2001年5月

ホタル
東京マリーゴールド ハリー、見知らぬ友人
第3逃亡者 ムルデカ17805
戒厳令 クレヨンしんちゃん 
嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲

ホタル


日時 2001年5月26日19:10〜
場所 新宿東映
監督 降旗康男

さあ困った。
降旗、高倉健コンビの前作「鉄道員(ぽっぽや)」が名作だった
だけに期待してた分、肩透かしを食らった。
実は少し心配はしてたのである。
生き残った特攻隊員の話だからである。
いま何故特攻隊なのか。
特攻隊の話は私にしてみれば映画のテーマとしては
いまさらの感じが強いのだ。

誤解のないように言うが特攻隊のことをなんかもう忘れてもいい
といっているのではない。

私にとって特攻隊ものは岡本喜八の「日本のいちばん長い日」に出てくる
8月14日に出撃する児玉飛行隊だったり、飛行機ではないが同じく岡本喜八の
「肉弾」だったりする。
生き残った特攻隊物としてはNHKテレビの鶴田浩二の「男たちの旅路」
ですね。
鶴田浩二の「男たちの旅路」の製作年度は昭和56年(1977年)だが
この頃でもう水谷豊などの若者世代に「いまさら特攻隊なんてよう」と
否定的に見られていて、ドラマとしては鶴田浩二に一方的に語らせることなく
バランスが取れていた。

2001年の現在、特攻隊の話をするには何らかの映画のなかで
「事件」がないと成り立ちにくい。
それをドラマの舞台を平成元年という昭和の終った年に持ってきてしまったのは
苦しい。
また井川比佐志の藤枝が大葬の礼の日に、自身も雪山に出撃し
命を絶つのは説得力に乏しい。
死ぬ気だったら終戦から44年の間に死ぬ機会はいくらでもあったのではないか。

また田中裕子が若すぎる。昭和20年に18歳ぐらいだから平成元年では60歳
超えてるはずだがそんな年には見えないよ。なんだか若すぎて
高倉健ふんする山岡と長い間の夫婦の絆といったものがにじみ出てこない。
もちろん彼女はいい女優だがこの場合はミスキャスト。
この役はむしろ奈良岡朋子のほうが適役だったのではないか。

それとおじいちゃんの藤枝の心情を理解する孫娘。
どう見たって本当は広末涼子をキャスティングしたかったのだが、
スケジュールの都合で別の子にしたという感じの女の子。
(だって髪型がそっくりだもん。それに高倉健の山岡を理解する10代の
可憐な少女なんて「鉄道員(ぽっぽや)」の広末涼子そのものだと思いません?)
そして繰り返し使われる「故郷の空」のフレーズ。
前作の「テネシーワルツ」と同じ使い方だ。

このように前作「鉄道員(ぽっぽや)」の焼き直しというか「二匹目のどじょう」
のような作品にしか見えず、私はあまり評価しない。

韓国人の特攻兵など切り口に新しさはあっただけに(本来このことだけで一本映画が
出来るぐらいのネタのはずだ)もう少し何とかしようがあったように
思えてならない。

でも回想シーンのゼロ戦はそのぼろぼろぶりなど見所もある。
しかし高倉健が出てればどんな作品でも名作!的な見方をされる
昨今の風潮には乗れなかった。
やはり本当は高倉健をそれほど好きではないんだろうな、私は。

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東京マリーゴールド


日時 2001年5月19日19:00〜
場所 渋谷シネパレス
監督 市川準

この監督の作品は「会社物語」「大阪物語」と見ているが
両方とも好きになれない。先に言ってしまうと
この「東京マリーゴールド」も好きになれない。

この監督はいつも(といっても3本しか見てないが)そうなのだが
せりふの音は少し低め、またカメラの望遠レンズを多用し、
対象をまるで覗き見ているかのような絵が多い。
つまりドキュメンタリー作品のような作り方をするのだ。
そしてわざとだとは思うが、ストーリーとしての盛り上がり、
つまりドラマとしての面白さもあえて拒否してるような脚本
にするしねえ。

田中麗奈の主人公が男と別れて、たまたまいった合コンで
IT関連の仕事をしている男、タムラ(小沢征悦)と知り合う。
彼にはサンフランシスコに一年間留学中の恋人がいるのだが、
「恋人が戻ってくるまででもいいから」という条件付で
付き合うようになる、っていう話なんだけど、このタムラ役の
男が全然魅力がないんだ。
音楽家小沢征爾の長男だそうだけど、たとえ「一年でも・・」と
主人公に思わせてしまう何かがないんだな。
例えばキムタクなり、安藤政信君なり、永瀬正敏のように
ルックスがいいとか、もしくは何か人をひきつける魅力があればいいけど、
そういうのは全くなし。というか私は感じない。
ただのマユが太いだけのフツーのサラリーマンなんだ。

