2015年1月

   
ジョーカー・ゲーム
ビッグ・アイズ 幌馬車は行く 魅力の人間 楽しんでほしい
復活の日 戦争のはらわた 四十七人の刺客 三つ数えろ(1946年版)
ハメット フレンチコネクション2 チャイナタウン 俺と彼氏と彼女の事情
マックQ ゴーン・ガール 張込み 野良犬

ジョーカー・ゲーム


日時 2015年1月31日15:50〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン9
監督 入江悠


訓練中の上官のしごきから戦友をかばったことがきっかけで誤ってその上官を死なせてしまった青年(亀梨和也)。彼は軍法会議で死刑となったが、結城(伊勢谷友介)という男に救われた。結城は彼にD機関でスパイ訓練を受けろという。ほかに選ぶ道もなく青年は訓練に参加。 
その頃、結城は陸軍内部でD機関の存続について問われていた。武野大佐(嶋田久作)はD機関不要論を唱え、最近ドイツから亡命した科学者が作った新型爆弾の設計図を入手するよう命じる。失敗したらD機関は解散だ。
青年は嘉藤という名を与えられ、その新型爆弾の設計図「ブラックノート」を保管するアジア某都市のアメリカ大使館に向かう。
もちろん「ブラックノート」をねらっているのは日本だけでなく、イギリス、ドイツ、ソ連などの各国もだ。


予告編を観て「おお、これは『陸軍中野学校』のリメイクなのか?」と思ったが、やっぱりそうではなかった。
座学で金庫破りのシーンがあったり、「一人の優秀なスパイは一個師団に相当する」などのせりふは増村保造の名作「陸軍中野学校」にもあって、しかも「中野学校」では主人公の名前は「三好次郎」「椎名次郎」だったが、今回は嘉藤「次郎」。影響を受けてないとはいわせない。

こっちは「陸軍中野学校」のような暗めのスパイ映画を期待してしまったが、出来た映画は安っぽい「ミッション・インシブル」と「ルパン三世」。
だめだこりゃ、と言いたくなるが、期待した私が間違いか。

原作があるのでそうは改変出来なかったのかも知れないが、失敗(と私が思う点)はまず2つ。
まず主人公の性格。
「情にもろい」という点。
アホか!である。
「スパイが非情でなくてどうするんだよ!」ということだ。

「美人に弱くてその美人を助けようとしてかえって窮地に陥る」というのは「ルパン三世」で、あっちは個人営業のの泥棒だ。だからどうしたっていい。
でも今回はスパイなのだよ。作戦遂行のためには犠牲をいとわなくてどうする。しかも仲間ですらない。

2つめも似たようなことになってしまうが、深田恭子の謎の女。なんだか陳腐でおそらくは「ルパン三世」の峰不二子をモデルにしてるに違いない。
観ていていやになった。

てっきり派手なアクションではなく、アメリカ、イギリス、ソ連、そして味方のはずの日本陸軍を巻き込んでのだましだまされの頭脳戦になるかと思ったら、アメリカ大使のタンスに入ってるかと思ったら、あっさりチェス盤と見抜き(それも根拠のない勘でしかない)、盗みだしに成功。

あれは偽物で本物は・・・という展開が欲しいね。
第一手に入れてから本国に送るまで2週間も大使が持ってるなんてのんびりしすぎてないか?

これがテレビ「スパイ大作戦」のように「相手に提出させる」ようなトラップを仕掛けて欲しかった。あれじゃ単なる泥棒だし。

最後に時計台に上って、火薬庫に導火線となる火薬を巻き、それが途中で消えてしまってそこに深田恭子の写真が落ちてくるというのは客をバカにしている。
それに逃げるにしても階段を上っていったら追いつめられるだけだろ?

主役の亀梨和也は頑張っているし、彼なら今の「三好次郎」を演じられると思ったが、私の期待する映画と作者たちが作りたい映画は方向性が違ったようだ。
残念な映画だったと思う。

あ、あと冒頭のスパイ学校のシーン、カメラを振り回しすぎ。その時点で観るのがいやになった。もちろん最後まで観たけど。










ビッグ・アイズ


日時 2015年1月31日13:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン2
監督 ティム・バートン


1958年、娘をつれて夫から逃れるマーガレット(エイミー・アダムス)。友人のいるサンフランシスコに逃れたが、得意な絵を生かして家具会社で製品に絵を描く仕事についた。
それだけでなく休みの日には絵描きが集まる場所で似顔絵描きをしていた。その時に隣でパリの風景画を売っていた男ウォルター・キーン(クリストフ・ヴォルツ)と出会う。ウォルターは何かと優しく接してくれて女手一つで子供を育てるマーガレットには力強い存在で、ついに結婚へ。
ウォルターは自分やマーガレットの絵を画商に持ち込むが売れない。あるバーで絵を売らせてもらうウォルターだったが、そのバーの主人と喧嘩になり、それがゴシップ記事となりそれがきっかけで絵が売れ始める。
その時にウォルターはマーガレットの描く大きな目を持った少年少女の絵「ビッグアイズ」をつい「自分が描いた絵だ」と言ってしまう。
評判は評判を生みマーガレットの絵は売れ始め、彼らは豪邸に住むまでに。しかしマーガレットの絵はウォルターの絵として売られていた。


日本ではあまり知られていないが(いや私が無知で知らないだけかも知れないが)、女流画家マーガレットの物語。
彼女の名前は知らなかったが、絵は見たことがあると思う。
大きな目は特徴的で、ちょっと不気味さも漂う。

テレビの映画紹介コーナーでこの映画が取り上げられ「ティム・バートンは彼女の絵のファンです」と言われて「確かにそうだなあ」と思った。
彼の映画に登場するキャラクターには明らかにその影響を感じる。「フランケン・ウィニー」もそんな感じだ。

観ている間中、ずっと思ったのは「絵の世界も音楽の世界も『それを創り出す才能』と『商売にする才能』は別ものなのだなあ」ということ。
「いい作品を作れば売れる」というほど世の中甘くはない。
「作品」が「商品」になるにはそれはまた別の才能が必要なのだ。

小説で言えば編集者であろうし、映画で言えばプロデューサー、音楽で言えばレコード会社で活躍する人々だろう。
マーガレットの絵もウォルターの存在がなければあれほど売れなかったと思う。

これは過去の話ではなく、昨年の日本でも「佐村河内事件」があった。同じ音楽でも作曲・新垣隆ではなく、盲目の作曲家・佐村河内の方が売れたのだ。

この映画で言えばもちろん嘘をついていたウォルターも悪い。
しかしバーで絵を売り始めた頃「その絵を見て画家と会った方が売れる」と言っていた。その頃は絵を売るための方便だったのだ。
ただし余りに売れ始め言うに言えなくなってしまった。

