2005年12月

惑星大怪獣
ネガドン
僕の恋、彼の秘密 キング・コング SAYURI 男たちの大和
YAMATO
大停電の夜に 東京湾炎上 紙芝居昭和史 
黄金バットがやってきた
父ちゃんのポーが
聞こえる
探偵事務所5” 大空の野郎ども 悪魔の接吻 遥かなる男

惑星大怪獣 ネガドン


日時 2005年12月30日
場所 録画DVD(日本映画専門チャンネル)
監督 粟津 順

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昭和100年、人類に驚異の怪獣ネガドンが地球にやってきた。
10年前の実験の失敗で娘を亡くし、科学者の世界から引退していた楢崎博士は
密かに完成していた秘密兵器でネガドンに立ち向かう。

これ、23分の短編映画。
実写は一切使わず、すべてCGで作り上げたという究極の個人映画。
テレビの30分番組の長さだが、登場人物は3人。
CGでは人物は作りにくかったせいなのか、人物は少なく、ドラマもなんだか
広がりが無い。
登場人物をもっと増やせばよかった気がするが、映像は各シーンでかなり実写に近い
味わいを出していたが、人物になるとアニメっぽくなってしまう。
この辺で限界を感じて人物を少なくしてしまったのか?

昭和100年、つまり2025年が舞台だが、今から20年後というより、昭和40年ぐらい
の視点から見た60年後の感覚の世界が描かれる。
街には公衆電話ボックスがあり、郵便ポストは赤い円筒形だ。
怪獣映画が盛んに作られた昭和40年ごろの感覚を出したかったのだろう。
それのよしあしは別にして、監督がそういうのを好きだということはよくわかった。

怪獣映画全盛期時代の怪獣映画のテイストを持った映画を作りたいという努力は
認めるが脚本がちょっとありきたりな感じ。
ドラマが盛り上がらないのは時間の短さのせいか?
あるいは脚本家の腕のせいか?

その辺が判然としないのだが、まあこれはあくまでパイロット版を解釈しよう。
粟津監督に対する評価は次回作以降にゆだね、ちゃんとした次回作が作れるチャンスが
やってくることを願ってやまない。


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僕の恋、彼の秘密


日時 2005年12月30日18:40〜
場所 新宿武蔵野館2
監督 DJチェン

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台湾発のゲイムービー。

主人公のティエンは台湾の田舎に住む17歳。夏休みに台北に出てきて友人宅に
居候する。
そしてゲイの世界へとデビューするのだが、彼はまだ誰とも付き合ったことの無い
純情少年だ。
そんな彼は台北一のプレイボーイのバイ(人名。「バイセクシャル」の「バイ」ではない)
と知り合い一目ぼれする。
ティエンの友人達は「一度寝た男とは二度と寝ない」といううわさのバイは、恋の相手
としてふさわしくないと止めようとするのだが、ティエンは聞く耳を持たない。
実はバイには秘密があったのだ。

もっと切ないラブストーリーかと思っていたら、ラブコメだった。
笑いのポイントが日本人と違うのか、そんなに爆笑というわけではないのだが、それにしても
ゲイであることに何の疑問も感じないゲイたちが登場する。
昨年公開されたゲイ映画では「バッド・エデュケーション」にしろ「メゾン・ド・ヒミコ」にしろ
まずは「ゲイであるが故の苦しみ」みたいなものが大前提に描かれていて「ああゲイはつらい」
という感覚が、まずあった。

しかしこの映画にはそんなものは無い。
悲劇的な結末も切ない思いもない。
普通のラブコメだ。
ティエンを女の子に置き換えても話は成立しそうな勢いだ。
書いちゃうけど、バイの秘密も大した秘密ではない。
彼は以前に占いで「自分が愛した相手は不幸になる」と言われ、実際に付き合った人間が事故に
あったりしたので、一人の人を深く愛せなくなっていた、というオチ。
もう映画として悲壮感などカケラもない。

ここに描かれるのはゲイとしての恋愛を楽しむ人々の姿だ。
実際の台湾のゲイ世界がこのようにオープンかどうかは知らないが、こういう映画ができるという
のはすごいなと思う。
日本ではまだまだ「メゾン・ド・ヒミコ」のような悩めるゲイになってしまうから。
ゲイの映画もこれから新たな展開を迎えていくかも知れませんね。

それにしても出会い系サイトで知り合ってすぐに体を求めてくる男とか、「噂話に強くなきゃ
台北じゃ生きていけないわよ」という友人とか、ゲイの世界は東京も台北も変わらんなあと
思った次第。
多分、どこの国でも同じかも知れない。

あと役者について。
主役のティエンはトニー・ヤンはちょっと田舎くさい感じがよく出ていた。
バイのダンカン・チョウは木村拓哉を太らせた感じ。
この二人の出会いのスポーツジムでのシャワーシーン(バイトしているティエンにバイが
「シャワーが出ないんだが」と言って結局お湯が出てきてティエンが濡れるシーン)はなかなか
セクシーでよかったです。



