2001年6月

A.I. バルカン超特急
みんなのいえ JSA

A.I.

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日時 2001年6月30日 10:00〜 
場所 新宿ミラノ座
企画 スタンリー・キューブリック
監督 スティーブン・スピルバーグ

暗い映画だった。
機械文明を謳歌した人類のたどり着いた果てがこの姿である。
キューブリックは「2001年宇宙の旅」で機械を使って発達した
人類はやがてコンピュータ(人工知能)と共存する新人類に発展する
と考えた。
しかし、現実の2001年における事態は違う。
未来の人間は身勝手に機械を作り出し、その排出物(ロボットから二酸化炭素まで)
をうまく整理する事も出来なく、そのゴミの中に埋もれていくのである。

オープニング、人類はすでに二酸化炭素による地球温暖化によりニューヨークなどの
都市を失っている。
続いて子供の代用品として作られたディビットくん。
しかし本来の子供が生き返り、ディビット君が不要になったところから
この映画の悲劇は始まる。

子供が無理やりディビットくんに食事をさせるシーン、母の髪を切ってこいと命じるシーン、
プールのエピソードなどの陰湿ないじめ。
私にとってこのシークエンスは今まで観た映画の中でもっとも残酷で
醜悪なシーンたちだ。

また登場するロボットも夢のある形ばかりではなく、まるで浮浪者のような
壊れかけの打ち捨てられたロボットや、ストリートボーイのようなセックスマシン
ばかりが登場する。

続くロボットのジャンクシーン。これも残酷。
映画は次々と物を使い捨てばかりにする人類の醜悪さを描く。
しかしロボットたちは自分たちで部品を探し出し何とか生き残ろうとしている。
「ランプを交換すればまだ働けます」と訴えるロボットたちに僕は何を
言えばよいのだろう。
あのロボットを捨てた人間はあるいは将来の私かも知れないのだ。
しかし古い機械に飽きてしまう無責任な人間が悪いといった単純な問題ではなく、
修理するより新しいものを作り、売り、買わなければ循環しない経済社会がある。

とてもファミリーで楽しく見れる映画じゃない。

ラストにおいて死滅した人類の中からディビットを見つけ、一夜の夢は見させるのは
誰なのだろう。
生き残った人類なのか?
いや私にはあれは「未知との遭遇」において登場した宇宙人の進化した形だと
確信する。
機械と共存する事の出来なかった人間にデイビットを救えるわけがない。


もっともこの映画はキューブリックの行き過ぎた悲観主義だと信じたい。
映画の設定そのものが強引過ぎるのだ。
まず、デイビットが一度母をインプットされたらリセットが効かないという点。
そんなことはないだろ。何とかする方法はあるはずだし、そこまで考えてないなら
それは商品として開発の余地ありだ。
それにデイビットくんはあくまで試験作品だ。
だとしたら開発担当者と家族(モニター)が今後の課題と問題点について
話し合うのが当然じゃないか。
そういう意味もこめて自分の会社の社員の家庭に預けたんじゃないのか?

またデイビットくんが食事が出来ない点。
これは人型癒し系ロボットとしては重大な欠陥だと思う。
食事を一緒にすると言うのは人間にとってコミュニケーションを図る上で
重大な要素。
この映画の場合、両親だけ食べてデイビットの前には空の食器を置くだけの
食事は両親にとって本当に意味のあるものなのだろうか?
実際に食べなくても食べた振りが出来るような機能を有するべきだ。


しかし今書いた事はあくまで私の悪あがき。
この映画の描いた未来が嘘に過ぎないと主張したいが為に、重箱の隅を
つついただけに過ぎない。

ゴミに埋もれていく人類か。
これは本当に恐怖だ。
「博士の異常な愛情」において描かれた人類の最後は核戦争だった。
だが核戦争は我々一般人にとっては自分の力ではどうしようもないものだった。
一部の軍人の暴走を防げれば何とか回避できると考える事が出来た。
しかし今回は違う。
人類を滅亡させる要素は我々一人一人の小さな行為の積み重ねなのだ。
一つ一つの行為があまりにも小さすぎるため、むしろ何から手をつけていいか
わからなくなる。

折りしも地球温暖化に関する京都議定書についてアメリカが批准を拒否し
もめている。アメリカにすれば、産業を抑制してしまう事になり
それは経済の低下をを意味し、踏み切れない事情もある。
一体人類はどうなるのか?
自らの生み出したものに埋もれて死滅していくのか?

