2006年7月

突撃
最後の晩餐 悪魔のような女 バイキング 蟻の兵隊
深夜の告白 アンドロメダ・・・ 日本沈没 見知らぬ乗客
カーズ 汚名 デスノート 前編 バルトの楽園(がくえん)

突撃


日時 2006年7月30日
場所 録画DVD
監督 スタンリー・キューブリック
製作 1957年(昭和32年)

(詳しくはキネ旬データベースで)



第一次世界大戦下のドイツフランス戦線。
フランス軍上層部はアリ塚と呼ばれるドイツの陣地をどうしても占領しようとする。
師団長ミロー将軍は最初は無理だと断ったが、昇進をちらつかされ承知する。
現場の指揮官ダックス大佐(カーク・ダグラス)もこの作戦の無謀さを指摘するが、
結局は押し切られ行うことになる。
結果は失敗。
ミロー将軍は作戦の失敗の兵士達への見せしめのため、各部隊から1名づつ選び
軍法会議にかけることにする。
弁護士だったダックス大佐は軍法会議でも兵士達の弁護を買って出る。
しかし彼らの銃殺はあらかじめ決まっているようなものだった。

この映画の主人公はフランス軍人だが、全員英語で会話している。
そんなこと実は気にするほうがおかしいかも知れない。
勝新太郎だって日本語で「秦・始皇帝」を演じていたではないか?
いや私が気になったのはそういう言語の違いを問題にしているのではなく、フランス軍らしさ、
というものを感じないことだったと思う。

実際の事件を映画にしているのかどうか、私はよくわからない。
つまり言いたいのは第1次大戦のドイツフランス戦線でなくても話は充分通用したということだ。
ベトナムでも太平洋戦争の日本軍を舞台にしても同じ脚本で話は出来そうだ。

自分の功名、出世のためにムチャな作戦も引き受ける。
そして失敗し、その責任を部下に押し付ける。
こういうことはどこの国の戦場でもあっておかしくない。
いや「極めて個人的な事情」で戦争や作戦を始めて失敗して多くの人が死ぬ、
というのは戦場の専売特許ではなく、そもそも戦争を始める政治家の動機にだって
当てはめるのではないか?

キューブリックには第一次大戦の事件を描こうとしたのではなく、戦争の普遍的な
不条理、一部の人間の個人的な感情で多くの人が殺されていく、そんな不合理を
描きたかったのではないか?
ただし時代を第二次大戦にしたのでは1957年という戦争が終わって12年の段階では
生生しすぎて描きにくかったのかも知れない。
だから舞台を第一次大戦にしたのではないかと。

最後に捕虜のようにつかまったドイツ人娘にフランス軍兵士が酒場で余興で
歌を歌わせる。戦場で恋人を想う兵士の歌だ。
それを聞いたフランス人兵士は涙していく。
人を想う気持ちはドイツ人もフランス人も変わらないというヒューマニズムあふれた
シーン。
でもちょっとキューブリックには似つかわしくない気がした。
このシーンが始まったとき、兵士がドイツ娘を集団暴行する、といったような兵士の
狂気が描かれるかと思ったが、案外まともなラストだ。

後の「博士の異常な愛情」では現場の指揮官(爆撃機の機長)をも戦争の狂気に
取り付かせたキューブリックにしてはアイロニーが不足し、優等生的でなんだか
似合わない。
それだけキューブリックもまだ若かったということなのかな?

あとは戦闘シーンの迫力。
突撃していく兵士やカーク・ダグラスを延々と移動で捉えながら、あちこちで爆弾が
破裂するシーンは、当時としては「プライベート・ライアン」の冒頭のノルマンディ上陸
シーンに匹敵する迫力があったのかも知れない。



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最後の晩餐


日時 2006年7月30日
場所 DVD
監督 マルコ・フェレーリ
製作 1973年(昭和48年)


「最後の晩餐」については「名画座」に記しました。



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悪魔のような女


日時 2006年7月30日
場所 録画DVD
監督 アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
製作 1955年(昭和30年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


ミシェル(ポール・ムーリッス)は妻がオーナーである全寮制の小学校で校長を
していながら同じ学校の教師を愛人にしていた。
妻クリスティーナ(ヴェラ・クルーゾー)と愛人のニコール(シモーヌ・シニョレ)
は共謀し、ミシェルの殺害を実行する。
ニコールの実家にクリスティーナと二人で行き、「離婚したい」と夫に電話をかける。
やってきた夫を睡眠薬入りウイスキーで寝かせ、浴槽で溺死させる。
翌日、死体を学校に運び、夜中にプールに捨てた。あとは死体が発見されるのを
待つだけだ。
ところがいつまで経っても死体は上らない。
それどころかプールの水を抜いてみたところ、死体はなかったのだ!
その後、夫が着ていた服がクリーニング店から届けられたり不可解なことが起こる。
一体何がどうなっているのか?

