年) 作家のハリー・ストリート(グレゴリー・ペック)は妻とともにアフリカにハンティングに出かけたが、足に傷を負い、さらにその傷が悪化して死を意識していた。木にとまった鳥たちが自分の死を予感し、ねらっているように見える。 ハリーはそんな中、かつてつきあったり結婚した女性たちを思い出す。 まずは新聞記者をやめ作家になった頃に出会ったモデルのシンシア(エヴァ・ガードナー)。小説家として無事デビューを果たし、成功した彼はシンシアと結婚しアフリカ旅行に出かけた。子供を作って普通の生活を夢見るシンシアだったが、ハリーは今はそんな生活は望んでいない。シンシアは実は妊娠していたが、ホテルの階段から落ちて流産、それがきっかけでシンシアとハリーには溝が出来、スペインでシンシアは別の男と出ていった。 そしてハリーもリズ(ヒルガード・ネフ)と知り合い、順調に関係を深めていったが、シンシアのことが忘れられない。シンシアがスペインにいると分かったので、スペインに向かったハリーだが。 シネヴェーラのクラシック作品上映の1本。別に関心はなかったのだが、「湖中の女」と同時上映で時間もあったから観た。観る前からたぶん面白くないだろうな、と思っていたらやっぱりそうだった。 普通「こうすれば、ああすれば面白かったかも?」とも思うのだが、この映画に関しては全くなし。 でも「クソ映画」とか「監督は分かっていない」とか言うつもりはないのだよ。 そもそも素材が私の興味の範囲外というか。 作家が今までの恋愛を回想するだけ。 ピンク映画みたいなフォーマットである。 スペインに向かったのはシンシアが従軍看護婦をしてるらしいとなったから。相手が従軍看護婦だからといって兵士として参戦するとは無茶である。本人も解っていて戦友に「お前はなんで参加した?」と問われて「言いたくない」と答える。 その前につきあっていたリズもいやな女で嫉妬深いのか独占欲が強いのかハリー宛の手紙を見たりする。(こういう女は今ならケータイを見るタイプだ) それでシンシアからの手紙を「こんな手紙いらないわよね」とハリーの目の前で破いてしまう。とにかくいやな女である。 でスペインでシンシアと再会するが、彼女はすぐ戦死。 帰ってからシンシアと一度は見間違えた女性と再会して結婚。 そして冒頭の怪我になる。 結局救助の飛行機がやってきて彼は病院にいけて助かったで終わり。 よかったですね、としかいいようがない。 (このページのトップへ) 湖中の女日時 2014年7月20日11:00〜 場所 シネマヴェーラ渋谷 監督 ロバート・モンゴメリー 製作 1947年(昭和22年) 私立探偵フィリップ・マーロー(ロバート・モンゴメリー)は小遣い稼ぎのために小説を書き、それをパルプ雑誌の編集部に送ってみた。向こうから会いたいという返事が来たので、行ってみると女編集長から社長の妻が失踪したので探してほしいという依頼も受ける。しかしその女編集長が社長が現在の妻と離婚した後に再婚して玉の輿に乗ろうという魂胆がミエミエなので気乗りしない。 しかしまあ引き受け、社長の妻が会っていたという男に会ってみた。結局その男に殴られて目が覚めたら酔っぱらいで警察の厄介になっていた。 警察から釈放され、女編集長の元に報告に行くともう一度その男を訪ねろと言う。仕方なく行ってみると部屋の大家という女と出くわす。そして男は死んでいた。 昔、ハードボイルド小説に興味があった頃、チャンドラーのフィリップ・マーローは全部読んだが、それほど面白くなかった。それよかその日本版とも言うべき矢作俊彦の二村永爾シリーズとか原リョウの沢崎探偵シリーズが好きだった。しかしその原点は楽しめなかった。ゴジラが好きでも「原子怪獣現る」に興味が行かないのと同じだろうか? そんな時小説の解説などでこの「湖中の女」の映画化に関して「カメラがマーロウの視点になった実験的な映画だった」と紹介され、一度観てみたいとずっと思っていた。 その実験はどうだったか? 結局あとに続く作品がなかったのだから失敗だったと言わざるを得まい。 小説は「私は」と語られるから映画も「カメラ=主人公の目=観客の目」としてみたい衝動に駆られるのは解る。 何か新しいことをしてみたいと思えば一度は試したくなるだろう。でも観客は観たいのは「事象」ではなくて主人公の姿なのだな。映画というのはつくづく客観的なものなのだなと改めて思う。 探偵映画に限らず、主人公の一人称で語られる話ならどんな映画でも使える手法だ。しかし部分的ならともかく、全体を通しては「主人公の動き」を観たいのだ。 主人公のかっこよさ、しぐさ、表情、ファッションその他を観たいのだ。 そうして自分と脳内で重ね合わせ「ああ自分もこういう風にかっこよく観られたい」と思うのを代行してくれるのが映画なのだろう。 だから観ていて面白くないのである。 しかし一度は実験する価値のあることだった訳だから、「失敗」に終わってもその「失敗」を証明する映画はあっていい。だから映画史的には必要な映画だったと思う。 お話の方は大家と称する女が出てきたが、その女が出版社の社長の妻や例の男も殺していて、さらに刑事の妻も殺していて(だったか?)真犯人という結論。 映画的実験の前には犯人が誰であったかももはやどうでもよくなってる。 (このページのトップへ) 好きっていいなよ。日時 2014年7月19日13:10〜 場所 新宿ピカデリー・スクリーン6 監督 日向朝子 高校の学園祭での学内アイドルコンテストで優勝するようなイケメンの黒沢大和(福士蒼汰)はいつも一人でいる不思議な女の子、橘めい(川口春菜)を意識し始める。きっかけは大和の友人が階段で彼女のスカートを引っ張ったのを怒っためいが回し蹴りをしたところ大和に当たってしまったことだった。 ストレートな感情表現を正直さと受け取り惹かれていく。 めいは小学校の頃友達関係でいやな思いをしたことがあり、それ以来友達は作らなかったが、バイト先でストーカー的な男から大和に助けてもらって以来、意識し始めるようになる。その時大和はそのストーカーの前でキスをして見せて追い払ったのだ。ファーストキスだっためいはショックを受ける。 そのことがきっかけでめいは大和からカラオケなどに誘われるようになり、大和の友人たちとも親しくなっていく。 福士蒼汰主演作。 今年活躍が気になる俳優は福士蒼汰と池末荘亮である。