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キング・コング


日時 2004年12月24日14:30〜
場所 新宿プラザ劇場
監督 ピーター・ジャクソン

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世間では評価が高い今回のリメイク版。
ある友人は「自分はまだ見ていないがこの映画を見た人はみんな誉める」、また別の友人は「1回見たあと
もう1回続けて見た。合計7時間近く見ていたわけだが、まったく疲れなかった」などとこの映画について語る。
大絶賛の嵐だ。
私自身も期待しつつ、しかし時折テレビの映画紹介コーナーで映画の一部を数十秒を見てもなんら自分の
中で盛り上がらないので不安も高かった。

結局、「それほどでもなかった」というのが正直な感想。
まず第一に長すぎる。
合計で3時間以上だがコングが登場するまでが長いというのが私の感想。
ところがネット上で複数の人の感想を見ると「島に着くまで」「島でのコング」「ニューヨークの
コング」と3部構成になっていて飽きないという。
そんなもんかねえ。

私はナオミ・ワッツ演じる主人公の女優になんら惹かれるものが無いから、ただただコングや恐竜が
出てくるまではひたすら退屈だ。
私がプロデューサーだったら映画館の上映回数のことも考えて前半は20分に切ってしまうところだ。

でコングや恐竜たちの登場。
私がこの映画に乗れない理由を帰りの電車のなかでずっと考えていたのだが、コングの動きではないか?
どうも敏捷すぎるのだ。
あんなにぴょんぴょん飛び跳ねられると白けるのだ。
単にこっちが着ぐるみの怪獣映画を見慣れてしまったためだろうが、あの敏捷性はなんだかなあ。

それと島のシーンは全体的にトーンが暗い。
画の色使いも色が鮮やかでなく、緑にしても埃で汚れて黒ずんだような色彩だ。
原住民も個性がないなあ。もう少し特徴があってもよさそうな気がするのだが。
(この辺は東宝南海孤島映画の見すぎかな?)
あと恐竜はいいのだが、エイドリアン・ブレナン達が橋から落ちて谷底に落ちたときの怪物が気持ち
悪すぎ。
昆虫のでかいのはいいとして、包茎のペニスのような形をした怪生物が丸い口をあけて迫ってくるところは
気持ち悪くて参った。
コングや恐竜以外にも色々手を広げすぎ。

で、ニューヨークに着いてから。
今回の映画ではコングを輸送するところがあるのかと思ったら、あっさりニューヨーク。
1時間40分の映画なら無くてもかまわないけど3時間以上上映時間があるのだから、この辺も
ちょっと欲しかった。
ここでもコングが元気に飛び跳ねすぎ。

いろいろ文句をつけたけど、どうもピーター・ジャクソンという人とは僕とはちょっと好みが違うらしい。
非常によく出来たいい娯楽作品であることに異存は無いが、私の見たいものとこの監督が作りたいものは
微妙にずれるようだ。
世間では大絶賛だった「ロード・オブ・ザ・リング」がダメだったからなあ、私は。
だから多分この監督に関しては世間の評価が一般的で、私のほうがずれた評価をしてる気はしますけどね。



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SAYURI


日時 2005年12月24日9:15〜
場所 ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン5
監督 ロブ・マーシャル

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時代は昭和初期。ある漁村の娘に生まれた千代は家が貧乏で売られてしまう。
姉とも別れ、連れてこられたのは芸者の置屋だった。
そこで下女として働き、おかみさんや芸者の初桃さんのいじめにあう日々の中、
一人の紳士(渡辺謙)に出会う。
彼女は彼に愛されるために芸者になろうと努力しはじめる。

スピルバーグ製作の日本の芸者を題材にした映画。
主演する女優も日本の桃井かおりや工藤夕貴だけでなく、主人公さゆりにチャン・ツィイー、
ミシェル・ヨー、コン・リーなどの中国勢も参加。
男優は渡辺謙に役所広司。
セリフが全編英語だとか、日本人役を中国人が演じるのはおかしいとか色々言う人もいるし、
それもわかるのだが、「頭文字D」を見て以来、私はそういう国籍を云々するのは馬鹿らしく
思えてきた。
第一、日本では勝新太郎が「秦始皇帝」を全部日本語で演じたではないか。
それに最近の「亡国のイージス」だって中井貴一は北朝鮮人を演じてたぞ。
日本だって同じ事をやっているではないか。

それにまあこの映画、見ていて意外にも不思議と違和感が無いのだ。
役所広司や桃井かおりが英語でしゃべってもまったく普通にしか見えないのだなあ。
これが「ミッドウエイ」で三船敏郎をはじめとする日本海軍が英語だとものすごく違和感が
あったのだが。
多分に描いてる世界が違うかも知れない。
日本海軍はいろんな映画で見慣れた世界だ。
しかし昭和初期の芸者の世界なんてろくに知らない。
今だって芸者遊びなんかしたこと無いから現実がどんな世界だか知りゃしない。
完全に日本をモデルにしたどこかの架空の国の話を見てる気分だ。