クルーゾーのミステリーの名作。
話には聞いていたがやっぱり面白かった。

殺しを実行する過程もハラハラさせられるが、その後が見逃せない。
出てくるはずの死体がない恐怖。
しかも誰かに相談するわけにも行かない。
実はよーく考えればわかるのだが、私は最後の数分間まで気づかなかった。

クリーニングのエピソードだけでなく、生徒の中には校長先生を見たという子がいたり、
記念写真を学校で撮れば窓ガラスの向こうに校長がチラッと映っていたりする。

クルーゾーのサスペンスはサディスティックなまでに主人公を苛め抜くのが特徴、という文章を
以前どこかで読んだのだが、実に言いえて妙なのだなあ。
「恐怖の報酬」の主人公達も徹底的に苛め抜かれた。
この「悪魔のような女」もそうなのだな。
クリスティーナは事件の不可解な展開に常に苛め抜かれる。

そして後半、身元不明の死体を確認しに行くクリスティーナ。
そこの係官が夫かも知れないと思って、というクリスティーナを質問攻めにしてまた苛め抜く。
そしてこの場に居合わせた元警官フィッシェ(シャルル・バネル)が頼みもしないのに
夫の行方を探しはじめる。

クリスティーナでなくても事件の思わぬ展開に切れそうになる。
やがてクリスティーナの前に・・・が現れ、
というあたりで止めておこう。

この辺で止めるのがエチケットだ。
クルーゾーのスリラーの名作。
「フランスのヒッチコック」などと呼ばれるクルーゾーだが、そんな形容詞は不要。
彼の他の作品も見たくなった。



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バイキング


日時 2006年7月23日
場所 DVD
監督 リチャード・フライシャー
製作 1958年(昭和33年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


バイキングの王・ラグナー(アーネスト・ボーグナイン)はイギリスに攻め込み
その国の王妃をはらませる。
そして王妃はその子を生む。その子は出生の秘密を隠し、海外に送られる。
20年後、ラグナーはまたイギリスに攻め込む。
ラグナーにはアイナー(カーク・ダグラス)という息子がいた。
そしてラグナーの元にはエリック(トニー・カーティス)という奴隷がいたのだが、
これが実は20年前にラグナーがイギリスの王妃に生ませた子だった。
アイナーはイギリスの国の姫モーガナ(ジャネット・リー)を強奪し、モーガナと
結婚をたくらむエイラ王から身代金を得ようとする。
エリックはモーガナを助け、イギリスに向うのだが、アイナーやラグナーも
追ってきた!

8世紀から10世紀にかけて北欧の海岸を根城としイギリスなどと争った海賊
バイキングとイギリスの戦いを描く史劇アクション。
もっともイギリスは今のイギリスと違ってまだ一つの国ではないようだ。

海賊、と言っても今の「パーレーツ・オブ・カリビアン」につながるような
いわゆる海賊映画ではなく「ベン・ハー」(1959)「十戒」(1957)
「スパルタカス」(1960)みたいな史劇。
前にも書いたけど、こういった史劇は苦手だ。

なんかこう体が面白いと言って反応してくれず、退屈さばかりが付きまとう。
体にあわないのだ。
そんなこと見る前からある程度想像つくだろうに、それでも見たのは別な理由が
あったから。

実はこの7月、NHKの土曜ドラマで「人生はフルコース」という帝国ホテルの
総料理長だった村上信夫氏の半生を描くドラマが放送されたのだが、その中で
帝国ホテルで食べ放題のレストランを開くことになり、その名称が社内公募され
それで当時上映中だったこの映画「バイキング」を見た従業員が「この映画に
船の中で食べ放題のシーンがあり、それにちなんで応募した」というエピソード
が出てくる。
それを確認するために見たのだが、該当するシーンは・・・・なかった。

しかしカーク・ダグラスやアーネスト・ボーグナインが地元に帰って自分の部下たちと
飲めや騒げやの大宴会を開くシーンが出てくる。
多分このシーンを見て、勢いよく食べるシーンになんとなく「食べ放題」のイメージが
重なったのではないか?
多分このシーンのことを言ったのだろう。

こんな話、映画の評価とは何の関係もないのだけれど、こういう史劇は私には
面白くないのだなあ。
ダメなんです、こういう映画。
たとえ一般的に面白いといわれても僕にはまったく響かないんですよ。
そんな感じです、ハイ。



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蟻の兵隊


日時 2006年7月22日10:00〜
場所 シアター・イメージフォーラム(地下)
監督 池谷 薫

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奥村和一(80歳)は元日本軍兵士で戦時中は中国山西省にいた。
彼は終戦時、この地に残って国民党軍と共に戦うよう命令される。それが祖国再建の道だと言われて。
やがて捕虜になり昭和29年に帰国する。しかし日本で待っていたのは自分は現地除隊し軍籍が
なくなっていたという事実だった。それは中国に残ったのは「命令」ではなく、「自分の意思」
であり、軍人恩給その他の対象外だというのだ。
奥村たちは自分たちは命令で残ったという事実を突き止めるため、中国に向う。
それはかつての戦地を訪ね、自分達が戦った中国人との再会をすると旅でもあった。


ほとんどの人がこの映画を見て初めて知るであろう、中国山西省残留問題。
この事件は軍の首脳部が自分達が戦犯から逃れるため、自分の兵隊を国民党軍に売り渡し、
自分達だけが無事に帰国しようとするためであった。