あと比較的お気に入りの女優の一人川口春菜主演だ。 この恋愛映画、驚いたのはキスシーンが早くから登場する。こういった高校生の恋愛ものだとキスシーンはクライマックスだと思っていたが、この映画は二人がつきあい始める段階でキスである。 めいはベーカリーショップでバイトしてるが、その店によく来る客がめいを見つめて店をあがってからもつけてくる。母親に電話したがつながらない。友達のいないめいは仕方なく大和に電話。迎えに来てくれた大和は恋人のフリをするために路上でキス、という展開。 おお、すげーなー。 帰国子女の設定でもないのに高校生で路上キス。なかなかすごい。もともと大和はイケメンの設定で後に渋谷でモデルのスカウトにもあう。 さらにみんなでカラオケに行って他の女の子がキスした話になってめいはショックを受けて飛び出す。そして追いかけて来て大和はキスの連打。 「これは気に入った子にするキス」「これはもっと知りたいのキス」などと言いながら。こういうのは長身でイケメンの福士蒼汰だからこそ似合う。 地味なめいは「自分なんかが大和の隣にいていいのだろうか?」と悩み、実際に嫉妬の嫌がらせにあう。 映画の方は大和の友人が仲間の女の子とつき合い始めるまでとか、大和を好きで今は別の男とつき合いホテルにもよくいく仲(高校生でよくホテルに行く金持ってるなという疑問を感じつつ)の女の子が大和を好きで無理なダイエットをして体に跡がある話などのエピソードがオムニバス的につながっていく。 (このダイエットの跡というのがよくわからなかったが) で最後は大和はモデルのバイトをするようになり、モデル仲間の女性が大和に近づき、めいはいらいらしてしまう、でも大和は「あいつとは何でもねーよ」と言って無事に解決。 両親も学校の先生も出てこない恋愛ファンタジーだなあ。 福士蒼汰と川口春菜の美男美女を楽しむには申し分ない。 (このページのトップへ) エイリアン2日時 2014年7月18日 場所 bru-ray 監督 ジェームズ・キャメロン 製作 1986年(昭和61年) エイリアンを撃退しノストロモ号から脱出したリプリー(シガニー・ウィーヴァー)だったが、その脱出したシャトルが発見され救助されたのはなんと57年後だった。 ノストロモ号のオーナー企業などはリプリーたちがエイリアンによって襲われた話を信じない。それどころか現在エイリアンが発見されたあの惑星には人類が住んでいると聞かされて驚愕。数日後、その惑星と連絡が取れなくなったため、宇宙海兵隊と調査に向かうので貨物船会社のバークより同行を依頼される。 仕方なく同行するリプリー。 案の定、エイリアンに占領され、住民はすべて犠牲になったかに思えたが、少女ニュートだけが生存していた。 実はリプリーの話を確かめようとバークがリプリーの話に出てきた地区にあった宇宙船に調査を命じていたのだ。 今までエイリアンと接触することのなかった住民だが、一挙にエイリアンに襲われてしまった。 この居住棟には無数のエイリアンがいる。果たしてリプリーたちの運命は? 「タイタニック」「アバター」と続いて今やすっかり巨匠になってしまったジェームズ・キャメロンだが、「殺人魚フライングキラー」「ターミネーター」と続いて撮ったのがこの映画。 ポスターに書いてあったコピーが「今度は戦争だ!」だったと思うが、まさしく今回は戦争映画。 海兵隊の「いかにも」という鬼軍曹や兵隊たちが登場する。 そして機関銃や火炎放射や手榴弾を使っての攻撃はなかなかの迫力。探知機では近くにいるはずなのに、目の前には現れない。いったいどうなってる?と思ったら天井から出てくるなどサスペンスフルな展開で飽きさせない。 ジリジリと迫る前作に比べ、全編アクションの本作の方が私は好きである。 会社側の人間のバークが「生物兵器に応用し大儲けしよう」というあたりは前作に引き続き、もうお決まりである。 少女ニュートをつれて逃げるうちに誤ってニュートが排水路に落ちてしまい、助けに行くけどやっぱりエイリアンが!なんとか助けたけどビショップが操縦していた救助船がいなくなってる!というあたりは最大のピンチを感じる。 そしてなんとか母船に帰って一安心と思いきや、やっぱりここまでエイリアン(しかも女王!)がついてきてしまうというもの前作と続けてみるとこれまたもはやお決まりである。 ラスト、荷物運びの強化スーツ(というのか?)を身につけたリプリーがエイリアンと対決していくところはロボットアニメの実写版ともいえ、後の「アバター」にもつながっていくのだと思う。 このシーン、ホントかっこいい。 で宇宙船のハッチを開けてすべてが吸い出されていく映像は「COSMIC RESCUE」のクライマックスの原型であると私は信じています。 面白かった。 (このページのトップへ) エイリアン日時 2014年7月17日 場所 bru-ray 監督 リドリー・スコット 製作 1979年)(昭和54年) 貨物宇宙船ノストロモ号は地球に帰還する途中である規則的な信号を受信する。人間以外の生命の可能性を考え、その信号を発信する惑星に行ってみた。 船長ダラス以下2名が上陸すると、そこには明らかに宇宙船があったが、生きているものはなかった。しかしそこに卵状の物体が多数あるのを発見、しかも中で何か動いている。顔を寄せてみると中から異生物が飛び出し、彼のヘルメットに張り付いた。 そのままノストロモ号に連れて帰るダラス船長。航海士のリプリー(シガニー・ウィーバー)他の乗員の危険回避のためにハッチを開けようとしない。しかし科学技術担当のアッシュ(イアン・ホルム)はハッチを開けて中に入れてしまう。 その異生物は船内に入ってしまった。 「スター・ウォーズ」の翌年の夏休み映画。 高校生の時、友人数人と観に行ったが、怖かったなあ。 ショッキングなシーンでは飛び上がるようにして驚き、あとで友人に笑われたような気がする。 卵をのぞき込むところで私など「わ〜」となってしまう。 そして顔にエイリアンが張り付いたのだが、いつの間にかはがれ、そのエイリアンは死体で見つかる。元気になって食事していると、突然腹が引き裂かれて中からエイリアンが飛び出す! これが覚えてはいなかったが、まだ幼体である。 白っぽい色で、凶悪な二重の歯は持っているが、どこか赤ん坊らしい可愛らしさも残っている。 でも凶暴。 これから宇宙船内という閉じた空間でエイリアンと人間の戦いが始まる。 