ウォルターとマーガレットの関係も夫婦ではなく「画家とマネージャー」の関係だったらもっと円満にいったのに、と思う。

映画は後半マーガレットとウォルターの訴訟になる。
ここで映画は訴訟合戦になっていくのかと思ったら、裁判長が「では決着をつける方法はただ一つ。二人に絵を描いてもらいましょう」となる。
マーガレットは絵を描き、あっさり裁判は終了。
分かりやすくてその方がいいですね。

ウォルターという人はもともと風景画を描いていたが、実はその絵も他人の絵だったようだ。
女にもやたらと声をかけるし、著名人と友達になりたがるという見栄っ張りの男だったようだ。

マーガレットはそういう男と結婚してしまうし、映画の冒頭でも夫から逃げ出す。つくづく男を見る目がないようだ。絵のことしか考えられない女性だったのかも知れない。

もう一度書くけど作品を創る才能と売る才能は別。その二つの才能が常に幸福な関係が築ければいいなと思う。







幌馬車は行く


日時 2015年1月31日10:30〜
場所 ラピュタ阿佐ヶ谷
監督 野口博志
製作 昭和35年(1960年)


蜜蜂とともに花を求めて全国を旅する移動養蜂隊。
山善(芦田伸介)たちもそんな養蜂隊の一つだ。山善は学校が夏休みになった孫娘、十美(笹森礼子)が一行に加わるのを迎えに行った帰り道、傷を負った男、野上雄介(赤木圭一郎)を助ける。前の晩に近くで列車強盗があり、実は野上はその一味だったが、逃亡の途中で警官隊に撃たれたのだった。
山善は野上を信じ、傷が治るまで世話をすることにした。
そこへ人相の悪い男たち(郷英治、武藤章生)がやってきたが、十美に乱暴をしようとして野上の追い払われる。
ある日町まで買い物に行った十美と野上。そこで強盗団のリーダー鬼島(水島道太郎)に捕まってしまう。
一度は野上を解放する鬼島。しかし今度は山善たちを襲い、無理矢理加わった。鬼島たちは養蜂隊を隠れ蓑にして逃亡を図ろうとする。


ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングの女優特集は笹森礼子。
笹森礼子と言えば赤木圭一郎の相手役でこの特集の1週目が「幌馬車は行く」で2週目が「拳銃無頼帖・不敵に笑う男」だ。

この「幌馬車は行く」は学生の頃に文芸地下(だったと思う)で観ているが30年以上ぶりに再見。この映画は理由は解らないがDVDにはなってない。
昔観たときの印象は「養蜂隊という苦しい設定で要するに和製西部劇がやりたいのだなあ。ばかばかしいなあ」という印象。この場合の「馬鹿馬鹿しい」はほめ言葉ではないが、かといって本気で馬鹿にしているわけではない。
愛を込めて苦笑いしていると言うべきか。

元はワルだが今は改心していい人間に成ろうとしている、というのは「拳銃無頼帖」と同じく赤木(というか日活アクションと言った方がいいいのか)の定番の役ところ。

久々に赤木圭一郎のアクション映画を観たので面白く感じた。これが連続して観ると「マンネリだ」と批判的に名ってしまうが、たまに観るにはいいらしい。

プリントの状態がよかったため、今回ロケをしている富山県の立山連峰の美しさも堪能できた。
日活映画は小林旭の「渡り鳥」シリーズなどでも地方ロケが話題になるが、赤木の映画もそうである。
以前観たときはプリントが赤かったせいか景色の美しさをまるで記憶に残ってない。あるいは赤木だけを観ていたせいか。

結局水島たちから逃れようとして養蜂隊の人たちは逆襲する。水島は自分の子分(武藤章生の方)を盾にして逃げようとする。それで子分のナイフ投げによって絶命。
悪は滅びる。
そして駆けつけた警官隊によって赤木も逮捕されるが、すでに笹森礼子と恋仲になっているので、赤木の出所を待って結ばれるだろうというハッピーエンドのエンディング。

89分という短さもあって手軽に楽しめる日活アクション。









魅力の人間


日時 2015年1月24日21:10〜
場所 新宿K's cinema
監督 二ノ宮隆太郎
製作 平成24年(2012年)


ドリンクの自動販売機メンテナンス工場で働く若者たち。
高橋は昨日パチンコかなにかで10万円勝ったらしい。
そしてガールズバーで運命の女に会ったと言っている。
高橋は同僚の無口な依田が気に入らない。何か気に入らない。坂田(二ノ宮隆太郎)は依田を昼休みにサッカーに誘ってみんなの輪に入れさせようとしている。大島は依田に冷たい高橋をいさめている。
依田は女がいて別れ話を切り出される。その帰り道高校の先輩女性に会う。
坂田は恋人から「浮気したでしょ?」と責められる。
高橋はついに依田を殴る。
依田は別の日、この間の先輩と飲みに行き、そのまま先輩の部屋でセックスする。
坂田は合コンしている。依田は先輩に「かわいそうな人だね」と言われキレる。そんな帰り道依田は坂田と出くわす。
坂田に「かわいそうだね」と言われまたキレる。
翌日、仕事を休みかけた依田だが昼から会社に行き、坂田に謝る。
坂田は依田をサッカーに誘い、罰ゲームとして四つん這いになってケツをだせという。坂田は依田のケツにビンタを何回も繰り返すのだった。


89分の長編。
はっきり言うけど、「これって映画ですか?」と言いたくなる。

日常的などうでもいい会話が延々と続き、話がループする。
エビフライのしっぽを食うか食わないとかデートでは海に行くか行かないとか、延々と観客に対してサディスティックに見せつける。
実際の会話というのは話がループすることもあるけど、実際の映画でそれをやられるときつい。
私が一番苦手な映画。

しかも基本的にワンシーンワンカットで、役者の演技をとる続ける。「編集こそが映画」という考えが好きな私にとっては延々とだらだらとした芝居を見せられるのは苦痛で
ある。

そしてテーマにしてることも監督の半径1mで起こってるような(他人にとっては)どうでもいい話。
早く終わらないかと時計をよく観た。

ではなぜ観に行ったのかというと上映後に二ノ宮監督といまおかしんじ監督と川瀬陽太さんのトークイベントがあったから。

日本映画学校の監督コースに入ったが1年でやめて今度はENBUゼミで俳優コースになって自主映画を作るようになったそうだ。

上映後にロビーにいた監督と話したが、いわゆる台詞っぽいではないので、脚本にはどの程度書かれていたかを聞いてみたが、ある程度は書き込んで役者が膨らませていった部分も多いらしい。

自主映画らしい映画で正直「商業公開するのはどう?」という思ったのが本音。





楽しんでほしい


日時 2015年1月24日20:45〜
場所 新宿K's cinema
監督 二ノ宮隆太郎
製作 平成24年(2012年)