映画はまず靖国神社から始まる。
陽気に初詣に来ている女の子のグループに話を聞く。
「どうしてこの神社に来たの?」「え、近いから初詣に」というこの映画を見るような人からすると
苦笑を禁じえないようなシーンから始まる。
そして奥村さんの体のあちこちには砲弾の破片があることが説明される。

終戦時、奥村さんたちの司令官だった澄田中将に不穏な動きを察知した総司令部の宮崎中佐は
直ちに全軍を帰国させるよう説得した。しかし澄田中将はそれを無視した。
その宮崎中佐は今は脳梗塞で倒れ寝たきりで話すこともままならいない。
しかし奥村さんが訪ねるとまるで慟哭の叫びを上げるように声を出す。
この執念と言ったものに心を打たれる。

そして奥村さんや撮影クルーは中国へ。
まさに「単騎、千里を走る」だ。
山西省の公文書館を訪ね、澄田中将が国民党側と話をつけたとされる国民党側の文書を発見する。
それだけでなく、かつて自分が戦った土地へ向う。

この映画を見る前は単に自分達を見捨て、そしてその自分達に保障をしない「国」や「上官」を
追求する映画だと思っていた。
しかし奥村さんはそれだけではない。自分自身の戦争責任すら追求していく。
自分がかつて交戦した元国民党軍兵士と会ったり、自分たちが初年兵教育の一環で殺した
中国人の遺族とも面会する。そして日本軍に輪姦された老婦人とも会う。

特に初年兵教育の一環で殺した中国人の遺族との再会は注目に値する。
自分達の殺した相手が逃亡兵ではなかったかと疑いだす。そうすると奥村さんは妙に相手を責めるような
口調になる。
ここで映画を見ている観客は戸惑う。奥村さんは自分の戦争責任を正直に反省しようとしているのでは
なかったのか???
その問いはすぐ次のシーンの監督からの質問で明らかにされる。
「ひょっとして・・・・あのう・・・殺された人たちは殺されてもしょうがない人たちだったとわかって
ほっとしたとか?」
「いや、そんなことはないです。ただ・・自分の中にあった帝国軍人の考え方が急によみがえって
きてしまって。もう封印したと思ったんですがねえ」

帰国後、最高裁に上告するが請求は棄却される。

8月、靖国神社に向う。
そこでは小野田寛郎さんが右翼の集会で演説して喝采を浴びている。
小野田さんの帰り道、支援者達から拍手を握手を求められているところで奥村さんは声をかける。
「小野田さん、侵略戦争美化ですか?」
その時、小野田さんは激怒する。
短いシーンだが戦後の二人の軍人の戦争に対する考え方の違いに見てる私は何もいえない。
二人とも戦争が終わっても非常にご苦労された方だ。
私のように映画や本でチラッと見知った人間に何が言えるだろう。


本音をいうと映画としてはやや面白みが少ない。「あんにょん・サヨナラ」のように
殴りかかる右翼とか「日本だって核兵器を持てばいいんだ」というピエロのような老人が際立った
キャラクターが少なく、ちょっと退屈を感じる。
「ゆきゆきて神軍」ほど主人公がエキセントリックでもないし。
だからと言ってこの映画の価値が低いことにはならない。


他人の責任だけでなく、自分の戦争責任とも向き合う奥村さんにはただ脱帽するだけだ。



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深夜の告白


日時 2006年7月17日
場所 DVD
監督 ビリー・ワイルダー
製作 1944年(昭和19年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


保険会社のセールスマン、ウォルター・ネフ(フレッド・マクマレイ)は肩を
ピストルで撃たれた姿で深夜に自分の会社のオフィスに入るとテープレコーダー
に上司・キースに対してある告白を始める。
それは数ヶ月前に自動車保険の更新のためにある顧客に行ったときのことだった。
主人は不在だったが、妻のフィリス(バーバラ・スタンウィック)に会った。
夫婦は不仲で、ウォルターはフィリスに保険金殺人を持ちかけられる。
一度は断ったウォルターだったが、フィリスの魅力に負け、保険金殺人を
計画するのだが・・・


ビリー・ワイルダーって言うとジャック・レモンなどと組んだコメディーが有名。
しかし「情婦」(検察側の証人)という名作ミステリーもある。
これもその流れの一つ。
しかも脚本には「フィリップ・マーロウ」シリーズで有名なレイモンド・チャンドラー
も加わっている。
これは面白そう!

実際、面白い。
保険金殺人という極めて今でもある犯罪をモチーフに、完全犯罪を描いていく。
保険に加入させる手口、そして列車での事故に見せかけた殺人。
お決まりのように途中で車がエンストしたりのハラハラのトラブルがありながら
の実行。

そして保険金の請求。
しかし事故ではないと主張する会社。その主張も的外れだったりしながらも思惑
通りに行かずにジリジリ。
この事故を疑いだす人間が一人、また一人と増えていく。
そしてウォルターとフィリスの間にも亀裂が生じはじめ・・・・
とサスペンスは今見てもまったく古さを感じさせない。

正直言うと最後に「情婦」の時のように大どんでん返しがあるかと思ったらそれはなかった。
ちょっとがっかり。
それがあればもっと好きになったのだがなあ。

それにしても映画が公開されたのは1944年。
第2次世界大戦真っ最中にこんなミステリー映画を楽しむ余裕がアメリカにはあったのだな。
そんな国と戦争して勝てるわけないわなあ。