とにかく武器もない船内で手製の火炎放射機や探知機を駆使しての対決。 「ああ、後ろから来る!」とかの連続。 しかしこの映画、改めて見るとストーリーとしてはそれほど目新しくもない。閉じた空間での異生物との対決など、それこそ「遊星から物体X」(古い方ね)や「マタンゴ」などよくある話だ。 にも関わらず、映画史を変えた名作だと思う。 ショッキングな演出もあるが、それはヒッチコックの「鳥」だって負けてない。 正直、この映画の見所はHRギーガーによるエイリアンのデザインだ。 黒くヌメヌメと光り、口からはなにやら粘着質の液体が漏れている。そして二重の鋭い歯を持った口。 思うにそれまでの怪物は人間が入った着ぐるみが基本だった。「物体X」も「マタンゴ」も。 ところがこの映画でやせ細った不気味な、黒光りをした昆虫にも近いような形態にすべて(と言ってもいいと思う)に変化していった。 科学担当のアッシュが実はロボットで、会社から「異生物を持ち帰ることをすべてに優先すべし」という命令を受けていたとわかる。 7人いた乗組員も3人に減り、船を爆破し救命シャトルで脱出をはかろうとするが、シャトルに今度はエイリアンも乗り込んできて、しまった!という展開。 エイリアンは結局は宇宙に排出され、リプリーは助かって地球へ。 あれ?「連れて帰った猫にエイリアンが実は寄生していた!」というオチがあったと思っていたのだが、それはなかった。 それは何かヴァージョン違いなのだろうか? それとも私の幻想の勘違い? 「エイリアン2」も観なきゃ。 映画とは関係ないが、乗組員がみんなタバコをスパスパ吸っている。79年当時はまだまだタバコを吸うのが当たり前だったし、これからも吸い続けると思っていたのだなあ。 (このページのトップへ) 狩人の夜日時 2014年7月13日19:40〜 場所 新橋文化劇場 監督 チャールズ・ロートン 製作 1955年(昭和30年) 貧乏故に銀行強盗をしたベン(ピーター・グレイブス)。 彼は警察に捕まる直前、家に帰り手に入れた1万ドルの大金を息子ジョンと娘パールに託し、その在処を母親にも言ってはいけないと誓わせる。 やがて警察に捕まるベン。彼は死刑になったが、死刑までの間、同室だったハリー・パウエル(ロバート・ミッチャム)に金をどこに隠したかをしつこく聞かれた。 ハリーは出所後、ジョンの母親のウィラ(シェリー・ウインタース)に近づく。そしてウィラと結婚、ジョンやパールに金の在処をしつこく聞くのだが、ジョンは「父さんとの約束だから」と取り合わない。 これもグリソムギャングで上映され、好きな俳優のロバート・ミッチャムの主演だから気になっていたのだ。 ハリーはしつこく子供にまとわりつき、妹を手名付けて言わせようとしていくサスペンスはヒッチコックも負けない。 近所の人は「ハリーさんは未亡人を助けてくれたいい人。さすが伝道師」と疑わない。 しかしハリーは金目当てだとウィラに悟られ殺してしまう。これで子供たちを守ってくれる人はいない。 ついに追いつめられ、妹の「ぬいぐるみの中」だと知られれてしまう。 近所の貸しボートのじいさんは「困ったときはいつでもお出で」と行ってくれたが肝心の時は酔っぱらって役に立たない。 ついにジョンとパールは家を出る。 そして川をボートで下っていった先の未亡人ミス・クーパー(リリアン・ギッシュ)に拾われる。 クーパーはそういった親のない子供も引き取って家に置く代わりに働かせていた。 これで落ち着くか、と思われたが、ハリーがかぎつけてやってくる、という展開。 最後はハリーがジョンとパールの元にやってきて金を取り上げようとするが、クーパーに銃で追い返される。 そして警察に捕まる。 ここからがこの映画の肝なのだ。 ハリーが捕まってメデタシメデタシではない。 警官がハリーを押さえつける姿を見て父の姿をダブらせ、ジョンは「金はやるからもうやめてくれ!」とハリーに訴える。 そしてハリーの裁判。あんなにハリーを誉めていた人たちも「死刑にしろ!」という。 最後にジョンもハリーの裁判に証言に立つ。 このとき、ジョンが妙にいい服を着ている。 お金はどうやらジョンのものとなっているらしい。(アメリカの法律ではそうなるのか?) そのクリスマスの晩、クーパーさんい他の子供たちは鍋つかみと手作りのものをプレゼントする。ジョンも何かプレゼントしたいが、なにもない。仕方なくその場にあったリンゴをレースの敷物でくるんで渡す。 クーパーさんはそれを受け取って「このプレゼントが一番いい」と言う。 ハリーの指には左手の指には「HATE(憎しみ)」右手には「LOVE(愛)」と入れ墨がしてある。 ハリーは伝道師らしく、右手と左手を戦わせ「この世は常に憎しみと愛が戦っている」と言う。 そういえばハリーは結婚してもウィラが求めてもセックスしなかった。ハリーのような悪党なら「金も女もいただき」と考えそうだが、そうはしない。 そして子供を引き取っている一見善人のクーパーも金が手にはいるとジョンをちやほやする。 このように悪人が単なる悪人でもなく、善人も単なる全員ではない。 実社会はハリーの指のように常に「愛と憎しみ」が入れ替わる。 単なるサスペンス映画ではない、そんなひねりのあるところがこの映画の人気の秘密なのかも知れないな。 面白かった。 (このページのトップへ) 美しき冒険旅行日時 2014年7月13日17:40〜 場所 新橋文化劇場 監督 ニコラス・ローグ 製作 1972年(昭和47年) 父親に車で砂漠に連れてこられた14歳の姉と6歳の弟。父親は弟を殺そうとするが、弟がうまく逃げたために父は一人で車のガソリンに火をつけて自殺。 途方にくれた姉だが、弟を連れて歩いて帰ることに。 持ってきた缶詰は缶切りをなくして開けられない。なんとか穴を開けて中の水分を飲むことが出来た。 やがて木の下に小さな泉があるのを発見。二人はそこで一晩を過ごすが、朝になったらその泉はなくなっていた。 途方に暮れていると原住民の少年がやってきた。 言葉は通じない、しかし彼はこの砂漠で生きていく術を知ってる。姉と弟はこの少年について行くことに。 やがて一軒の家を発見。そこは空き家だった。 とりあえず3人はそこで過ごすのだが。 以前グリソムギャングで上映してタイトルだけ知っていた映画。「狩人の夜」が観たかったし新橋文化も8月末で閉館なので、観に行った次第。 