ある家では父と母が毎日犬の散歩に出かけていた。
母親は亡くなり父が一人暮らしをしている家に転勤で家を離れていた息子が中学の同級生の結婚式に出席するために帰宅する。
一晩泊まって息子は結婚式の受付をするために家を出る。

19分の短編映画。モノクロ。
映写事故なのかもともとそうなのかが分からないが、父と母が犬の散歩に行くシーンはサイレント。
息子を演じるのは二ノ宮監督本人で、父親も本当の父親。

淡々と日常を切り取るだけで、正直、私の感性では「だから何?」としか言いようがない映画で、「これだから自主映画はなあ・・・」と言いたくなる映画だった。

父親が詩吟をしていて、ラストでは息子が出かけていくカットにかぶせて「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、云々」とやるシーンは正直長い。

タイトルは「楽しんでほしい」だが、まったく楽しめなかった。








復活の日


日時 2015年1月24日
場所 DVD
監督 深作欣二
製作 昭和55年(1980年)


東ドイツで開発されたM-88ウイルスが何者かによって持ち出された。持ち出し者たちは飛行機で逃亡中にアルプス山中に墜落した。M-88は細菌兵器として開発されたが常温下では猛毒を持ち、致死率100%で抗ワクチンが開発されない限り、実際に兵器としては使うことの出来ない未完成品だった。やがてイタリアやソ連東部で謎の病気が発生。それはイタリアかぜと名付けられ全世界で猛威をふるい世界中の医者は為すすべがなかった。
アメリカ大統領(グレン・フォード)がM-88は軍部が密かに研究中だった実験段階の細菌兵器だと知ったときにはすべてはすでに遅かった。
米軍の最高責任者は、ソ連の核攻撃があった場合直ちに自動的に核攻撃で報復する装置を作動させ、死んでいった。
0度以下ではMー88は活動しないため各国の南極基地の隊員だけが生き残った人類となった。
日本基地の吉住(草刈正雄)はワシントン付近で巨大地震が発生する可能性を発見していた。
それを知ったアメリカ基地の隊長(ジョージ・ケネディ)は、「ワシントンが巨大地震に襲われれば核攻撃と見なされソ連にミサイルが発射される、そしてソ連のミサイルも自動報復装置で発射される、その一つは南極を目標にしている」と話す。


角川映画の一つの頂点として語られる「復活の日」。
公開時は高校生だったが、初日の土曜日に学校帰りに観に行った記憶がある。
原作はそれ以前に読んでいて(確か映画化自体が決まる前だ)、世界を舞台にするそのスケールの大きさから映画化は無理だろう、と思っていた。

しかし飛ぶ鳥落とす勢いだった角川映画は映画化を発表。
監督は深作欣二。その頃は深作作品と言えば「宇宙からのメッセージ」「赤穂城断絶」ぐらいしか観ておらず、どんな監督かはよく知らなかったと思う。
(ちなみに後のゴジラ映画を監督する手塚昌明監督が助監督で参加している)

南極ロケやロバート・ヴォーンの出演などが伝わっており、その本気度は伺えた。
それで楽しみにして観に行った。
でも正直その時の感想は「やっぱり映画化は無理だよなあ」と思ったものだった。原作のあらすじをなぞっただけ、という気がしてならなかったのだ。

35年ぶりにDVDにて鑑賞。
今回の感想は「頑張ってるなあ」の一言につきる。
頑張ってるけどやっぱりうまく行ってない。

前半の病気の感染のシーンだが、特に日本のシーンがどうにも力が入りすぎている。これは深作監督のならではの力み具合だと思うが、ちょっと空回りしている気がする。
同じく南極の昭和基地のシーンも同様。
「南極基地のシーンは広島やくざみたいだった」という評を当時読んだ覚えがあるが、まさにその通り。
顔に力が入って怒鳴り散らすばかり。

またさらにアメリカの少年の無電が偶然入り興奮することころなどやりすぎである。
多岐川裕美が日本に残してきた吉住の恋人役で看護婦なのだが、最後には知人の息子をつれて「お父さん(渡瀬恒彦)の元に行きましょう」と行ってモーターボートに乗って海へでて服毒自殺する。
そこはちょっとやりすぎでしょう。
さらに渡瀬恒彦も家族のことを直感して深夜の南極に飛び出して行方不明になるというのもさらにやりすぎ。

で、ロバート・ヴォーンがハト派の上院議員で、グレン・フォードが大統領。私にとってはロバート・ヴォーンの方が格上の俳優だし、グレン・フォードではB級感が漂う。
その他外国人俳優がたくさん出ているが、どうにもB級パニック映画を観ているようである。
確かにハリウッドのこの手の仕掛けの映画に比べれば、B級パニック映画と言っていいだろう。だからB級感も否めない。
(それにしてもロバート・ヴォーンは「ブリット」「タワーリング・インエフェルノ」でも上院議員役。ちょっとキャスティングがイージー過ぎる気もする)

映画の方はワシントンにある自動報復装置をOFFにするために米軍人と吉住がワシントンに上陸する。
結局地震が早くて吉住は時間内に解除することは出来ずにミサイルは米ソ両国とも発射。
南極も攻撃を受ける。最悪の事態に備え、女と赤ん坊は砕氷船に乗って避難していたが、その者たちだけが助かったようだ。

放射能によってウイルスが無力化するという南極の医者の仮説通り、ウイルスは無害化となる。
吉住は歩いてワシントンから南米最南端まで行くのだが、今観るとここは「砂の器」みたいである。

私の原作のイメージとちょっと違うのだな。

全体的にやりすぎ感とB級感が漂い、もう一つだった。
ただし南極ロケや世界各国の俳優(たとえそれがB級のメンバーであっても)を起用して本格的に作っていたという事実は評価すべきで、角川映画の「とにかく今までの日本映画にないものを作ってやる!」という意気込みは観ていてぐんぐん伝わってきた。

それだけで十分に評価に値する映画だと思う。







戦争のはらわた


日時 2015年1月18日
場所 DVD
監督 サム・ペキンパー
製作 1976年(昭和51年)


1943年の独ソ戦線。ドイツ軍はソ連相手に後退を余儀なくされる日々が続き、苦戦を強いられていた。
シュタイナー伍長(ジェームズ・コバーン)の上官としてシュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)が着任した。シュトランスキーは貴族の出身で、激戦地で鉄十字勲章をもらうことしか頭にない。彼らの上官に当たるブランド大佐(ジェームズ・メイソン)は二人はあわないことを心配する。
シュタイナーたちが戦闘でソ連兵を捕虜にした。その兵はまだ10代前半のような子供で、とても殺す気にはななかったのだ。しかしドイツ軍には捕虜を食わせる余裕もなく、シュトランスキーは捕虜を殺すことを命じる。その場はシュタイナーの仲間の兵隊が取り繕ったが、シュタイナーとシュトランスキーの対立は決定的となった。
やがて戦闘は激化。シュタイナーは病院送りとなる。