そこで繰り広げられるのは、女の世界らしい(と言ったら女性に失礼か)の愛と嫉妬と憎しみの
入り乱れた世界だ。
それこそ「女が階段を上る時」と同じ男と女の色恋の世界。
そこで繰り広げられる駆け引きは面白くて飽きが来ませんねえ。

ラスト、さゆりを迎えに来るのはだれか?
そこで映画は恋愛ファンタジーのハッピーエンドを迎え、「めでたしめでたし」だ。

もう昭和初期の芸者の世界なんて21世紀の普通の収入の人には別世界もいいとこだ。
だからそういう意味では今の日本人にとってもハリウッドのアメリカ人にとっても「別世界」な
ことには変わりないわけで、その点ではアメリカ人も日本人も対等だ。
アメリカ人に豪華に、上品に、美しく日本というかJAPANを描いてくれてよかったと思う。
(とはいっても神社で賽銭を上げて鈴を鳴らすとき、「ゴーン」と金の音が鳴るのはちょっと惜しかったが)

そうそうこの映画、「ラストサムライ」がヒットしての「JAPAN」映画なのだと思う。
つまり「ハラキリ、ゲイシャ」って奴か。
となれば今度は「フジヤマ」か。
あるいは「スキヤキ、テンプラ、スシ」かな。
富士山の見える街で、すし屋と天麩羅屋が味を競うって映画が出来そうだなあ。
もちろん渡辺謙も出演して。

最後にもう一つ。
さゆりの子供時代の千代を演じた大後寿々花、大した子役だ。
今後の活躍が期待される。



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男たちの大和 YAMATO


日時 2005年12月18日18:30〜
場所 丸の内東映1
監督 佐藤純彌

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昭和20年4月に沖縄へ特攻し米軍の撃沈された戦艦・大和を
乗組員の視点から描く東映戦争大作!

この映画は製作が決定した頃から楽しみにしていた。呉に大和の実物大セットを作ったと聞けば
これはもう楽しみだ。CGには質感に限界があるのだから。
しかし製作は角川春樹で監督は佐藤純彌。
70年代後半から80年代の初め、この両者が作った映画はかなりの作品が「見掛け倒し」
「宣伝のみ」というシロモノが多かったので不安も多い。

ところが朝日新聞の夕刊に週1回コラムを連載してる三池崇史監督が「新作の編集中に本来なら
映画なんか見てる暇は無い中、東映の試写室にもぐりこんで『大和』を見た。素晴らしい出来だった」
と書いているのを読んで一体どうなっていいるのか俄然気になり始めた。

さてこの17日からは話題の「キングコング」も封切られたが、私は「大和」を見に行った。
驚いた!
今までの戦争映画では見ることが無かった実にリアルな大和の姿があったのだ!

大和の甲板の広さには驚く。そしてそこでは日常は柔剣道の訓練を行っていたとは知らなかった。
また烹吹所(調理室)でのご飯の釜の大きさ!
この釜の大きさから乗組員の数、船の巨大さを表現する小道具の使い方にはうなった。
また訓練時にはしごを上る新兵が「下を見るな!」と怒鳴られる。
そうか、そんなに高いのか!
今まで大和の大きさは「まさに浮かぶ城ですな」といったせりふでしか表現されなかったが
それを具体的に表現したのはすごい。

そして機銃の撃ち方、砲弾がどのように火薬庫から送られてきて装填されるのか、そんなことを教えて
くれる映画は今まで無かった。
機銃はこのように回転し、角度を変えていたのか!
同様にレイテ海戦あとの亡くなった兵士の水葬シーンも興味深かった。
また上官による部下の虐待(いじめ)も忘れられていない。
(もっともここで部下をかばう中村獅童がいい人過ぎるきらいはあるのだが)

私なんかが戦争に行っていたら、当然、艦橋にいる幹部ではなかったろうから、こういう一般の兵が
何をしていたかというのは実に新鮮だった。
今までの日本戦争映画は戦況を詳しく描こうとするあまり、どうしても幹部クラスの
ドラマになりがちだったのだ。

そして始まる戦闘シーン。
戦況の全体を俯瞰的(映像的にもストーリー的にも)に捉えようとせず、あくまで機銃台座にいた
主人公たちの視線で捉えられる。
急降下してくる敵機、それを俯瞰でなくあくまで人間の視点で見上げる角度で捉えた映像は
臨場感満点だ。
まるで自分も大和に乗っているかのような恐怖感を感じる。
またいよいよ大和沈没シーンで今までのような俯瞰カットではなく、傾斜する甲板をずり落ちていく
兵という表現には驚いた。
すばやいカットで上空を飛び交う敵機の姿を捉える戦闘シーンは「プライベート・ライアン」
「ブラックホーク・ダウン」に負けずとも劣らない、いやこれらの2作品は陸戦だったから
海上戦闘でこれだけの恐怖感を与える臨場感のある戦闘シーンは世界初ではないか?