「美しき冒険旅行」ってタイトルから夢のある気球にでも乗って繰り広げられるファンタジーな冒険映画かと思ったら大違い。正直このタイトルはどうなのだろう? この映画、正直説明不足でわかりにくい。 映画館のHPのあらすじを読んでいたから、最初に二人を連れている中年男が父親だとわかったが、それを読んでいなかったら父親とわかったどうか。 それに子供を拳銃で撃って殺そうとするがなぜそのように追いつめられたかの説明はなし。母親は? たぶんそんなことは作者にとってはどうでもいいことなのだろう。 この映画に登場する自然は美しいだけではなく、水は一晩でなくなるわ、大きなトカゲが他のトカゲを丸飲みしていたり、虫が動物の死体を喰っている。 正直不気味。 そして少年は少女を好きになり、一緒にこの砂漠で暮らしていくことを望むが、彼女は拒否する。 で、翌朝になったら少年は死んでいる。 そこがわからない。正直、唐突である。 結局、道を発見し少女と弟は都会に戻ることが出来る。 でもこのとき出会った大人たちはめちゃくちゃ冷たい。 「おまえ等なんかに関わってらんねーよ」という態度。正直、この二人は戻れなかったと思った。 で映画は都会の風景になって今まで出てこなかった主婦が出てきて、夫の会話にうつろになっている。 この主婦がなんだかよくわからず、その後カットバックで例の少年と少女と弟が水遊びしているシーンになるので、てっきり少女と弟は砂漠の暮らしに戻ったのかと思った。 (少年がなぜ生き返ったかは疑問だけど) でも後でネットでストーリーを読んだら、あの主婦は姉の数年後の姿で都会の人間同士の暮らしがちょっとイヤになり、「あの時はよかったな」と回想するらしい。 まあ「人間社会の競争より砂漠の暮らしの方がまし」という人間社会への否定、というか文明批判なのかも知れないが、だからといって砂漠がいいとは思わないなあ。 私はこの映画だめだった。 (このページのトップへ) 真夜中きみはキバをむく日時 2014年7月12日21:00〜 場所 目黒シネマ 監督 吉行由美 美大生のアスカ(三河悠冴)は美大の女友達と映画を観に行ったが彼女が帰り道で「めがねを映画館に忘れた」と言うので取りに行く。もう上映が終了していたが、映写技師一人が映写チェックをしていた。ところがその映写技師は3年前に突然姿を消したかつての恋人伴零時(田村晃一)だった。 零時は今は映画館に住み込んでいるという。再びつきあいが始まるアスカと零時。かつては健康的だった零時だが、今は太陽の光が体によくないという。 しかし零時の様子はなにか変だ。 零時の周りを黒凪神(麻生涼)という謎の男がつきまとう。 目黒シネマが今年開館60周年だそうで、それを記念して作られたのがこの映画。(別に「目黒シネマ開館60周年記念映画」とはクレジットされないけど) 目黒シネマのオーナーは大蔵映画なのでこういった企画も可能なのか。提供(配給と同じと考えていいのか)はオーピー映画、監督は吉行由美、フィルム作品、上映時間は60分というピンク映画の形式だ。 登場人物が映写技師という職業でロケされてる映画館が目黒シネマなのもそういった事情なのだろう。 でも何でボーイズラブでヴァンパイアなのかがわからん。 普通に男女の恋愛ものでも良さそうなのに。 ちょっと変わった恋愛もので低予算で出来るからか。 零時は3年前にヴァンパイアに襲われてヴァンパイアになってしまった。謎の男、黒凪神もヴァンパイアで時々零時に瓶に入れた血を与えている。零時はかつて両親を襲ってしまい、それを悔いて人を襲うことは出来ないが、血は必要なのだ。 結末に行くとアスカは神に「零時を助けたかったら自分の血を吸わせてあげなさい。そのかわり君も戻れなくなるよ」と言われる。 アスカは零時を助けたい一心で彼に自分の血を吸わせる。 ヴァンパイアになってしまうアスカ。そしてすぐに自らの血の欲望のために零時を襲ってしまう。 そのために死んでしまう零時。 えっ?ヴァンパイアって不死身じゃないの? ここでものすごく疑問を感じたが、それはまあ触れないでおこう。私もヴァンパイアってそれほど好きではないので観てないから基本的ルールも知らんし。 でも「何でBLとヴァンパイアの組み合わせ?」と思っていたのだが、「そっちの世界に入ったらもう戻れないよ」という趣旨のせりふがあり、それはゲイにも共通すること。 「そっちの世界に入ったらもう戻れない」という覚悟が必要だと言うことではゲイもヴァンパイアも同じである。 だからこの映画で同様に描かれるのは私には納得である。 出演者について。 事情はあるだろうからあまり書きたくないのだが、アスカ役の三河悠冴、鼻の下の右側に比較的大きなほくろがあって、どうもそれが邪魔なのだ。何となくユーモラスに見えてしまう。だから美少年キャラではなくなってしまって・・・ メイクでほくろを目立たなくして欲しかったな。 神役の麻生涼は流し目でいかにも美形ヴァンパイアっぽい雰囲気があってよかった。 正直、彼が零時役をやった方が僕にはよかった。 R18じゃないから上映される機会はゲイピンクより多いだろう。イメージフォーラムで上映されるBL映画とはちょっと客層も違うが(ピンク映画の流れを汲む客層のようだ)この映画が興行的に成功して、ピンク映画とは違う一つの路線として始まればいいと思う。 (このページのトップへ) MR.ジレンマン 色情狂い日時 2014年7月12日18:10〜 場所 新橋ロマン劇場 監督 小沼勝 製作 昭和54年(1979年) 万年課長補佐岩田(柄本明)は会社でも家でもバカにされる存在。ある朝、電車の中でたまたま前に座ったシスターの口に自分のナニが入ってしまうというアクシデントがあった。ところが周りの乗客に騒がれそれを部下の野口(ベンガル)に見られてしまい、会社にも知られてしまう。 まずは同期で入社だが今は専務の樫山(高田純次)のおしかりを受け、次に社長(綾田俊樹)にもしかられてしまう。 樫山も社長も好色で一日中女子社員に手を出していた。 岩田は家に帰っても家族にバカにされ、ついにジレンマンになってやると決意。 無敵のジレンマンとなって女に手を出す社長や専務を片っ端からやっつける。そして町の不良に絡まれている息子も助ける。 社長たちはジレンマンの正体を暴こうと必死になり、会議を開く。野口は岩田を怪しいとにらみ、ついに岩田が隠しているジレンマンの変装道具を発見する。 