2003年10月

海底軍艦(短縮版)
ネズラ キル・ビル 波の塔 マッチスティック・メン
SSU 皇道日本 伊勢志摩 マルタの鷹
三十三の足跡 二十一の指紋 閉ざされた森 仁義の墓場

海底軍艦(短縮版)


日時 2003年10月26日
場所 DVD
監督 本多猪四郎
特撮監督 円谷英二
公開 昭和44年

(詳しくはキネ旬データベースで)

この10月に発売されたDVD版「海底軍艦」。
その特典として収録されていたのがこの短縮版だ。
「東宝チャンピョンまつり」なのどの為にオリジナル93分を77分に再編集したバージョン。
僕が東京へきてから浅草東宝などで、初めてきちんと見た「海底軍艦」は
こちらの短縮版だった。

どこが切られて約15分短くなっていたのか確認したくて見てみた。
驚いた事にシーン丸ごと切ったというような乱暴なことはほとんどしていない。
各シーンでセリフの一つ二つ、インサートカットなどをカットし(つまりそれこそ
10秒15秒単位で)編集していた。

すぐに解るカット部分は、全長版ではメインタイトルの前に平田昭彦が
伊藤久哉を誘拐するシーンと、高島忠夫たちが埠頭で写真撮影をしてるシーンが
あったが、短縮版ではいきなりメインタイトルになっている点。
そして高島らを海底軍艦のある島に田島義文が連れて行く一連のシーンで、
ジープが立ち往生したとき、鉱物の宝庫を宝庫を発見するカットが
なくなっているあたりは2本を見比べればすぐ気づく。

あとは前述のように巧妙にカットされているからかなり注意して見ないと
分からない。それくらい不自然さはない。

むしろ短縮したことによりテンポの良くなったシーンもある。
轟天号(海底軍艦)が試運転をするとき、ドックに注水する水が注水口から出てくるカットが
あるのだが、全長版ではこの注水口から出てくる水が、最初はちょろちょろと
出てきて心もとない。
しかし短縮版では最初から水が勢いよく出てくるカットにすぐつながっていた。
またその後のシーンでも地上へ高島たちが出てきて海底軍艦の浮上を見上げる
シーンで、藤木悠が魚を跳ねるのを見て「海底軍艦か?」と間違えるという
ギャグがあったがここは切られている。
その為に試運転シーン全体のリズムはよくなったと思う。

他にも細かいところの違いはたくさんあるが、その違いはまたいつかの
機会に検証してみたい。
本当に編集の勉強になりそうだ。

しかし今回のDVD版はやはり画が美しくなり、劇場で見たときより
クオリティの高い別物になっていると言っていいかも。

ラスト近くムー帝国の動力源に海底軍艦が突っ込んだ時、
高島らの挺身隊が冷線銃でムー帝国人と戦うカットで、後ろに
轟天号のドリルが壁から突き出した書き割りが合成されている。
劇場やビデオで見た時はいかにも「書き割り!」といった趣だったが
DVD版で見ると画のコントラストがシャープになり、書き割りとの
合成の違和感がまったくと言ってもいいほど、ない。
またムー帝国の衣装などが美しさも増しており、ため息が出そうだ。

クオリティの高くなるのはい位事だが、あまり高くなりすぎてオリジナルを
改変した別物になっていやしないか?
それがいいことなのか悪いことなのかちょっと複雑だ。


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ネズラ


日時 2003年10月26日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 田川幹太
製作 2002年

関連ページへ
http://www.fullmedia.co.jp/vhs/200301/nezulla/nezulla.html
http://panasonic.biz/sav/reports/varicam03/transf/

「ネズラ」と聞いて思い出すのは昭和40年ごろの怪獣ブームの折に大映が
企画していた映画。
テスト撮影ぐらい行われたらしいが、本物のネズミを使用したため、飼育がうまくいかなかった
とかそんなような理由で結局完成しなかった幻の怪獣映画。
「おおっ!それを復活させた奴がいたか!」と感動して見てみてが全くの期待はずれ。

ストーリーは架空の町ことぶき市で細菌兵器の研究をしていてモルモットが
研究の過程で凶暴な新種となってしまった。
数年後、ことぶき市ではペストみたいな病気が発生し、細菌研究所に一人の自衛隊員
(隆大介)と米軍の特殊部隊が送り込まれる!という話。

