2006年5月

ナイロビの蜂 ダ・ヴィンチ・コード
ピンクパンサー ポセイドン・アドベンチャー 太陽 Solnze
(英題:The Sun)
LIMIT OF LOVE
海猿
グッドナイト&グッドラック タイフーン 憂国 戦争と人間 完結篇
戦争と人間
第二部 愛と悲しみの山河
戦争と人間
第一部 運命の序曲
続人間革命 人間革命

ナイロビの蜂


日時 2006年5月27日16:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン2
監督 フェルナンド・メイレレス

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アフリカのケニア。イギリス大使館の書記官ジャステイン・クレイル(レイフ・ファインズ)
の妻テッサ(レイチェル・ワイズ)は医療ボランティアのために医師のアーノルドの旅に出るが
数日後、死体となって発見された。
実はテッサは製薬メーカーが新薬開発の人体実験をこのケニアで行っていると疑っていたのだ。
何も知らなかったジャスティン。妻の無念を晴らすべく自分も妻が行っていた調査を追調査
し始める。

今年のアカデミー助演女優賞受賞作。

しかし「ホテル ルワンダ」を見たときもそうだったが、アフリカの問題を扱った作品を見ると
憂鬱な気分にさせられる。
「アフリカで何が起こっていても俺は何もしないだろうなあ」という自分の薄情さを感じてしまう。

映画は「真実は何か?」という社会派サスペンスとしてまずは面白い。
そしてアフリカのロケが真実味を出し、ざらついた荒い映像がかの地の荒涼とした感じを
伝えてくれる。
また最後のほうでジャスティンが妻の訪ねた医師がいる村を訪ねたとき、盗賊に襲われる。このとき
自分や医師は飛行機で脱出するが医師の助手だった少年は助けられない。
この時、少年自らが飛行機を降りるシーンが印象的。
本筋とは関係ないが、アフリカや人の力の限界を感じさせる象徴的な名シーンだ。

この映画に出てくることは真実なのだろうか?
もちろん実際にこの映画のように結核の新薬の人体実験を行うという事件はなかったかも知れない。
しかし、こういうことがあってもおかしくないほど、先進国はアフリカに対して傍若無人な
振る舞いを行っているのだろうか?
そういうことを考え出すと異様に憂鬱になる。

そして自分はそれについてこの映画に描かれたこと以上のことを知ろうともせず、これからも
毎日を過ごしていくのだろう。

映画は夫も最後には殺されてしまう。
しかし、妻の従兄弟の弁護士が真実を暴いてくれる。
それがなくて真実が埋もれたままだったら、もっと憂鬱な気分になったろう。
この点がこの映画の救いだ。



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ダ・ヴィンチ・コード


日時 2006年5月27日
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン3
監督 ロン・ハワード

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ルーブル美術館の館長がダ・ヴィンチの「ウイトルウイルス的人体図」を思わせる状態で死体と
なって発見され、フランスで講演中のハーバード大学教授のラングドン(トム・ハンクス)は
その日に館長と会う約束があったことで参考人として現場に呼ばれる。
しかしこの奇妙な死体の状態は犯人が行ったものではなく、館長が銃で撃たれた後自ら
この姿になったのだ。
館長の孫のソフィーから「あなたは警察に犯人と疑われている」と告げられるラングドン。
彼は警察から逃れソフィーと共に館長の残した暗号の意味を探り始める。
それは2000年もの長きにわたり、封印されてきたキリスト教の重大事に関わることだった!


世界的ベストセラー「ダ・ヴィンチ・コード」の映画化。
今年(2006年)カンヌ国際映画祭のオープニングを飾り、世界同時公開と超大作扱いでの公開だ。
また世界各国で上映中止騒動までおきた話題作。
夏冬に公開される「地球の危機!」的状況を扱ったスペクタクル映画ならともかく、ベストセラーとは
言えミステリー作品だ。随分とまあ大げさな。
私なんかは外国ミステリーなんてさっぱり読まないからこの「ダ・ヴィンチ騒動」はまったくの
蚊帳の外。
新聞の外交面にもこの上映中止のニュースが掲載され、「『キリストは結婚していて子孫がいる』と
いうのが問題になって上映中止」と説明されネタバレが思わぬところからされてしまった。
いい迷惑である。
そんなこと小説の段階からわかっているのに、映画になって問題になるということはそれだけ映画の
ほうが見る人が多いということなのだろう。
実際、私がそうだし。

で、肝心の映画。
カンヌの評論家向け上映で失笑を買ったとかいろいろ不評が伝わってきたが、僕は面白かった。
変な先入観や予備知識がなかったせいかも知れない。

あんなに暗号や自分の体に印を描いたり裸になる体力と時間があるなら、病院に行ったほうが
いいんじゃないか?という疑問は残るものの、死者の残した謎解きに始まり、ダ・ヴィンチの
絵画にこめた秘密が解き明かされていく様は見ていて飽きない。
但しキリスト教やヨーロッパの歴史を知らないとちょっとわかりづらい。
しかし、要するにキリストには子孫がいて、それを守ろうとする一派とその存在を隠したい
一派の対立、という図式だけはよくわかる。

そして異端の宗教があって自分の体を傷つけて修行をする映画らしい悪役キャラクター登場で
知的ミステリーだけでない娯楽映画としての楽しみも充分。
但し、登場人物の一人がキリストの子孫であることは容易に想像がつき、しかもその通りだった。
かといってがっかりするのではなく、ほっとしましたがね。


でもこの作品、やはりフィクションではあるがキリスト教圏の人にとっては失笑ものな部分が
あるのかも知れない。
日本で例えれば「邪馬台国は北海道にあってその秘密を本居宣長や平賀源内が絵画などの暗号に託した」
という話ならどうか?
失笑する人もいるだろうし、フィクションとして面白いといってくれる人がいるかも。
そう考えると各国の騒ぎっぷりも理解できるような気がします。