今度は野口がジレンマンになったのだが。 この映画は封切りの時、キネ旬のグラビアで知っていた。 柄本明、高田純次、ベンガル、綾田俊樹らの東京乾電池が出演。東京乾電池のことは79年ぐらいでは私は知らなかったと思うから、奇妙なジレンマンの扮装を覚えていて、後に出ているのが乾電池のメンバーだと知ったのだったろうか? とにかく、東京乾電池のメンバーが出ていることは知っていたので前から機会があれば観たいと思っていたのだ。 (ちなみに数日前にこの新橋ロマン劇場も8月31日の閉館が発表された。残念) クレジットを見ると「ギャグアドバイザー」として岩松了も参加していた。 映画の方だけど、さえない男がスーパーマンに変身して大活躍というありきたりなコメディ。 岩田がアメリカ映画「スーパーマン」(当時公開していた)のポスターを見て「俺もなってやる!」と決意するのだが、今なら著作権がどうのと逆に出来ないカットだなあ。 ジレンマンの格好をするとなぜ強くなるのかという説明はない。 岩田は自分が好きな飲み屋の女将から「抱いて」と言われて戸惑い、妻と子供を捨てようかと思って自宅に電話したら、ニセのジレンマンが家族をいじめていた。 それを知って家に駆けつけ、ニセジレンマンと対決する。 妻に「家が壊れるから対決は外でやって〜」と言われたらい競争とかやって海岸で宮本武蔵ばりに対決を始める。 で、社長や専務の応援団も入ってのお祭り騒ぎの対決へ! もちろん岩田の勝ち。社長たちは事情を知らないので、にっくきジレンマンを倒してくれた褒美に岩田は課長に昇進。メデタシメデタシ。 若き東京乾電池の面々の活躍を確認でき、楽しかったです。 (このページのトップへ) 夢野久作の少女地獄日時 2014年7月12日16:30〜 場所 新橋ロマン劇場 監督 小沼勝 製作 昭和52年(1977年) 戦前のある女子高等学校。甘川歌江(小川亜佐美)と殿宮アイ子は仲がよく、いつしか深い関係になりつつあった。 歌絵は「走ることと食べることしか能がない」と周りからののしられ、英語教師のトラ子(絵沢萌子)は明らかに嫌っていて、不必要な罰を与えていた。 アイ子は名門殿宮家の娘だが、アイ子の父・愛四郎は自分の娘ではないと知っており、アイ子の母で妻であるトメ子に「誰の娘だ?」と詰め寄っていたが、いつも答えない。 ある日校長の森栖(桑山正一)は歌江を犯してしまう。 彼は今までに何人もの女子学生に手を出していたのだ。 実はアイ子の父は校長だったのだ。トメ子が女子学生時代に校長が妊娠させたのだった。 やがて歌江は妊娠した。校長の子供だ。 学校の創立記念パーティのあった夜、学校の一部が火事になった。その後から黒こげの死体が発見された。 その死体は歌江のものということになった。 夢野久作は「ドグラ・マグラ」のイメージ。と言っても映画しか観てないし、その映画を観たのも20年以上前だから私としては接点は薄い作家だ。 今回観たのは同時上映の「MR.ジレンマン」が観たかったのでついでに観た感じ。 完全に映画の世界に入れなくて白けるばかり。 まずは桑山正一の校長が悪役の貫禄を感じないからだろう。 桑山正一はいい役者だし決して嫌いではないのだが、女学生に手を出しまくる男で校長というとちょっと貫禄不足なのだな。いい奴にも見えないけど、 後半、歌江の幽霊やアイ子が次々と校長やその不正を知っている書記(三谷昇)らに復讐を加えていく。 その中で硫黄が吹き出てるような火山の近くのような場所で歌江とアイ子が出てくるシーンは(まあ)よかった。 しかし上映時間が1時間半で(ピンクとかロマンポルノは70分ぐらいまでが望ましいというのが私の持論)正直展開もまったりとしていて退屈したなあ、と言うのが偽りない感想。 (このページのトップへ) 未知との遭遇日時 2014年7月12日 場所 bru-ray 監督 スティーブン・スピルバーグ 製作 昭和53年(1978年) 砂漠で1945年に行方不明になった海軍戦闘機群が発見されたり(それも新品同様で)、旅客機が謎の飛行物体と遭遇するなどの異変が起こっていた。 そんな時、アメリカのある町で大停電が発生。原因調査のために技師のロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)は変電所に向かっていた。 その時、光る飛行物体を目撃。追跡したが振り切られる。 同じ頃、ジュリアン(メリンダ・ディロン)の3歳の息子バリーは家にやってきた不思議な光の物体に導かれいなくなってしまった。ジュリアンも光る物体を追いかけたが、ロイと同じ場所で振り切られる。 翌日ニアリーは昨夜光る物体と分かれた地点にやってきた。そこには多くの人が集まっていた。 しかし軍によって追い払われてしまう。 砂漠の戦闘機をはじめ、謎の現象を追っているフランス人学者・ラコーム(フランソワ・トリュフォー)はインドで多くの人が同じメロディを口ずさむのを目撃する。 一方、天文台では6種類の数字を受信したが、謎が解けないでいた。しかしラコームの通訳が「これは地球の緯度経度を示すのではないか?」という。 そこはワイオミング州のデビルタワーと呼ばれる山を示していた。 公開時に観たっきり36年ぶりに鑑賞。 最近「ジョーズ」とか「ジュラシック・パーク」とかのスピルバーグ作品をよく見返しているが、これは「GODZILLA」(2014)を撮ったギャレス・エドワーズが「スピルバーグの映画は何百回と観た。意識したにしろ無意識にしろスピルバーグの映画言語が身に付いている」として、具体的な作品名としてこれらの映画を挙げていたのだ。「GODZILLA」の渡辺謙はこの映画のフランソワ・トリュフォーに影響を受けているとも言える、と言っていたのだ。 この映画については公開時、かなり期待していったが「なんだか思っていたのと違ったなあ」というのが第一印象。 今回はどんな映画かわかっているので期待と違うとは思わなかったが、「やっぱり『ジョーズ』みたいな映画を期待しちゃうよなあ」と思いながら観ていた。 先に結論を言うと人類と宇宙人が初めてコミュニケーションをとりました、という内容。映画的に大しておもしろくないのだよ。 「ジョーズ」が大ヒットしたのだから当然ユニバーサルで次もとってもおかしくないと思うのだが、この映画はコロンビア。