2004年3月

盲獣VS一寸法師 きょうのできごと
a day on the planet
連合艦隊 赤目四十八瀧心中未遂

盲獣VS一寸法師


日時 2004年3月27日21:15〜
場所 渋谷シネ・ラ・セット
監督 石井輝男
製作 2001年完成 2004年公開

(公式HPへ)

大宣伝をした話題作として扱われる事が少ないせいか、
あまり意識していなかったが、江戸川乱歩作品の映像化は
今でも絶えない。
この2004年の1月から3月までも「乱歩R」と題した
テレビドラマとしても放送された。(見てないので出来はどうだか
知らないのだが)

乱歩作品の特徴、魅力はなんだろう。
エロティシズム、グロテスク、ホラー、ミステリー、昭和初期のモダニズム
そんな所だろうか?
特に彼の扱ってきたエロ(こう略したほうがしっくりくる)は美女が美しく
セックスするような描写ではなく、いわゆる変態性欲といわれるような
ジャンルだ。

人間は普通美しいもの、きれいなものを好む。
しかし本来それと対極にあるものを好んでしまうこともまた事実なのだ。
感触の気持ちよさがセックスの喜びであるはずが、それとは逆の痛みを
喜びとしてしまうSM、もっとも汚いものの一つの汚物、糞尿を好んでしまう
スカトロ。
さすがに乱歩作品でスカトロを扱ったものはなかったように思うが
のぞき、SM、痴漢的おさわり(触覚)、同性愛が扱われることは実に多い。
(小林少年も美少年趣味といえるかも知れない)

しかし一般的にはそれらは「変態性欲」と否定的に扱われる事が多く、それらの
欲望を真正面から肯定することはない。
のぞき、SM、痴漢、同性愛といった行為は認められざるべき欲望であり
そんなものを愛好するものは社会的には否定的に扱われる。

ところが性欲というのはなかなか我慢できないものだ。
世間的に「変態性欲」に関心を持つものはそれを満たすためには、単なる
「美女とセックスしたい」というありふれた欲望を満たすよりも努力を払わねば
ならないことが多い。

その努力のひとつが犯罪だ。
自分のうちから沸きあがってくるどうしようもない性欲を満たすためには
犯罪に走らざるを得なくなる。
その犯罪模様を描いたのが江戸川乱歩ではないのか?
セックスに対する欲望は普遍的であり、人間が生きていく絶えないものだ。
そういう性欲に逆らえない人間を描いたからこそ、乱歩作品は永らく人気を
保ち、世の映像作家たちの創作意欲をかき立てられるのだろう。
もう70年以上前に書かれた小説が、現代にも通用する物語として
映像化されるのだから、江戸川乱歩の作品は本当にすごい。

石井輝男作品の映画の話より、乱歩の話になってしまったが、この作品は
そんな乱歩作品の映像化では成功した部類に入るだろう。

さっき乱歩作品の魅力は「エロティシズム、グロテスク、ホラー、ミステリー、
昭和初期のモダニズム」などと書いたが、実はそれらのバランスがとれた
映画化は実はちょっと少ないと思う。
これらの乱歩作品の特徴のエロばかりが強調されてポルノ作品になってしまったり
グロテスクばかりが強調されホラーになってしまったり、昭和初期のモダニズムばかりに
金をかけファッション映画のようになってしまった作品もある。

今回の石井作品は、これらの乱歩作品の魅力がどれかが強調される事なく
バランスの取れた作品となっている。
この映画はビデオ撮影され、画像も汚いし、音声もなんだかホームムービーっぽい
ような音質だ。
そういった技術的レベルの低さから(すべては低予算のせいだが)この映画を
否定する事はたやすいし、思わず「こんなの映画じゃない」といいたくなるのも
解る。

しかしそれを補ってあまる乱歩世界の魅力が、この映画にはあった。
「盲獣VS一寸法師」と言っても怪獣映画のように直接対決するわけではない。
「盲獣」と「一寸法師」の話が並行して同時進行する。
盲目であるが故に触覚による性欲に突き動かされた男の話と、一寸法師のような
小人であるという身体的コンプレックスを持つ男がそれぞれの満たされない性欲を
満たそうと猟奇的殺人に走ってしまった哀しい話だ。

僕の個人的意見では世の中が言うところの変態性欲も、お互いが合意の上で
健康を害しないものであれば否定される筋合いはない。
しかし盲獣も一寸法師も相手を殺していく。
そして盲獣にいたっては自分や相手を石膏で固め「触角芸術」として
世に認めてもらおうとする。

その鑑定を盲獣に依頼された丹下博士(丹波哲郎)は「こんなものは芸術ではない!」
と一刀両断する。

もちろん相手の合意のないセックスは否定されるべきだ。
しかし変態性欲の世界に陥ってしまったものは合意を得られるべき相手を
見つけるのは困難な場合が多い。
その困難を犯罪をもって乗り越えようとした男たちの悲劇だ。

乱歩世界、見事に映像化を果たした快作だ。


(このページのトップへ)


きょうのできごと a day on the planet


日時 2004年3月27日19:00〜
場所 渋谷シネアミューズ・イースト
監督 行定勲

(公式HPへ)