また主人公が田中麗奈じゃなく、ちょっと太ってるとかの
その辺にいそうな子なら、小沢征悦程度に惚れてもわかるのだが、
田中麗奈じゃ、「君ぐらい可愛いならほかにいい男いくらでも
捕まえられるでしょ」と言いたくなってしまう。

結局市川準の演出といい、このアンバランスな、説得力なしのキャスト
のため(前作「大阪物語」の主人公の子、及びその両親の沢田研二、
田中裕子はよかった。但し市川準の演出が僕は嫌いだった)
今回は途中で何度帰ろうかと思わせるような映画でした。

実はこれは最初から予想してた事なんだけど、それでも何故見たかというと
寺尾聡氏が出演しているからなんですが。
ところが氏は2シーンの特別出演的な出演で「この程度の出演なら見なきゃ
よかった」と思いつつ、劇場を後にしたのでした。
今度は見ないだろうな、市川準は。

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ハリー、見知らぬ友人

(公式HP)

日時 2001年5月19日14:05〜
場所 銀座シネシャンテ
監督 ドミニク・モル

心理サスペンスの傑作!
以下ネタバレの部分もあるので見ようと思ってらしゃる方は
読まないでください。

バカンスに別荘へと向かうミシェルとその家族。
車はクーラーは効かない。
子供は暑い暑いと騒ぐばかり。
せっかく買った別荘はあちこち傷んでいて
毎回その補修に費やされるてしまう。
そんな中、ドライブインで偶然、高校時代の友人と名乗る
男、ハリーに出会う。
ミシェルは憶えていないがハリーはよく憶えているという。

どちらかの勘違いなのか?
いやいやハリーは歯医者であるミシェルの父親に歯を治して
もらったという。
途中、父親にハリーの話をしてみると父親は彼のことを
憶えている。

何かたくらみがあって近づいているのか?
と思いきや、そういう陰謀は最後まで出てこない。
それどころか車を買ってくれたり、両親を殺してくれたり、
いろいろミシェルのために過剰なまでに色々してくれるのだ。

果たしてハリーは何者なのだろうか?
本当にハリーは実在しているのだろうか?
ハリーは主人公ミシェルの妄想の産物ではないのか?

数々の犯行は実はミシェルが行ったもので、ハリーはミシェルが
頭の中で作った架空の犯人ではないか?
それとも全ては妄想にすぎず、実は何もなかったのか?
いやいやラストで車は新車になってるぞ。

妻も新作「卵」は面白いといってくれた。
「卵」ってどんな作品なんだ?
「卵」という小説はセックスをした後に卵を丸呑みするハリーを
主人公にした話なのか?
映画の中で語られた事件は実はこの「卵」を映像化したもの
なんじゃないか?

いやいやハリーは実在し、これは現実の事件で、妻は最後のミシェルの犯行を
枕が無くなったことで気づいてるのではないだろうか?
両親も死に、車も手に入り、夫は面白い小説を書き出し、妻はこうなった事を
喜んでいるのか?

それともやっぱり全ては彼の夢でしかないのか?
ミシェルが作家としてやり直したいと思ってる深層心理が生み出した妄想なのか?

こうして書いてるだけでも解釈が次々と湧き上がってくる。
こんな作品ははじめてかも知れない。
本国フランスで雑誌で「ハリーとは何者か?」という特集を組んだのも
うなずける作品だ。

一人で何回か見て楽しむより、友人数人と一緒に見てその後で
感想や解釈を語り合ったら楽しいだろうなと思わせる、
デートなどにお薦めの映画ですね、これは。

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第3逃亡者


日時 2001年5月18日
場所 TSUTAYAレンタル
監督 アルフレッド・ヒッチコック

嫌いではないのだが世間で言うほどヒッチコックが
優れてる監督だとは思わない。
いやもちろん優秀な監督だが、世間の「サスペンスの神様」
などというのはちょっと過大評価なのではないか、というのが
私のヒッチコック観なのです。