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アンドロメダ・・・


日時 2006年7月16日
場所 DVD
監督 ロバート・ワイズ
製作 1971年(昭和46年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


アメリカのニューメキシコ州の田舎町に人工衛星が落下した。
その衛星を回収に行った兵士達は突然連絡が途絶えた。
事態を重く見た軍は宇宙からやってきた細菌により死亡した可能性も
あるとしてノーベル賞受賞学者のストーン博士を中心に専門チームを結成、
現地に向わせた。
村の住民はすべて死亡。しかも彼らの血液は粉状になっていた。
しかし赤ん坊と老人だけが生存していた。
軍の地下研究所に移り、その原因の追究が始まった。

子供の頃、この映画は「日曜映画劇場」だったかで見た覚えがある。
今回見直したんだけど、割と憶えていた。
一緒に見ていた父が見終わって「この映画は『施設』を見せる映画だなあ」と
言っていたのを思い出す。
言い当てていると思う。

この地下研究所の描写が実に丁寧なのだ。
この頃はやった「謎の円盤UFO」とか「サンダーバード」とか「ウルトラセブン」など
に登場した秘密基地風の基地がこれでもかと紹介される。

砂漠のど真ん中の基地。
一見すると何でもない木造の建物の一室に入ると、エレベーターになっていて降下していく。
指紋認証やらもあり、もう「シャドー司令部」に匹敵する設定だ。
そして地下に1階づつ降りるに従い、殺菌消毒やらなにやらいろんなことを機器が
出てくる。

研究室におりたら今度はマジックハンドや倍率カメラやらコンピュータによる計算装置
(今のPCと違ってキーボードですべて行うタイプではなく、色のついたボタンを押すタイプ)
が出てきてメカ、というか秘密基地ファンにはたまらないものがある。
スーパー兵器こそ出てこないけど、基地の設備の懲りようには(当時はそんな言葉はなかったが)
「オタク趣味」炸裂だ。

だからストーリーの山で見せる映画ではない。
チマチマとした基地の設備を使っていろんなことをするメカマニアの映画なのだな。
かといってそれだけではない。
最後に細菌汚染が起こり、自爆のための核爆発が起ころうとしてしまう。
ところがこの研究所の不備がたたって爆発をすぐには止められない!
さあどうなる?!
と、基地の裏道を紹介していく。
マニアにはたまらんなあ。

最後、政府の高官達が細菌兵器の可能性について語り合う。
「地球外生命も確認された」「これを細菌兵器に利用することが出来る」「これからどうするかですが」
見たいな会話をする。
つまりアメリカが開発できるということはソ連も開発できる可能性があるということだ。
冷戦中の話だなあ、と思わされた。
今じゃこうはならんな。



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日本沈没


日時 2006年7月15日12:30〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン8
監督 樋口真嗣

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ストーリー紹介は省略。
以下ネタバレありで行きます。
未見の方はお読みにならぬよう。



はっきり言ってこの映画、「日本沈没」ではない。
なぜなら最終的に日本は沈没しないからだ。
信じられないようだがそういう展開になるのだ。
これは看板に偽りありだ。
まあ昔「新幹線大爆破」というタイトルだが「大爆破」しない映画もあったけどさ。

「日本が沈没しない」というのは根本的にこの物語において致命的なミスである。
原作の重要性は「今まで4つの島でぬくぬくと生き抜いてきた日本人が、帰るべき国土を
失っても生きていけるか?」がテーマであった。
日本人が国土を失ってしまうというこれ以上ない危機にさらされ、絶望的な気分にさせられながらも
森谷版映画は小野寺と阿部玲子は再びどこかで出会うんだろうな、という希望を持たせて終わっていた。
同時に観客は「このように日本が沈没しても生きていけるようなたくましい人間になろう」と
思いながら劇場を出るのだ。
(少なくとも私はそうだったと思う)

ところが今度は日本の沈没は回避されるのだ。
これでは「日本沈没」のコアが台無しにされてしまっている。

森谷版との比較はすべきではないのかも知れないが、やはりこの場合避けられない。
小松左京の原作を離れ、タイトルと「日本列島が沈没するかも」という設定だけを借りた
映画なら、「まあこれもアリかな」と許そう。
しかし、この場合「原作 小松左京」とある。
この大改変は許せない。

これは僕の私見だが、橋本脚本は「日本のいちばん長い日」の続編でもあったと私は最近思う。
「国土と天皇制は助かった。しかし今度は国土さえも失う事態になったらどうするのか?」
という隠れテーマがあった。
だからこそ山本(丹波)首相は天皇より国民の命を優先して宮城に避難民を入れるシーンを
書く必要性が橋本忍にはあったのだ。

ところが今度の「日本沈没」は日本は沈没しない。
そりゃかなりの被害は出るが、数年後には日本人はまた新日本列島に返ってくるのだ。
そして富士山は爆発しない。
これも爆発寸前で回避される。
日本人の象徴が天皇なら日本列島の象徴は富士山だ。
つまり国土も天皇も無事なのだ。敗戦時の日本と同じだ。
敗戦から61年、敗戦時に誓った「不戦の誓い」も破る動きもある昨今、こんな国土も象徴も
保全される映画では、何の警鐘や教訓にならない。
(多分論理がメチャクチャだと思われるだろうが、私の中では納得している)