ユニバーサルで撮ろうとしたが「この企画じゃねえ」と断られてスピルバーグ作品なら何でもいいと思ったコロンビアで撮ったのではないかと思えてしまう。 いろんな不思議な現象がありました、それを追跡していったら宇宙人と出会えました、ってそれだけなのだよ。 話はラコーム博士とニアリーたちが平行して描かれ、ついに途中で彼らは出会うわけだ。 ニアリーは最初にUFOと出会ってから、「山のイメージ」を植え付けられ、それを何とか絵や模型で再現しようとする。 それはシェービングクリームやポテトの固まりで作ろうとするが、だんだんエスカレートしていき、テレビで「国立公園のデビルタワー付近で有毒ガスが散布される事故が起きた」というニュース映像で自分のイメージがその山だとわかり、そこへ向かうという展開。 スピルバーグはいろいろと面白くしようとしているが、敵が攻めてくるような対決映画ではないので、映画的にどうにも盛り上がりに欠ける。 最後の最後に宇宙船が姿を現す。 それまでは私のイメージの中では「空飛ぶ円盤」というと金属性の物体をイメージしていたので、あのシャンデリアのような光輝く物体には驚いた。 そして5音階。 この音は当時覚えたし、今でも忘れない。 (そういえばこの後に作られた007でテンキー式のロックの開錠したときの音に遊びで使われていた) 「ジョーズ」で大ヒットして一流監督になったスピルバーグが自分の作りたかった「宇宙人との出会い」を自由に映画にした感じ。正直、観客は少し置き去りにしているので「ジョーズ」を期待していた人ははずされる。 それでもこういう趣味の映画を撮らせてもらえたんだから、もうそれだけスピルバーグは勢いがあったという証明ですね。 (このページのトップへ) ロストワールド/ジュラシックパーク日時 2014年7月6日〜 場所 bru-ray 監督 スティーブン・スピルバーグ 製作 1997年(平成9年) ハモンド氏(リチャード・アッテンボロー)のジュラシックパーク計画が頓挫して4年。マルコム博士(ジェフリー・ゴールドブラム)はハモンド氏に呼び出された。 ハモンド氏はジュラシック・パーク計画の失敗のため、今やインジェン社の実権はなく追い出された状態だった。しかしマルコムをはじめ、彼の恋人で古生物学者サラ(ジュリアン・ムーア)等に島に行って恐竜の調査を願い出る。 ジュラシックパークを作った隣の島が、恐竜の飼育場としていて、そこで恐竜たちは独自の生活をしているらしい。 インジェン社に再び島に手をつけさせないためにも、「島をそのままにしておこう」という世論を作りたいのだ。 「危険すぎる」と断ったマルコムだが、すでにサラが行っていると聞いて行くことに。 そこには恐竜たちが自由に生きる島だった。 だがこの島に来たのはマルコムたちだけではない。インジェン社は恐竜のうち何頭かをアメリカ本土につれて帰り、本土でテーマパークを開く計画をしていたのだ! 「ジュラシック・パーク」の続編。公開以来17年ぶりに再見。去年同じくbru-rayで1作目を再見したが、こちらも負けず劣らす面白い。 今日、昼間に「ジョーズ」を観て、同じスピルバーグのこの映画を観たわけだが、同じことをやってるけどスケールとか明らかに上で素晴らしい。 「ジョーズ」と違って危機また危機の連続で飽きさせない。 スピルバーグの中ではこの「ジュラシック・パーク」シリーズが一番好きになるかな。 「最初はみんな恐竜に見とれるが、やがて逃げ回るようになる」 今回は冒頭でこの島に何も知らずにたまたまやってきた金持ちの親子の娘が、高さ30cmぐらいの小型恐竜コンプソグナトスに襲われる。 もう掴みは十分である。 小さな女の子がこの小型恐竜に囲まれるカットは初見の時も非常に記憶に残った。 続いてTレックス。 まだ子供のTレックスをインジェン社のハンターたちが捕まえて囮にして親を呼び出そうとする。 それをサラたちが助けるのだがかえって親を怒らせてしまう結果になってしまう。 マルコムたちのトレーラーハウスが襲われ、崖から落ちそうになるシーンは「高いところから落っこちそうになる」というサスペンス映画の王道といえる。 特にガラスが割れていくシーンなどはハラハラの極地! そして今度は(悪役側だが)冒頭に出てきたコンプソグナトスに襲われる。この小型恐竜に束になってかかられる恐怖が一番怖い。 そして今度はヴェロキラプトル! これがたどり着いた通信センターを襲って、サラが逃げようと穴を掘っている時に逆に出てきたシーンでは声を出して飛び上がった。(映画館で観てなくてよかったと思う) で、インジェン社はTレックスの親子を本土サンジェゴに連れて帰ることに成功。だが船が桟橋についた途端に、Tレックスは暴れ出して上陸。 ここが初見の時は「いらないんじゃないかなあ?」と思ったものだ。 だがそこが難しい所で、島で終わってしまっては前作と全く同じなってしまうので、それでは作る意味がない。 恐らくはその前にお腹いっぱいにさせてもらってので、もう一品料理が出てきてしまうと、「いやもう十分いただきました」と無理に食べてもおいしく感じない、そんな気分になってしまったのだな。 「家の庭に恐竜がいるよ」そう両親言ってくる子供のシーンはめちゃくちゃシュール。 いいところなのだが、ごちそうはもう十分にいただきました。 見せ場って多すぎてもだめなんだなあ、という気になった珍しい映画です。 やっぱりスピルバーグの映画ではこのシリーズが一番好きだな。 (このページのトップへ) ジョーズ日時 2014年7月6日 場所 bru-ray 監督 スティーブン・スピルバーグ 製作 1975年(昭和50年) いよいよ海開きというアミティ市。海水浴はこの町の大きな資金源だ。 そんな時、海でキャンプをしていた若者グループの女性が海に入り、死体となって発見。医者は最初は鮫に襲われたらしいと警察に報告したが、事態が大きくなるのを恐れて「船のスクリューに巻き込まれた」と意見を変えた。 警察署長のブロディ(ロイ・シャイダー)はとりあえず海は閉鎖しようとしたが、市長によって反対された。 しかし第2の犠牲が出た。犠牲者の少年の母親が鮫に3000ドルの懸賞金をかけた。 全米から鮫退治に素人がやってきた。鮫が一匹しとめられたが、ブロディによって海洋協会から派遣されてきたフーパー(リチャード・ドレイファス)は「鮫の大きさが違う。もっとでかいはずだ」と主張。