一シーンだけを取上げると「すごいなあ」と思うことは多いが、
映画全体としては「どうもねえ・・・・」という気にさせられることが
多いのだ。

今回の場合、無実の青年が殺人犯の汚名を着せられ、
その疑いを晴らすため逃亡しながら真犯人を探すというヒッチコック映画
ではよくあるパターン。
で主人公とヒロインが車ごと廃坑に落ちて、主人公がヒロインの腕を
つかんで引き上げるというお決まりのパターンまでついている。
(「北北西に進路を取れ」といい「裏窓」といい「逃走迷路」といい
ほんとこのパターン多いなあ)

今回のシーンとしての見所は、ラストの「このホテルのなかに犯人が
いるかも知れない」とやってきたホテルのレストランで、
レストラン全体の俯瞰からオーケストラのドラムの担当の犯人の目のアップ
(犯人は瞬きをよくするという伏線つき)まで一気に
ワンカットで移動でつなぐシーン。
「犯人はここにいる!」と映像で一気に示す躍動感あふれるシーンが
見所だった。

でも逆にいうと見所はこのシーンのみで映画全体としては
B級サスペンスだったけど。
この作品は多分ヒッチコックの中でもあんまり高い評価を
受けているわけじゃないだろうな、たぶん。
でもヒッチコックの作品は時々観直していこうかなと思います。

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ムルデカ17805


日時 2001年5月12日18:45〜 
場所 新宿コマ東宝
監督 藤 由紀夫

いわゆる「自虐史観」と呼ばれる戦後の歴史認識の仕方がある。
(東京裁判後遺症と呼ぶ人もいるらしいが)
僕自身、この歴史観に基づく教育を受けたし、そういう歴史認識を
間違ってるとは思わない。
また学校で教わらなくても中学生で岡本喜八の「日本のいちばん長い日」に
感動し、高校一年で五味川純平の「人間の條件」を読破し心を大きく動かされた
人間だから、いまさら「インドネシア独立運動に日本軍は大きく貢献したんだから、
先の太平洋戦争で日本人はいいことをした!」って言われても困ってしまうんですよね。

のっけから歴史認識についての話になってしまったが、この映画について語るには
どうしてもこの話題から逃れられないわけです。
パンフレットにも製作の浅野勝昭氏が挨拶文として「日本は先の戦争を自存自衛のために
戦いました。そして欧米諸国の植民下にあったアジアの解放の戦いでもあった。
私はこの映画を製作するにあたって日本人に日本人としての当然の誇りを取り戻して
もらいたい、そして正しい歴史を後世にきちんと伝えたい、ということを意図としました」
という主旨の文章を載せてるんです。

個人的にはこの考えには反対です。
この映画に描かれているエピソードが史実に基づいているか否かはこの稿では
取上げません。
私自身、反論できるほどインドネシアの歴史に詳しくないし、第一、同じ事柄でも
人により時代により解釈はさまざまだろうから、事実かどうかの追求はあまり
意味のないことだと思うからです。
しかし、一つだけ言いたいのはかつての戦争について「日本が間違っていた」と
認めることに何故そんなに抵抗を感じるのでしょうか?
「過ちを認め改めるのは正しい事であり、すばらしい事」というのは人間として
当たり前のことではないでしょうか?

そりゃ戦争賠償金とか金が絡んでいるのもあるでしょうが、そういう問題だけでなく、
根本的に太平洋戦争を美化したい人間がいるとしか思えません。

私はそういう太平洋戦争を美化する考え方には賛成できません。
ただそれだけです。

映画の話に戻すとはっきり言って面白くない。
後半のジャワ防衛義勇軍及び日本人とオランダ人との戦いも面白くも
何ともなく、ただドンパチが続くだけ。
これが「ナバロンの嵐」的な特攻作戦になるなら、映画としてもまだ
楽しめたが、ただドンパチだけじゃねえ。
保坂尚輝がオランダ軍に拷問を受けるシーンも「でも日本軍も満州の石井部隊とか
あったじゃない。オランダ軍ばかり悪く描くのはどうよ?」って思ってしまうので
面白くもなんとも思いませんでした。

映画館を出たところで「ぴあ」の初日出口調査のアンケートを受けた。
「百点満点で何点ですか?」という問いに「0点」と答えた。
続いて「ストーリーは5段階評価でいくつですか」と聞かれたので
「ストーリーも演技もみんな最低」と答えたらアンケートのおねえさん、
私があまりにもそっけない返事をしたので困ってました。
ごめんなさいね、でも悪いのはおねえさんじゃなく、映画ですから。