関係ないが、今日は「ピンクパンサー」をみてすぐ「ダヴィンチ・コード」を見た。
ジャン・レノが両方に出てるもので、ルーブル美術館のシーンなどでクルーゾーが
出てきて、美術品をぶっ壊すような気がしてなんだかニヤニヤしてしまった。



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ピンクパンサー


日時 2006年5月27日10:45〜
場所 ユナイテッドシネマとしまえん・スクリーン1
監督 ショーン・レピ

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サッカーの国際試合の終了直後、大観衆の前で監督が殺され、彼が所有していた
ダイヤ、ピンクパンサーもなくなった。
事件の解決にフランス一の「使えない警官」クルーゾー(スティーブ・マーティン)が選ばれる。
彼は平警官から警部に昇進、ポントン(ジャン・レノ)という部下(実は警察上層部からの監視役)
も出来、早速捜査に乗り出すのだが。


言わずと知れた故・ピーター・セラーズの名作コメディシリーズの復活。
実は最初は見る気はなかった。クルーゾー警部をピーター・セラーズ以外の役者が演じるなんて
まるで「寅さん」を渥美清以外の役者が演じるようなもの、という気がしたから。
しかし評判は悪くないようだし、まあ見てみた。
(パンフレットの浦山珠夫氏の文章に「ピンクパンサー」シリーズについては詳しい。
この中にピーター・セラーズ以外の、いわば番外編のピンクパンサーについても解説が
書かれている。この中の「SON OF THE PINK PANTHER」を実はニューヨークを旅行中に
私は見た。話はよくわからないが(英語ばかりなので当然だ)、スラプスティックなギャグは
言葉がわからなくとも充分に面白かった)

久々に出会うこの手のスラプスティックコメディ、充分に笑わせてもらった。
スティーブ・マーティンはピーター・セラーズほどアク強くなく、ややインパクトに欠けるが
かえってそのほうがいいのかも知れない。
あまり個性が強すぎるとかえってピーター・セラーズの影がちらついてしまったろうから。

以前のシリーズにあったギャグを彷彿とさせるシーンが多く、以前のファンとしても満足。
大きな地球儀を回転させるギャグ、セラーズの時はクルーゾーがこけていたのと思ったが、
今回はその地球儀自身がはずれ階段を転がるというスケールアップ。
そのほかにも壷に手を突っ込んで抜けなくなるとか「お決まり」ともいえるギャグの連続だ。
また最後に上司のドレフュスが入院するというのもお約束どおり。

またクルーゾーとポントンの関係もかつてのクルーゾーとカトウの関係を思わせるものも
あってニンマリ。

ただ後半になってウエットになるのが難。
上司のドレフュスに降格させれれて落ち込んでポントンにはげまされる所などクルーゾーには
似合わない。あくまで無自覚のクレージーを貫いて欲しかった。
それに最後にクルーゾーが最後に(まともに)事件を解決しちゃというのはどうも・・・・
同じ犯人がわかるにしても「棚ボタ」でとか、ホントに偶然で、という感じでクルーゾーの力では
ないんだけれども結果的にクルーゾーが解決したという結果に・・・という展開のほうがすきなのだが。

しかしこのあたりを除けば上出来。
007が何人もの役者で演じられるように、クルーゾー警部も何人もの役者で演じられるべきなのかも
知れない。



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ポセイドン・アドベンチャー


日時 2006年5月21日
場所 TSUTAYAレンタル
監督 ロナルド・ニーム
製作 1972年

(詳しくはキネ旬データベースで)


地中海を航行する豪華客船ポセイドン号。
ニューイヤーパーティの真っ最中に大津波に襲われ転覆してしまう。
パーティルームにいたスコット牧師(ジーン・ハックマン)は船底だった機関室に
上ることを主張。大半のものは「ここで救助を待つべきだ」というパーサーの意見に従い、
残ることに。しかし一部のものがスコット牧師に賛成し、船底を目指し船の中を上ることに。
彼らがパーティルームを上ったとき、船は爆発を起こしパーティルームは浸水してしまう。
スコット牧師一行は10人。
彼らは全員助かるのだろうか?

言わずと知れた70年代パニック映画ブームの火付け役となった作品。
但し劇場公開時には私は見ていない。
同時代で映画を見始めるのはもうちょっと後の「タワーリング・インフェルノ」からだ。
だからこの映画は後のテレビ放映(確か月曜ロードショー)。
その30年前の印象では面白くはあったが、ジーン・ハックマンのスコット牧師がやたら
説教くさくて何かなじめないものがあった。

同時に主人公が船に詳しい者、ではなく牧師というのが何か違和感があった。
普通ならパーサーの意見に従い救助を待つのが正当な意見だ。それを覆すには主人公が説得力の
ある職業でなければならないのではないか?
しかし後半に進むに従い、作者が主人公を牧師にしたのがわかってくる。
これは脱出劇であると同時に、試練に立ち向かう人間、神との対決が根底のテーマなのだ。

人間は運命に負けそうになる。ややもすれば過酷な運命を受け入れ諦めてしまう。
しかしそんな弱い人間を励まし、運命を切り開くことをスコットは強く訴える。
スコットの生き方に力づけられた、という言い方も私が10年若かったら素直に思ったことだろう。
しかし今は「そんな強い人間ばかりではない」、とその強引さに反発も少し覚えてしまう。

そんな難しい話は後回し。
最初の見せ場、ひっくり返ったパーティルームで床に張り付いたテーブルにつかまっていたが
力尽きて人が落ちていったり、ある者は天井(この場合は床になっている)の照明に落ち感電していく。
このあたりの迫力はテレビでは味わえず、やはり大画面で見たかったところ。

そしてスコットたちの脱出劇が始まる。
調理場の火災、迫り来る浸水、吹き出るスチーム、浸水した通路を潜って行く恐怖。
何しろ10人の一行だ。
全員が助かるはずはない。ならば誰が、いつ?
このあたりの興味もあいまって画面から目が離せない。

また一行が途中ひっくり返った船の中で役立つものを探すシーンがある。
そこで上下さかさまの床屋やトイレなどユーモラスなシーンも挿入する緩急自在な演出。

シェリー・ウインタース扮するおでぶなおばあちゃんが、「若い頃は水泳の選手だった」と
張り切るあたりや、気弱な女性歌手を励まし続けるレッド・バトンズ、いつも反対意見ばかり
いうアーネスト・ボーグナインの刑事、船に詳しい少年など個性的な面々が困難を乗り越える
ドラマを織り成す。
そして生き残るのは?