面白そうな感じもするが、その送り込まれる米軍兵士というのが5人ぐらいいるのだが
どっからどう見ても日本人。演じてるのももちろん日本人。
日系人という設定らしいが全く状況不明。
この廃墟の研究所と病院の医師(新田純一)の苦悩が並行して描かれるが
面白くも何ともない。
さらに病院看護婦として桜庭あつこ。

肝心のネズラだが、怪獣というより仮面ライダーに登場する怪人みたいな感じ。
人間大だし、巨大化してビルを壊すこともない。
低予算きわまった作品。

細菌研究所に入った米軍兵士も兵隊らしくなく、ただのちんぴらが迷彩服を着ただけ。
軍隊らしさがどこにもない。落ちこぼれ部隊を派遣した、という「独立愚連隊」的な
物を期待したが、そんなものは期待するだけ無駄で、やっぱりただのチンピラ。
もちろんアメリカ人には見えない。(最初本当に米軍とは思えず、登場人物が
冗談で言ってるのかと思った)

そしてさらに悪いのはセリフ。
展開が少ないので時間稼ぎのためか、やたらとしゃべるしゃべる。
まるで小劇場芝居を見てるときのように役者がセリフの洪水だ。
そして書いた当人はカッコよいと思ってるらしい、ハードボイルド的会話のやり取り。
なにかのパロディなのだろうか??
「コーラの味をアメリカ人はどう表現するんだ」とか「日本食で許していいのは酒だけだ」
とかネズラには関係ない、単なる言葉遊びの羅列。
何をしたかったのだろう???

ビデオシネマも「時間が何分以上の作品であること」という契約があるだろうが
展開の少なさをセリフの多さで時間稼ぎしてる感じ。
(事実エンドクレジットもご丁寧に5分ぐらいある)

上映時間が30分でだったらもっと面白くなったろう。


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キル・ビル


日時 2003年10月25日19:20〜
場所 新宿ピカデリー1
監督 クエンティン・タランティーノ

(公式HPへ)


殺し屋の「ザ・ブレイド」は結婚して裏家業から足を洗うつもりだった。
しかし元のボス、ビルがそれを許さない。
彼女は結婚式の当日、夫もお腹の子供も参列者も一緒に殺された。
しかしザ・ブレイドは何故か生きていた。奇跡的に助かった彼女は、
4年間の病院での昏睡状態から抜け出し、いま復讐の旅に出る!

映画が好きで海外旅行も好きな方なら、ハリウッドのチャイニーズシアターに
行ったことのある方も多いだろう。
そのチャイニーズシアターの裏手の丘の上に、お寺のような建物が建っているのを
ご記憶だろうか?
あれ、実は寺ではなくて日本料理レストランなのです。
私は行った事はあるのですが、寿司とすき焼きが同時に食べられる、日本では
存在しないようなメニューのレストランだ。
お店も大きく、お寺のような、料亭のようなどっちつかずの不思議なつくりだったと
記憶している。
ところが味はとても美味しく、(95年の話だが)一人35ドルぐらいで充分
堪能できた。同じ味、ボリュームを東京で食べたら、1万円ぐらいするのでは
ないかと思われる感じだった。

何故こんな話をしたかというと、ラストの対決の青葉屋のセットがこの店を
思い起こさせたのだ。
青葉屋のレストランは日本ではありそうで、ない。
同じようにチャイニーズシアター裏の日本料理店も日本にありそうで、ない。
しかしアメリカ人が納得する日本料理店はきっとああなのだ。


わき道にそれた思い出話はこの辺で。
この映画はいろんなもののいいところばかりをつなぎ合わせ、新たなそして別物を
に再生された出来た美味しい料理だった。
東映ヤクザ映画からカンフー映画、マカロニウエスタン、はてはアニメまで
その発展的リメイクの繰返しが行われていく。
70年代映画のオマージュが随所に見られ、笑いながら楽しませていただいた。
面白かったよ。


実はクエンティン・タランティーノの映画を見るのはこれが初めてだ。
「レザボア・ドッグス」や「パルプフィクション」の題名は知っていたが
私が一時期映画から遠ざかっていたせいですっかり見逃していたのだ。
しかしこの監督に対する評価は、僕には不思議だ。