最後に3月16日の朝日新聞に載ったこの映画に関する記事を
添付してこの映画に関する記述を終ります。

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戒厳令


日時 2001年5月3日
場所 TSUTAYAレンタル
監督 コスタ・ガブラス

「Z」に感動したので(「Z」は近日名画座にアップ予定)この作品を観る。

南米のある国で米国人(イヴ・モンタン)が反政府運動グループに誘拐される。
反政府グループの取調べで明らかになっていくが、実はこの米国人、各国の
警察に拷問など思想犯の取り締まりを指導する立場にあるに人物だった。
反政府グループはこの米国人と引き換えに逮捕されている同志の釈放を要求する。
しかし、政府側は要求を拒否、米国人は反政府グループに殺害される。

「Z」と違って反政府グループがテロリストになっているのがきつい。
観てるほうは(勝手な言い分かも知れないが)テロリストというだけで
もう拒否してしまう。
しかもテロリスト達は覆面をしたまま尋問をし、決して善玉には見えない。
政府側も悪いが、暴力によって抵抗しては同じ穴のムジナに見えてしまい、
テロリスト側も悪役にしか見えず、観客はどっちを応援して観ればよいか
迷ってしまう。

ラスト近く、グループの指導者がようやく米国人と覆面をとって話はじめ、
「政府はあなたを助けることをしなかった」ことを告げる。
米国人ももはやアメリカ(及び南米のこの国)に使い捨てられた
人間でしかない。
彼らはお互いの立場を理解しあう。
米国人は政府側に救助を求める手紙を書くのをやめ、妻に別れの手紙を
書き始める。このときのイヴ・モンタンはよかった。

その後グループの指導者は自分達の同志に米国人を殺害するかどうかの意見を訊く。
ここで反政府グループも民主的なグループだとようやく観客も理解する。
結局、米国人は殺害される。
彼の葬儀のあと、彼の後任がやってくる。その男を見る空港で働く人々(おそらくは
反政府グループであろう)の目のアップで映画は終了する。
彼らの自由への意思は決してくじける事はないという希望のあるラストだ。

しかし、「Z」と違い反政府側がテロリストなのはまずかった。
観客には「テロリスト=悪役」の図式があるのでこれでは説得力という点で
大いにマイナスになってしまった。
その辺の設定ミスが非常に惜しい。

(でも映画を見てると反米思想を見かけること多いなあ。日本人ぐらいなのか、
親米派は)

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クレヨンしんちゃん 
嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲


(公式HPへ)

日時 2001年5月3日 17:40〜
場所 新宿ビレッジ1
監督 原 恵一

おそらくこのHPをご覧になる方で「クレヨンしんちゃん」と聞いて
「?」の気分になる方が多いだろう。
私自身も全く興味がなかったし、映画館の看板を見て
「東宝もアニメでつないでるなあ。他に企画ないんかい!」
と思っていた。

ところがあるHPの掲示板で誉めてるコメントを見かけた。
で今度は「Guys Home Theater」の大里さんも
絶賛してる書き込みを見て、「ひょっとしたら・・・・」の予感がして
急遽見にいった。

ものすごい映画だった。
自分の人生方針を問われてるような気さえした。

オープニング、1970年の大阪万博が登場する。
万博の再現シーンは見事!!私の記憶ともぴったり一致する。
そーだった、そーだった。アメリカ館はすごい並んでたなあ。
3時間待ちとか4時間待ちとか言ってたっけ。
でも僕は入ったぞ。アポロも月の石も見た。
三菱未来館ってのもすごかったぞ。住友パビリオンの暗い場内で
財布を落としたんじゃなかったけ?
子供時代の記憶で一番強烈なのがこの大阪万博なのだ。
懐かしい。

しんちゃんの父、ひろしは35歳。万博の時ちょうど4歳だった。
今、「20世紀博」というテーマパークで「怪獣に襲われる万博を守る
というヒーロー物の再現ドラマ」のアトラクションを楽しんでいる。
あれに登場する怪獣のモデルはウルトラマンのゴモラじゃないか?
ゴモラ自体が万博展示のため南の島からつれてこられた怪獣だったはずだ。
それと闘う「ひろしSUN」はウルトラマンそのもの。
こんな30代をひきつけてやまない強烈なシーンからスタートする。
続いて春日部の町を走る車の懐かしいこと。
名前がわからない車種もあるけど、あんな車走ってたなあ。
流行語だってすごいぞ。
ひろしがしんちゃんに向かって言ったセリフ。
「国会で青島幸男が決めたのか!?」