そんな小難しい話は抜きにしても日本のSF映画の精神は「自然をなめると大いなるしっぺ返し
を食らう。大いなる自然の力の前では人間は無力だ」ということであった。
(例外として「妖星ゴラス」があるが、怪獣映画の基本はおごれる人間へのしっぺ返しだった)
自然と共に生きてきた農耕民族らしい発想だった。
それが今回は自然に打ち勝つのだ。
それも台風とかのレベルではない。
地球のマントルの動きに対して勝つのだ。
これは自然に対してあまりにも傲慢だ。
「何でも征服しなければ気がすまない」アメリカ人気質だ。
近年そのアメリカ人でさえ、「デイ・アフター・トゥモロー」では大自然に対し謙虚に生きて
いるにも関わらず、だ。時代錯誤ではないか。
(第一プレートを破壊するという大胆なことをしてその後の地球環境は大丈夫か?)


まあそろそろ止めよう、この点に関しては。
仮に百歩譲って日本を沈没から回避する話もありだとしよう。
しかしそうなら映画の中でもっと早く着手すべきだ。
国土が被害を受ける中、何とか爆弾を使っての日本列島沈没阻止計画と沈没、どっちが先に
なるかを時間との競争として丹念に描くべきだった。

調査のための「D1計画」の後、避難実行の「D2計画」日本列島沈没阻止の「D3計画」が
並行して描かれるべきなのだ。
いっそ海底軍艦轟天号が登場して、ドリルで地中にがんがん穴を開けながら爆弾を仕掛け、途中で
怪物が出てきたりして、そして主人公が特攻して日本列島の沈没が回避されればそれもいいかも知れない。
(いやそこまでするとおふざけが過ぎるかな)
ところが本作ではその辺の細かい過程は省略される。
海底軍艦はともかく、もう少し日本列島回避阻止の過程を丁寧に描いて欲しかったと思う。
削掘船をチャーターする過程とか穴を掘る過程とかそんな中で田所博士や結城が活躍していくのだ。
それはそれで楽しめる映画になった可能性はある。

まあその辺もともかく、旧作の肝はパニックシーンだった。
特に関東大震災のシーンは怖かった。
地面が揺れる恐怖だけでなく、落ちてくるガラスの怖さ、車の爆発、その後の大火災などそんな状況に
現在の都会は如何に危険で防災体制は不備であり、恐怖にさらされた人間のエゴが何より怖かった。
ところがその辺の大地震に対しての恐怖、はない。
京都や名古屋や大阪の沈没シーンも出てくるが全部きれいな「絵」として破壊図が登場するのみだ。
これはどうかなあ。

キネ旬7月下旬号の樋口真嗣のインタビューを読むと、「現実に阪神大震災などでそういう恐怖は
受けてますし、映画の公開までに現実に大地震があって公開に何か差し障りが起こったらいやだ」という
主旨の発言があった。
「現実云々」に関してはでもまだまだ不備なわけだから、その辺は何度でも警鐘を鳴らすべきだ。
しかし「公開に何か差し障り」の部分はなんとなくわかる。
確かにそれを言われると反論できんな。


その辺も許すにしてもこの映画では映画を引っ張る主人公がいないのだ。
一応ハイパーレスキューの阿部玲子(柴崎コウ)とか小野寺(草なぎ剛)や田所博士(豊川悦史)
などが主人公なのだが、映画を引っ張っていくには至っていない。
なんかちょろっと出てきては引っ込んでまだ出てくるを繰り返す。
前作では前半が田所博士(小林桂樹)、後半が山本総理(丹波哲郎)であった。
ところが今度は早々に山本首相(石坂浩二)は死んでしまうし、あとを引き継いだ女性大臣(大地真央)
も画面を引っ張る迫力もない。
また田所博士と以前は夫婦だったという設定が出てくるが、だからなんだというのだ。
面白くもなんともない。

そしてハイパーレスキューの阿部玲子、途中で訓練中の怪我で救助の一線から離れてしまう。
これも何?
救助の第一線に立つ人間を主人公にすることによって大災害に立ち向かう庶民が描けた
筈だが、その辺の見所はほとんどない。
そして小野寺もラストの特攻まではD1計画でも必要だかなんだかわからないくらいに
存在感が薄いし、イギリスに行くの行かないのと、実家や結城やもんじゃ焼きの一家に挨拶まわり
ばかりで活躍がないのだなあ。
何だこれ?
さらに致命傷なのは玲子と小野寺の別れのシーンで恋愛映画風に女性ボーカルの曲が流れて
盛り上げようとする。
さもしい恋愛映画の典型パターンだ。これは絶対止めて欲しかった。

そして旧作の丹波総理が強すぎる、という反省からか今回の政治家(大地真央以外)は何もしない。
何もしないならしないで、こういう国難に際しても何も出来ない(対応できない)無能な
日本の政治家を描くことも意味があった。
だから何もしない、出来ない様子を丹念に描いて欲しかったが、その辺もないのだよ。
ああでもそんなのは現実のテレビニュースでよく見てるか。