この映画のパンフレットには「この映画のこのシーンの元ネタは○○という
映画で」「この音楽は○○という映画の曲をそのまま使っていて・・・」
と元ネタが事細かに詳しく書いてあり、最近は本屋に行けば解説本まで
出ている。
また監督本人も自ら「このシーンは○○という映画からいただいた」とあけすけに
語る。

普通さあ、「○○という映画を真似ました」といったりしたら「想像力がない」と
バカにされるし、見た人もそれを発見したら「盗作だ!」と言って監督としての
評価が下がるよ。
しかしこのタランティーノという男がやると面白がられるのだ。

もし日本人の東映ヤクザ映画のファンが、そのオマージュの同じような映画を
作ったら「想像力のかけらもない、ただのパクリの連発映画」と日本では酷評される。
エンドクレジットで演歌なんか流したら、スクリーンに石でも投げられるに違いない。
作った人の思い入れはおそらくタランティーノのそれと変わらないであろうに。
タランティーノが同じことをすると日本では評価されるのだ、きっと。

最近知ったことだが、タランティーノと私は生年月日が一緒(1963年3月27日)
だった。とすれば同じ歳の時に同じ映画を見てるわけだ。
「タワーリング・インフェルノ」も「ジョーズ」も「スター・ウォーズ」も。
しかしこれらの映画にはあまり影響を受けずに「新幹線大爆破」の方が彼には
面白かったらしい。
もしカンフー映画や東映ヤクザ映画ではなく、「タワーリング・インフェルノ」に影響を
受けてしまっていたら今の彼はなかったかも知れない。
「ジョーズ」のオマージュ映画を作ってもバカにされるだけだったろう。
たまたまアメリカでは無名のアクション映画に走ったから、その影響下の映画を作っても
見てる人が少ないから珍しがられて評価されたのだろうか?

タランティーノはやはり運がよかったのだろうか?
彼が運がよかった点は「アメリカでは無名のアクション映画に心酔した事」
「ハリウッドで映画を撮ったこと」の2点ではなかろうか?
だからと言って私は別にタランティーノを低く評価しているわけではない。
運も実力のうちだ。
そしてもちろん運だけではない、何か魅力的なものがあることは確かだ。

タランティーノが心酔し、元ネタになった映画をいくつか知ってるが、実は余り面白くない
と思う。面白いのはセリフ1個とか一瞬のワンカットとか設定のアイデアだけとかそういう
レベルだ。
今のせっかちな観客がそれらの元ネタ映画を見たら途中で見るのを止めるだろう。
タランティーノのやった作業は砂の中から砂金を取り出していくような地道なことなのだ。
砂から採った金は買うが金の混じった砂から金を取り出す作業は今の観客には出来まい。
タランティーノの行った作業は同じBC級娯楽映画ファンとして(もっとも彼の好きな
血しぶきの多い作品は私は余り好きでなく、嗜好する映画はちょっとちがうのだが)
褒め称えられる事だ。

しかし私が納得いかないのはタランティーノを評価するなら、もっと他にも評価するべき
監督、作品がたくさんいるはずだ。
(例えば「スパイダー・パニック」とか。「シベリア超特急」も入れていい)

人々はハリウッドブランドに踊らされてるに過ぎないのだろうか?
「マトリックスよりキル・ビルの方が絶対面白いよ」と言ってバーでこの映画のウンチクを
女の前で語る奴、そういう奴に限って梶芽衣子と中村メイコの区別がついていないかもよ。
そういう人は「レザボア・ドッグス」は見ても「血とダイヤモンド」は見ないのだ。
(見る人がいないからビデオにもならない。)

あっ、私はタランティーノは好きですよ。同じ時間を生きてきたこの男が作った他の作品も
追っかけビデオで見ていくもりだ。
私が好きになれないのは「吸血鬼ゴケミドロ」は見ないけどタランティーノを無条件で
評価するような人々です。

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波の塔


日時 2003年10月19日
場所 録画ビデオ(衛星劇場)
監督 中村登
製作 昭和35年(1960年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


若き検事、小野木(津川雅彦)は人妻の結城頼子(有馬稲子)と逢瀬を楽しむ仲だった。
彼は検察庁でも将来を期待され、ある汚職事件の担当となる。
しかし、事件の渦中のブローカー、結城康雄(南原宏治)は頼子の夫だった。
結城は妻が検事と不倫している事をネタに事件の揉み消しを考えるが・・・・

松本清張原作と聞いてサスペンス物を期待したのだが・・・・・
不倫をしたためにそれを隠すためにもっと大きなウソをつかなければいけなくなる!
という「黒い画集・あるサラリーマンの証言」のような展開になるかと思ったら、
結城は弁護士(西村晃)を通じて検察庁のトップに働きかけるが、結局、
小野木がこの事件から外され、休職になっただけで、やっぱり結城は逮捕される。
第一、1時間40分の映画なのに結城が任意出頭を命じられるのは1時間以上たってから。

なんだそれ?
サスペンス映画じゃないのか?