人類の進化、文明の発展の行く末を描いた残酷で陰惨な映画だ。
「2001年宇宙の旅」の時も一見ファミリーで楽しめる映画に見えて
実は全く違うタイプの映画で多くの人がだまされた。
今回もまた同様。
決してファミリー楽しく見る映画じゃない。
これからご覧になる方、決して見てて夢のある映画じゃないですよ。
ロボットと人間の愛とかそんな浅い話の映画ではありません。
私にとっては「いい映画か」と訊かれれば「いい映画」と答える事が出来るが、
「好きな映画か」と訊かれれば答えは「NO」でしょう。
心して観てください。

最後になったがハーレイ・ジョエル・オスメントの好演(アカデミー主演男優賞も夢ではなかろう)
と特撮技術のすばらしさについても賞賛しておく。

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バルカン超特急


日時 2001年6月23日
場所 TSUTAYAレンタル
監督 アルフレッド・ヒッチコック

先月の「第3逃亡者」に引き続き、ヒッチコックの再評価をしようと
言う事で借りてみた。
1938年(昭和13年)製作なんだけど、全く古さを感じさせない。
列車が出発するまでの30分が少し冗漫な感じがするが、
列車が発車してからは一気に観客を引っ張っていく。

列車内で消えた婦人の謎、走ってる列車の外づたいに窓から窓への移動とか、
ラストの引き込み線でも撃ちあい、狭い車内での格闘、
敵の内部での仲間割れ、等々のエッセンスは後の列車が舞台となる無数の
アクション映画(「007ロシアより愛をこめて」、「カサンドラ・クロス」、
列車ではないが「エアフォースワン」もここに入れていい)に
直接間接の影響を与えた作品だろう。

やはり走る列車というのはきわめて映画的な素材なのだろう。
「ゴトンゴトン」というスピード感を常に表現する音、
狭い空間という敵味方とも自由に動けない枷、
あと何分で駅(またはどこか)に着くというタイムリミット。

これらの要素は映画的サスペンスを盛り上げるセオリーであり、
いくらCGとかの技術が発展しようとも、これらの基本的セオリーは
普遍のものだ。
ヒッチコックたちのような映画界の先駆者たちはこれらの
セオリーを確立した。
映像技術はいくら発展しようとも、これらの映画的セオリーが
変わらない限り、古い作品だっていつになっても見直す価値がある。
いや見習う素材はいくらでもある。
現代風にアレンジしてもう一度リメイクしても充分今でも
通用する作品だと思う。

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みんなのいえ

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日時 2001年6月9日18:30〜
場所 新宿コマ東宝
監督 三谷幸喜

三谷幸喜関係の映画は「12人の優しい日本人」「ラヂオの時間」
に続いて3本目だ。
正直言って前2作に比べスピード感では劣るものの、一定の水準は保つ出来ばえ。

家を新築するにあたってのごたごたという話は、清水義範氏の小説「新築物語」
(96年)において使われたネタなので(こちらも清水氏がモデルの作家が主人公なのだ)
話が似てたらいやだなあと思っていたが、(ホラ盗作とかなんだと週刊誌で
言われたら気分悪くなるじゃない。両方とも好きな人だから)一致点は
「作家(「みんなのいえ」はシナリオライター)が家を作るまでのごたごたの悲喜劇」
という最初のコンセプトだけで、全くの別物。

前2作とこの「みんなのいえ」に続いて、彼が三たびテーマにするのは
共同で物を作る時に起こる妥協と理想の対立だった。
「12人」は全員で評決を「ラヂオの時間」ではラヂオドラマをみんなで作っていった。

共同で何かを作るということはいろんな人間の考えが入り混じる。
趣味でやるものならともかく、仕事としてやればそこには期限やら
予算やらありとあらゆる物が絡みつく。
しかしだからといって自分ひとりで出来るものではない。

デザイナーは職人から言われる。
「そんなに思い通りにしたかったら一人で絵でも描いてろ!」

家の発注主も「共同作業で物を作る仕事」でなければ、
デザイナーや棟梁の悩みは共有できない。
だからこそ発注主の仕事は普通のサラリーマンではなく、シナリオライターなのだ。