解剖してみると少年の死体は出てこない。 やがて第3の犠牲が出るも海開きは決行。またしても犠牲者が出て、市長も鮫ハンターを雇うことに賛成する。 雇われたのはクイント(ロバート・ショー)。 こうしてクイント、ブロディ、フーパーの3人はORCA号に乗って出かけるのだが。 1975年に大ヒット。この年は夏は「タワーリング・インフェルノ」、年末にはこの「ジョーズ」公開と伝説的な映画が連続した年だった。 もちろん封切り時に観ている。 今回、封切り以来、39年ぶりに再見。 いや驚いた。 こんなまったりした映画だったとは! 鮫が出てきて人間を襲うシーンになるといいのだが、ドラマ部分がやたらと長く間延びしている。 2時間越えの映画なのだが、もっと短くてもよかったのでは?というのが今の率直な感想。 いやかなりのシーンを1回しか観ていないのに記憶していたのだから最初に観たときの衝撃は凄かったのだ。 鮫が襲ってくるシーン、ジョン・ウィリアムズのお馴染みの音楽が鳴り響き、海の中から泳いでる人々の足を見上げるカット。もうこれだけで怖い怖い。 そういったシーンが何回も出てきて怖い。 特に桟橋から肉の塊を投げて、その肉に鮫が飛びついて桟橋を壊し、一人が海に流される所。 ここは怖かった。 また夜の海でブロディとフーパーが探索に出てるときに襲われた後の船を見つけ、フーパーが潜って死体を発見する時のショッキング。 そういう各シーンの良さは際だっているが、全体としては今観るとずいぶん間延びした映画だな、という印象。 それは後半の鮫退治に出てからも同じで、対決シーンと対決シーンの間のドラマが妙に退屈なのだ。 鮫が姿を現すのは1時間経ってからで、それも口の部分が出てくるだけ。全体像がはっきりするのは1時間20分も経ってからだ。こんなに時間があったんだ! この映画が出来てから約40年、こっちの意識が変わってしまったのか? それとも初見の中学生の時の印象が強すぎたのか? もし私が今回初回だったとしたらまた印象がかわっていたろうか? 初回に観たときの怖かった記憶、その時の衝撃は未だに忘れられないし、忘れたくないな、と思う。 (このページのトップへ) パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間日時 2014年7月5日16:40〜 場所 新宿武蔵野館スクリーン2 監督 ピーター・ランデスマン 1963年11月22日、アメリカ、ダラス。 この日遊説のためにやってきたケネディ大統領はオープンカーで沿道の国民に挨拶している時にライフルによって銃撃。 パークランド病院に搬送されるも死亡。 ダラス市警察、シークレットサービス、FBI、病院の医師や看護婦、ケネディを撮影しようとして偶然にも暗殺の瞬間を撮影してしまったカメラ好きと男、狙撃者のオズワルドの兄と母、彼らの混乱の4日間を描く。 週末に何を観ようかいろいろ検索しているうちに発見したのがこの映画。 正直面白かった。見逃さなくてよかった。 映画はフィクション性を極力排し、その日にあったことのみを映像化してみせる。 パレードの通り道で大統領を撮影しようとエイブラハム・ザプルーダーは8mmカメラを構える。 病院は日常通り。FBIでも大統領の話題で仕事もそぞろ。 そんな時に大統領が狙撃される。 搬送先の病院では大パニック。 担当になったのはたまたま当番だったが若き研修医ジム(ザック・エフロン)だけ。後にベテラン医師も駆けつけるが、いきなり大統領を任された若き医師の心中はいかばかりだったか。 そして大統領の死後、棺をどうするかで大わらわ。 もともとエアフォース・ワンは棺を積むなんて考えていない。椅子は二つはずす、積み込む時は入りきらないとして内装の一部をノコギリで壊す始末。 また病院から遺体を搬送するときも一悶着。 地元警察の監察医は「遺体は殺人事件なのだから市警察の管轄で動かすことは許さない」「バカ野郎!誰だと思っている!」という応酬。 役所の縄張り争いは日本だけでなくどこの国でもあるのだな。 そして逮捕されたオズワルド。 彼は要注意人物としてマークはされていたらしい。でもたぶん監察対象のランクは低かったのだろう。 「俺の家族を訪ねるな!」と抗議にFBIダラス支局にいくが、「ハイハイ」とテキトーにあしらわれる存在だったらしい。 偶然撮影してしまったエイブラハムは警察、FBI、シークレットサービス、そしてマスコミから追いかけられる羽目に。 そして暗殺の瞬間まで写っているのはすごい。 プロの報道なら興奮してカメラを回すだろうけど、素人なら暗殺の瞬間は逆に驚いてシャッターから指をはなしてしまっても不思議ではないのだ。 そして現像が出来る出来ないでコダックその他の現像所をたらい回し。 大混乱だ。 そしてオズワルドの兄。「俺なら家族を連れてどっか遠くへ住むね」と警官に嫌みを言われる。エンディングでわかったが、兄は暗殺犯の兄という立場を受け入れ、一生ダラスで過ごしたという。 母親も凄くて「私の息子は政府のスパイよ!」といい放つ、危ないオバサンだ。 ところがオズワルドもすぐに殺される。 事件の真相は謎のまま。 FBIダラス支局は実は自分たちの失態が公にならなくてほっとしている。 オズワルドの埋葬は各教会が拒否し、棺の担ぎ手もままならない状態での埋葬。 取材にきていたマスコミ(か野次馬)に「棺を運ぶのを手伝ってくれ」とお願いする始末。 約90分の映画だが、当日の大混乱、当時のアメリカなどがひしひしと伝わってきて見応え十分の映画だった。 満足した。 ジャッキー・アール・ヘイリーが神父役で出ていたとはクレジットを観て知った。 (このページのトップへ) 革命の子供たち日時 2014年7月5日13:40〜 場所 テアトル新宿 監督 シェーン・オサリバン 製作 2012年 日本赤軍のメンバーとして中東に向かった重信房子の娘、重信メイ、ドイツ赤軍の中心的メンバーだったマインホフの娘を中心に重信、マインホフと交流の深かった人たちへのインタビューを構成したドキュメンタリー。 若松孝二の「実録・連合赤軍」などを見て日本の左翼学生運動の歴史はおおよその予備知識があるので、重信房子に関する部分は興味深く観ることが出来た。 でもドイツのマインホフに関しては映画「バーダー・マインホフ」を観た程度の知識しか持ち合わせていないから、正直ピンとこない。 