小野木は自分から検事を辞めて結城と離婚した頼子と別の土地でやり直そうとするが
頼子は待ち合わせに現われない。
その代わり頼子は富士の樹海に入っていく・・・というところで映画は終わり。
リンクしているキネ旬の資料にも「メロドラマ」とある。

原作はちがったのかも知れないけど、出来た映画は不倫ドラマだった。
松本清張だからサスペンス映画を期待したのが間違いだった。
最初からメロドラマと思ってみてればよかったのかも知れないが。


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マッチスティック・メン


日時 2003年10月19日18:50〜
場所 シネマミラノ
監督 リドリー・スコット 

(公式HPへ)

ロイ(ニコラス・ケイジ)は相棒のフランクと共に「当選商法」でせこく
儲ける詐欺師。
だがロイは病的な潔癖症で分析医を必要としていた。
分析医と話すうち、10数年前に離婚した妻の話題になる。
別れた時、妻は妊娠していたが子供がどうなったか分析医に電話して
聞いてもらう。
実は生まれた子供は14歳の娘になっていて、ロイを訪ねてくる。
最初は戸惑ったロイだったが、やがては生活に張りが生まれ、
潔癖症による吐き気などの症状も改善されてきたが・・・・・

2002年の私のベスト映画「ブラックホーク・ダウン」のリドリー・スコットが作る
コン・ムービー。
でも正直言って、外された。

映画はこの後ロイとフランクは大きな仕事をするのだが、やむを得ず
娘を手伝わせる事になり・・・・・という展開だが、正直先が読めた。
予想が裏切られることを期待したが、予想通りの結末だった。
フランクと組むでかい仕事というのも正直って単純で手の込んだものではなく、
その辺がまずガッカリ。

話の大半はニコラス・ケイジと娘のやり取りに時間を費やされている。
実はこれはコン・ムービーの形を借りた、独身男のファミリー願望映画だったのだ。
ロイは誰にも心を開かず、自分の作った砦に他人が入ることを許さない。
いや自分自身が自分が作った砦を乱すことを許さず、それが潔癖症となって
現われる。

ところが娘の登場をきっかけに彼の心の空も開いてきて・・・という話なのだ。
だからエピローグもああなる。
僕としてはコン・ムービーとしてもう一つひねりがあることを期待したが
やはり家族についての映画だからああいう結末で当然といえば当然だ。

映像日もリドリー・スコットらしいスモークがかかった逆光の画面というような
独特の映像もなく、割とフツー。
巨匠が大作の合間に作った小品という感じ。

以前(20年位前)山田洋次が「寅さんが終ったらミステリーをやってみたい」
と言っていたのを思い出した。
ひょっとしたらこんな感じの作品が出来上がっていたのかな?

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SSU


日時 2003年10月13日
場所 新宿トーア
監督 イ・ジョングク

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SSUとは韓国海軍の海難救助隊の略称。
救助隊映画かと思ったら、それ以上に若き3人の隊員(うち女性1名)の
三角関係がかなりの時間を割いて描かれる。

つまりAとBという子供の頃から水泳が得意で一緒に遊んでいた
少年達が海軍に入って海難救助隊を志願する。
そこへC子という女性隊員も部隊に加わる。AとC子は付き合い始めるが
実はBもC子のことが好きで、それを知ったAは身を引き、B子はイギリスに
留学し・・・・みたいな感じで話はスタート。

でC子はやがてイギリス留学から帰ってくるが、今度はAとBの上官になる、
っていう展開。
このAにあたる男がふざけた野郎でなあ。
軍人らしいきりっとした感じがしない。
いやもちろん上官の前で敬礼する時などはキリっとしているのだが、
仲間の前では下ネタのオヤジギャグ連発。
USMという新しいレーダーが導入されるが「USMは俺のことだぜ。
ウルトラ・セックス・マシーンだ」と万事この調子。
この下ネタ連発には見ていて恥ずかしくなった。
国民性の違いだろうか??