この夏リメイク版が公開される本作。
30年たってもオリジナル版の素晴らしさは衰えていない。



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太陽 Solnze(英題:The Sun)


日時 2006年5月20日
場所 DVD
監督 アレクサンドル・ソクーロフ
製作 2005年


「太陽 Solnze」について「名画座」に記載しました。



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LIMIT OF LOVE 海猿


日時 2006年5月13日20:50〜
場所 ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン7
監督 羽住英一郎


(公式HPへ)


仙崎大輔(伊藤英明)は現在は鹿児島の海上保安庁に配属されていた。
結婚を控え、婚約者の環菜(加藤あい)が鹿児島まで訪ねてくる。
しかし環菜のウエディングドレス姿をみてなぜか結婚に不安を覚える仙崎。
そんな翌日、鹿児島湾沖でフェリーが砂利運搬船と接触し、船体に亀裂が
生じる事故が起きる。
直ちに現場に急行する仙崎たち。しかしその船には環菜も乗っていた。
船の状況を調査する仙崎たち。しかし事故は思ったよりひどく、この船はやがて
沈没することが明白に。
しかもタンカーに積んだ船のガソリンに引火し火災が始まったら・・・
そんな中、仙崎たちの救助活動は始まったが、逃げ遅れた乗員・本間(大塚寧々)乗客
海老原(吹越満)と共に非常口までの通路を見失ってしまう。


一昨年の映画「海猿」、昨年のテレビシリーズ「海猿」の最終篇。
しかも第1作のラストで特報が流されたフェリー事故とあっては、ひょっとしたら
日本映画史上に残るパニック巨編到来か?と期待したが、正直、そこまでは行かなかった。

意外に話が小さい。
沈みいく船、火災の危険、となればこれらの要素が徐々に、小出しに出されればいいのに、
火災ははじめの方で起こってしまう。
「タワーリング・インフェルノ」的な船のあちこちで脱出劇が繰り広げられ、やがて
船の大火災が起きる、という展開かと思ったが、話の中心は船に閉じ込められた
仙崎と吉岡(佐藤隆太)と海老原、本間の4人の脱出劇に話は絞られる。

なーんだ。正直がっかり。
これがもう少し人数がいればそれこそ「ポセイドン・アドベンチャー」になるのだがなあ。

そして間を持たして音楽もじゃんじゃか鳴らし、カメラもぐるぐる回って「どうだ!ここで盛り上がれ!」
と観客を命令するような過剰な演出が延々と続く。
(例えば撤収命令を出すところとか、環菜に電話がかかってくる所とか、沈没した船に捜索命令が
出るとか)
すぐ思い出すだけでも3箇所だがそんな感じで「もう少し抑えたら?」といいたくなる過剰な
演出が延々と続く。
それにしてもカメラが移動が多すぎ。あれはたまにやるから効果的であって、始終やると落ち着きが
なくなるだけだ。

あと仙崎たちが30mの潜水を行って顔を出すときに、まるでテレビ番組のCMをはさんで
番組の流れを中断するときのように司令室のカットが入って流れが中断する。
サスペンスが盛り上がるより、じらされる不快感のみが盛り上がる。
映画なんだから一回入ったら最後まで見るよ、観客は。
仮に帰ってもいいじゃん。もう入場料は貰ってるんだから。

それでもって「LIMIT OF LOVE」のタイトルの通り、「愛、愛、愛」のバーゲンセール。
仙崎が煙突沿いの20mはしごを上る前に携帯電話で環菜にプロポーズするのだが、延々と愛を語る語る。
「タイフーン」の時に「間を取りすぎでその辺が韓国映画の演出の濃すぎるところ」と書いたけど、
人の国の映画だけの話じゃない。
隣の観客は「早く登れよ!」とつぶやいていたが、同感ですなあ。
もう少し早く上り始めていれば楽に助かったかも知れないのに。

で、最後に仙崎たちが助かったときの埠頭の人間の喜びすぎ、はしゃぎすぎ。
ハイタッチまでし合ってなんか子供っぽすぎるのだなあ。

それとねえ、フジテレビの映画はほとんど(「交渉人真下正義」「THE 有頂天ホテル」「県庁の星」
など)はみんなピントが甘い。
帰り劇場にクレームを付けたら、映写の問題ではなく、もともとピントが合わせづらいプリント
だそうで。
なんだそれ?
今の映画スタッフはピントも合わせられないのか?
多分に撮影現場にモニターも持ち込むようになって、モニターで見るときと劇場で見るときの
画質の違いが撮影スタッフがわからなくなってるんじゃないだろうか?

船内のセットとか鹿児島湾沖の沈みそうな船とかいいところが多いだけに余計に残念な気がしてならない。

ものすごくよく出来てる部分が多いだけに演出の過剰とピントの甘さでの減点が残念でならない。
日本映画、発達してるような退化してるような不思議な気にさせる映画だ。

そうそう佐藤隆太、一人逃げ遅れて「俺をおいて行け!」というところ、「まるで『ローレライ』だな」
と思ったら帰りの通路で前を歩いてる人も同じことを言っていた。
あいつってそういうキャラクターなのか?