サム・ペキンパーの戦争映画の傑作と言われる「戦争のはらわた」。今回初めて観た。
この映画はカルト的に人気があるようだが、私はそれほど好きにはなれなかった。

アメリカ軍とドイツ軍の戦いと言ったアメリカ製戦争映画にありがちなアクション映画としての面白味がない。
ひたすら暗い。
橋の爆破作戦とか仲間の救出作戦というようなアクション映画的な面はない。
ドイツもソ連も泥だらけでひたすら撃ち合う。
(正直、どっちがどっちだか分からなくなる)

この映画で描かれるのは「敵は味方にもいる」ということ。
ソ連の少年兵は解放されるのだが、ソ連陣地に行く途中で逆にソ連兵に撃たれてしまう。

シュタイナーは病院送りになるのだが、ここのシーンは幻想的に描かれ、彼の心象風景に見える。
その中で将軍の視察があり、別の兵隊が将軍が握手を求めると右手首がない。仕方なく将軍が左手を差し出すと今度は左手首がない、という描写が印象的。

シュタイナーは元の戦線に戻るのだが、シュトランスキーから勲章の推薦文にサインを求められる。しかしその戦闘で活躍をしたのはシュトランスキーではないことを知るシュタイナーはサインを拒否。
ここからシュトランスキーはシュタイナーを憎むようになる。

シュタイナーはシュトランスキーに「なぜそんなに勲章にこだわるのですか?」と問われ、「家族の手前勲章をもって帰らないとあわせる顔がない」と言う。
個人的な見栄につきあわされる部下はいい迷惑だが、日本でもドイツでもこういう奴はいる。

やがて大隊ごと退却が決定。シュトランスキーはシュタイナーを捨て駒にする。
シュタイナーたちの小隊はなんとか脱出。
ここでのソ連戦車との激闘は大迫力だ。

ソ連の陣地を抜けるためにシュタイナーたちはソ連兵の軍服を奪う。奪うのが女性兵からだ。シュタイナーが止めるのも聞かずに女にくわえさせて噛まれてしまうバカもいる。

ソ連兵の制服を着ているので事前に無線連絡をして撃たないようにしたのに、シュタイナーたちは撃たれ、仲間は死んでいく。
すべてはシュトランスキーの指示だ。
実際に撃った副官を撃つシュタイナー。
このシーンで、撃つ直前にシュタイナーのアップに仲間の兵たちの顔のアップがインサートされる。
結構演出としてはベタだと思う。

そしてシュトランスキーと再会するシュタイナー。
互いが撃ち殺されるかと思ったら、そうはならない。
ブランド大佐、弾倉の交換の仕方もよく分かってないらしいシュトランスキー、それを見て高笑いするシュタイナー。それぞれのストップモーションで映画は終わる。
おそらくは全滅するであろう彼ら。

戦争とは一体何のため?誰のため?という疑問を強く持たせて映画は終わる。

アメリカ映画なのに暗いなあと思っていたのだが、この映画、制作国は「西ドイツイギリス」と表記されている。
そうそうドイツ軍の話ですが、コバーンをはじめ全員英語で会話していたのが気になった。

あとアクションカットをスローモーションにするのがペキンパーの特徴。こういった演出は今の韓国アクション映画に引き継がれていると言っていいのか。
ペキンパーの方はカットが短いので、押しつけがましさがなくていいんですが。







四十七人の刺客


日時 2015年1月18日
場所 TSUTAYAレンタルDVD
監督 市川崑
製作 平成6年(1994年)


赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助(高倉健)は元禄15年の暮れに江戸にやってきた。その前年、元禄14年3月14日に赤穂藩主浅野内匠頭(橋爪淳)が江戸城中で吉良上野介(西村晃)に刀傷に及んだ。その原因は分からない。
騒ぎが大きくなる前に柳沢吉保(石坂浩二)とその知恵袋の色部又四郎(中井貴一)が浅野を切腹させ事態の鎮静化を謀ったのだった。
赤穂藩は突然断絶、しかも喧嘩両成敗が原則の世で吉良は一切お咎めなし。大石たちはその裁きの不満を吉良を倒すことによって柳沢や色部の面目をつぶそうとする。
大石は塩相場で売りぬけ、膨大な資金を作る。
藩は解散したが、大石は日頃から目をかけていた40数名を集め、吉良を討つ計画を打ち明ける。
まず世論を見方につけるために、明らかになっていない事件の原因を「吉良が賄賂を要求し、浅野が拒んだために吉良が浅野を冷遇したため」という噂を流した。
吉良側にしてみれば根も葉もない噂だったが、世間は大石の思惑通りに。


いわゆる忠臣蔵である。
この映画が公開された頃は映画から遠ざかっていた時期で、何となく観る気がしなくて観なかった。「忠臣蔵」なんて今更だし。
94年公開だから「ゴジラVSスペースゴジラ」の頃だ。
その縁かどうかは知らないが、橋爪淳が浅野を演じている。
でもほんの少ししか出てこない。

この映画(というか池宮彰一郎の原作)の肝は「なぜ浅野は吉良に斬りつけたか?」を明確にしていない点だろう。
確かに江戸場内で刀を振り回せば、一大事。事実即日切腹、お家断絶という厳しい処分になることはちょっと考えれば分かりそうなものだ。
映画などでは定説になっている「吉良が浅野に恥をかかせた」というのは、当時の芝居などで描かれている理由で実際のところは記録がないのかも知れないなあ、と勝手に納得する。

最後に大石と吉良が相対した時に「浅野が斬りつけた理由を教えてやろう、そうすれば分かってくれるはずだ!」と訴えるが「聞きとうない!」と言って大石は吉良を切りつける。
今までの映画によく出てきた炭小屋の前につれてきて、背中の傷を確認する、というのはなし。

それだけでなく、今までの「お決まり」を排除している。
討ち入りの晩と言えば吉良家の庭の池の前で清水一角が出てきてチャンバラをするのがお約束だが、そこもなし。
第一、吉良邸は色部の指示で迷路のような壁や堀、屋敷の廊下では牢屋のような格子戸が降りてくる仕掛けがあるという、屋敷というより要塞と化している。
この辺も新解釈なのだな。

数年前の映画「最後の忠臣蔵」にも出てきた大石の隠し子の話はここでも出てくる。大石が子供を生ませた相手は宮沢りえであり、冒頭でも黒木瞳にも惚れられているシーンがあり、本来の妻である大石りく(浅丘ルリ子)の立場がない。

この映画、大石が一人で吉良の首を取る所でカット、「さあ泉岳寺へ行こう」などのシーンはない。
そして先ほどの宮沢りえのお腹が大きくなっているシーンで終わる。
「最後の忠臣蔵」の時も思ったが、私の中では大石はストイックなイメージなので、妻の他にも女がいて子供がいるという設定が受け入れられない。