まあ好きだったC子のことを忘れようとおふざけに走っているともいえるが
少々私からすればやりすぎ。

途中途中、演習で不発で落下したミサイルを回収するとか、手柄にあせった司令官が
悪天候のなか、無茶な潜水訓練をしようとするのをとめたりするエピソードが
あるが、どれも中盤のヤマとも成らずにAのオヤジギャグ攻撃が続く。

最後に潜水艦の座礁事故があり、こちらの方は後半の30分を使って描かれ
なかなか盛り上がりを見せる。
C子が救助に向かったが、逆にC子は座礁した潜水艦に取り残され、
新たに救助に向かうAとB。
C子は救助用潜水艦に乗り込み助かったものの、外から潜水服で支援している
AとBの酸素ホースが絡まってしまい、Aには酸素が送られなくなってしまう。
しかもAは医者からもう潜水ができない体になったと宣告されていた。
その時Bが上官から受けた命令とは?

っていう感じ。
でもやっぱり潜水艦の事故ってもう見飽きた感じもする。
それとAが病気のため潜ったら死ぬ体にも関わらず、仲間を助けるためにもぐるとか
三角関係とか、設定に手垢がつき過ぎている。
僕はよく「王道を行く展開」とか割とお決まりのシーンが登場する映画ってのは
好きなのだが、今回はどうも・・・・・

Aの果てのない下ネタギャグに飽き飽きしたし、ラストの展開は先が読めてしまった。
「王道を行く展開」っていう時はストーリーは王道でも、設定とか
多少オリジナリティがあった。
でもこれはもう見飽きた潜水艦沈没映画。
妙な三角関係などに話を持っていかずに、海難救助に話を徹底すれば
もっと面白くなったろう。

惜しい。

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皇道日本


日時 2003年10月13日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
撮影 円谷英二
製作 昭和15年(1940年)

国策映画。
撮影に円谷英二が加わっているのがミソ。
但しはっきり言ってだからどうだという事はない。

天皇家を中心とする国体の素晴らしさを国民に説明し、正しく理解させる事が
目的で作られた映画。
と言ってもドラマではなく、天皇家ゆかりの土地や、その土地の風景を撮影し
ナレーションを加えただけだから面白みもなく眠くなる。

天皇家の歴史から話は始まり、神話時代や神武天皇が九州の霧島地方から
大和地方に移っていくいわゆる「東征」が語られ、「八紘一宇」の言葉の由来まで説明。
今、日本が諸外国に進出しているのは神武天皇が大和に向かった時と同じく、
「いい国を作ろう」という精神を受け継いでいるからで、決して欧米列強諸国の
侵略主義、植民地主義とは異なると諭される。

あとは後醍醐天皇とか北畠親房の「神皇正統記」なんかの話も出てくる。
最後には「このように数千年も一つの王朝が続いているのは世界の歴史にも例がなく、
これこそ天皇家の正しさを証明するものです」などど強引なナレーションが続く。

「ハワイマレー沖海戦」などのドラマだけでなく、こういったドキュメンタリーの
国策映画もあったのだな。
多分学校などで授業として上映されたのだろう。

円谷英二の特撮以前の仕事を知る1本。
でも見てなくてもどうという事はない。

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伊勢志摩


日時 2003年10月13日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 本多猪四郎
製作 昭和24年(1949年)

本多監督が劇場作品デビュー前に作った教育映画の一本。22分。
「日本地理体系シリーズ」というような名前のシリーズの一作目。
テレビのない時代、学校の社会科教育で日本各地の様子を「動く画」で
紹介しようという意図の元につくられたらしい。

伊勢志摩地方の伊勢神宮界隈とか海岸地方の海女の様子、そして御木本幸吉に
よってその方法が考案された真珠の養殖などが紹介される。
伊勢神宮は戦後の天皇人間化によって一時の人気はなくなり、
観光客が収入だった旅館街が今後どうするかが課題と締めくくられている。
海女の様子をとらえた海中のシーンは水中撮影が思ったよりきれいに
撮られているのにはちょっと驚いた。