かなりダメダメというか期待はずれ、というか期待のベクトルがずれた映画だった。
まあ誉めるとすれば旧作へのオマージュがさりげなく入れてあることころかな。
オープニングのクレジットのシーンで富士山バックの新幹線の絵とか、田所博士が新聞を使って
説明するとか、「何もしないほうがいい」とか「1000人でも100人でも10人でもいや
一人だっていい」のセリフとか、「この地方にまだ被害はない」のテロップとか、日本海側で
「韓国、北朝鮮に勝手に行ってはいけない」というアナウンスが流れるとか(もっともいくら
なんでも北朝鮮に行くやつは今どきおらんと思うが)、田所博士が使っているペンが実はモンブラン
の万年筆だとか、その辺かな。

まあトヨエツが以外によかったのは思わぬ誤算だったけど。

樋口真嗣、悩んだ末に作った日本沈没だが前作でやったことを禁じ手にして違うものを
作ろうとした。
しかし変えてはいけないところを変えてしまった。

評価は出来ない。
私は満足できなかった。



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見知らぬ乗客


日時 2006年7月9日
場所 DVD
監督 アルフレッド・ヒッチコック
製作 1951年(昭和26年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


アマチュア・テニスプレーヤーのガイ・へインズは離婚のため故郷に帰る途中、
列車の中でブルーノ・アントニーという青年と知り合った。
ブルーノは「お互い殺した奴がいる。私は父であなたは妻。交換殺人をすれば
動機もわからず、捕まりませんよ」と持ちかけられる。
ガイは一笑に付したがブルーノは本気だった。列車の中でガイはライターを忘れ、
ブルーノがそれを手にすることになる。
ブルーノは本気で交換殺人を考えており、彼は別の男と遊び歩くガイの妻を
遊園地で絞殺してしまう。
まさかと思ったガイだが、ブルーノはそれ以降ガイに自分の父を殺すよう持ちかける。
ガイにその気がないと知ると、殺害現場にガイのライターを置いてガイを犯人に
しようとするのだが。

有名人でたまたまちょっと顔を知られていたために「狂人」に殺人を持ちかけられる
男の恐怖。
断っても断っても付きまとうブルーノがジリジリさせられる。

そして後半、ブルーノがライターを現場におこうとしていると知るガイ。
しかしその日は試合がある。試合を放棄すれば警察から怪しまれる。
早く試合を終えてブルーノがライターを置くのを阻止しなければ、というわけで
いつもと違った攻めの試合をするガイ。
ブルーノは駅に着いた後、問題のライターを排水溝に落としてしまう。
このあたりをカットバックでつないで観客をますますハラハラさせる。

そして遊園地に着いてから、ブルーノはメリーゴーラウンドに逃げ込む。
メリーゴーラウンドは暴走し始める。
この暴走するメリーゴーラウンド、今見ると大したことはないのだが、製作当時は
ものすごいサスペンスだったのではないか?

前半はジリジリとしたサスペンス、後半はメリーゴーラウンドでの追っかけのアクション
シーンも加えた当時としては最高のサスペンス作品だったろう。
もちろんそれは今でも変わらないのだが。



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カーズ


日時 2006年7月8日19:00〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン4
監督 

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カーレースの世界で新人として頭角を現す「稲妻マックィーン」。
彼は「レースは一人でするもの」という考えでことごとくピットの言うことを軽視する。
今日のレースは大事なレースだったが、途中のタイヤ交換の指示を無視してしまい
おかげでゴール直前でタイヤがバーストしあわや優勝を逃しかける。
レースは三台同時ゴールとの判定で優勝決定戦は来週に持ち越し。
次のカリフォルニアのレース会場に移動する途中、暴走族のいたずらでマックィーンの
車はトレーラーをから落ち、アメリカ横断国道のルート66沿いの田舎町「ラジエーター・
スプリングス」へ。
そこで彼はパトカーから逃れるために町を壊してしまい、道路補修をすることを命じられて
しまう。

実をいうとピクサーのフルCGアニメを見るのは初めてだ。
今回もパスするつもりでいたが、今回も評判がいいし、何よりポール・ニューマンが
吹き替えを担当していると聞いて俄然興味がわいてきた。
別にポール・ニューマンの声が聞き分けられるわけではないが、僕にとっては好きなスター
でしたからねえ。
また主人公の名前が「マックィーン」。しかもレースカーが主人公。
いたずらに回顧趣味に走るのは好きではないが、この程度の遊びなら許そう。

車というのは人間同様、個性を感じる。
タイヤショップのイタリアのフィアットがフェラーリのファンなのも面白いし、
美人の弁護車がポルシェというのも納得だ。
ウイリスジープが退役軍人で、ラストは彼が観光客むけに軍事訓練をするシーンで
「泥の中を走ったことがないんです」と一番ビビッているのが現在の米軍の採用車「ハマー」
の一般発売モデルなのがご愛嬌。
(またラストのクレジットのシーンで過去のピクサーアニメの車版を見せる遊びが面白い。
これも度が過ぎると嫌味になるのだが)

お話のほうは「自分だけでレースはするのもの」と周りを馬鹿にしていた主人公がラジエーター・
スプリングスの車たち(人々ではない)の暖かい心に触れるうちに考えを改めるという
定番のお話。
これが人間が主人公のお話なら「胡散臭さ」を感じてしまうひねくれものの私でも「車が
主人公」というおとぎ話の世界なら納得してしまう。