だから結果的に重信房子、メイ、足立正生、塩見孝也らの日本側のインタビューばかりを注意して観るようになってしまった。 メイは母親やその同士たちと暮らしていて、足立正生などの活動家と共同生活。言ってみればたくさんのお父さんがいるようなものだったのだろうか? メイの実際の父親はパレスチナの兵士らしいが詳細は不明。 その中で同じく海外で生活していた足立正生が、「メイも大きくなったから、『みんなで自分たちは革命家で世界から追われている』という話をしたんだ。そしたらメイはもう知っていた」というあたりが興味深い。 やっぱり頭のいい子だったんだろうなあ。 その後、活動家たちとあちこち転々とする暮らしをしていたそうで、実際に母と暮らしたのは5、6年になるらしい。 時は経って2000年に突然重信房子が大阪で逮捕された。この時のことはよく覚えている。 大阪から東京に新幹線で到着し、マスコミなど東京駅にいる人たちに「頑張るからね〜」と明るく言っていた。 手配写真は若い頃の写真しか掲示されていなくて、それが重信房子のイメージだったからそのオバサンぶりに驚いたものだ。 翌日の朝日新聞だと思うが社説か天声人語だったかに「未だに革命の夢に生きている。夢から抜け出せない人」という否定的な書き方をしているのが印象に残っている。 その書き方には私は非常に違和感が残った。 重信メイは現在日本国籍を取得し、日本で上杉隆などとBSなどでニュースキャスターをしているそうだ。 正直言うけど、重信メイは美人である。 母親も若い頃は美人だったが、父親もある程度イケメンだったのではないか。その二人の子供だから日本人と中東の血が混じったエキゾチックな美人になったような。 こういうことを言うと「貴様は女性を容姿で差別するのか!」というお叱りを受けそうだが、キャスターとしてでるにはやっぱりルックスもよくないと。 今日は初日の1回目の上映で、重信メイさんと足立正生さんのトークイベント付き。 重信メイさんが映画中ではずっと英語で話しているので、一瞬「日本語出来ないのかな?」と映画を観てる間は勘違いしていた。 終了後にパンフレットにサインをしてもらったが、その時に聞いてみたら「この映画は監督が日本向けに作ったわけではなく、英語圏の人を中心に作りましたから、英語で話しました」ということでした。 今後、彼女がキャスターとかニュース解説者としてテレビなどで活躍してほしいとも思いますが、母親が悪人扱いされてますから、大手ではなかなか難しいかなあ。 (このページのトップへ) 渇き。日時 2014年7月4日21:30〜 場所 新宿ピカデリー・スクリーン5 監督 中島哲也 埼玉県北部の深夜のコンビニで客と店員の3名が殺された。通報者は駆けつけたガードマンの藤島昭和(役所広司)。彼は去年まで刑事だったが、妻の浮気相手に暴行を働く事件を起こし、そのことが原因で警察を退職し今はすさんだ生活をしていた。 そんな彼の元に元妻の桐子から電話があった。娘の加奈子(小松菜奈)がここ数日間帰らないと言うのだ。 早速加奈子の友人たちに会っていく藤島だが、友人の一人の森下(橋本愛)は加奈子をよく言わない。そして同じく友人の長野はどうもクスリをやってるらしい。 中学時代の友人に会うとはクスリとかヤクザとかとつながりのある連中が出てきた。 加奈子は悪い連中に巻き込まれてクスリとかに手をだしていたのだろうか? そんな時、森下から「長野から預かった」とロッカーの鍵を渡された。そして長野は殺され、ロッカーの中から出てきたものは?? 嫌いな監督の一人、中島哲也監督の新作。 予告を観た段階からどうにも好きになれない映像なのだが、役所広司、妻夫木聡という「この人が出てればとりあえず観る」という役者が二人も出てるので観ないわけにはいくまい。 予想通り嫌いな映像のオンパレード。 ちゃかちゃかと短いカット、揺れるカメラ、血しぶき、見る人に不快感を与えるような笑顔。 しかもカットの方は時系列を飛ばしたカットつなぎをするので(3年前のカットと今のカットを数秒づつ交互につなぐというような)まあ観づらい。 独特のセンスなので、園子温と同じく好きな人には好きなんだろうけど、私はだめ。ひたすらだめ。趣味が合わないとしか言いようがない。 しかもバイオレンス。すぐ殴る。 それだけではなく、加奈子の中学時代にいじめに遭っている少年「ボク」が出てくるが、この少年に対するいじめがひどい。観ていて嫌悪感、不快感ばかりが残る。 中島哲也はこういったいじめが好きなんだろうな、と思ってしまう。 結局、長野が託したロッカーにあったものとは、どこかのスケベ親父と例の少年「ボク」や加奈子の中学時代の友人で自殺した少年、そして見たことがない少女(中学生?小学生?)がセックスしている多数の写真だった。 最初のコンビニで殺された男の一人がこの写真を撮っていたのだ。しかもスケベ親父の一人が警察の幹部だった。 だから警察は必死になっていたのだ。そのスキャンダル隠しに。 数々の殺人も加奈子の元締めとなっていたジジイが使っていた殺し屋(オダギリ・ジョー)によるものだった。 加奈子は写真を元にオヤジたちを脅迫し始めたのだ。だから周りの人間が殺された。 しかし殺し屋は加奈子を殺していない。 実は加奈子がオヤジにセックスさせた少女の一人の母親が加奈子を殺していたのだ。 それを突き止めた藤島。 すでに季節は冬になっている雪山で「加奈子の死体を掘り出せ!」と迫る。そして一人で掘り出すシーンでラスト。 劇中、「加奈子は最低のくずだ」と言われる。 「みんな加奈子に夢中になる」とも。 「加奈子は人が一番言って欲しいことを言って虜にしてしまう」とも。 「ボク」も加奈子によってボロボロにされたのに彼女を憎みきれない。 藤島にしてもそう。 自分の娘はクソだと言われ、実際にそれを見聞する。 でも憎みきれない。単なる親ばかではなく、人間とはそういうものなのか? 「憎い、クズだけど、好き、愛してる」という二律背反する感情は人間は会わせ持ってしまうものなのか? そういう複雑な人間の感情を描いた点は好きなのだが、いかんせん描き方がとにかく私にはあわない。 役所広司は今まで見たことのないくらいの汚れた役。 何をやってもうまい人だ。 妻夫木聡もいつもの映画が嫌みな笑顔に見えるから不思議。でもチュッパチャップをなめている演出はちょっとパターンだな、と思った。 (このページのトップへ) |