また俳優たちも主演の反町隆史、中村獅童をはじめ兵隊たちが実に決まっている。
違和感が無い。
幹部の奥田瑛二の有賀幸作・大和艦長も思ったよりなじんでいた。

そしてちょっと書いておきたいのだが(深読みかも知れないが)天皇の問題。
昭和の戦争においては天皇がどうしても関わらざるを得ない。
この映画では一箇所だけ、草鹿参謀長(林隆三)がこの作戦に異議を唱える伊藤長官(渡哲也)
に対し、「先日、軍令部総長が陛下に拝謁した折、海軍は当分航空作戦に主力を置くと
申し上げたところ、『海軍にもう船は無いのか』と言われた。大和を特攻に出さざるを得ない」
と説明する。
どうような台詞は「連合艦隊」にも登場する。
もちろん天皇がどのような意図を持ってこのようなことを言ったのか、私には想像することも
出来ない。
しかしこの映画では「天皇が大和特攻を要望した」と取れる扱いの仕方だ。
ずいぶん大胆な扱いだと思う。
このあたり佐藤純彌のデビュー作「陸軍残酷物語」を見れば何か確認が取れるかも知れない。

かなり誉めたが、不満もある。
各兵士のドラマ部分が実にパターン的なのだ。
今までの幾百あった日本戦争映画からちっとも脱していない。
若い兵士は母との別れがあり、中村獅童は芸者の恋人がいる。で女房子供持ちは出航前の
面会時間に間に合わず、桟橋での別れとなる。
これってこっちが見飽きてるせいなのかも知れないが、正直げんなりするのだなあ。
白石や高畑淳子らの女優陣は力演していたのはわかるが。
(特に寺島しのぶのパートにはもういやになった。これは寺島の問題ではなく、脚本が
ありきたりなのだが)
岡本喜八の「肉弾」のような真に迫るものがあればもっと良かったのだが。
その中において蒼井優は美人過ぎず、実に親しみやすい魅力的な笑顔で好演していた。

また現代のシーンを生き残った中村獅童の養女(鈴木京香)が大和の生き残りの老人(仲代達矢)
に頼んで大和沈没地点まで漁船で連れて行ってもらうシーンと平行して映画は進んでいくのだが
この現代のシーンが緊張感に欠けるのだなあ。
仲代達矢、鈴木京香という実力派が演じているにも関わらず、だ。
海の上の小さな漁船では大和に迫力負けしてしまったのだろうか?

そして最後に流れる長渕剛の歌。
松林宗恵の「連合艦隊」がこういうフォーマットを作ってしまったのだろうか?
歌を流して涙を誘う、というのは80年代の戦争映画でははやりましたからなあ。
谷村新司(「連合艦隊」)、さだまさし(「二百三高地」)、五木ひろし(「大日本帝国」)
などなどだが、あまりこのやり方は好きではないので個人的にはやってほしくなかった。
しかも長渕剛ってとこがどうも・・・
まあ流行のラップの「ORANGE RANGE」なんかがやるよりかは良かったかも知れないけど。


大和というものを俯瞰的に扱わず、あくまで兵士の目線(ストーリーも大和の描写も)で描ききった
ことは絶賛に値する。
ドラマ部分の「ありきたりさ」が減点させてしまうのだが、それにしても他の部分がすばらしいので
その欠点を補って余りある。
戦争映画の名作の誕生だと思う。

しかし個人的には「戦争で死んだのは日本人だけではない」という視点を含んだ戦争映画も
見たいのだが・・・・・



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大停電の夜に


日時 2005年12月15日21:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン4
監督 源孝志

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クリスマスイブの東京の午後5時、突然原因不明の大停電となり、東京は闇に
閉ざされる。
自分は不倫相手(井川遥)と別れようとして、しかし余命3ヶ月の父(品川徹)からは
死んだと聞かされていた母は実は生きていると教えられるサラリーマン(田口トモロヲ)、
そのサラリーマンと離婚を考えている妻(原田知世)、妻(淡島千影)から自分との
結婚の前に子供を生んでいたと聞かされる夫(宇津井健)、ジャズバーを閉店しようと
考えているマスター(豊川悦史)、その前に店を持つキャンドルショップの主人(田畑智子)
出所してきたら自分を待ってくれてるはずの女(寺島しのぶ)は結婚していたヤクザ(吉川晃司)、
上海からホテル研修に来ているが、遠距離恋愛に不安を覚えているホテルマン(阿部力)、
明日、乳癌の手術で乳房を取り去るため自殺を考える雑誌モデル(香椎由宇)、その自殺を
止めに入った中学生(本郷奏多)。
これらの男女は電気の消えた世界でお互いを理解しあうようになる。


「東京タワー」の源孝志監督作品。
この映画、大停電の話と聞いて「パニックもの?」と思ったのだが、「純愛もの」らしいと聞いて
見る気が一旦うせたのだが、「東京タワー」の監督、と聞いてまた見たくなった。
何せ「東京タワー」で照れもなく、東京の夜景を美しく描き、画の美しさのためなら話のつながりも
必然性もすっ飛ばした監督だ。
最近の監督には「画をきれいに」という発想が欠けてるのか予算が無いのか、日本映画では
画が汚いのが多いのだが、この監督は(「グラビア雑誌みたいだ」という批判も出来るが)
画の美しさを意識してるらしいという気がしていたので、そこのところに期待があったのだ。