特に最後のレースのゴールのシーンでは不覚にも泣いた。
こういういい話もたまにはいいかなあ。
心がささくれだっている大人もほのぼのとした気分にさせられますね。
ピクサーアニメに大人にもファンが多いのも納得しました。

ピクサーのアニメを見ていなかったのは実写映画に比べてやっぱり見たい優先順位が
低くて見なかったわけだが、これからはちょっと見てみようかなという気になった。



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汚名


日時 2006年7月3日 
場所 DVD
監督 アルフレッド・ヒッチコック
製作 1946年(昭和21年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


アリシア(イングリッド・バーグマン)はドイツのスパイだった父を持ったために
世間から売国奴の娘と言われていた。そんなアリシアにアメリカの諜報部のデブリン
(ケイリー・グラント)は近づいた。
彼はナチのスパイ組織を探っていた。そしてアリシアにアメリカのスパイとして
活躍してもらうよう依頼する。初めは拒んだアリシアだったが、デブリンへの
愛も手伝って協力する。
まずは南米のリオデジャネイロに行き、父の友人でナチのスパイの一人セバスチャン
にアリシアは近づく。以前よりアリシアのことを気に入っていたセバスチャンは
アリシアに結婚を申し込む。
デブリンへの愛に悩みながらもセバスチャンと結婚するアリシア。
ある晩セバスチャン家に招かれた彼の仲間に紹介されるアリシア。ところがその中の
一人が夕食に出たワインのビンを見て驚愕する。
この家のワインには何かあるのか?秘密は地下のワイン倉庫に隠されているようだ。

ヒッチコックの中でも有名な作品。
銃撃戦とか高いところから落っこちそうになるとかの派手さはないが、じわじわと
迫るサスペンスは第一級。
ワイン倉庫に秘密が隠されていると思うデブリンだが、セバスチャンの家に開かれる
パーティにアリシアの友人として潜入。
事前にアリシアに盗ませてあったワイン倉庫の鍵を使って倉庫に潜入。
しかしパーティで酒が足らなくなればセバスチャンがワイン倉庫にやってくる。
徐々に減っていく酒瓶と倉庫に入るデブリンをカットバックで盛り上げるサスペンスは
面白い。
そしてデブリンは誤ってワインの瓶を割ってしまう。
その中から出てきたものは砂だった。これは何なのか?
他のワインの瓶を明け、割れた瓶を元に戻そうとするのだが、その時セバスチャンがやってくる!

何とか誤魔化したものの、翌日、昨日はなかったワイン倉庫の鍵が元の鍵束にあり、ワイン倉庫を
調べてみると、排水口にはワインを流した後があり、例のワインが並んでいる棚に1本だけ
年代の違うワインが混ざっている。
ここでセバスチャンは気づくのだが、このあたりをセリフはまったくなしでセバスチャンの目線と
小道具のカットだけでわからせてしまうのはお見事。

そしてアリシアはセバスチャンに毒を少しずつ飲ませれてしまい・・・・・
となるわけだが、話を書くのはこの辺で止めにしよう。

この映画、実際の製作は1944年でまだドイツ降伏前。例の砂はウラニウムなのだが、
当然原爆完成前だったので、ウラニウムを題材にしたということで、ヒッチコックは当局から
監視されたそうな。

またデブリンとアリシアの秘めた愛の葛藤も捨てがたい。

ラブストーリーとサスペンスが融合されたヒッチコックの名作!



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デスノート 前編


日時 2006年7月1日13:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン9
監督 金子修介

(公式HPへ)



将来は検事を目指す大学生・夜神月(ライト)(藤原竜也)はある日、「デスノート」と
表紙に書かれた古びたノートを拾った。
そのノートに書かれた注意書きには「このノートに名前を書かれた者は死ぬ」と記されていた。
初めは信じなかったライトだが、試しにマスコミで騒がれている犯罪者の名前を書くと
心臓発作を起こして死んだ。そのノートは本物なのだ。
このノート、実は死神が落としたもの。この死神、りんごしか食わない。
次々と起こる犯罪者の死。病原菌によるものも考えられたが、警察は犯罪として捜査する
ことになる。殺害方法など全くわからないのだが。
世間ではこの事件の犯人を「キラ」とあだ名され、この行為を支持する声も後を絶たない。
アメリカから犯罪推理のプロ・通称エルもPCを通じて指示を出す。
日本の捜査本部の責任者はライトの父親(鹿賀丈史)だった。


私は知らなかったが原作はベストセラーのコミックだそうだ。
これが予想したより面白かった。

現実の世の中も凶悪な犯罪が後を立たず、弁護側は精神鑑定を主張し責任能力を問い
情状酌量に持ち込もうとする事件が相次ぐ日本では、「こんなやつら殺してしまえ!」
という気になるのもわからなくはない。
もちろん冷静に考えればこんなことは法治国家として許されるわけがないのだが、
案外世間とか世論は冷静な判断でなく、感情で動く。
そういう世の中も怖い。
この「世間」というものが後編においてどのように描かれるかが、興味津々だ。