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グッドナイト&グッドラック


日時 2006年5月13日19:00〜
場所 ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン5
監督 ジョージ・クルーニー

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1954年3月。アメリカはその頃マッカーシー上院議員による共産党関係者追放、
いわゆる「赤狩り」旋風の真っ只中だった。
しかしCBSの人気報道番組「シー・イット・ナウ」のキャスター、エド・マローと
そのスタッフたちはマッカーシーの赤狩りについて異を唱えることにする。
最初はデトロイトで起こった「父親が共産党関係者の疑いを理由に解雇された
空軍中尉がいる」という事件だった。
マッカーシーのすることは根拠が薄弱な段階でも公権力によって人々を苦しめるものだ。
やがてエドたちはマッカーシー自身を批判する番組を作る。
世論はエドたちに好意的だったが、CBSとしてはスポンサーや政府との関係を
重視し、番組自体の放送時間帯変更を決めた。
それは番組の生殺しを意味していた。
1958年10月、マローは報道番組製作者協会のパーティで語る。
「テレビは人間を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を秘めている。
だがそれはあくまで使い手の自覚しだいだ。
そうでなければテレビはメカの詰まった『ただの箱』だ」


静かに語りかける。
しかし内容は実に戦闘的だ。
公権力に対してテレビ、マスコミ、報道は何が出来るか、何をしようとするべきかを
問うている。

この映画は過去のヒーローを描いたわけではない。
そんな偉人伝の映画化ではなく、現代へのメッセージがこめられている。
この映画は「赤狩りとマッカーシー」を題材にしている。
しかしこの映画の「共産党」という単語をすべて「テロ」という言葉に置き換えてみればいい。
現代において「テロと戦うため」「テロ撲滅のため」という理由付けであればすべてが
まかり通ってしまう。

その渦中にいると気づかないが時がたてば「マッカーシーの赤狩り」が常軌を逸していた、と
判断できるように、今の時代における「テロ撲滅」も常軌を逸していたと思える時代が
来るのではないか。
テロがいけないのは明白だが、そもそもテロが何故起こるか、そういった冷静に考えることも
テレビをはじめとするマスコミに必要なことではないか?
いや映画はそこまで言ってないかも知れないが、エド・マローたちの勇気が今のテレビマスコミ
にかけてはしないか?

そんなことを淡々と訴えかけてくる。

この映画は白黒。その画面が当時の雰囲気をかもし出し、ジャズの挿入曲が実におしゃれに
耳に届く。
予備知識はまったくと言っていいほどなしで見たし、エド・マローも知らなかったし、
その人気番組もしらない。映像的な表現よりもセリフで進行させていく部分が多いので、
正直ちょっと最初はちょっとわかりづらかった。

しかしその表には出さない、内に秘めた情熱はひしひしと伝わってくる。
カメラアングルや音楽で盛り上げたりしない。
実に淡々と状況のみを画面は映し出し、事実の表現のみで映画は進行していく。
それが逆に力強いのだなあ。
扇情的な音楽やカメラアングルであおることも出来よう。
しかし、そんなことはせず淡々と訴えかける。
なんだか鈴木英夫の映画を見るようだ。

「そうでなければテレビはメカの詰まった『ただの箱』だ」
最後にマローはこう語る。
しかし今のテレビはどうか?
少なくとも今の日本のテレビはほとんど「ただの箱」だ。

やがて日本のテレビはデジタル放送になって今のテレビでは専用チューナーをつけない限り
見れなくなるそうだ。
しかしそれもいいのではないか。
高い金を出して機械を買い足してまで見たい番組は、今のテレビ局の番組には
存在しないのだから。

この映画は都内では六本木、お台場、新宿東亜興行、池袋シネマサンシャインでの上映。
(単なる偶然だが)フジテレビとテレビ朝日の隣で上映しているというのが何やら
因縁を感じずにはいられない。



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タイフーン


日時 2006年5月6日18:50〜
場所 渋谷TOEI@
監督 クァク・キョンテク

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東シナ海でアメリカの貨物船が海賊に襲われた。
実はその船は米国のミサイル誘導装置を沖縄に運ぶ途中で、その誘導装置が
盗まれてしまったのだ。
韓国情報部は事態を重要視し、海軍から一人の大尉を派遣させる。
シン(チャン・ドンゴン)という男がその海賊のリーダーらしい。
そのシンを追ってタイに向かう。しかしその頃シンは核物質を手に入れようとしていた。

南北問題をテーマにした韓国のアクション大作!
シンという男は実は脱北者で、20年前に一族で中国のオーストリア大使館に
逃げ込み韓国に亡命を希望したのだが、韓国に拒否され北朝鮮に返された一族は
皆殺しにされた恨みを持つのだ。

そして亡命したときの担当した外交官を殺害しに釜山へ。
追ってきた大尉も後一歩で遅く、シンは外交官を殺害してしまう。
この後、シンと大尉の追跡のカーアクションとなるのだが、ホテルの前での銃撃戦
など、拳銃の構え方も決まっており、さすが韓国アクションらしい迫力が感じられる。
またこの時、海雲台のホテルからBEXCO方面へ逃げるのだが、昨年の釜山旅行が
思い出されて懐かしかった。

この後、シンは逃亡中に別れた姉を追ってロシアのウラジオストックへ。
(タイ、釜山、ウラジオストックと舞台を次々と変えていくところなど007的スケール感だ)
ここらあたりまでは快調なのだが、この後、妙な世界になってくる。
姉はシンと別れてから麻薬漬けの売春婦になっていたのだが、再会したときに情感たっぷりに
抱き合い、一族の皆殺しのシーンなどが回想シーンで挿入され、「砂の器」もびっくりな
くらいの叙情的な音楽がかぶさる。
やりたいことはわかるのだが、ちょっと描き方が濃すぎる。

この後、シンの真の計画は核物質を風船にぶら下げて台風の最中の朝鮮半島全域に飛ばし、時限爆弾を
セットして核物質をばら撒こうというものということが明らかになる。
米韓の枠組みの中で身動きが出来ない韓国軍だが、大尉は仲間を集め独断でシンが風船爆弾を
積んだ船に向う。

ここで最大のサスペンスになるはずなのだが、いかんせん先ほどと同様に、ラストの大尉とシン
の船での対決など、二人が向かい合ってにらみ合い、間を取りきった対峙をするなど、演出が
濃すぎる。
「TUBEチューブ」の時も思ったのだが、韓国映画でこういうアクションをするとどうもこう
演出が過剰になるのか?