期待通りというか予想通りだ。
田畑智子が豊川悦史の店を無数のキャンドルで照らすところなど完全に理屈無視だ。
あんな小さなろうそくなら何時間も持たないよ。
でも美しいのだ。それでいい。
しかもトヨエツはジャズバーのマスター。出来すぎている
でもかっこいい。

そういう風に理屈無視でやっちゃうところがこの監督のすごいところ。
話のほうは10人の男女がお互いどこかで関わっていく構成で、誰がどこで誰と関わっていくのかが
見てる間に楽しみになる。
観客もやがてこの人間関係を想像しだし、「トヨエツの彼女ってきっと原田知世なんだろうな」と
思っているとそこへ井川遥が入ってくる。
観客は「え?」となるのだが、すかさずトヨエツは「違うよ」と同じく井川遥を彼女と勘違いした
田畑智子に指摘する。
で最後にトヨエツの彼女が明らかになるのだが、これは観客の期待というか想像通り。

まったく別々のストーリーが進んでいくのかと思ったらこういう風にどこかで人物が関連付けられていく
構成だったのだが、最後まで香椎由宇と本郷奏多は他の人々と関わらなかった。
これってそういう計算なのか?それとも何か後で書き足したのだろうか?

とはいっても2時間を越す上映時間はやや冗長。
見てる間はやや退屈する。
でも見終わったあと、冬の町を歩きながら「たまには大停電になってあの人とゆっくり話してみたいなあ」
と思ったのだから、私はやっぱりこの映画の世界に浸っていたのだろう。
源孝志監督、これからもちょっと注目だ。
個人的には期待してます。



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東京湾炎上


日時 2005年12月10日26:30〜
場所 浅草東宝
監督 石田勝心
製作 昭和50年

「東京湾炎上」に関しては「名画座」に記載しました


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紙芝居昭和史 黄金バットがやってきた


日時 2005年12月10日25:00〜
場所 浅草東宝
監督 石田勝心
製作 昭和46年

(詳しくはキネ旬データベースで)



昭和10年から昭和39年までの紙芝居に関わった人たちの哀歓を描く、
としか言いようがない。

小林桂樹扮する貧乏絵描きはたまたま通りかかった場所で見た紙芝居のおじさん
(藤岡琢也)の紹介で紙芝居の絵を描くようになる。
貸し元の北林谷栄は強欲なばあさんだったが、その義理の息子(小沢昭一)は
絵描きたちを引き連れて独立する。
そして和解してまた元の鞘に納まるが、やがて戦争が始まり、人気紙芝居だった
黄金バットの敵も世界制服をたくらむナゾーから、鬼畜米英スパイ・ナゾーへと
変わっていく。紙芝居の最後には子供たちに兵隊になることを勧めていくのだった。
戦後の混乱期、小沢昭一や北林谷栄は闇屋をしていき、紙芝居を復活させるが
やがてテレビの台頭で人気はなくなっていく。

こんな感じのお話。
紙芝居の世界は僕も話でしか聞いたことはないし、テレビドラマで多少見たことが
あるだけだ。
だから貸し元がいて紙芝居のおじさんたちを束ねていく世界があったというのは
この映画で知った。だから少しは勉強になった。

でも映画全体としてみると、別に面白くはない。
なんというか「ああそうですか」という感じ。
魅力も何もない話だが、そんな中、小沢昭一の時代を見てその波に乗って、そして
失敗を繰り返すというあくの強いキャラクターが良い。
こういう役をやらせたら実にうまい。
また途中闇屋のシーンで朝鮮人に成りすませば警察やMPも細かいことは見逃して
くれる、というわけで北林谷栄が「私たち、戦勝国の人間、お前たち敗戦国の人間。
なんか文句あるか!」といって立ち回っていくシーンは秀逸。
そんな人間もいたんだなあ。

また藤岡琢也が戦時中、自分の紙芝居を見て軍隊に入った少年が、戦後負傷兵(高橋長英)
となって帰ってきたのをみて、「自分の紙芝居をみてこの子は足をなくす羽目になった」
自らの戦争責任を感じるシーンは記憶に残る。

実は紙芝居の盛衰と映画界の盛衰は時代的にダブル面があるのだが、人気が無くなっていく
様子とか、戦意高揚に協力したと言うところで、紙芝居の世界と映画の世界をオーバーラップ
させているのだろうか?
ちょっとそんな気がした。

しかし、この映画の作られた昭和46年は日本映画にとって一番つらい時期。
(と私は思っている)
前年には大映の倒産、日活のポルノ路線化など従来の映画作りでは駄目だということが
わかっていながら、新しい方向性を見出せない時期だった。
この日この映画を見終わった後、「お客の入らなくなった時期にこんな魅力の無い映画
を作っていたのではダメだなあ・・・」とため息をついたのもまた事実です。