そして田中直樹のシナリオライターが言う。
「職人としての仕事とアーティストとしての仕事は対立しない」

この妥協と創造の中で葛藤しながらみんなで物(いえ)を作っていく。
そこには対立があり和解がある。
そこには人間のドラマがある。
だから三谷幸喜のドラマは面白い。


途中職人たちが唐沢のデザイナーのことを「古いのにこだわってるのは
むしろあいつかも知れないな」という。
これは唐沢のデザイナーだけではなく、三谷幸喜自身でもあるようだ。
ビリーワイルダーやヒッチコックを尊敬し、支持する三谷幸喜。

画面の色は少しセピアっぽい暖色系。
音楽はオールディーズなジャズ。
キャストにしても八名信夫、井上昭文、榎木兵衛らの日本映画を支えた
バイプレーヤーたち。

古きよきという手垢のついたフレーズは好きではないが、
職人芸が支えたかつての映画に対する、三谷幸喜自身の大いなる敬意を感じる。
彼にとって現代の映画は、手作り感のない大量生産的なものに感じられるの
かもしれない。
やっぱり彼も映画らしい手作りの映画がすきなのだろう。
そして私も大好きだ。

一年に一本とは言わない。
せめて二年に一本は映画を作って欲しいな、三谷幸喜監督に。

(なお明石家さんま、香取慎吾、大塚範一さんらがノンクレジットで出演しています)

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JSA

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日時 2001年6月3日19:20〜
場所 新宿文化シネマ2
監督 パク・チャヌク

ソウルから板門店まで50キロぐらいしかないと聞いたことがある。
東京で言ったら、東京⇔八王子、東京⇔大宮、東京⇔横須賀ぐらいの距離じゃ
ないだろうか?
我々日本人が想像する以上に韓国人にとって北朝鮮は気にかかる
存在なんじゃないかと思う。
おでこに出来たにきびのように、とりあえずはいいんだけど、
やはりいつも気にかかる存在なんだろう。
(もっとも、こんなたとえでは朝鮮半島の方々に「そんなもんじゃない!」
と怒られてしまうかも知れないが)

実はこの作品は期待はずれというわけではないが、少し期待とは違った作品で
あった。
「11発の銃声。二つの死体。共同警備区域でなにが起こったのか」
というコピーからするとなにやら黒沢明の「羅生門」的な
登場人物全ての言い分が違うようなミステリーを想像(期待)していたので
ちょっと違う作品だった。
もちろんミステリー色は充分あるんだけど、映画の中盤、約一時間を
要して韓国軍人と北朝鮮軍人との交流が描かれている。

この交流の始まりが地雷原に誤って迷い込んだ韓国兵が北朝鮮兵に助けられる
所から始まっている。
この場合、北朝鮮兵が韓国兵に助けれれる所から始まっても
物語としては成立する。
ところがそうではなく、韓国兵が助けられるところが興味深い。
韓国人がミスをして助けられるというヘマを平気で描いている。
ここにやはり韓国側の心のゆとりを感じた。
その後、国境を越えるのも北朝鮮側ではなく、韓国側だ。
北朝鮮側に亡命させるというような「韓国はいい国、北朝鮮は住みにくい国」
という単純な構図で描かずに、北朝鮮のプライドを重視しつつ
韓国側が一歩下がって北朝鮮に歩みよっている。

もちろんチョコパイのエピソード(韓国兵が北朝鮮兵に南に亡命すれば
こんなおいしいチョコパイを毎日食べられるぞ」と誘うが、
北朝鮮兵は「俺の夢はこういうパイを北朝鮮でも作れるようにする事だ」
というシーン)に見られるように韓国人は北朝鮮を「経済的に成功してない国」
と思っている。
しかし、だからといって、一方的に下に見たりせず、彼らの立場を充分理解した上で
付き合っていこうという姿勢が現れている。
この映画の存在自体が、アメリカのように一方的に北朝鮮を「ならず者国家」
などと決め付けられないジレンマを象徴していると思う。

「家庭の事情でそれぞれ別の家で育てられる事になった兄弟だが、
片方は優等生で大人になり、経済的にも一応成功したけど、
もう一人はもらわれていった家の家風やいろんな事情により、
結果的に世間から嫌われる不良になってしまった。
でも世間がなんと言おうとも元は兄弟なんだから、やっぱり助けたい。
でも不良の方は突っ張って自分の行き方を貫こうとしている」
そんな韓国人の北に対する複雑な心境を改めて実感した。

僕にとってはこの映画はそういう映画だった。
ラストに出てくるハングル文字の書いたヘルメットを被った兵隊が
カメラをさえぎろうとしている写真が、韓国北朝鮮関係を象徴していて
ラストシーンとしては充分なインパクトを持ったカットだった。

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