はっきり言って別に本多監督でなくても出来そうな作品で、本多監督を
研究する上で別に見てなくても差し障りはなさそう。


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マルタの鷹


日時 2003年10月11日
場所 ビデオ
監督 ジョン・ヒューストン
製作 1941年(昭和16年)


「マルタの鷹」については名画座に記載しました。

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三十三の足跡


日時 2003年10月11日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 松田定次
製作 昭和23年(1948年)大映

(詳しくはキネ旬データベースで)


多羅尾伴内シリーズ第4作。
正月興行の稽古中のある劇場では、幽霊騒動が起こっていた。
12年前に2枚目役者の鶴太郎が当時の劇場主に女性問題で意見されたのを
恨みにおもってある女性と心中したのだ。
10年前には前の劇場主が鶴太郎の亡霊に悩まされ自殺したのだ。
次々と怪事件が起こるが、新米の絵描きとか片目の設計技師とかもあらわれる。
しかしその人はだれあろう、藤村大造だ!

いつもは千恵蔵の視点から事件が描かれていたが、今回は次々と起こる怪事件に
あたふたする今の劇場主(進藤英太郎)や舞台演出家や出演歌手らの動きが中心に
話は進行。
途中で殺される大道具の頭・後藤が不気味な恐さがあるなあと思っていたら、
この人、後に黒沢の「酔いどれ天使」で三船と対立するヤクザを演じた
山本礼三郎だった。
また舞台俳優として杉狂児も出演。

時々ひょこっと片目の設計技師やら怪しい医者や、変な老人が登場する。
全部多羅尾伴内の変装なのだが、今回はその他に新米の絵描きとが登場。
あと多羅尾と藤村大造を足しても本作では6人か。
7つの変装をするとは限らない。

また今回は最初から最後までずっと劇場の中だけでお話が進行し、全く外へ出ない。
したがって藤村大造ご自慢の車も登場せず、そしてラストでの銃撃戦もない。
さらに「ある時は片目の設計技師、またある時は医者、・・・」という
お決まりもなく、ガッカリだなあ。

でも最後に「光と影がどうしたこうした・・」というような詩は残していく。
車で去るのではなく、歩いて去っていくのを俯瞰で撮ってるだけだから
ちょっと物足りない。

シリーズのなかでちょっと趣向を変えたのだろうが、お決まりがないのは寂しい。
この作品で大映での多羅尾伴内シリーズは終了のようだが、東映に移ってから
さらに発展していくのだろう。
引き続き見たいものだ。


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二十一の指紋


日時 2003年10月5日
場所 録画ビデオ(チャンネルNECO)
監督 松田定次
製作 昭和23年(1948年)

(詳しくはキネ旬データベースで)


ある月夜の埠頭で今にも自殺するかのような女性を助ける片目の運転手(片岡千恵蔵)。
その女性を家まで送っていったところ、中から悲鳴が!
中へ入ってみると男が死んでいて、運転手が送った女はいなくなっていた。
片目の運転手に扮していた藤村大造は、多羅尾伴内、せむし男、腹話術師などなど
七つの顔を駆使して真相究明に乗り出す!

この映画、私は中学生か高校生の頃に見ている。
70年代後半だったが、当時、すでに多羅尾伴内は古くさい映画だった。
その頃から私はオールド邦画ファンだったようだ。

その時この映画を見て東京の廃墟が登場して驚いたのを記憶している。
戦争映画とか大地震映画や怪獣映画ではなく、普通の街の風景として廃墟が登場した
ことに驚いたのだ。
ああ、終戦直後の映画なのだなあ、と。
今回見ても、このシーンが廃墟である必要はどこにもない。
当時の東京はまだまだこんな廃墟が当たり前のようにあったのだろうか??

そして途中、ヤク中が登場するのだが、これが妙に明るい。
「日陰の町」と呼ばれる貧民街みたいなところが登場するのだが、
ここに片岡千恵蔵が潜入する時にまず、行き倒れの老人に変装する。
で町の子供に助けられるのだが、「このおじいさんにクスリを上げてよ」と
大人に頼む。「ここは薬屋じゃないよ」と言われると「ちがうよ。薬屋で売ってない
クスリだよ」「仕様がないねえ。これ一本だけだよ」と老人に渡すのだ。
例の送っていった女はヤク中だったのだが、「これを機会に中毒から抜け出そうと
思っています」と普通の顔で言う。
今みんなが思っているヤク中のイメージと全然ちがう。
当時は覚醒剤についての知識が浸透していなかったのだろうか?
それとも戦時中はマキノ雅弘も一種のスタミナ剤のような感覚で「ヒロポン」を
打っていたというから、今とはとらえ方がまったく違っていたかも?