京都の大学院に入学した正道(柏原収史)の引越し祝いに大阪からやってきた
仲間たち。
飲み会が始まるが酔っ払った真紀(田中麗奈)は西山の髪を滅茶苦茶に
切ってしまう。西山は腹いせに美青年のかわち(松原敏伸)に当り散らす。
真紀の彼氏の中沢(妻夫木聡)は酔っ払った真紀をやや持てあましがち。
でも彼女のことは好きでたまらないらしい。
かわちは昼間彼女(池脇千鶴)と天王寺動物園に行ったが喧嘩してしまい、
それが気になっている。
またテレビでは海岸に打ち上げられたクジラやビルとビルの隙間に挟まって
出られなくなった男の話題をしていた。

事件らしい事件はおこらない。
ある若者たちの日常的な一日をつづっただけの話だ。
トップシーンを正道の家から帰る中沢たちの車のシーンから
始めたりして、時間軸をづらす構成をして退屈する事を避けている。

後半の回想シーンの池脇千鶴とかわちくんのデートとか西山のかわちへの
当り散らしぶりなど、結構笑った。
退屈しない事は確かだし、映画を見てる最中、飽きるという事はなかった。
それはそれで誉められるべき事だとは思うが、「だからなんなのだ?」という
疑問は映画を見終わった後に残る。

この自分たちの小さな人間関係しか関心がない登場人物たちはなんなのだろう?
極端に言えば、映画にするような素材なのだろうか?
もちろん、それだけ中身がない素材を2時間近く退屈させないで見せる
力というのは評価されてしかるべなのだとは思うが、なにか疑問が残るのだ。

この映画に限った事ではないが、今の映画監督はあまりにも自分の小宇宙を
描く事に終始してはいやしないだろうか?
その点が疑問に思った。

でもそれにも関わらずこの映画を見に行こうと思ったのはやはり妻夫木くん主演だから。
ちょっと出演作が続きすぎ(というか世の映画監督が妻夫木を使いすぎ)のは
気になるが、「ジョゼ〜」といい、この作品といい、等身大の青年を演じながら
魅力を出している。
やっぱりブッキーは今の日本映画を背負って立ってるなあ。
彼が出てるだけで画面が引き立つもんね。
あともうひとつにはチラシに男性の入浴シーンが使われていたから。
男性の入浴シーンというおよそビジュアル的には魅力のないものを
チラシに使うとはどういう内容だ?と思ったから。
ところが映画自体にはそういうシーンは・・・・・なかった。

出演者では他には美青年役の松原敏伸がよい。
気の弱い美青年役で、西山や池脇千鶴に攻撃される彼は笑わせてもらった。
彼の今後に注目。

(このページのトップへ)


連合艦隊


日時 2004年3月20日21:15〜
場所 中野武蔵野ホール
監督 松林宗恵
製作 昭和56年

「連合艦隊」については名画座に記載しました。

(このページのトップへ)

赤目四十八瀧心中未遂


日時 2004年3月14日15:15〜
場所 テアトル新宿
監督 荒戸源次郎

公式HPへ


赤目四十八瀧ってなんだ?と思っていたのだが、三重県名張市にある実在の瀧
だったのですね。(詳しくはこちら↓)
http://www.e-net.or.jp/user/akame48f/
私はとなりの愛知県出身だが全く知らなくてこの映画の
タイトルを聞いた時「なんだこの訳のわからんタイトルは?」と思っていた。
そのくらいこの映画については無知だったが、「2003年映画賞を総なめ!」
の評判につられて見に行った。

監督は荒戸源次郎。「ツィゴイネルワイゼン」(監督・鈴木清順)の公開時に
エアドーム(テントのもう少し立派なやつ)の映画館を作って公開させてから
早20数年か!

尼崎に流れ着いた主人公、生島(大西瀧二郎)。彼は生きる目的もなく
この土地に流れ着き知人の紹介で臓物の串刺しという金には程遠い仕事を
始める。彼のアパートは社会の底辺のような世界に住む人々(内田裕也など)
ばかりだ。そこで生島は綾(寺島しのぶ)という美しい女性と出会う。

うわあ極私的な世界だなあ。
この社会から阻害された主人公、という設定だが、昔の私なら大いに
共感したものがあったろうが、今は「生きる場所は自分で作るもの」という気に
なっているので、わかることはわかるが実感として共感はしなくなった。
そしてこの映画は2時間半以上ある。

舞台となる尼崎、大阪新世界の時代に取り残されたような(昭和30年代のような)
風景ばかりが登場する。(京都の医者の看板の医院も旧字体だし)
その頃が時代設定かと思いきや、生島は「万博のあった年の生まれ」と
言っていることから現在の物語だ。
そういった昔ながらの風景が主人公の時代に取り残された「疎外感」を際立たせている。

物語らしい物語はない。
ただ淡々と、しかし迫力を持って映画は進行する。
それでも何とか退屈しないで見てしまうのは映像の美しさだ。
35mmシネスコで撮られた、色はやや押さえ気味の、しかしそれでいて
陰影のついた映像が美しい。
後半の赤目四十八瀧のも美しいが、前半の尼崎も捨てがたい。
何ヶ月もかけて撮影された本物の映像。
(とに角最近の日本映画は16mmで撮影したものを35mmにブローアップしたり
してるから画が汚すぎるのだ!)

個人的ににはあまり好きになれない、極私的な作品な感じだが美しい映像といい、
じっくりと時間をかけて作られた映画の持つ力強さを感じさせる。
足腰のしっかりした作品だ。


(このページのトップへ)