さらにダメ押しですべてが終わった後で、家族が一番ほっとした瞬間、すなわち大使館に逃げ込んだ
時の映像が回想として出てくる。
しかもクリスマスのシーンで妙に明るいクリスマスソングが流れるという、これでもか、の演出振り。
どうなんでしょうね。
私はついていけなくて白けました。

それと本筋とは関係ないが、風船爆弾の一部が朝鮮半島に飛ばされるのだが、結局時限爆弾は
セットされておらず、シンの真意は民族壊滅ではなかったことが明らかになる。
のはいいのだが、風船爆弾、全部回収されたのか?
それと船の方はアメリカの潜水艦に魚雷で沈められたのだが、こっちの積んであった大部分の
風船爆弾はちゃんと回収されたのだろうか?
深海に落ちたら難しいぞ!
大丈夫かなあ。この辺が妙に気になった。

あと実は主人公の韓国軍の大尉役のイ・ジョンジェ、一重まぶたの顔が私の好きでないタイプなので
この映画に乗り切れなかった大きな理由なんですが。



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憂国


日時 2006年5月5日21:00〜 
場所 キネカ大森
監督・脚本・主演 三島由紀夫
製作 昭和41年(1966年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


226事件に参加予定だったが仲間から一人だけ誘われなかった中尉がいた。
彼は新婚で妻を愛していたので仲間は誘わなかったのだ。
しかし彼は逆に226事件の反乱軍の討伐隊に行かねばならなくなる。
友人側に付けば自分は反乱軍、命令に従えば友を裏切ることになる。
彼は切腹する決意を固め、実行し、妻も後を追う。

三島由紀夫が監督主演した映画。幻とされていたが、三島邸の倉庫にあったネガが発見され、
このたびの再公開、そしてDVD発売に至っている。上映時間は28分。
セリフはなく音楽だけ、というのは聞いていたが、どのようにストーリーを説明するのか、
三島の動きだけで説明するのかと思ったらさにあらず。
最初に巻紙が登場し、それを開くとメインタイトルがでて、クレジットが書かれていて、そして
「第1章」となって、今から出てくるシーンの説明を文章でしてしまうのだ。

だからモンタージュとかカットバックとか人物の目線でストーリーを表現するわけではない。
少し肩透かしを食らった。
で「第1章〜妻の覚悟」「第2章〜中尉の決意」「第3章〜最後の交情」「第4章〜中尉の自決」
「第5章〜妻の自決」の5章に分かれて(章の名称は記憶で書いているので多分違う。
正確な記録ではない)、それぞれのパートの最初に巻紙に書かれたその章の説明書きが写される。

「交情」のパートでは三島自らが全裸になって演じる。
また自決のシーンでは腸が出てくる様子まで写され、思ったよりリアルな造り。
実際彼は昭和45年には自衛隊に決起を促し、果ては割腹自殺している。
まさしく三島が自身の未来を映画にしておいたような作品だ。
今見るより、同時代で見たほうがもっと衝撃的だったろう。
僕はどちらかというと「自殺は現実世界からの逃避」と自殺を否定的に見る人なので、
自殺願望を肯定することは出来ない。

三島の切腹願望は「生に執着するのをよしとしない潔さへの憧れ」か?
それともSM的猟奇的世界への性的な欲望か?
しかし彼の著作を読んでない自分が云々するのはおこがましいというものだろう。
彼の心のうちなど私にわかるわけがない。
ただ切腹願望が異様に強かった、ということだけはよくわかる。
市ヶ谷で切腹した時、彼はマゾ的快感を味わいながら案外幸せを感じていたのかも知れない。



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戦争と人間 完結篇


日時 2006年5月5日
場所 録画DVD
監督 山本薩夫
製作 昭和48年(1973年)


「戦争と人間 完結篇」に関しては「名画座」に記しました。



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戦争と人間・第二部 愛と悲しみの山河


日時 2006年5月5日
場所 録画DVD(チャンネルNECO)
監督 山本薩夫
製作 昭和46年(1971年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


226事件、蘆溝橋事件を背景に戦争に翻弄される人々を描く。
前作と違って登場人物たちの戦争で引き裂かれていく恋愛模様が中心。
また前作ではまだ少年少女だった俊介(北大路欣也)、標耕平(山本圭)、順子(吉永小百合)
が話の中心になっていく。
そして登場人物が多すぎた反省があったのか、田村高広、二谷英明、石原裕次郎などが
完全に姿を消し、高橋幸治、三国連太郎などは大幅にその活躍が削られる。

恋愛模様はかつては英介(高橋悦史)の婚約者で今は狩野(西村晃)と結婚した温子(佐久間良子)
と俊介、耕平と順子、由紀子(浅岡ルリ子)と軍人柘植(高橋英樹)、日本人医師服部(加藤剛)
と瑞芳(栗原小巻)、抗日朝鮮人の徐在林(地井武男)と全明福(木村夏江)らの姿が並行
して描かれる。

とにかく良心的な超大作なので、悪くは言いたくはないのだが、左翼反戦運動で引き裂かれる、
日本人と中国人の国籍の違いから引き裂かれる、抗日戦争の中で引き裂かれる、といった
戦争で引き裂かれる男女のいろんなパターンを描き出す。
しかし結局戦争はまだ終わってないだけに、これからどうなる?という期待感と決着の付かない
苛立ちだけが残る。