という訳で公開当時観たとしても、楽しめたかどうかは確信がないですね。






三つ数えろ(1946年版)


日時 2015年1月18日
場所 TSUTAYA宅配レンタルDVD
監督 ハワード・ホークス
製作 1946年


フィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガート)は大富豪で今は病弱のスターンウッド将軍より末娘のカルメンが古書店主のガイガーから脅迫を受けていると相談される。
ガイガーに探りを入れようと彼の書店に行ってみたが、会わせてもらえない。マーロウはガイガーの家を突き止め張り込みをしたが、中から銃声が。
犯人を追うより中に入ってみたマーロウだが、ガイガーは死んでいて、カルメンがそこにいた。どうやら隠しカメラで写真をとられたらしいがフィルムはもうなかった。
カルメンを家に送り届けたマーロウだが、ガイガーの家に戻ってみるとガイガーの死体はなくなっていた。
そして姉のヴィヴィアン(ローレン・バコール)も何かを知ってるらしい。彼女の夫のリーガンは1ヶ月前に失踪していた。
果たして事件の真相は?


「マルタの鷹」と並んで評判の高いハンフリー・ボガートのハードボイルド映画の傑作!
今回初めて観たが、評判は嘘じゃない。面白い。
ただ「マルタの鷹」のサム・スペードとの違いは感じない。原作はダシール・ハメットとレイモンド・チャンドラーで違うし、探偵も違う人なのだが、映画で観ると違いを感じない。両方ともボガートの私立探偵ものとして同化していてまるでシリーズか続編のようだ。

原作はチャンドラーの「大いなる眠り」で「三つ数えろ」は映画用のタイトル。原作とタイトルが違うことに違和感を感じる方もいらっしゃるだろうが、ギャング映画、アクション映画っぽくて私は好きです。ラスト近くで「三つ数えるうちに答えな!」という感じで出てくる台詞から来てる訳ですが。

今も書いたようにもうボガートの映画な訳です。
ボガートは早口で話し、映画には少ししか登場しないような人物が重要だったり正直「あれ?その人って誰だっけ?」と混乱する。ハードボイルドものってそのややこしさが以前はすこし嫌だったが(つまり私の記憶力が悪いので)、最近はそのわかりにくさも特徴であり魅力だと思えてきた。

ボガートはたぶん身長は180cmなく、アメリカ人としては小柄な方だろう。しかしタバコを加える仕草とか、自分を襲ってきた奴の拳銃をたびたび取り上げ「また拳銃が増えた」などとしゃれて言うところなどいちいちカッコいい。1940年代はスーツに帽子が一般的なファッションらしく、その帽子のかぶり方もいい。憧れますねえ。

という訳で肝心の事件の方は脅迫したガイガーは殺され、その後ろにいたジョー・ブロディも殺され、とりあえず最初の恐喝に関しては解決。しかしまだ失踪したリーガンの件が残っている。マーロウは自分の興味からその件を探っていくと・・・という展開。

ちなみこの映画、1944年から撮影が開始され1945年の前半には一旦完成した。しかしまだ戦争中のため、戦後公開作品にするために公開が延期された。そこで「ローレン・バコールがよくない。彼女のシーンを撮り直そう」となって彼女のシーンを中心にリテイクされ、1946年公開版が完成したそうだ。
500円DVDなどになっているのもこの1946年版だそうだ。
で現在ワーナーから発売中のDVDは両面DVDでB面として未公開に終わった1945年版も収録されている。
こちらもいずれ観てみたい。








ハメット


日時 2015年1月12日
場所 DVD
監督 ヴィム・ヴェンダース
製作 1982年(昭和57年)


探偵社をやめ小説家になったダシール・ハメット(フレデリック・フォレスト)。そこへ探偵時代の先輩、ジョー・ライアンが訪ねてきた。クリスタル・リンという17歳ぐらいの中国娘を探したいのだという。早速チャイナタウンに行った二人だったが、尾行を巻くうちにハメットはラインとはぐれてしまう。
そこへ新聞記者を名乗るソルトという男がやってきた。彼もリンを探しているし、警察はリンの事など忘れろという。
ライアンから電話があり、「大きな辞書を見てみろ」という。早速自分の部屋の一番大きな辞書を見てみると一部が切り取られた新聞があった。切り取られていたのは山林で大金持ちの男、カラハンの死亡記事が載っていた部分だった。
ハメットが帰って見るとそこに探しているリンが来ていた。明日までかくまって欲しいという。


製作はフランシス・フォード・コッポラ。
1982年の映画だからこの映画は封切りで見ている。今はなくなったが歌舞伎町のグランドオデオンビルのどれかだった。数年前にDVDを購入して棚にしまってあるだけだったが、ハードボイルドの探偵ものを連続して見たくなったので、再見した次第。

当時も面白く見たが今回も面白く見た。
熱狂的というほどのファンではないが、ハードボイルドの探偵ものは好きである。こういう映画が好きだったから、この数年後、角川の「キャバレー」が出たときに感動したなあ。

観終わって気づいたが、この映画、ハメット原作の「マルタの鷹」のオマージュというかそれを模した部分が多いように思う。
人探しを依頼されたり(これはこういった話の王道の導入だが)、取引に立ち会う、なにやら小男がちょろちょろして太った男が黒幕ではないにしろ全貌を知る男として登場、死んでしまって映画には登場しない男が事件の始まりだったり、そして謎の女。サンフランシスコを舞台として建設中の金門橋の模型が登場する。(「マルタの鷹」は金門橋のカットから始まったと思う)
私以上に詳しい人がいたら、もっとそう感じるかも知れない。

話の方はソルトという男はポルノフィルムを撮っていて、それを観た金持ちたちに同じく金持ちのカラハンが「女優のリン(失踪した女ね)とやりたくないか?」と持ちかけ、ソルトのスタジオで楽しませそれを写真に撮っていたという訳。カラハンは株で失敗して金が欲しくてその写真をネタにサンフランシスコの金持ちをゆすっていたということに。
しかしカラハンは妻にリンとの関係を疑われ、殺された。
でもゆすりは続く。その犯人はリンだったが、さらに協力者がいた、という展開。

わき役もハメットの下の階に住む美人やタクシーの運転手が助手として協力していく。
また証拠品のブルーフィルム(という言葉があったかどうか分からないが)ハメットが警察で見せられるのだが、途中まで観て警部が「もういい」というが警官は実は観たい。それで警部やハメットが去った後、密かに途中から上映再開するなどの遊びつき。

この映画の舞台も日本で言えば昭和初期の頃。
ハードボイルド映画って「マルタの鷹」にしろ「チャイナタウン」にしろ、この時代の方がやはり似合ってるのだろう。
70年代になってしまうと、どうしても「ロング・グッドバイ」のような変化球になる。