片岡千恵蔵の変装としては今回、腹話術師が目玉。
人形の声はアテレコなのだろうが、なかなかの見ものだ。

そして事件はクライマックスへ。
悪漢の館に駆けつけた千恵蔵、そこで連れ去られた女性がソファに縛られ
その上には短剣がぶら下がっている。短剣を吊るしたロープは
ろうそくの火で切られようとしている!という見せ場!
いいねえ、この感覚。

で、犯人の濡れ衣を着せられた女性を助け出した片岡千恵蔵、
彼女をのせてご自慢のでかい車で逃げるのだが、今度は後ろから
悪漢たちが車で追ってきてバンバン撃たれながらもひょいひょいよけるという
お決まりもやっている。

悪漢に真相を説明するシーンでは誰もいない部屋のソファに
この人形がぽつんと座っており、そして人形が口を開き説明するというもので
なかなか不気味さが漂っている。
その後この部屋の数箇所のドアがバタンバタンと開き、そのたびに悪漢はドキッとして
拳銃を撃ちまくるが誰もいない、という仕掛けがしてある。
ここはなんだか二十面相と明智小五郎のようで面白かった。

そしてやっと変装をとくあのシーン。
今回はさっきまで腹話術師の格好をしていたのに、今度はちゃんと多羅尾伴内の
変装に戻った上で「時には片目の運転手、時には行き倒れの老人・・・・
しかしてその実態は、正義と真実の使途、藤村大造だ!」とかつらと付け髭をとる。
やっぱりこれがないとなあ。
水戸黄門の印籠のシーンみたいなもんだ。

でも今回は腹話術師の格好の時、「私に見覚えがありませんか?」と右手で
片目を覆う。すると「あっ、あの時の運転手!」と相手が気づくから、
たいしたことない変装だってことは藤村大造自身もよく知っていたのだな。
というか作者の都合で相手が気づいたり気づかなかったりするだけなんだろうけど。

今回はいろんな意味で見所多し。お薦め作品かも知れない。


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閉ざされた森


日時 2003年10月5日17:10〜
場所 新宿東急
監督 ジョン・マクティアナン

(公式HPへ)


詳しくは語るまい。ミステリーの快作!

パナマで軍事訓練中のあるレンジャー部隊が消息を絶つ。
調査に行ったヘリが見たのは負傷者を助けながら歩く兵士と
彼と撃ち合う兵士だった。やがて1名は射殺され、負傷者と
もう一人が助かる。
いったい訓練中に何があったのか?
基地司令官スタイルズ大佐は、調査は女性のオズボーン大尉(コニー・ニールセン)
だけでは無理と判断。かつての友人、元レンジャー隊員で今は麻薬捜査官の
ハーディ(ジョン・トラボルタ)を呼び寄せる。
生き残った兵士たちは訓練中の森で何があったかを語りだす。

ミステリー作品というのは最後のドンデン返しがやはり見所だけど、
本作品は二転三転四転する。
真相が明らかになった後で「え?」と思わせておいて、さらに「ええっ!?」
と言わせる。
ああ、書いてしまった。本当はここまで書いてしまってよいのか贖罪の念に
かられてしまうほどだ。

パンフとかに「黒沢明の『羅生門』のように事件についての関係者の証言が
ことごとく食い違う」とかやたら『羅生門』が引用されるけど、
ちょっとちがうと思うよ。
確かに形式は似てるけど、「羅生門」は「人間というのは自分の都合のいいことしか
言わないずるい生き物」という黒沢のお説教に満ちていて、ミステリーとしての
整合性、というか面白さは全くない。

ところがこの「閉ざされた森」は完全なミステリー作品。
さぞかしベストセラーの原作があって・・・と思ったらオリジナル脚本らしい。
さすがアメリカ映画だねえ。
日本ならこのくらいの作品が書けるなら小説書いたほうが儲かると思う。
脚本料が安いから時間を作品などかけないのだろうな。
だからろくなミステリーが生まれない。

いやいや日本映画の話はどうでもいい。
ミステリー好きなかた必見です。
最後に一言言わせてね。
この作品、ミステリー作品であると同時にコン・ムービーです。
あああああ、書いちゃった。ゴメンなさい!