やがて大人たちは子供を捨て「20世紀博」のなかで暮らそうとする。
未来を捨てた生き方だ。
クレヨンしんちゃんたちは何とか大人たちを現実の世界
に連れ戻そうとする。

20世紀博のリーダー、ケンとチャコ(なんというネーミング!!)たちの
スバル360、トヨタ2000GT軍団としんちゃんたちのバスとのカーバトルの
すばらしさ!!
スバル360が何十台も連なって走るなど実にかっこいい。
(トヨタ2000GTやスバル360は前々から運転してみたい車のひとつなんですよ)
クライマックスの鉄塔の上での対決など、アクションシーンもスリリング満点!!
登場する車たち(ダイハツミゼット、初代セリカ、大型オート三輪など)の
時代考証も満点の出来。
実際、過去の時代を映像化した際、車は重要かつ困難なアイテムだ。
動く過去の車を集めるなんてかなり大変なことは想像にたやすい。
しかし、アニメならその気になれば再現はかなり可能なはず。
すばらしかった。


でここからがテーマなのだが・・・
しんちゃんの父ひろしは35歳。子供の頃はちょうど万博の時代だった。
監督の原恵一にとっても万博は重要な思い出のようで、すばらしかった
過去の象徴として登場する。
あの頃は21世紀に対して無限の希望をもっていた。
「21世紀音頭」という「これから31年経てばこの世はどうしているかしら」
という歌詞の歌もあった。
21世紀になったら空飛ぶ車が登場すると思っていた。
宇宙旅行もできるかも知れないと思っていた。
69年にはアポロ11号が月まで行って来た。
30年も経てば、宇宙ステーションがあり、宇宙旅行ができるんじゃないかと
思っていた。
無条件に楽しみだった。
一方で「ノストラダムスの大予言」という恐怖の未来の可能性もあったけど、
でもやっぱり「21世紀」というものに「そこに行けば何かきっといいことがある」
という幻想があった。

そして現実はきた。
私は2000年を迎えた時の年賀状にこう書いた。
「時代はアトムが空を飛んでたかつての『未来』になりましたが、
我々が期待していた『未来』にどこまで近づけたでしょうか」
これが本音だった。迎えた現実はどうだろう。
平成不況の真っ只中、給料は上がる見込みはない。
いや自分の会社があるだけましと思わなければならないような現実。
将来だって不安ばかりの閉塞感。
10代、20代と違ってもうやり直しはききにくい。
現実を逃避し、未来が輝いて見えたあの万博の時代にもう一度
帰って見たくなるのも当然じゃないか!!

実際、しんちゃんの両親はあの時代に戻ろうとした。
しかし、しんのすけがそれを引き止める。
「パパやママには僕達を育てる責任がある。僕達はオトナになりたいんだ!」
そうなのだ。
われわれ、1970年前後に子供時代をすごした30代はもうそういう世代に
なっているのだ。
自分の人生を生きるだけでなく、次の世代を育てる義務を負っている。
いつまでも過去を懐かしがり、「こんなはずじゃなかった」と嘆いてばかり
いられないのだ!!
我々だって困難に立ち向かって生きてきたじゃないか。
ひろしが現実に戻るシーンで今までの人生を振り返って思い出すところがあるが、
あれはひろしの人生だけでなく、私の人生でもあり、あなたの人生でもあるはずだ。

自分も過去を懐かしむ傾向がある。
実際このHPでも「海底軍艦」などを大々的に取上げたりしている。
しんのすけのパパひろしと大して変わらない。
そりゃあ確かに夢見た21世紀にはならなかった。
でもここであきらめてはいけない。
我々が諦めたら、しんのすけ達のような次の世代はどうすればいいのだ。

「バトルロワイヤル」で深作は10代の少年少女に「走れ!」と叫んだ。
私はそれを他人事のように聞き流していた。
しかし、今度は我々の世代がいわれる番だ。「もう一度やり直そう」と。
原恵一という30代の同世代者から「がんばろう!!」のこぶしを
振り上げられた気がする。

「おう!!」とこちらも力いっぱいこぶしを振り上げようではないか。

21世紀の最初の年の今、実に重要なテーマを持った映画だった。
「21世紀こそ、幸せな時代に我々がしていこう。かつて夢見た21世紀は
これから作るのだ」と。

SFファンタジーの傑作だ。
「クレヨンしんちゃん」だと言うだけで批評の対象にもならないだろうことが悲しい。
本当に見てよかった。

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