映画の最後はハメットが小説を書き続けるシーンで終わる。
「こういった事件をハメットは経験して、後の小説に生かして行きました」という感じだ。だからこの映画の要素が後の彼の小説に似ていても納得なのである。

ハードボイルド映画の要素をきちんと踏まえたハードボイルド映画らしい映画だった。97分と長すぎないのがまたいい。








フレンチコネクション2


日時 2015年1月12日
場所 Bru-ray
監督 ジョン・フランケンハイマー
製作 1975年(昭和50年)


NY市警の刑事、ドイル(ジーン・ハックマン)は単身フランス・マルセイユにやってきた。アメリカに流れる麻薬の多くはこのマルセイユを経由している。その元締めのシャルニエを逮捕するためだ。
マルセイユ警察はバルテルミ警部をはじめ、ドイルの事を快く思っていない。フランス語も出来ないアメリカ人に何が出来るのか?実はドイルも知らなかったが、NY市警としてはドイルがやってくることでシャルニエをおびき出すいわば囮として送り込んだのだ。
その思惑通りシャルニエは動きだし、ドイルは誘拐され麻薬中毒者にさせられてしまう。3週間に及ぶ監禁だったが、バルテルミたちはドイルを発見することは出来なかった。何も情報を持っていないと信じたシャルニエはドイルを解放する。ドイルは麻薬の禁断症状に苦しむのだが。


「フレンチコネクション」の続編。監督は変わってジョン・フランケンハイマー。監督としての履歴から言えばフリードキンよりフランケンハイマーの方が上ではないか?

ニューヨークのシーンは一切なしでドイルがマルセイユ警察に到着するところから映画は始まる。
フランス語のシーンも多いのだが、私が観たBru-rayではフランス語のシーンには字幕がつかない。従って彼らが何を話してるかは分からずで、ドイルと同じ立場におかれる。

正直前半は退屈だ。
最初バルテルミたちと手入れに行って怪しい奴を追いかけるシーンがあるが、ここぐらいしか見せ場がない。
たまたま入ったバーで会話が出来ないながら楽しく飲むシーンがあるけど、刑事アクションを期待してるこっちとしては退屈なだけ。
で、監禁され麻薬漬けにされて解放される。監禁されている時に親切な振りして近づいてきたイギリス人の婆さんがドイルの時計を盗むシーンは面白かったけど、やはりもの足らない。
今度は禁断症状に苦しむというシーンが続くがここも退屈。

1時間20分ぐらい経ったところでドイルが復活。
ここからやっとエンジンがかかった感じ。
自分が監禁されていた安ホテルを見つけだし火を放って悪い奴をあぶり出すという無茶な作戦。
ここ見せ場。
そして麻薬の原料が貨物船の船底に貼り付けられていて修理用のドックでそれをはがすという作業があるのだが、その現場を押さえる。
そしたら敵もドックに注水をしてドイルとバルテルミがおぼれそうになるという火で攻めたら今度は水で攻め返されるという展開。

ラスト、最後にシャルニエたちの麻薬精製工場を押さえるが、シャルニエは逃亡。
トロリーバスに乗って逃げたシャルニエをドイルが走って追いかける。ここは前作の地下鉄で逃げた相手を車で追いかけたシーンの対として観ると興味深い。

最後の最後、シャルニエは船に乗って逃げてしまう。
こっちも時間を見てあと3分ぐらいしか残ってないのにどうするのか?またシャルニエを取り逃がすのか?
と思っていたら追いかけた桟橋からシャルニエをドイルは銃殺!そしてカットアウト!
でクレジットとなる。

このエンディングは驚いたなあ。
てっきりバルテルミとドイルの別れのシーンがあって何か別れ際に粋な台詞を言うのかと思っていたのでこの鮮やかな潔いエンディングには驚愕。

後半30分は前作に負けない勢いのある映画だったと思う。







チャイナタウン


日時 2015年1月12日
場所 TSUTAYA宅配レンタルDVD
監督 ロマン・ポランスキー
製作 1974年(昭和49年)


ロサンゼルスで私立探偵事務所を営むジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)はモーレイ夫人から夫の浮気調査を依頼された。
対象となるモーレイは市の水道施設局の役人で、この街で計画されている新たなダム建設に対し地盤が弱いので決壊のおそれがあるとして反対していた。
ギテスはモーレイを張り込むが、彼は貯水池の視察ばかりしていて女の気配がない。しかしやっと若い女性と会っているところを写真に撮ることが出来た。
その写真は新聞に掲載されたが、その直後、本物のモーレイの妻イブリン(フェイ・ダナウェイ)から告訴された。
事情を調べようとまずモーレイに面会を申しこんだが行方不明。やがてモーレイの溺死体が発見された。
イブリンの父・クロス(ジョン・ヒューストン)はかつてモーレイと共にロサンゼルスに水を引いて財産を成した男だった。果たして真相は?


私立探偵ものでは名作にあげられるロマン・ポランスキーの「チャイナタウン」。ずっと以前にビデオで見たことがあったが、今回久しぶりに再見。

うーん、つまらなくはないんだけどそれほどでもない、というのは正直な感想。
なぜだろう?ジャック・ニコルソンがそれほど好みでないからか?

事件は土地の買収、そしてその土地に水を流させる計画をして土地の値段をつり上げようとする黒幕。それに気づいたモーレイがダム建設を反対し殺されてしまうという展開。

そしてモーレイが会っていたのはイブリンの妹であり娘である少女だった。実はイブリンは父に犯されて子供を生んでいたのだ。

これらのことをギテスが突き止めるのだが、ラスト、チャイナタウンに逃げ込んでいたイブリンとその娘を父親から助けようとする。しかし逃げようとしたところを警察によって射殺されてしまう。
バッドエンドだなあ。

最後にチャイナタウンに迎えにきたギテスの同僚が「ここはチャイナタウンだ」というのだが、最初に観た時の記憶では(その台詞だけは記憶に残ったのだ)「チャイナタウンであったことは忘れろ」だったので、英語字幕を観たら「忘れろジェイク、ここはチャイナタウンだ」だった。

映画を観る前はチャイナタウンが主な舞台かと思っていたが、それはラストでしか出てこない。
映画の中でかつてギテスはチャイナタウンで警官をしていたことがあるのだが、その町のことを振り返って「もめ事を解決しようとして返って悪い結果になってしまうのが、あの町だ。だから何も仕事をしない方がいい」と言っていたので、タイトルの「チャイナタウン」も地名としてのチャイナタウンではなく、存在としてのチャイナタウンなのだろう。

私立探偵ものにありがちな聞き込み先での洒落た会話と対応も楽しめる(登記所で登記簿を破くシーンなど)。
また1937年のロサンゼルスの雰囲気が実に見事で、ファッションなども見所の一つだと思う。