しかし俊介と温子の恋愛だけは他と違ってちょっと浮いている気がする。
他の人々は「戦争」によって引き裂かれていくわけだが、この二人だけはそもそも不倫で許されざる愛、
というわけで他とは違うと思う。
この映画、20年以上前に池袋の文芸座で見て以来の再見だが、当時もそう思った。
「戦争と人間」という壮大なドラマに何故「許させざる愛」のような恋愛模様が描かれるのか?
何か納得がいかないのだなあ。

豪華なセット、迫力ある戦闘シーンなど見ていて豪華さは感じ、そこは大満足なのだが、映画
としては消化不良感が(第一部同様)残る。
完結篇に期待する。



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戦争と人間・第一部 運命の序曲


日時 2006年5月4日
場所 録画DVD(チャネンエルNECO)
監督 山本薩夫
製作 昭和45年(1970年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


昭和3年。新興財閥五代家は由介(滝沢修)を当主とし、弟の喬介(芦田伸介)は
満州で活躍し、満州での日本軍の強行論者だった。由介の長男・英介(高橋悦史)は
渡米し見聞を広めようとしていて、長女由紀子(浅岡ルリ子)は自由奔放に生き、五代産業の
技師・矢次(二谷英明)を愛していたが、彼には妻子がいた。
次男俊介(中村勘九郎)や次女順子は矢次の紹介で兄が赤ということで警察に逮捕された耕平
と知り合う。
やがて関東軍は満州進出のきっかけを狙って張作霖を爆死させるが、それは結局張作霖の息子・
張学良と蒋介石が和解し、新たな抗日勢力を作ったに過ぎなかった。
そして関東軍はついに奉天郊外の柳条溝付近で満州鉄道の列車を自ら爆破し、中国側の攻撃として
一斉に攻撃を開始し、日中戦争が始まった!


原作・五味川純平の大河小説「戦争と人間」の堂々の映画化!
すでにダイニチ映配(日活と大映が共同で作った配給会社)の時代になり、日活もロマンポルノ
路線に突入しようとしていた時代に、その底力を発揮して作った超大作だ。
出てくるスターが豪華。
滝沢修、芦田伸介、高橋悦史、二谷英明、三国連太郎、丹波哲郎、高橋幸治、山本学、田村高広
加藤剛、石原裕次郎、滝田修、高橋英樹、地井武男、江原真二郎、中谷一郎、女優では浅岡ルリ子、
栗原小巻、松原智恵子、岸田今日子などなど。
それぞれが主役となりうるような魅力的なキャラクターばかりだ。
しかも監督は巨匠・山本薩夫。

となれば面白くないはずはないのだが、これがちょっと成功しているとは言いがたい。
3時間15分という長大な彼らそれぞれの群像劇を見るのだが、結局「さあ彼らの今後の運命や
いかに?」で映画は終わってしまう。
当時完結していなかった原作を映画化したのだが、1本の映画としてなんらかのクライマックスを
設けるべきなのだが、そういうこともなく結局は2部3部への壮大な予告編で終わってしまう。

しかし登場人物は実に魅力的。
人の命もものともしない喬介、その部下の裏稼業専門の鴨田(三国連太郎)、同じく喬介の部下だが
穏健な実務者の高畠(高橋幸治)、そして抗日グループに殺される高畠の妻(松原智恵子)、
満州の日本人医師(田村高広)、その友人服部医師(加藤剛)、その恋人・瑞芳(栗原小巻)、
抗日朝鮮人(地井武男)、彼に警察官だった父を殺され、抗日グループを激しく憎む少年・大塩雷太、
耕平と知り合うことによって父たちの仕事に疑問を感じる俊介、軍人柘植(高橋英樹)を愛するように
なる由紀子、強硬な軍事攻撃に反対する領事館の書記官(石原裕次郎)などなど数々のエピソードに
彩られていき、実に面白そうなのだが、最後は続く・・・・・で終わってしまった。

そうは言ってもこの映画を見ると日本の中国侵略は明らかに「侵略」であり、日本の
不況の解決に満州を手に入れようという考え方だったことがよくわかる。
日本にとっては不況解決のための「自衛」だったかも知れないが、だからと言って中国は何もない、
誰もいない土地ではないのだから、日本の満蒙進出は明らかに日本の一方的な都合によるもの。
しかも途中、チラッとおでんやで飲んでいる酔っ払いが、「満州さえ手に入れば景気はよくなるんだ、
貧乏から脱出できるんだ」とくだをまくシーンもあり、日本人全体が政治的宣伝に乗せられていた
ことが描かれる。

日本映画ではどうしても戦争映画というと太平洋戦争ものが中心となり、中国戦争ものは少ない。
たぶん中国戦争ものはどうしても日本軍が悪者にならざるを得なくなり、興業的な理由から
映画としては作りにくかったのかも知れない。
そんな中、中国での戦争を真正面から描いた本作は実に意義のある作品と褒め称えたい。

またこの映画、濡れ場というか裸のシーンがちょこちょこある。
鴨田の登場シーンは裸のロシア人からアヘンを取り戻すシーンだし、吹き替えとは思うが栗原小巻
が高橋悦史に強姦されたり、浅岡ルリ子は最後に高橋英樹とベッドで結ばれる。
山本薩夫のサービス精神ともいえるのだが、これらの人間の強い欲望、衝動が戦争という欲望の
塊の世界を強く象徴しているようで、物語の厚みを増している気がしてならない。

1本の映画としてみると非常に消化不良になる。
だからと言ってこの映画をつまらないとか否定したくはない。
何しろ豪華で、「手を抜いた」感じさせるカットがないのだよ。
五代家のサロンをはじめとする豪邸のセット、満州の広大な地平を駆け巡る馬賊、中国の町並み、
戦闘シーン、どれをとっても重量級の迫力が満点だ。
これほど豪華な日本映画はそうそうないのだ。
第2部への期待が高まる。