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父ちゃんのポーが聞こえる


日時 2005年12月10日23:25〜
場所 浅草東宝
監督 石田勝心
製作 昭和46年

(詳しくはキネ旬データベースで)


タイトルだけ聞くとどういう映画かさっぱりわからないが、主人公の父親は国鉄の
蒸気機関車の運転士。
娘が病気で入院している病院の近くを通るときに合図に汽笛を鳴らす音から来ている。

現代の医学では直らない「舞踏病」に則子(吉沢京子)はかかってしまう。
それは筋肉が利かなくなり、手足が働かなってやがて死に至る病気だった。
まだ中学生だった則子は近くの病院の学校もかねた施設に入所する。
そこで慰問に絵を教えに来た青年(佐々木勝彦)と知り合い、初恋をする。
しかし青年はパンの修行のため東京に行ってしまう。
やがて則子の病気は悪化し、別の山奥の施設に入る、そこは交通の便も悪く、父親
(小林桂樹)や母親(司葉子)も見舞いもままならない。
さびしがる則子のために自分の運転する機関車が病院のそばを通るとき、汽笛を
鳴らすようになる。
父は踏み切り事故にあい、入院し汽笛が鳴らせなくなってしまう。
汽笛を鳴らすことを知っていた同僚は別の機関士(藤岡琢也)に汽笛を頼む。
その日、則子は汽笛をききながら息を引き取るのだった。

いわゆる難病もの。
私は難病ものが苦手である。いや正確に言うと嫌い。
泣かせようという魂胆がミエミエであざといったらありゃしない。
しかし、最近の「私の頭の中の消しゴム」の大ヒット(日本で公開された韓国映画の中で
一番のヒットとか。へえ〜)にあるように世間はこういうのがあたるらしい。
実際、石田監督作品の中ではヒット作だそうだ。
但し、石田監督は監督をしていた時期が日本映画が一番苦しい時代なので、ヒット作に
恵まれなくても時代的なものもあり、作品の質はまた別の話だ。

主役は吉田京子。
懐かしいねえ、この人。今ではすっかり忘れられているが、アイドル女優としてこの頃は
人気があったはず。私はこの頃小学生だったが、それでも覚えている。
ほっぺがふっくらした清純そうなアイドルだった。
この映画は彼女の人気もあったと思う。

父親役は小林桂樹。何をやらせてもうまい人だ。
その同僚の機関士に藤岡琢也。小林の後妻に司葉子。ちょっときれい過ぎる。
そして則子の初恋の相手に佐々木勝彦。
もっとも本人は「実の妹のように思っている」そうなので則子の初恋は失恋だったかも。
でもこの頃の佐々木勝彦って「海軍特別年少兵」といい、いい役をもらっているのだな。
そんな魅力のあるような感じはしないのだが。
実際、70年代初めに活躍したが、その後はあまりお見かけしません。



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探偵事務所5”


日時 2005年12月4日18:15〜
場所 シネリーブル池袋
監督 林海象

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ここは所属するすべての探偵は5で始まるナンバーで呼ばれる巨大探偵社。
その中の591(成宮寛貴)は入ったばかりの新人探偵。彼はたまたま自分の
部屋に居合わせたこの探偵社のナンバー1の孫娘、女子高生の宍戸瞳と知り合う。
彼女の友人が失踪してもう2ヶ月も帰らないのだ。
彼女に無理やり依頼させ、591は失踪したその友人を追う。
どうやら彼女は美容整形病院に行ったままになったらしいのだ。

林海象の探偵もの第3弾。
濱マイクシリーズが有名だが、彼のデビュー作「夢見るように眠りたい」も探偵ものだ。
今回、探偵という設定だが、実は60年代のスパイものの要素が強い。
強いて言えば「ナポレオン・ソロ」に一番近いだろうか?

それも完全に「ナポレオン・ソロ」、というよりは、当時はやった外国もの、日本ものの
安っぽいスパイもののテイストをベースにしつつ、探偵ものとミックスさせたつくり。
実はこの映画のキャンペーンのために文化放送の番組に林監督がゲストで出演し、
話しているのを聞いたのだが、昭和40年代にはやった子供のおもちゃに「スパイ小道具もの」
があったが、そういうものに相当入り込み、今もそれが忘れられないらしい。
今回も(あんまり活躍しないが)ナイフを仕込んだ靴とか、カメラつきメガネとか、
タバコ型の何かとかいろんな小道具満載だ。
彼の頭の中には何十年も考えてきたあこがれのスパイ&探偵ワールドが広がっているらしい。

だからこのこの世界も一本の映画で終わるわけでなく、完全に連作するつもりだ。
今回のこの映画にしたって(書いちゃうけど)、失踪した女子高生は悪徳美容整形のために
ソープランドで働かせられるようになったっていう話なんだけど、後半、今度は宮迫演じる
別の探偵がその悪徳美容整形外科を追っているという話になる。
もう完全にテレビドラマの1話と2話になっていて、その回の始まりのメインタイトル、
というか設定の説明部分がそれぞれつく。