俺と彼氏と彼女の事情


日時 2015年1月11日11:40〜
場所 光音座1
監督 池島ゆたか


朝倉淳平(鶴田雄大)は恋人のオトヤ(松本渉)から「2ヶ月前に結婚した」と告げられる。動揺する淳平だったが、オトヤの話では彼女はオトヤがゲイと知っていて今まで通りの関係が続けられるという。
彼女、ルリ(黒木歩)はアル中のメンヘラで医者のオトヤと結婚するのは都合がよく、オトヤにしても親からのプレッシャーで結婚せざるを得なかったのだ。
しばらくして淳平はオトヤの留守中にルリを訪ねる。最初は険悪になった二人だが、ルリの感情が爆発した後にちゃんと面倒を見たのは淳平だった。そのことがきっかけでルリはいっそ淳平とオトヤの3人生活を望む。
初めはうまくいっていたが、ルリの父親(なかみつせいじ)が訪ねてきて「新婚の家に若い男がいたら世間では何と言うと思う!」と激怒してしまう。


池島ゆたか監督のゲイピンク。光音座もデジタル化して最初の上映作品だ。(もう1本は12月から上映の「THE FETISH」である)

う〜ん、正直言って私はなんだかなあ、と思う。
まず、ルリという女がうざい。
アル中でメンヘラ(鬱病らしい)なのだが、昼間からずっと飲んでいて、なんとかしようという気配が全くない。

ルリの父親には一緒に暮らしてることは内緒にして、「時々訪ねてくるだけ」と言ってごまかしたのだが、その夜、寂しさからバイである淳平とキスしてしまう。
キスまでならいいのだが、(そういうシーンはないが)後に妊娠が発覚!
セックスしたのが1回だけなのか、はたまたその後肉体関係が続いていたのか判然としないが、どっちにしろキスまでは許すがセックスは行き過ぎだろう。

妊娠となった段階で淳平とルリはオトヤに自分たちのことを告白する。当然キレるオトヤ。
「人の女房寝取って、恋人裏切って二重の裏切りだよ!」
ものすごい複雑な関係である。

で、結局オトヤも一夜の浮気(たまたま入ったバーのマスター(野村貴浩)とホテルへ)を経て淳平たちを受け入れ、3人で赤ん坊の親になる決意をする。

正直、その結論は私は受け入れられないなあ。
オトヤは病院勤務なのだが、その病院にゲイ仲間の医者(せしお)がいて、「お前なあ、結婚したら今度は孫って言われるじゃん。偽装結婚なんかしなくて俺みたいにのらりくらりと独身を貫くのが清く正しいゲイの道ってもんだろう」という台詞があるが私は全面的にこの意見に賛成である。
ゲイでしかも子供がほしいというのは人生欲張りすぎである。

だからこの映画は受け入れられなかったなあ。
それにゲイピンクにしては絡みのシーンが少ないし。

今日は池島ゆたか監督をはじめ、脚本の五大響子さん、松本渉、鶴田雄大、黒木歩、なかみつせいじ、野村貴浩らの舞台挨拶付き。
池島ファンにはこの映画は好評だったが、ゲイの人たちには受け入れられるだろうか?

出演者では淳平役の鶴田雄大がいい。
美少年すぎず、いかにもいそうな大学生役でよかった。
だが実際の年齢は31歳だという!これには驚いた。
オトヤの同僚の医者のせしおの恋人役で樹かず。
せしおのお腹をなでながら「このお腹がツボなのよ」というシーンはこれまたそういう人はいそうでよかった。







マックQ


日時 2015年1月10日
場所 TSUTAYA宅配レンタルDVD
監督 ジョン・スタージェス
製作 1974年(昭和49年)


シアトルで警官が殺され、殺した犯人も殺された。実は警官を殺した男は刑事のスタン・ボイルだった。
スタンの親友、マックQは弔い合戦を誓うが自身も殺し屋に狙われた。マックQはこの街の麻薬の元締めサンチャゴが怪しいと睨み、彼を絞めあげるが、サンチャゴは市の上層部にも顔が利くのか逆にマックQは捜査からはずされることに。
そのことに怒ったマックQは警察を辞め、私立探偵に。
スタンとも親しく裏社会の情報に詳しいバーの女から情報を聞き出していく。どうやら今回の件は警察が押収した麻薬をサンチャゴが襲撃する計画が絡んでいるようだ。
警察が押収した麻薬が焼却処分されるのを見張っていたマックQだが、案の定その麻薬を盗み出した奴らがいた!
マックは必死に追跡するのだが。


70年代の刑事映画ブームにのっかって出来た1本。
監督は「荒野の七人」「大脱走」のジョン・スタージェスで主演はジョン・ウエイン。
でも当時ジョン・ウエインなんて「かつての大スター」という感じでもう時代遅れの存在だった気がする。
(まあ西部劇全盛の頃からのファンなら違った印象があったのかも知れないが)

正直、ジョン・ウエインではウエストは150cm以上あるんじゃないかと思われるデブデブで、アクションをやっても似合わない。
動き一つ一つにキレがない。スティーブ・マックイーン(だけじゃないが要するに若手スター)なら軽やかに動くところを何か動きにスピーディさがない。
これは元々私がジョン・ウエインのファンではないからそう感じてしまうだけなのかも知れないが。

そしてやっぱりブームに便乗して出来た映画だから、途中のカーアクションと撃ち合いはお決まり。
麻薬の焼却場所から麻薬を盗み出すのがクリーニング屋の配送車に化けたトラックなんだけど、ここはもっと派手にいきたい。所詮は便乗企画だから低予算でいきたかったのか。

で銃撃戦だけど、「ダーティ・ハリーが44マグナムならこっちはマシンガンだ!」とばかりにイングラムが登場する。
軍用だからさすがの銃社会のアメリカでも一般への販売は制限があるらしい。この銃を持つのは違法らしいが、ガンショップの男から「いい銃があるんだが見るかい?」とか言われて入手。
これをぶっ放すのはさすがにラストだけだけど、迫力はあるよ。

その前海岸でカーアクションがあるんだけど、なぜか砂浜を走り、波打ち際を走って水しぶきがあがる。
「迫力あるだろ?」と作った人たちが言ってきそうだが、水しぶきが起こっても別に迫力はないよ。
町中で色んなものにぶつかりそうになって迫力とかスリルが生まれるんだから。
この方が安く安全に出来るとは思いますが。

でもこの映画、脚本の段階で計算違いがあると思う。
殺されたスタンはその前に制服警官を二人殺すシーンがある。主人公のマックQは「弔い合戦だ!」と意気込んでるけど、そもそもスタンは警官殺しをしていて、いい奴ではない。そんな奴のために「弔い合戦だ」という主人公がバカに見えてしまう。
ここはスタンが警官殺しをした犯人とは隠しておくか、もしくは「スタンは元々悪い噂のある奴で俺はあまり好きじゃなかった」とかしておかないといけなかったんではないでしょうか?
その辺がちょっと気になった。