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続人間革命


日時 2006年5月3日
場所 DVD
監督 舛田利雄
製作 昭和51年(1976年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


戦後、復活した創価学会。世間は戦後の混乱期を脱しつつあり会員数も増えていった。
当初は2代目会長の戸田城聖の出版事業も順調であったが、物価高騰により
その事業も転換、縮小を繰り返したが、最後には立ち行かなくなっていた。
戸田は富士山麓の日蓮正宗の本山の前で、一心不乱に法華経を唱え、自己を見つめなおす。
その時、彼は日蓮に直接自分の誤りを指摘される。
彼は事業をやめ、それからは創価学会の活動に専念するに至る。


「人間革命」の続編。
この映画、実は私は封切りの時に見ている。
当時、映画の見初めであり、また創価学会の何たるかも知らない頃だった。
今でも創価学会のことがマスコミで話題になるたびにこの映画のことを思い出す。
映画を見た動機は「日本沈没」に感動していた私には丹波哲郎の顔がでーんと中央にあり
なにやら天変地異のカットも小さくあって「人間革命」という誠に壮大なタイトルのポスターに
なにやらものすごい映画の予感を感じて見にいたのだ。
そしてそれは地元の東宝系の二番館劇場ではなく市民会館での特別上映だった。
(ひょっとしたら地元の劇場はもうなくなっていたのかも知れない)
そこは通常の映画館とは客層がちがった世界になっており、異様におばちゃんが多くて
びっくりした覚えがある。
今から思えば学会会員達だったのだろう。
多分私はものすごく浮いていたはずだ。

さて映画の話。
前作では前半がドラマで後半が講義シーンだったが、今回は逆。
前半の順調に会員が増えていったころに富士山麓での夏季勉強会が開かれ、そこでまた戸田城聖
(丹波哲郎)は「十界論」の話をする。(前作の公開から3年経っているので復習も必要だ)
で丹波先生の講義が一段落したところで「理解できたかどうかみんなに質問してみよう。清原君頼む」
とか言われていつもヤクザの情婦とかキャバレーのホステス、みたいな役の多い夏純子が、
「そこのあなた、じゃなくて隣のメガネの方。なんとかかんとかとはなんですか?」と問い、
質問された人がノートを見ながら答えると「そのくらいノートを見ないでも答えられるように!」
ときびし〜〜く指導するあたりが、普段の役柄とのギャップを感じて妙に面白かった。

で、「十界論」の話の後に「輪廻転生」の話になる。
これは初めて見た当時からよく憶えている。
「人間は死んでもまたどこかの星で何かになる」という話だが、これが単に観念的なものではない。
人間の元素も星を構成する元素も同じ宇宙の中にある。したがって人間は死んで肉体は形をかえ、
その元素はまた宇宙のどこかで何かになるという考えだ。
「宇宙即我、我即宇宙(うちゅうそくわれ、われそくうちゅう)」というわけで人間も宇宙の一部で
あるという。これはものすごく納得した。
そしてそのすべてを一言でいうと「南無妙法蓮華経」ということになる。

そんな感じで途中、山本伸一(あおい輝彦)という青年が入信する。
これが現創価学会会長の池田大作がモデルらしい。
後半、戸田の事業がことごとく失敗していく。
単行本の出版が順調だったが、これがインフレによる紙の高騰で重版すれば値上げは避けられない、
しかし値上げすると売れなくなる。では少年少女向け月刊誌「冒険少年」や「ルビイ」を発刊するが
やがては大手出版社が復活し、売れなくなる。
宣伝をしたり「少年日本」と改題し、内容を一新するという山本の努力にも関わらず、やがては
廃刊。そして信用組合を作って金融業に乗り出すが、貸付金の焦げ付きなどが起こり、破綻に追い込まれる。
ところが新聞がこれを嗅ぎ付け詳しく話を聞きたいという。新聞記者にあった戸田だったが、
記事にされたら取り付け騒ぎになってしまい、貸出先は返済しなくなるだろうし、そうすると預金者保護
も出来ない。
それだけはなんとしても避けて欲しい。懇願する戸田は新聞の力の大きさを実感し、いつか自分も
新聞を作ろうと決意する。(当然これが聖教新聞になるわけだ)

で、途中、援助者も出てくる。
これが前作でヤクザだった島谷(渡哲也)。
非合法的な金で援助を受けることに躊躇する戸田だったが、やがてこの島谷はヤクザの抗争で命を
落とすことになる。
映画ではで詳しいことは知らされないが、渡哲也や刈谷俊介が別のヤクザ葬儀の席で殴りこみをかける。
こんなシーン別になくたって話はまったく困らないのだが、映画としてのサービスカットだ。
渡哲也ファンとしては満足のいくシーン。

結局、戸田は自己を見つめなおし、事業にうつつを抜かした自分が間違っていた、だからバチが
あたったと悟り、事業からはすべて撤退する腹を決める。
一度は債権者から刑事告訴されかけた金融業の失敗も、以前自分を取り調べた元特高の刑事
(青木義郎)が今は検事となっていて「戸田は私利私欲のために人をだますような男ではない」
という意見書を書いてくれたおかげで不起訴となる。
出来すぎた話の気もするが、事実なのかも知れない。

映画的には他にも前半で鎌倉時代の天変地異の映像で台風で吹き飛ぶ家とか地震で崩れるお寺とか
見所満載。

さらに最後の講義シーンでは生命の進化の話までに広がり、ここはアニメーションで示してくれる。
そして最後には人間が作った最強の道具、すなわち原子力の話になり、原子力は完全に平和利用すべき
ものであり、兵器として使用すべきではない!
人間がすべて菩薩、仏の域に達せればそれは出来るはず。
「そのときにこそ、そのときにこそ!」という丹波先生の叫びにから画面は太陽のアップに一転し
ばーんと「人間革命」!!