探偵がたくさんいる、ということになれば毎回違う探偵を主人公にすればいいから、連ドラと
しては面白い設定かも?
しかし、そこまで考えたにも関わらず、その相手にする悪が「悪徳美容整形」ってなんか
ちっちゃくねえか??
(それに話も大した展開も意外感も無い。ちょっとシナリオが弱い)

諸悪の根源の院長は今回、逃げてしまって「また次回」となるのだが、例えば007の
スペクター、明智小五郎の怪人二十面相に比べるとスケールが小さい。
ちょっと小粒過ぎるんだよね。

秘密兵器の開発者、とか書類倉庫の係員、とか脇はそろっているので、いくらでも作りたそうだが
それほどのヒットとなるか?
但し、今回エイベックスが製作してるので、DVDドラマとするとか、違った展開で
シリーズ化されるかも?

まああんまり子供の頃の「夢」にこだわり続けるのはどうかと思うが、僕も嫌いじゃないので
しばらくは付き合ってみることにしよう。




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大空の野郎ども


日時 2005年12月3日27:05〜
場所 浅草東宝
監督 古澤憲吾
製作 昭和35年

(詳しくはキネ旬データベースで)


新聞社のカメラマンの夏木陽介は国鉄の新特急のテスト中、迫力ある写真を
撮ろうとして線路に入ってしまい、結果、国鉄のテストを妨害することになってしまい、
そのために航空カメラマンに転属されてしまう。
担当パイロットの佐藤允と対立を繰り返しながら、迫力ある報道写真を撮ろうと
活躍する。

古澤憲吾監督の航空アクション。
古沢監督自身が戦時中、落下傘部隊だったし、また「青島要塞爆撃命令」という名作も
あるから期待したのだが、本作はちょっと期待はずれ。
冒頭、「この映画は読売新聞社の協力で製作されました」という字幕が出るから、
読売新聞とのタイアップもあったかも知れない。

要はこま切れのエピソードの羅列で、いわゆる縦線が無いのだよ。
写真を撮るためにもっと下降しろ、と言ったり、天候が悪くても台風の被害写真を
撮りたいとかいう夏木陽介に、佐藤允は「出来ない」といったりして対立する。
それで佐藤允のパイロットの上司(田崎潤)が要求を聞いて無理に飛んで事故で死亡したりする。

そういうエピソードがただただ羅列されるだけで、1本の映画として盛り上がりに欠ける。
そして夏木が撮った佐藤允の写真が展覧会に出品され、その写真を見た白川由美のどこぞの
お嬢様と佐藤允の恋愛も出てくる。
この辺がどうも消化不良でまとまりが悪い。
例えばNHKの「事件記者」の時のように何かの大きな事件があって、それを追いながら
いろんなエピソードが挿入される、という形ならもっと面白かったのかもしれない。

もっともオールナイトの最後の上映で、こちらも朦朧としていたし、プリントの状態も
悪く、セリフも聞き取れないところ多数で、その辺にもこの映画が僕の中で盛り上がらなかった
原因かも。

報道カメラマンの映画ということで、ちょっと面白そうだったのが、残念な出来だった。


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悪魔の接吻


日時 2005年12月3日25:20〜
場所 浅草東宝
監督 丸山誠治
製作 昭和34年

(詳しくはキネ旬データベースで)


河津清三郎の洋品店の社長は妻にすべてのお金を握られており、不満な日々を
送っていた。妻の腹違いの妹(草笛光子)はホステスでいつしか河津清三郎と
男と女の関係だった。
彼らは妻の財産を自由にするために、妻の殺害を計画する。
それは妻を殺害し、その死体を乗せた車を使用人の佐原健二に運転させ、
甲府まで行かせる。しかしその車には時限爆弾が仕掛けられており、妻と佐原健二が
心中したように見せかける計画だった。
計画はいよいよ実行され、河津は妻を絞殺し、その死体を車に積み、死体の上に
商品のスーツを積み、佐原健二に「急な納品だ」と行って甲府に出発させる。
しかし、その車にたまたま河津のうちに遊びに来ていた姪が、「あたしも
甲府までドライブしたい」と言って乗り込んでしまったのだ!
このままでは姪も死んでしまう。
河津清三郎は苦悩し、警察に佐原健二の乗る車を捜索してもらおうかと考えたが、
それをすると妻殺しまでばれてしまう・・・・・

本日の浅草東宝の一番の拾い物。
よく出来たスリラーだった。映画の冒頭、「この映画の結末は誰にも話さないで
ください〜製作者」というコメントがでる。
作ったほうも自信があったのだろう。
実際、楽しめる。