映画はこの後、FBIの捜査官(日本人だけど)が登場したりするあたりは設定が強引だし
FBIが「関係者から情報が漏れているらしい」として関係者の家族を尾行し始めるというが
関係者から情報が漏れたのではなく、ライトが警察庁のデータベースに不正にアクセスした
からでちょっと話に疑問に感じるところもある。

しかしだからといってそういう細かいところに目をつぶれば、面白い!
初めは関東地方の学生、と絞込み割と簡単にライトにたどり着くのだが、ライトが犯人と
いう確証がつかめない。
ライトを尾行する人間は誰なのか?そいつを殺すには本名を知らなければ殺せないが
どうやるのか?監視カメラを取り付けられたライトの部屋から監視カメラにばれずに
どうやってデスノートを使って新たな殺人を犯すのか?などのエルをはじめとする捜査陣
とライトの心理戦が面白い。

久々にトリックに感心させられた。

さて自分の恋人を殺してまで自分の身の潔白を演出したライト。
今まではエルとの対決はネットや監視カメラを通じてでしかなかったが、後編では
ライトが捜査陣に加わるという直接対決になってきた。

当初、キラを指示する世間だが、やがては彼らからバッシングに合う羽目になるのだろうか?
ファンから襲われたアイドルの前に落ちてきたノートとは何なのか?
リンゴしか食べない死神はどうなるのか?
(このリンゴというのが伏線になる気がするのだがなあ)
実に楽しみだ。

出演はまずは藤原竜也。自分は正義だと信じる(確かに一見そうも思える)殺人犯を
存在感を持って演じる。
対して鹿賀丈史の捜査本部長。テレビ「ジャングル」以来の刑事役だと思うが貫禄充分だ。
今後も映画でも活躍してもらいたい。
またアイドル番組のディレクター役で金子修介監督の特別出演。
また若手刑事で金子監督がメイン監督を務めた「ウルトラマンマックス」の隊員役だった青山草太
も出演。

(それにしても画が汚い。照明はぼやっとして陰影というものがないし、第一ピントが甘い。
フジテレビだけかと思ったら日本テレビ製のこの映画も画が汚いとは。大ヒットしている映画
なのだから基本的な部分もしっかりしてもらいたいねえ。思わず劇場に文句言ってしまった)



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バルトの楽園(がくえん)


日時 2006年7月1日10:15〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえんスクリーン1
監督 出目昌伸

(公式HPへ)


第1次大戦下、中国青島での戦闘で捕虜になった4700人を日本の各地で収容することになった。
軍人の中には「戦に負けても死を選ばず、おめおめと生き残った恥さらしの人間」と捕虜の
ドイツ人をさげすむ者も多く、当初捕虜の生活は悲惨だった。
しかし徳島県の坂東の収容所の捕虜達は違っていた。
所長の松江(松平健)が「私が預かっているのは囚人ではなく捕虜」と考えの下、捕虜達を信頼し
所内での新聞の発行や特別の許可があれば外出も認められていた。


いやーなんだか不思議な映画だ。
というか日本軍礼賛映画だ。
捕虜収容所ものとしてははっきり言って異色ではないか?
映画の中に出てくる坂東英二のような将校が最初に捕虜に対して虐待的な対応をする。
こっちの描き方のほうが映画としては普通だ。

ところが松平健の所長は捕虜に対して実に人道的に接している。
松平健は会津藩の出身で、父は明治の初めに明治政府から反乱軍された経験を持つ。
こういう「反中央」で「人道的な人」という最も現代でも好かれそうなキャラクターだ。

もちろん所内の部下にも阿部寛のような反対派もいるのだが、最後にはトーンダウンしてしまう。
町の人も逃げた捕虜を助ける農家の人(市原悦子)や捕虜によるドイツ博覧会(みたいなもの)
を大歓迎する町役場の役人もいる。
終始物語の進行を示した故郷の母に手紙を書くドイツ人(ウエンツ瑛士の兄のような顔をした人)
と町娘とのほのかな恋のエピソードもあり、伊崎充則扮する町の青年はドイツ人からクラシック音楽を
教えてもらったりしている。
そんな感じで「いい人」「いいエピソード」のオンパレードだ。

そして大戦が終わり、ドイツは敗戦国となったが彼らはドイツに帰ることになる。
でお別れにベートーベンの「第九〜喜びの歌」を演奏するという感動的なエピソードがつづられる。


この映画ってどの辺に企画意図があったのだろう。
どこまで実話だったのだろうか?
なんかこういういい話を聞くと何か裏に意図があるような気がしてならない。

とにかく「日本軍=悪の根源」のイメージがあるので、それを覆す映画を見ると疑ってかかってしまうのだ。
なにかこう「日本軍もいいところはあった」という日本軍肯定映画で、深読みながら日本軍の悪行の
事実を払拭しようとする意図を感じてしまう。
そんな意図はないかも知れんが、「対立はあったが和解する、しかし時代がそれを許さない」といった
今までの収容所もの映画とは違っていて、終始和やかなムードで映画は進む。
うーん、外国の映画がこれを作れば素直に受け入れたかもしれんが、日本人が映画を作ると自画自賛が
過ぎる気がする。

どう解釈していいか、理解に戸惑う映画だ。



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