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仁義の墓場


日時 2003年10月4日19:35〜
場所 中野武蔵野ホール
監督 深作欣二
製作 1975年

(詳しくはキネ旬データベースで)


終戦直後に新宿付近で暴れまくった伝説のヤクザ、石川力夫の生涯を映画化。

石川(渡哲也)は大正の末に茨城県水戸で生まれた。
子供の頃から喧嘩は強く、ヤクザになりたくて新宿に出る。河田組(ハナ肇)の
組員になるが、自分の組のシマを荒らす奴はどんな奴でも承知しない。
しかしそれが時には抗争の原因を勝手に作ることになり、やがては河田からも
疎んじまれるようになる。
そんなこんなで河田から制裁を受けるが逆に河田をさしてしまう。
そしてヤクザ仲間からも石川はつまはじきにされていく。

渡哲也という人はどうも僕の中では「1歩遅れたスター」のイメージになってしまう。
日活で活躍していた時代もすでにダイヤモンドラインは崩れ、日活も崩壊寸前の頃だし、
この東映ヤクザ映画も「菅原文太に続くスター」といった感じでどうも出遅れだ。
この作品は渡自身も病気でNHKの大河ドラマも降板し、その復帰第1作そして東映
での第1作でもある。
それだけに気合十分だ。

しかし役柄のせいなのか、渡自身の個性なのか、どうもこの映画は暗い。
最後にはヤク中になって病気のため自殺した女房(多岐川裕美)の骨をぼりぼり
かじるあたりは、暗いを通り越して気持ち悪い。

自分が刺した親分の所へいって「俺も一家を持とうと思うんですが、2丁目の土地を
くれませんか〜」と言って骨をぼりぼり、だ。
さすがにハナ肇親分も、「コイツ頭いかれてるから逆らっちゃいかんな」とばかりに
「わ、わかった、やるよ」と思わず承知する。
「ついで土地の上にビルを建てる金を・・・・」と渡が言ったらさすがに室田日出男の
幹部はブチ切れる。

かように石川という男は全篇無茶な男だ。
前半はただの暴れん坊だが、後半は大阪にいる時に憶えたシャブのおかげで
頭がおかしくなっているので、その無茶苦茶さはクスリのせいともいえるのだが、
とに角後先を考えずに暴れまくる。

ヤクザ映画の中のヤクザは何にも考えていないようで実は結構後先のことを考えている。
相手が喧嘩を吹っかけてきても「いまここで俺が暴れたらみんなに迷惑がかかる」と
ばかりにグッとこらえる。
このこらえていたのがやがて爆発する!というのがヤクザ映画のカタルシスだが、
石川ははなっからそんなこと考えない。
「池袋の奴らが新宿を荒らしてるのが許せない」というだけで喧嘩する。
そして特段悪い親分というわけでもないのに親分さえも指してしまう。

「仁義なき戦い」のヤクザたちも無鉄砲に喧嘩するのではなく、
喧嘩するタイミングを常に見極め、準備をしながら喧嘩していた。
しかしこの映画の主人公、石川は違う。
この映画は今までのヤクザ映画のパターンの否定であり、長いシリーズの末期症状すら
感じてしまう。

単独主人公のヤクザ映画はこのあたりからなくなり始め、東映自身も、
「新幹線大爆破」というパニック大作や菅原文太の「トラック野郎シリーズ」に重心が
移っていく。
そしてヤクザ映画は「日本の首領シリーズ」のように大作の集団劇へと変化していく。
単なる1本の映画としてだけでなく、ヤクザ社会の否定した石川力夫という男の映画を
作ること自体、ヤクザ映画のパターンを否定してしまい、自らヤクザ映画の終わりを
作ってしまったのではないだろうか?
そう読むのはさすがに深読みのし過ぎか。

関係ないが、石川が篭城した時に中野区の野方署が駆けつけてくる。
この中野武蔵野ホールの近くだったんだね、石川が篭城したのは。

(同時上映は「県警対組織暴力」。両方ともニュープリント。
やっぱりプリントがきれいな状態で観ると気分がいいねえ)


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