このサイトでは書いちゃうけど、この車に乗り込んだ姪というのがわがまま娘で、
ハラハラするというより、いらいらする。
佐原健二には「近くの駅まで乗せてって」と頼んだらしいのだが、いざ駅(目白駅)
に着くと「あたしも甲府に行きた〜〜い」とわがままを言い出す。
佐原健二は仕方なくそのまま走るのだが、今度は「おなかがすいた〜〜〜」などと
のたまう。
食堂に入り、二人とも金がないとわかると店の親父(谷晃)に車に積んであるスーツを
勝手に売ってしまう。
「おいおい、困るよ」と佐原健二が言っても「大丈夫、私から叔父さんに言っておくから」
と意に返さない。
河津清三郎や佐原健二でなくてもこっちもいらいらする。
爆弾が爆発する前に、こっちが爆発しそうだ。

でも爆弾は車の荷台に積んであるので、スーツを選んでるときに爆弾が見つかるんじゃないか
とハラハラもしてくる。
そういった感じでイライラハラハラさせられるんだけど、佐原健二は何とかこの小娘を
車から降ろすことに成功する。
車から降りたことを電話で連絡を受け、ほっとする河津清三郎。
このとき、草笛光子は河津清三郎と合流していたんだけど、物音がするので河津が外を
見に行って部屋に戻ってきたら、そこにはなんと妻の死体があったのだ!

パニックになる河津清三郎。佐原健二が途中で計画を見破ったのか?
と思わせてる間に草笛光子が河津に水を持ってくるのだが、今度はその水を飲んだ
河津が死んでしまう!
えっーとなる展開。


書いちゃうけど、実は佐原と草笛はグルで最初から河津夫妻を殺す計画だったのだ。
(ああ、書いちゃった。未見の方、ごめんなさい)

前半善良な被害者の振りをして後半悪人になる佐原健二。
佐原健二は本当は悪役は似合わない、というのが僕の意見だったけど、この映画の後半
の佐原健二の悪役ぶりは良かった。
なんか前半とのギャップがすごくて効果的でしたね。

ラスト、ちょっとしたところから完全犯罪が崩れていく。
それを見破った刑事(清水元)に対し、「私がやりました」と告白する草笛。
で、毒を飲んで自決する。
全部書いちゃた。
正直言うけどこの最後の展開は残念。
これだけ逆転、逆転があったのだから、草笛光子が死ぬと見せかけて・・・とか
草笛光子が死ぬのも計算のうちで真の悪者は・・・・・という逆転があるんじゃないかと
思ったから(ほら、冒頭の製作者の言葉もあるから)、ただ草笛が自決して、
佐原の驚く顔のアップで「終」は残念。
実に残念。
もう一ひねりあれば東宝ミステリーの傑作に入れても良かったのだが・・・・
実に惜しかった。

でも最後の5分になるまでは楽しみましたよ。



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遥かなる男


日時 2005年12月3日23:25〜
場所 浅草東宝
監督 谷口千吉
製作 昭和32年

(詳しくはキネ旬データベースで)


牧場を渡り歩いて養蜂を営む親子(田崎潤)の元に流れ者(池部良)が
紛れ込んできた。
いわくがあるらしい男だったが、かたぎになりたいという意思も固く、
田崎潤は彼を蜂屋として仲間に入れる。
今世話になっている牧場主(上田吉二郎)の息子と田崎潤の娘は結婚を
誓い合っていたし、上田吉二郎の出戻り娘(新玉美千代)は池部良に
惚れてしまったらしい。
しかし新玉美千代に気に入っている牧童頭の堺左千夫としては面白くない。
そんなとき、上田の息子が落馬が原因で破傷風になってしまう。
血清を早く持ってこなければならない。
しかしあいにくその日は台風で道が難儀で誰も行くことが出来ない。
堺左千夫は新玉美千代との結婚を条件にこの悪天候のなか、医者の下へ
出かけるという。
池部良も出かけることにしたが、昔の仲間(佐藤允、平田昭彦)がそんなときに
やってきて、彼を殺そうとする。
果たして息子は助かるのか?

東宝映画だが、完全に日活映画のノリ。
テーマ曲もなんだか「ギターを持った渡り鳥」に似ている。「ギター」は昭和34年、
この映画は昭和32年だから実はこっちの方が早かった。
日活映画の影響、というより西部劇の名作「シェーン」が昭和28年だからこっちなどの
西部劇の日本版だったのだろう。

池部良が流れ者でジーパンをはいてるんだけど、似合わんなあ。
こっちの思い込みかも知れんけど、髪形もスーツ姿と同じポマードでばっちり
決まっているので、なんだか普段はスーツなのに休みの日だけジーパンをはいたお父さん
見たいで違和感がありあり。

この映画が東宝映画であるということと合いまって終始なじめないものがあった。
これが日活映画だったら、もう見慣れているので違和感はないんだろうけど。

池部良を追いかけてくるやくざというかギャングが佐藤允なんだけどこの頃はまだ
下っ端役。平田昭彦が兄貴分だが、こちらは相変わらずダンディにぴたっとスーツを
決めている。

ラスト、血清が届くかどうかがサスペンスなんだけど、そういえば昔のテレビや映画って
これがクライマックスになるのが多かった気がします。
具体的には思い出せなんですが・・・・

東宝映画には珍しい西部劇だった。




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