人に勧められるような映画ではないのですが、70年代の大作映画ブーム、丹波哲郎の主演映画の
歴史を考えるには見逃せない作品。



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人間革命


日時 2006年5月3日
場所 DVD
監督 舛田利雄
製作 昭和48年

(詳しくはキネ旬データベースで)


昭和20年7月、戸田城聖(丹波哲郎)は出所した。やがて戦争は終わり、彼は通信教育を主体と
する「日本正学館」を設立。順調に見えた事業だったが、前払い制の通信教育では
紙をはじめとするインフレによる値上がりが追いつかず、事業は窮地に陥る。
しかし、今度は単行本の出版により盛り返す。
そして彼は以前の仲間から戦前の「創価教育学会」の再建を勧められる。
「創価教育学会」は小学校の校長だった牧口常三郎(芦田伸介)が説いていた「価値論」を始まり
とし、牧口が日蓮正宗に入信したことから日蓮の教義と関わる宗教団体だった。
しかし、時の政府の思想弾圧にあい牧口も戸田も逮捕されるに至る。
戸田はその獄中、法華経にある「仏の実体」を悟ったが、その頃牧口は獄中死していた。
(第1部終了)
戸田は昔の仲間などを中心に法華経の勉強会をはじめる。
「十界論」を説き、「仏の実体」とは生命そのものだと教える。
そして人間の心の変革、すなわち「人間革命」を唱えるのだった。
(第2部終了)


言わずと知れた「創価学会」の映画だ。
この映画、脚本・橋本忍、監督・舛田利雄、特撮監督・中野昭慶、出演・丹波哲郎、芦田伸介、
仲代達矢、新玉三千代、渡哲也、佐藤允、黒沢年男、佐原健二、平田昭彦、森次晃嗣、稲葉義男、
名古屋章、等々の豪華キャストで大作の名に恥じない映画だった。
しかし権利関係の関係だと思うが(権利は東宝ではなく、制作会社のシナノ企画にあったらしい)
今まで名画座での再上映やソフト化がされず、今年2006年の4月にようやくDVD化。
しかも一般のルートには乗らず、シナノ企画からの通信販売、もしくは創価学会関連書店でのみ
の発売になるらしい。
興味のある方はシナノ企画に直接お問い合わせください。
http://www.shinanokikaku.co.jp/
(ちなみに私は学会の会員ではありません。この映画の感想についても学会の布教、および宣伝が
目的ではありません。あくまで映画ファンとしての視点で語っていきます)


映画の前半は刑務所から出所した戸田が終戦を迎え、事業による再起を図るんだけど、刑務所に
入る前の財産が620万円、出てきたら250万の借金になっていた。
これが字幕で「現在の価値に換算すると620万は50億、250万は20億になる」と
説明される。(この場合、「現在の価値」というのは映画公開の昭和48年当時のことだ)
大変な金持ち、というか実業家だ。
戸田は学校の代用教員からスタートしているが、ものすごい商才があったのだなあ。
この数字だけでも創価学会というのが並みの宗教団体ではない気がしてくる。

そして紙の価格の高騰があったりしたが、闇物資を特攻崩れの愚連隊の男(渡哲也)から
買ったりしてなんとか事業を成功させていく。
で、事業も順調にいきだしたので、昔の仲間から戦争時の弾圧でバラバラになった学会の
再建を勧められる。
ここで回想シーンとなり、牧口との出会いから特別高等警察による逮捕となり、獄中で
暇なので(と言っては失礼にあたるが)法華経を勉強し、「仏の実体」を自分自身で悟るようになる。
逮捕されて肉体的拷問にあうシーンがあるかと思ったら、そういう残酷な描写はなく、
ひたすら独房でしらみに苦しめられる姿が出てくる。

でこの「仏の実体」を悟るシーンがすごい。
明け方、布団から「そうだ!わかった!」がばと起き上がった丹波哲郎が独房の狭い窓を見上げると
朝日がざーと上っていく・・・・という見てるこちらも「うわー」という気分にさせられる。
そして牧口の死を聞かされ、悲しみにくれる、というところで第1部は終わり。

で第2部なんだが、ドラマ色はなくなり、ひたすら講義になる。
創価教育学会から創価学会と名を変えた学会は、勉強会を通して会員を増やしていく。
ここで「十界論」の話になり、日常の勉強会、夏の合宿勉強会など、シーンは分けているが
要は延々と丹波先生が語るのだ。
地獄とか畜生とか修羅とかそういうのを延々と説明するのだが、「例えばだね」といって
銀行強盗(黒沢年男)やら、ドメスティックバイオレンスに悩む女性とか、病気に苦しむ
男(佐藤允)などが登場する。
結局、予習のしていない私なんかはよく分からないで「十界論」の話は続く。
そして最後が「仏」なのだが、先ほどの戸田が悟ったシーンでは「仏の実体」は説明されず、
ただ「わかった!」と言っていただけなのだが、ここで初めてその実体が明かされる。
それは「生命」だということ。

そして人間が仏になることが「人間革命」だと結論付けて映画は終わる。
最後なんか丹波先生が「そのときにこそ!」と言うアップの後に太陽のアップになり
で〜〜〜〜んと「人間革命」のタイトルが出て「終」の文字。
うわあ。

後半なんか完全に丹波先生の講義を聞くことになり、映画らしさというものはほとんど
なくなる。
丹波哲郎のファンでなければ見ていてつらいかも知れない。
幸い私は丹波先生のファンなので、丹波哲郎の「語り」を聞くだけで充分楽しかった。
音楽は伊福部昭。
いつもの伊福部節が炸裂し、荘厳な仕上がり。

丹波哲郎ファン必見。
でもこの映画を見ただけでは「法華経」とかは理解できないでしょう。
ほんの一部を爪で引っかいた程度にはわかるでしょうけども。



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