昭和天皇とA級戦犯



この文章を書いているのは06年7月23日。
このページを読む読者はいつ読むのかまったく想像がつかない。
時期によっては単なる「愚か者の与太話」になっている恐れもある。
その場合は笑っていただたい。
以下の文章は06年7月23日時点での私の考えだ。


06年7月20日の日経新聞は「昭和天皇はA級戦犯の靖国神社合祀に関して不快感を覚えていた」
という宮内庁長官のメモを発表した。
大ニュースだ。
(8月15日の直前、9月の自民党総裁選を前にしたこの時期の発表に政治的な意図を感じざるを
得ないが、この点は今回は触れない。何を書いても根拠のない想像でしかないからだ)

近年の小泉総理の靖国神社参拝に始まったいわゆる「靖国問題」に何らかの動きが見られるであろうことは
誰しもが想像するところだろう。

ことは昭和天皇の発言だ。
しかも信憑性は十分ある。
小泉総理は7月20日の記者団のインタビューでは「誰かが何かを言ったからといって自分の参拝する
しないに影響はない」と発言した。

しかし、靖国神社公式参拝賛成派には大いに困った事態だろう。
何しろ昭和天皇がA級戦犯を合祀した靖国神社を認めていないことになる。
天皇の意思に逆らってA級戦犯を合祀した靖国神社は天皇に対して逆らったことになってしまう。
そんな天皇の意思に逆らった靖国神社を参拝する自分も天皇に逆らうことになりかねない。


もちろん「このメモは嘘だ。天皇はこのように発言されるはずはない」と考える人もいるだろう。
しかしそのような人は自分の中にある「天皇のあるべき姿」に反したから反対しているに過ぎない。
言ってみればアイドル歌手がタバコを吸っている姿を写真週刊誌に掲載されてしまい、
「○○ちゃんはタバコを吸うはずがない。そんな子じゃない」といって駄々をこねるのと
どっこいどっこいだ、私に言わせれば。
私はそう思っている。

小泉総理はどうするか?
自分の公約を守るために8月15日の参拝を強行するだろうか?
もちろん当日は反戦運動の市民運動家ちが
「過去の戦争を美化することになりかねない小泉総理の靖国神社参拝反対〜〜」と叫ぶだろう。
その横で右翼の街宣車が「昭和天皇の意思に反する靖国神社を参拝する小泉は国賊だ〜〜」
とぶち上げるだろうか?

それぞれ理由は違っても「小泉参拝反対」では一致する。
面白いだろうなあ。
右翼の街宣車の前で反戦運動の市民達が同じく小泉靖国参拝反対を訴える。
見ものだなあ。
左右共闘だ。

靖国神社とて何もしないわけにはいかない。
「合祀したあとは分祀は出来ない。教義上できない」などと言っておられまい。
自分達は昭和天皇の意思に逆らったことをしたのだ。
反乱軍であり逆賊だ。
かといって自分達の意思でA級戦犯を合祀取り下げというわけにも行かないだろう。
それでは靖国としても自分達の間違いを認めることになり、面子が立たない。

自分達の意思で取り下げは出来ないのだが「遺族の意思を尊重する」ということなら
なんとかいいわけもたつ。
「遺族の意思による取り下げは認める」という形をとるのではないだろうか?

そうすれば遺族としては天皇の意思に逆らってまで合祀してもらうわけにも行くまい。
遺族が合祀取り下げを拒めば今度は自分達が天皇に逆らうことになってしまう。
とにかく天皇崇拝者(国家神道)の世界では天皇の言葉は絶対だ。
この世界では天皇は釈迦、キリスト、モハメッドに匹敵する(いやそれ以上の)絶対的な
存在であるだろうから。

となると「あんにょん・サヨナラ」に出てきたイ・ヒジャさんのお父さんも合祀取り下げが
出来るかも知れない。
「A級戦犯のみご遺族の意思があれば合祀を取り下げます」とはならないだろう。

何故ならそもそも靖国神社史観では「A級戦犯」など言うものは存在しないからだ。
「『戦犯』というのは東京裁判でアメリカをはじめとする連合国が勝手に犯罪者に仕立て上げたもの。
国内法ではA級戦犯と言われる人たちは裁かれていない。犯罪者でもない。
他の兵士と同様、「天皇陛下の皇軍の一員であった」という点ではまったく同じだ」
これが靖国神社の考えであろう。
だからこそ、そもそも靖国神社はA級戦犯といわれる人たちを合祀したのだ。

したがってこれを収めるためには「ご遺族の意思があればどなたでも合祀取り下げをします」
という形をとるしかないのではないか。

イ・ヒジャさんのお父さんも古川佳子さんのお兄さんも合祀が取り下げることが出来、めでたしめでたし。
また中国韓国もA級戦犯が合祀されていなならば、首相の参拝を認めざるをえず、
「閣僚の靖国神社参拝」という形での日本に対する苦情も言いにくくなる。
日中、日韓の関係も修復される方向に向うだろう。めでたしめでたし。


しかし本当に「めでたし、めでたし」なのだろうか?

「A級戦犯が合祀されていない靖国神社」なら閣僚達は大手を振って靖国を参拝できるように
なってしまう。
日本国民においても「A級戦犯と一般の兵を一緒に考える靖国神社はいかがなものか」と考える人も
少なくない。「A級戦犯が合祀されていない靖国神社」なら反対意見も出にくくなるだろう。

ところが靖国神社の本質である「戦死者を賛美する体質」や「侵略戦争ではなく自衛戦争だった」
とする体質は変わっていない。
私は「あんにょん・サヨナラ」についての感想の中で以下のように書いた。
「称えることが過剰になって『戦争で死ぬことは素晴らしいことだ』という論理に話をすり返られるのが困る」

「次の戦争に戦う兵士を育てる装置」という靖国神社の本質はA級戦犯が合祀されていようがいまいが
何にも変わらない。

しかし表立っての靖国論議は収束に向う恐れがある。
政治家の中には「これで大手を振って誰からも文句が出ずに参拝できる。戦死者を称えて『戦争で
死ぬのは名誉なことだ』と子供達を教育することが出来る」と大喜びするかも知れない。
今回の件で事態は収束に向うどころか、かえって論点をぼやかしてしまう恐れがある。


それが何より心配だ。


また今回の発言について「昭和天皇は自らの戦争責任を追及せずにA級戦犯だけに責任を押し付けている」
という意見も出るであろう。
しかし私はちょっと違う。
確かに昭和天皇にも戦争責任がないとはいえまい。
昭和天皇は1945年8月に戦争をやめさせることが出来た。
止めさせる事が出来たらならはじめさせないことも出来たのではないか。
またもっと早く終わらせていれば沖縄、広島、長崎の悲惨な戦闘は回避できたかも知れない。

昭和天皇にも戦争責任は避けられないと思う。
だから昭和天皇は戦後、人間宣言だけでなく最低でも退位すべきであったと私は考える。
しかしそれはマッカーサーをはじめとする周りが許さなかった。
天皇の存在を利用するのが得策だったからだ。

自分の意思では何も許されなかった昭和天皇。
かといって「悲劇の人」と賛美するのには抵抗を感じる。
ことはそんなに単純ではない。

私自身、まだまだ答えは出ていない。
これからも何年もかかって多くの本を読み、映画を見て、いろんな人の話を聞いて答えを見つけたいと
思っている。
次の戦争を起こさない日本にするために。





参考文献
「靖国問題」高橋哲哉・著
「愛国者は信用できるか」鈴木邦男・著
映画「あんにょん・サヨナラ」
映画「太陽」
映画「日本のいちばん長い日」