ゴーン・ガール


日時 2015年1月10日12:55〜
場所 新宿ピカデリー・シアター3
監督 デヴィッド・フィンチャー


結婚5年目を迎えたニック(ベン・アフレック)とエイミー。結婚記念日のその日、午前中出かけたニックだったが、帰ってきたら自宅は荒され妻はいなくなっていた。
早速警察に相談。事件性ありとして捜査が開始される。
ニックとエイミーはNYで知り合い結婚したが、ニックの母の介護のため、彼の故郷ミズーリ州に帰っていた。
この失踪事件はマスコミのいいネタだった。
エイミーの母は作家で「完璧なエイミー」というベストセラーの作家で、当然エイミーはそのモデルだった。
実はニックとエイミーの仲は冷えていた。ライターだったニックは大学で講義を持っていたがその教え子と不倫関係にあった。
マスコミやSNSでは ニックは格好のネタとなり、やがては妻殺しの疑いさえかけられるようになる。
ニックはマスコミでも有名な弁護士を雇うことに。


デヴィッド・フィンチャーの最新作。
彼の映画は「デヴィッド・フィンチャーの新作だから」という理由ではなく、「たまたま観たいと思った映画がフィンチャーの映画だった」ということが多い。
「ゾディアック」「ソーシャル・ネットワーク」「ドラゴン・タトゥーの女」などなど。
今回も同じく「失踪した妻のことはなにも知らなかった」という点に興味を持った。

実は「夫婦といえど知らないことが多く、失踪して初めて彼女の裏の顔を知る」という内容かと思っていたら、ちょっと違っていた。
いやもちろん面白かったのだが。

映画は途中から視点を変え、失踪したエイミーの視点も描かれる。実は彼女は自分がニックに殺されたことにして金を持って人生をやり直すつもりだった。その為に近所の女性と仲良くなり、夫の暴力のグチをこぼし、夫のカードで買い物をしまくり妊娠も偽装して、架空の日記を書き、夫が自分を殺す動機を作りあげようとしていた。
しかし逃亡中に金を奪われ、仕方なく昔自分を好きだった男を頼る。だがその男も変質者で自分を監禁しようとする。
窮地に陥った彼女はその男に誘拐されていて殺して逃げてきたというストーリーを作り上げる。

実は最後までまたまたどんでん返しがあるのではと期待してしまったため、結局エイミーの勝ちで終わってがっかりしたわけではないが、若干物足りなさを感じたのも事実。
それはちょっとないものねだりだったかも知れないが。

「結婚してない人はこの映画の本当の意味が分からない」という感想をSNSで読んだ。結婚しても毎日暮らしていても、結局相手のことは分からないというのは正直実感としてわかない。
「親子兄弟と違って夫婦って所詮他人と他人だから」とはよく聞くが、この映画もそういうことなのかも知れない。







張込み


日時 2015年1月5日
場所 DVD
監督 野村芳太郎
製作 昭和33年(1958年)


横浜駅から鹿児島行きの夜行に駆け込む二人の男は一晩かけて九州佐賀に到着した。二人は警視庁の刑事の柚木(大木実)と下岡(宮口精二)。
東京の下町で起こった質屋強盗。主犯は逮捕されたが、共犯が逃亡中。その石井(田村高広)がかつてつきあった女、さだ子(高峰秀子)を訪ねてくる可能性がある、柚木たちはそう睨んでの張り込みだった。
さだ子は今は横川という銀行員の男と結婚している。横川の3人の連れ子との5人暮らし。一見平和そうな家庭だが、横川が財布を握っていてさだ子には自由になるお金などない。
毎日が判で押したような日々が続く。
張り込みを引き上げようとしたその日、ついにさだ子が動き出した!


松本清張の「声」を映画化した「影なき声」を観た後で、原作との違いを知りたくて原作も読んだ。その原作が収録されていた短編集に同じく収録されていたのが、この「張込み」。
松本清張=野村芳太郎コンビの始まりで有名な作品だ。
この映画は(確かビデオで)かなり前に観ている(いつ観たかは記憶が定かではない)。その時の印象は「だるい映画だなあ」と思ったが、正直今回も同じだった。

基本、平凡で面白味のない生活を送っている女を1週間張り込むだけの映画だ。事件がなにもないのだ。
これが70分ぐらいの中編映画だったら面白かったかも知れないが、これが1時間55分もあるのだ。
これはきつい。

今回観初めて「これは『砂の器』の原型だ」と気づいた。
まず東京から田舎に二人の男がやってくる。彼らが誰かはしばらく分からない。そして地元の警察に着く。名刺のアップ、「いや〜暑いの大変だったでしょう」と署長の挨拶。
この流れが「砂の器」とまんま同じ。
特に名刺のアップで紹介するあたりも同じだ。
さすが脚本と監督が同じだけある。

また後半、石井とさだ子が出会ってから景色のいい場所で撮影されている。正直、白黒だと今のカラー映像に見慣れた目ではその素晴らしさは分かりにくい。
でも景色で見せようとするあたりの発想は「砂の器」である。

あと今日たまたま「野良犬」を観たせいかも知れないが、「野良犬」との共通点も感じられた。
ベテラン刑事と若手刑事の組み合わせ、最後に犯人を追いかける時は若手一人だけになっている、犯人を追いつめたあたりで子供の歌声が聞こえてくる、などなど。

もとより原作では張り込みに行く刑事は一人である。
一人では絵にならんし会話もないから二人組にしただけなのかも知れない。
しかし橋本忍、野村芳太郎、宮口精二の3人とも黒澤明と仕事をしたことがあり、黒澤映画の影響を全く受けてないとは言い切れまい。

でも原作を読んだ後だと不満も残る。
原作は毎日毎日判で押したようなつまらない生活を送っている女が、昔の男が現れた途端に急変して生き生きしていくという、人間の隠れた一面を刑事が見てしまったという点が肝だと思う。

しかし映画版では主人公の大木実の刑事に重点が置かれ、彼は結婚を迷っているのだが、石井とさだ子が結婚を躊躇して違った道へ進んだために、片方は犯罪者に、片方はつまらない主婦になってしまった、それを見てしまったで逆に結婚を決意する、というエンディング。

正直、原作の実質上の主人公はさだ子だったが、今回は柚木刑事になっており、その点が期待とは違っていた。

でも「砂の器」との共通点もわかり、勉強になった。







野良犬


日時 2015年1月5日
場所 DVD
監督 黒澤明
製作 昭和24年(1954年)

「野良犬」「名画座」に掲載しました。